第二百八十二話 戦場の不文律
エラム家へ向かう道中、俺は時々、槍を手にしていた。
もちろん、馬を走らせながら振り回しているわけではない。馬を休ませるために足を止めた時や、野営の準備が終わって少し手が空いた時だ。
オルドに教えてもらった、頭の上で槍を回すやつ。
槍の重さを腕だけで振り回そうとするとすぐに崩れる。肩と腰を使い、穂先が暴れないように力を抜く。そう意識して何度か回していると、棒のようだった動きが少しずつ円に近づいていった。
うん。カッコいい。
戦場で使えるのかは知らんが、帰ったらレティシアたちに見せるのだから、もう少しくらい見栄えを良くしておきたい。
そうやって少し遊び、また馬へ乗る。
街道をそのまま進んでいては、先を行くエディオン家の軍勢にはなかなか追いつけない。だから俺たちは、通れるところでは街道を外れた。
森の中は、当然だが真っ直ぐ進めない。
木々の間を縫い、太い根を避け、枝が低いところでは身体を伏せる。馬を走らせられる場所では一気に速度を上げ、足場の悪いところでは無理をさせずに落とす。
数日も続けると、さすがに尻が痛い。
肉体強化魔法を使えば多少は楽になるのだろうが、こんなことのためにずっと使う気にもならない。鞍の上で何度も座り直しながら、それでも前へ進んだ。
その甲斐はあった。
森を抜けた先で、前方に長く続く人の流れが見えた。
馬だけではない。徒歩の兵もいる。荷を運ぶ者もいる。ひとつの塊ではなく、道に沿って長く伸びながら進んでいる。
先頭近くに白い旗が翻っている。
エディオン家の軍勢だ。
「やはり軍勢になると足が遅いな」
思わずそう言うと、隣を進んでいたセバスチャンがこちらを見た。
「そりゃ違いますぜ。我らが速すぎるんです」
「そうか?」
「そうですな」
言われて、前を見ながら少し考える。
……まぁ、そうか。
俺たちは野営する時だって、基本的には自分たちの面倒さえ見ればいい。
寝る場所を決め、馬を休ませ、食えるものを適当に用意する。俺なんかは焚き火で肉でも炙ればそれで満足だ。人数が少ないから、少しくらい場所が悪くてもどうにかなる。
ちなみにその辺はセバスチャンが上手いのでセバスチャンの近くにいれば楽が出来る。ビビって誰も来ないしな。
だが、あれだけの人数となるとそうはいかないだろう。
全員が休めるだけの場所がいる。馬も食事も荷もある。夜になれば見張りだって必要になるだろう。
それに何より、平民兵たちがいる。
前方を進む軍勢を眺めれば、馬上の者ばかりではない。歩いている者の方がずっと多く見える。平民の中にも馬へ乗れる者はいるのだろうが、全員分を用意するとなれば大変だ。
結局、軍勢は歩く者に合わせて進むことになる。
そして大勢で動く以上、一部だけ先へ行けばいいというものでもない。
「なるほどな」
「分かりやしたかい?」
「ああ。軍勢が遅いんじゃない。俺たちが勝手に森を突っ切ってきただけだ」
「そういうことでさ」
セバスチャンが口の端を少し上げた。
納得したところで、俺は前方へ目を向ける。
このまま後ろから近づけば、さすがに向こうも何かと思うだろう。
「旗を出せ」
「へい」
後ろで騎士たちが動き、ほどなくしてマバール家の旗が掲げられた。
風を受けて布が開く。
よし。
これで、いきなり敵だと思われて攻撃されることはないだろう。
そう思ったところで、ふと気になった。
「なぁ、セバスチャン」
「なんですかい?」
「旗を偽造して敵を欺す奴もいるんじゃないか?」
セバスチャンがこちらを見る。
俺は掲げられた旗を見上げた。
マバール家の旗はカッコいい。
ただ、俺にはどうにも、頑張れば真似できそうにも見える。
「特にマバール家の旗なんてカッコいいけど単純ではあるからな。偽造しやすそうに感じる」
「そりゃいますぜ」
「いるのか」
「もっとも、バレたら問答無用で皆殺しになりやすが」
「問答無用?」
思わず聞き返す。
セバスチャンは何でもないことのように頷いた。
「ええ。基本的に旗の偽造はいくさ場での禁忌ですからな。敵味方問わず、皆殺しにされやす」
「ふーん」
そこまでなのか。
旗なんて敵を騙すには便利そうなのに。
「何してもいいって訳じゃないんだな」
「いや、基本的には何をしてもいいっちゃいいんですがね」
「どっちだよ」
「勝つためなら奇襲でも騙し討ちでもやりゃいいんでさ。けど、それでもやらない方がいいってことがあるんでさ」
分かるような、分からないような。
「ふーん。なるほど。戦場での不文律って感じか」
「ええ」
セバスチャンは短く返した。
俺はもう一度、前方ではためく旗を見る。
旗を見れば味方だと分かる。
だからこそ、旗を偽るのはまずい。
そこまでは分かる。
だが戦いになれば、敵を騙すこと自体は普通にやるだろう。
相手の裏をかき、待ち伏せ、不意を突く。
調略を仕掛けることだってあるだろうし、金で誰かを買収することもあるかもしれない。その途中で、必要なら味方に全部を話さないことだってあるはずだ。
なのに旗だけは駄目。
線引きがよく分からん。
「まぁ、その辺はお前に任せる。俺はよく分からんからな」
「若様は何となく分かっとるようですがね」
「そうか?」
俺にはさっぱりだと思うが。
セバスチャンは前を見たまま答えた。
「勝つために何をしても構いませんが、恥ずべきことはしちゃならんのですよ」
「ふーん」
ますます曖昧になった。
何をすれば恥で、何なら恥ではないのか。
敵を後ろから斬る。罠に嵌める。騙して誘い出す。
たぶん全部、必要なら俺はやるだろう。
それでも戦う者の間には、何となく越えない線があるらしい。
俺にはまだ、その形がよく見えない。
もしかしたら、長く戦場に立ってきた者にしか分からない感覚なのかもしれない。
そう考えてから、少しだけ口元が緩んだ。
何となくでも分かっていると言われたのは、素直に嬉しい。
セバスチャンからそう言われたのなら、少なくとも戦う者として完全に駄目ではないのだろう。
たぶん。
前方の軍勢が近づく。
こちらの旗に気づいたのか、エディオン家の兵たちの間に目立った混乱はなかった。武器を向けられることもない。
旗があるだけで話が早い。
便利だな。
だから偽造したら殺されるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺たちはそのままエディオン家の軍勢へ合流した。
騎士たちの間を進み、ほどなくして見覚えのある大柄な男の姿を見つける。
バカルカだ。
俺たちに気づいたバカルカは、ほんの少し目を見開いたように見えた。
そして俺のところまで来ると、軽く頭を下げる。
「どうされました?」
どうされた、と言われても。
俺は別に遊びに来たわけではない。
「父上から手伝えと命じられたのでな。手伝いに来た。邪魔はせんから気にするな」
せっかくなので笑顔で言っておく。
これなら安心するだろう。
だが、顔を上げたバカルカは、なぜか少し引き攣ったような顔のままだった。
……なぜだ?
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