第二百四十五話 若様なら出来ますな
窓の外には、もうほとんど日の光が残っていなかった。
城の石壁に沿って並ぶ灯りが、長い廊下へ細い影を落としている。昼間なら兵や使用人が行き交う場所だが、この刻限になると足音も少ない。あっしは前を歩く若い文官の背を追いながら、少しだけ眉を寄せた。
こんな時間に呼ばれるということは、何かあったということだ。
それも今日は軍議があった日である。
おそらく若様だな。
夕刻、顔を合わせた時、何かあったかと聞けば、若様はいつもの調子で何もなかったと言っていた。だが、残念ながら若様の言う「何もなかった」は、あまり信用出来ない。
本人にとって何もなかっただけで、周りにとっては何もなかったでは済まないことがある。
それを何度見てきたか、もう数える気にもならなかった。
前を行く文官は余計な口を開かず、奥へ奥へと進んでいく。やがて普段なら滅多に入らない一角まで来ると、一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです」
短く告げて扉が開かれる。
中へ入り、並んだ顔を見回した。
お館様がいる。
その周りには、マバール家の文官や武官、見慣れた重臣たちが揃っていた。誰も酒を飲んでいる様子はなく、軍議が終わった後だというのに空気が妙に固い。
やっぱり若様か。
そう思いながら空いている席へ腰を下ろすと、間を置かずに年嵩の文官が口を開いた。
「ギルバート様から話は聞いているか?」
「何もなかったと聞いてますぜ」
答えた途端、文官たちが揃って大きく息を吐いた。
向かいに座る武官の一人は口元を歪め、隣の男も困ったような顔で視線を落とす。
ふん。
若様が何を言ったかは知らんが、相変わらず肝の小さい奴らだ。
さすがにお館様だけは何も変わらない。椅子に座ったまま、こちらをじっと見ている。文官たちのため息にも武官たちの苦笑にも目を向けず、そのまま低い声で言った。
「ギルバートは王城におる善良王を攫えると言ったが、セバスチャン、出来ると思うか?」
なるほど。
頭の中で少し考えた。
善良王を攫う。
王城まで入り込み、王を引っ張り出してここまで連れて来る。
面倒ではある。
だが、出来るか出来ないかで言えば答えは決まっていた。
「若様なら出来ますな」
部屋の中がざわついた。
何をそんなに驚くことがある。
王城に辿り着けるかと聞かれたわけでも、城の兵を全部倒せるかと聞かれたわけでもない。若様が善良王を攫えるかと聞かれたから、出来ると答えただけだ。
年嵩の文官が眉間へ深く皺を寄せた。
「善良王の手足をもぐ、とも言っておられる」
別の武官が続ける。
「王城を吹き飛ばす、ともな」
「それの何が問題なんですかい?」
今度は、先ほどよりはっきりと何人かの顔が引きつった。
だが、本当に何が問題なのか分からない。
若様らしいと思うだけだ。
あの人は何かと面倒くさがる。善良王が暴れたり逃げたりすれば運ぶのが面倒だから、手足をもげば楽だとでも考えたのだろう。
王城を吹き飛ばす方も似たようなものだ。
細かく入り口を探して、廊下を進んで、邪魔な奴らを一人ずつどかしていくより、まとめて邪魔なものを消した方が早い。若様ならそのくらいは考える。
「何人おれば出来る?」
お館様が尋ねた。
その言葉を受け、腕を組み、少しだけ天井へ目を向けた。
若様一人でも、戦うだけなら大した問題はないだろう。
ただし、王城へ行って善良王を見つけて連れて帰るとなれば別だ。
「ふむ、若様は少々方向音痴ですからな。まぁ、我ら騎士団だけで出来るでしょう」
若様を一人で王城の中へ放り込んだら、善良王を見つける前に妙なところへ出かねない。
その点、騎士団が一緒なら人手もある。若様が余計な方へ行こうとすれば止めればいい。
それで十分だろう。
だが、そこで終わらせると、また後で余計なことを聞かれそうだった。
