第二百六十九話 諦めれば良い
「愚かであろう、いくさなど」
善良王のおっさんは、前方に見える軍勢から目を逸らさないままそう言った。
声は小さい。
けれど、聞き間違えるような言い方ではなかった。
「やむを得んだろ。欲しいものがあるんだから」
俺も前へ視線を戻す。
遠くでいくつもの旗が風に揺れている。その中には、さっきセバスチャンに教えてもらったエディオン家の白い旗もある。
ザイン・エディオン殿たち、新しく帝国貴族になった者たちは、これまで以上の領地が欲しい。
それに、たぶん手柄も。
王国から帝国へ移ったこと自体も、ある意味では帝国にとって手柄と言えるのかもしれない。昨日まで王国側だった土地と貴族が、まとめて帝国側へ移ったのだから、何の意味もないわけがない。
だが、それだけで全部終わるとも思えない。
ザイン殿自身が言っていた。
帝国へ移った旧王国貴族たちは、まだ立場が弱い。
なら、自分たちがどれくらい役に立つのか、どれだけの力を持っているのかを示せる方がいいだろう。
その点、軍功は分かりやすい。
王国側へ攻め込み、土地を取り、帝国側の領地を増やす。
何をやったのか、誰でも分かる。
もちろん、領地そのものが欲しい奴だっているだろう。
土地が増えれば、それだけ自分の家も大きくなる。
欲しい。
だから取りに行く。
別に変な話ではない。
「欲しいと言って、大人しく譲ってくれるんならいくさにはならんだろ」
俺がそう言うと、おっさんの視線がこちらへ向いた。
「だが、そんな奴はいないだろ。自分の領地を欲しいと言われて、はいどうぞって渡す貴族なんか俺は知らん。金で売るならともかく、それでも売りたくなければ終わりだ」
前方の軍勢はまだ遠い。
こちらと向こうの距離は少しずつ縮まっているが、今のところ何かが飛んでくる様子もない。
マバール家の旗には気づいているのだろうか。
まあ、まだ遠いからな。
「話し合って、それでも譲らない。金でも駄目。なら、最後は奪うしかないだろ。だからいくさになる。普通のことだ」
「だから、愚かなのだ」
おっさんの声は変わらなかった。
俺は少しだけ眉を寄せる。
何がだ。
今の話のどこを聞いていた。
そう思ったが、おっさんは俺が聞き返すより先に続けた。
「このいくさに、どれほどの時間と金が必要になる」
静かな声だった。
「そして、どれほどの命が失われる」
俺は答えず、おっさんを見る。
善良王のおっさんも、こちらを見ていた。
いつもの顔だ。
王城で見た時から、ほとんど変わらない。
「話し合えば、少なくともいくさで命は失わん」
「……ふむ」
俺は馬上で少し姿勢を変えた。
言っていることそのものは分かる。
戦わなければ、戦って死ぬ奴はいない。
それはそうだ。
剣で斬られることもなければ、攻撃魔法を食らうこともない。
けれど。
それで欲しいものが手に入るのなら、最初から誰も戦わないんじゃないか?
俺はおっさんの顔をじっと見る。
表情は変わらない。
本心か?
いや、こいつは元々ほとんど表情が変わらんからなぁ。
王城から連れ出した時もそうだった。
道中でもそうだ。
怒っているのか、困っているのか、何も感じていないのか。
見ていてもよく分からない。
うーん。
やっぱり分からん。
「金でも話し合いでも譲ってくれないなら、命をかけるしかないだろ」
そう言うと、おっさんは少しの間だけ黙った。
俺はその返事を待つ。
馬の蹄が街道を踏む音が続き、風に煽られた旗が遠くで揺れていた。
やがて、おっさんが口を開く。
「諦めれば良い」
「はっ、諦められんからいくさになる」
思わず声が大きくなりそうになった。
何言ってんだ、おっさん。
諦められる程度のものなら、わざわざ兵を集めて命までかけないだろ。
欲しい。
どうしても欲しい。
相手は渡さない。
なら奪う。
だからいくさになる。
それを最初から諦めろと言われても、話が戻っただけじゃないか。
俺は口を開きかけて、やめた。
諦める。
諦める、か。
その言葉を頭の中でもう一度転がす。
言われると、どうにも反射的に反発したくなる。
欲しいものを諦める。
出来るのにやらない。
手を伸ばせるのに引っ込める。
俺にはあまり好きな考え方ではない。
だが。
少し言い方を変えたらどうだろう。
諦める、ではなく。
我慢する。
「……我慢か」
小さく呟きながら、もう一度善良王のおっさんを見る。
変わらない。
いつもの顔だ。
ふむ。
もしかして。
もしかしたらだが。
このおっさん、ずっと我慢しているのか?
考えた瞬間、これまで見てきたものが頭に浮かぶ。
北方諸国軍に王城を包囲された時。
あれだけの軍勢が王都まで来て、王城をぐるりと囲んだ。
王国の王だ。
自分の城を敵に囲まれて、何も思わないはずがない。
……いや。
それも俺には分からんか。
何も思っていなかった可能性だってある。
だが、少なくとも俺が王都へ行った時、善良王のおっさんが逃げたという話は聞かなかった。
そして今度は、俺たちだ。
王城へ入った。
騎士や貴族を倒した。
おっさんの魔力を封じ、そのまま連れ出した。
逃げれば脚を切るとまで言った。
それでも、こいつはほとんど変わらなかった。
魔力を封じた時には抵抗した。
だが、それ以外は妙なくらい静かだった。
俺たちに囲まれたまま、自分の足で王城を出た。
今もそうだ。
敵である俺たちに連れられ、自分の国の中を進んでいる。
その先では、ついに帝国側の軍勢が動き始めている。
自分の国へ攻め込む軍だ。
それを見て、こいつが口にしたのは、
愚かな。
それだけだった。
俺は手綱を握ったまま、おっさんを見る。
どれほど犠牲になろうと。
どれほど苦しくても、辛くても。
ずっと我慢しているのだろうか。
自分が望む通りにならなくても。
自分自身が敵に攫われても。
戦わないためなら、それすら我慢する。
……本当に?
分からん。
やっぱり分からん。
ただ、今までとは少しだけ違う。
何を考えているのかまったく分からないと思っていた善良王のおっさんに、初めて一つだけ、もしかしたらと思えるものが見えた気がした。
それが正しいかどうかは知らない。
本人に聞いたところで、素直に答えるのかも分からない。
俺はもう一度、善良王のおっさんを静かに見た。
本日はここまでとなります。
次回更新は、明日5時となります。




