第二百七十二話 大陸が沸騰する
重い扉が開いていく。
俺はそのまま広間へ足を踏み入れ、正面へ顔を向けた。
「父上、ただ今戻りました」
声をかけながら中を見る。
父上だけではない。
広間の奥には父上が座り、その近くにはザイン殿がいた。周囲には見慣れたうちの文官や武官、それに諜報を司る連中まで揃っている。少し離れたところには、帝国本国から来ている軍官たちの姿まであった。
何人かの視線が、開いた扉の方へ集まっている。
俺だけを見ているわけじゃない。
俺の後ろにはセバスチャンがいて、その近くには善良王のおっさんがいる。王都へ向かう前、この広間にいた連中のほとんどは、俺が本当にこいつを連れて帰ってくると思っていたのかな。
まぁ、連れて来いと言ったのは父上なんだから、驚かれても困るんだけどな。
少し前の軍議と似たような顔ぶれだ。
今、王国領へ入っている軍勢のことを考えれば、ここに集まっていてもおかしくはないんだろうが、それにしても多い。
最高司令部みたいだな。
そんなことを考えながら数歩進んだところで、俺の意識は父上の顔に引っかかった。
……怖い。
普段の父上は、あまり表情を出さない。
何かを考えていても黙っていることが多いし、軍議で武官たちが机を叩いて大声を出していても、父上だけは大きく顔を変えずに聞いていることの方が多かった。
その父上の顔が、今日は明らかに歪んでいる。
眉間には深く皺が寄り、目尻が吊り上がっていた。眼光までいつもより鋭く見える。
かなり怖い顔だ。
ただ、一つだけ助かったことがある。
その視線は俺に向いていない。
父上は確かにこちらを見ている。だが、視線の先は俺ではなく、少しだけ後ろだ。
俺の後ろ。
……セバスチャンじゃないよなぁ。
王都からここまで一緒だったが、あのクソじじいが父上にあそこまで睨まれるようなことをした覚えはない。少なくとも俺の見ているところでは。
「父上」
もう一度呼ぶ。
ようやく父上の目が俺へ移った。
「うむ。ギルバート、良くやった」
低い声はいつもと大きく変わらない。
怒鳴られなかった。
よし。
少しだけ肩の力が抜ける。
父上の視線が俺の顔から下へ落ちた。肩、腕、身体、それから脚まで確かめるように動き、また顔へ戻ってくる。
ほんの少しだけ間が空いた。
「どこも欠けておらんようだな」
……えーっと。
ブラックジョークかな?
欠けててもいいと言ったのは父上なんだが。
俺ではなく、善良王のおっさんの方だけど。
俺は少しだけ善良王のおっさんの身体へ視線を向けた。
ちゃんと五体満足だ。
途中で黒ずくめに襲われはしたが、こいつ自身はどこも欠けていない。父上からは一本か二本くらいなら任せると言われたし、少なくとも数ヶ月は話せる状態にしておけとも言われた。
その条件なら問題はないはずだ。
何と返せばいいのか迷って口を開きかけたが、その前に父上の目が俺を越えた。
「久しいな、ユーディリア」
俺は口を閉じる。
そうか。
さっき父上が見ていたのは、やっぱりこっちか。
後ろから歩いてきた善良王のおっさんが、俺の少し横で足を止めた。
俺も横目でその顔を見る。
ここまでの道中で何度も見た顔だ。王都を出た時からほとんど変わらない。
「うむ、久しいな、ガルシア」
返ってきた声も同じだった。
揺れていない。
父上から名を呼び捨てにされてもだ。
父上は、かつてこいつの臣下だった。
王国貴族だった頃なら、王を名前だけで呼ぶことなんてなかったはずだ。それなのに善良王のおっさんは、そのことを咎めるでもなく、同じように父上を名で呼んだ。
「余に何か用か?」
むしろ普通にそう聞く。
父上は椅子に座ったまま、おっさんを正面から見ていた。
「降伏せよ。無条件でだ」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも広間にいる全員へ届くには十分だった。
そういえば、父上は善良王を殺すより先に降伏させたいと言っていた。
だからこそ、わざわざ生かして連れて来いと言われた。
王都からここまで運んできた時も、何のために連れて帰るのかくらいは考えていたが、実際に本人を目の前にして父上がその言葉を口にすると、妙に直接的に聞こえる。
ああ、そうか。
本当にこいつ本人へ言うんだな。
俺は父上と善良王のおっさんを交互に見る。
善良王のおっさんはすぐには答えなかった。父上から目を逸らさず、そのまま少しだけ黙る。
「……出来ると思うか?」
「出来るかどうかではない。命じている」
父上の返事は早かった。
「王である余にか?」
「すでに我が王ではない」
「……それは関係ない。余は王である」
「王であるから命じている。降伏せよ」
何とも変な会話だ。
父上は、こいつが王であること自体を否定しているわけじゃない。
ただ、自分の王ではないと言っている。
そして王だからこそ、降伏しろと言っている。
善良王のおっさんは父上を見たまま、しばらく黙っていた。