「ただ、かなりの騒ぎにはなりますが」
若様はそのあたりが大雑把だからな。
静かに忍び込んで、誰にも見つからず、善良王だけ抱えて帰って来るような真似を期待されても困る。
「ど、どの程度の騒ぎとなりそうなのだ?」
文官の一人が身を乗り出した。
ちらりとそちらを見る。
「王城を吹き飛ばすと言っとるんでしょう。その程度の騒ぎにはなるでしょうな」
聞かれたから、そのまま教えてやった。
なのに文官は口を閉じ、何とも言えない顔になる。
やがて一人が堪えきれなくなったように言った。
「やはり危険過ぎる」
「善良王を攫うのだ、その程度は覚悟すべきだろう」
すぐに武官が返す。
「攫うと言っても手足をもいでだ。もし、善良王が死ねばどうする!」
「ギルバート様は治癒魔法を使うと言っておられる! ギルバート様の魔力なら死なんだろう!」
「もし、と言っておる! 死んだらどうするのだ!」
また始まった。
文官と武官の声が重なり、部屋の空気が一気に騒がしくなる。
そのまましばらく黙って聞いていたが、どうにも話の向きがおかしい。
「敵でしょうが、死ねば死ぬで仕方ありませんぜ」
口を挟むと、先ほどから声を上げていた文官が勢いよくこちらを向いた。
「死んだら攫う意味がないではないか!」
顔まで赤くして怒鳴ってきやがる。
何をそんなに怒る。
善良王は王国の王だ。今となっては敵の頭だろう。
攫えれば攫えたで使い道があるのだろうが、死んだからといってこちらが損ばかりするわけでもない。
「死んだら若様の大手柄ですなぁ」
そう言って笑ってやると、文官の顔がさらに険しくなった。
その横で、一番年嵩の武官が片手を上げた。
「待て、セバスチャン。ギルバート様が善良王を殺すと思うか?」
その問いなら、少し話が違う。
あっしは笑いを収め、記憶を探る。
北方諸国軍に囲まれた王都へ行った時も、若様は善良王そのものには大して興味を示していなかった。
あの時も、善良王をどうにかしたいと執着していた覚えはない。
「わざわざ殺しはせんでしょうな。大した興味もないようですし」
若様は敵だからというだけで、わざわざ探し出して殺しに行くような人ではない。
逆に、邪魔なら吹き飛ばすことはあるだろうが。
その違いをどこまでこいつらが分かっているかは知らない。
「やはり危険なのではないか?」
「生かして連れて来ねば意味が無くなる」
「ギルバート様は生かして連れて来れると言っておる!」
また重臣たちが話し始める。
長くなりそうなので、椅子の背へ身体を預けかけて、止めた。
今、妙な言葉が混じった。
「若様は生かして連れて来ると言っとるんで?」
部屋の声が少し弱まった。
先ほどの武官がこちらを見て、眉を動かす。
「ん? いや、生かしてとは言っておられんな。確か死なないだろうと言っておられた」
やっぱりか。
ふんと鼻から息を吐いた。
それはだいぶ違う。
若様が「生かして連れて来る」と言ったのなら、少なくとも本人はそうするつもりなのだろう。
だが、「死なないだろう」は違う。
若様の中で死なないと思っているだけだ。
しかも、さっき聞いた話では手足をもぐつもりらしい。
「そこは確認しといた方がいいですぜ」
「ふむ」
「そうだな、そこは確認が必要だな」
今度は文官も武官も素直に頷いた。
若様の死なないと生かすは、だいぶ違うだろうからな。
静かになった部屋の中で、誰もすぐには口を開かなかった。
灯りの火が小さく揺れ、壁へ伸びた影がかすかに動く。廊下の向こうから足音が一度だけ聞こえ、それもすぐに遠ざかっていった。
あっしは黙ってお館様を見る。
お館様も、しばらく何も言わなかった。
やがて椅子の背からわずかに身体を起こす。
「ギルバートを呼べ、直ちにだ」
近くに控えていた者が、すぐに頭を下げた。
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