「……余が降伏すると思うか?」
「させられぬと思うか?」
短い言葉が返る。
どちらも声を荒げていない。
それなのに、俺が何か口を挟める感じではなかった。
広間にいる連中も同じらしい。
ザイン殿も、うちの上層部も、帝国の軍官たちも誰一人として間へ入らない。ただ二人へ顔を向けている。
俺の後ろにいるセバスチャンも黙ったままだ。
少しの沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは善良王のおっさんだった。
「……なぜ戦う?」
父上はすぐには答えなかった。
わずかに目を細める。
「貴族――いや、それが人の性だ」
善良王のおっさんの表情は変わらない。
「争わずとも世は治まろう」
「治まらぬ」
父上は、はっきりと言い放った。
今までより少しだけ強い声だった。
「我らは常に血を流し、命を散らしてきた。我らがだ」
広間の空気が重くなったように感じた。
父上の眉間に刻まれた皺は消えない。
善良王のおっさんも、今度はすぐに返さなかった。
俺は黙ったまま父上を見る。
帝国との国境に立ってきたマバール家。
俺が生まれるよりずっと前から、ここにある家だ。
それだけ思って、俺は口を閉じたままにした。
「それを変えたいとは思わぬのか?」
やがて善良王のおっさんが聞く。
「思わぬ。強者が正しく報われれば良い」
父上は迷わなかった。
「それでは弱者はどうなる?」
「弱者は弱者として正しく報われれば良い」
また即座に返る。
善良王のおっさんは、それきり黙った。
俺はその横顔を見る。
顔を伏せるわけでもない。父上から目を逸らすわけでもない。ただ口を閉じて、そこに立っている。
父上も急かさなかった。
広間の中に、誰の声もない時間が続く。
俺は父上を見る。
父上は善良王のおっさんを見る。
善良王のおっさんも、父上を見ている。
どれくらいそうしていたのか。
長く感じたが、実際には大した時間じゃなかったのかもしれない。
父上がもう一度口を開いた。
「ユーディリア、降伏せよ」
最初と同じ言葉だった。
善良王のおっさんは、今度はほとんど間を置かなかった。
「……出来ぬ」
その言葉を聞いた父上の目が動く。
善良王のおっさんから外れ、ザイン殿へ向いた。
ザイン殿も父上を見ている。
二人の間で言葉はない。
父上が、小さく一度だけ頷いた。
何だ?
俺がそう思った次の瞬間、父上が椅子から身を起こした。
それまで座ったまま話していた父上が動いただけで、俺まで姿勢を正しかける。
そして父上が、右腕を振りながら広間全体へ向けるように声を張った。
「ひと月後、エルディア王国国王ユーディリア・エルディアを処刑する!」
大音声が広間を打った。
今までの静かなやり取りが、一瞬で吹き飛ぶ。
俺は父上の顔を見たまま、ほんの少し目を見開いた。
処刑。
聞き間違えるような言葉ではない。
一か月後。
父上は確かに、一か月後にエルディア王国の王を殺すと言った。
処刑と言われて、俺の頭に一瞬だけ父上の命令が浮かぶ。
少なくとも数ヶ月は話せる状態。
あれは数ヶ月生かしておけという意味じゃなかったらしい。
いや、考えてみれば当然か。
俺の仕事は、生かしてここまで連れて来ることだった。
ここへ着いた後、善良王をどうするかまで俺が決める話じゃない。
それでも、ついさっきまで普通に俺の後ろを歩いていたおっさんが、一か月後には処刑されると聞けば、さすがに少し驚く。
俺はゆっくり横を見る。
善良王のおっさんは立ったままだ。
取り乱してはいない。
声を上げることも、父上へ詰め寄ることもない。
王城で俺が血塗れのまま目の前へ現れた時も、こいつはほとんど顔色を変えなかった。
今も同じだ。
自分がひと月後に殺されると告げられたのに、俺から見える範囲では変わらない。
広間の中へ視線を移す。
ザイン殿がいる。
うちの上層部がいる。
帝国本国の軍官までいる。
全員が今の言葉を聞いた。
父上は再び善良王のおっさんへ目を向けた。
「ひと月あれば、大陸中に広まるだろう」
今度の声は、さっきほど大きくない。
だが、その言葉を聞いて、俺はもう一度父上を見る。
一か月。
すぐに殺すんじゃない。
わざわざ時間を置く。
そして、その間に広めると言っている。
父上は、この話が広まることを止めるつもりなんてないらしい。
善良王のおっさんの口がゆっくりと開いた。
「大陸が沸騰するぞ」
小さな声だった。
叫びでもなければ、怒鳴り声でもない。
父上へ向けた言葉だけが、静かな広間に落ちる。
自分が処刑されると告げられた後に出てきたのは、その言葉だった。
父上は一度も目を逸らさない。
「構わぬ」
短く答え、それから続けた。
「勝つのは我らだ」
そこにも迷いはなかった。
俺はそう告げる父上を、黙って見ていた。
本日はここまでとなります。
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