第百七十三話 静かな準備
それから俺とセバスチャンは、いくつかの領を巡った。
ただ街道を真っ直ぐ進んだわけではない。
これまで聞いた噂を思い返しながら、出来るだけ話題にならなかった領へ足を向けた。
税が上がった。
関所が増えた。
兵が動いた。
そういう分かりやすい話が聞こえてきた領ではなく、特に変わった話を聞かなかった場所を選んでいく。
前にセバスチャンから報告を受けた時から気になっていた。
何かをしている領の噂が集まるのは当たり前だ。
なら、何も噂になっていない領は本当に何もしていないのか。
実際に見て回れば、その答えは思っていたより簡単に出た。
何もしていなかったわけではない。
ただ、やっていることが目立たなかったのだ。
ある領では、街へ入った時から妙に塩を積んだ荷が目についた。
最初はたまたまかと思った。
だが、宿で飯を食いながら耳を澄ませ、翌日も街を見ていれば、どうやら普段より塩を買い集めているらしいと分かった。
別の領では、城の周りで土を掘り返していた。
遠くから見ただけでも、何をしているかは分かる。
古くなった堀を掘り直している。
兵を集めているわけでもない。
城壁を新しく作っているわけでもない。
ただ、今ある防備を使える状態へ戻そうとしていた。
それだけなら、よその領まで広がるような噂にならないのも分かる。
さらに別の領では、税の取り方が変わっていた。
税そのものを大きく増やしたという話ではない。
小麦や芋で納めさせている。
俺には最初、それがどれほど変わったことなのか分からなかったが、いくつかの村や宿場で同じ話を聞けば、少なくとも偶然ではなさそうだった。
倉庫を建てているところもあった。
大きな街の真ん中に目立つ建物を作るわけではない。
既にある建物の横へ、同じような木造の倉庫を増やしている。
知らなければ、ただ荷が増えたから置き場所を作っただけに見える。
それでも、各領地で塩を買い、小麦や芋を集め、倉庫まで増えていれば、さすがに気になる。
俺は馬上から新しい材木の色が残る壁を眺めながら、前の宿で考えたことを思い出していた。
食料そのものが市場へ出てこなくなっているのなら。
各領地で溜め込み始めているのなら。
あの時は、まだ一つの宿で碌な飯が出なかっただけだった。
だが、こうして実際に別の領まで来ると、少なくとも食べ物を集めようとしている場所があることだけは分かる。
もちろん、全部が同じではない。
食事が普通に出てくる宿もあったし、街の店先に食い物が並んでいる場所もあった。
だから王国全体で食料がなくなっている、なんてことではなさそうだ。
ただ、動いている。
それも、領ごとに違うやり方で。
職人たちへの目が厳しくなっているところもあった。
何を作っているのかまでは分からない。
だが、街で話を聞けば、以前より職人の出入りを気にするようになったらしい。
よその土地へ仕事を探しに行こうとする者まで、妙に関所で止められるという話だった。
そこまで聞いても、理由は分からなかった。
だから俺も、勝手に決めつけることはしなかった。
もっと分かりやすい領もあった。
旅をしている魔力持ちへ、わざわざ声をかけている。
俺とセバスチャンまで声をかけられた。
何か仕事を探しているなら紹介できる。
そんな程度の誘いだったが、俺たち以外にも同じように声をかけているところを見た。
魔力持ちを集めたい。
少なくとも、その領ではそう考えているらしい。
逆に、本当に何もしていないように見える領もあった。
関所も以前と変わらず、街にも特別な動きはない。
宿で聞いても、最近変わったことなどないと言われる。
だから全部ではない。
王国中の貴族が同じことを始めたわけでもない。
だが、噂にならなかった領まで何か所か見て回れば、さすがに分かる。
何もしていなかったのではない。
大きな音を立てず、それぞれの領主がそれぞれのやり方で動いていた。
塩を集める。
食料を集める。
堀を掘り直す。
倉庫を増やす。
職人を見張る。
魔力持ちへ声をかける。
一つだけなら大したことには見えない。
だが、こうしていくつもの領を続けて見れば、全部が違う方向を向いているようには思えなかった。
戦乱の気配を感じている。
そう考えれば、妙にしっくりくる。
派手に兵を集めるのではなく、噂になるほど税を上げるのでもなく、それぞれが静かに準備を始めている。
その夜、俺とセバスチャンは宿の食堂で向かい合っていた。
周囲では何人もの客が飯を食い、酒を飲んでいる。
俺は目の前の食事へ手を伸ばしながら、声を少し落とした。
「ふむ、やはり来てよかったな」
「そうですな。少なくとも、食糧を溜め込み始めた領がありますな」
セバスチャンは酒杯を持ち上げ、口をつける。
俺も目の前の皿へ視線を落とした。
今夜の飯は、昨夜泊まった宿よりずっとまともだった。少なくとも、食べるものそのものがどこへ行っても消えているわけではない。
だが、それで何も問題がないとは思えなくなっていた。
塩を買う領がある。
小麦や芋を税として集める領がある。
倉庫を増やしている領まである。
一つ一つなら別の理由でも説明できる。
だが、何か所も続けて見れば、偶然と考える方が難しい。
「やっぱり食料か」
「でしょうな。どれだけ溜め込んどるかまでは分かりやせんが」
「ああ」
そこは分からない。
俺たちが倉庫の中まで覗いたわけではないし、領主へ直接聞いたわけでもない。
分かったのは、実際に食料を集めようとしている領があるというところまでだ。
それだけでも、ここまで来た意味はあった。
噂だけ聞いていたら、税を大きく上げた領や関所を増やした領ばかり気にしていたかもしれない。
実際には、その陰で別の準備をしている奴らがいた。
俺はパンをちぎりながら、もう一つ気になっていたことを口にする。
「職人たちを監視していたのは、おそらく武具を他領に流さぬためか」
仕事を探してよその土地へ行こうとする職人まで、妙に関所で止められる。
それが単に人を逃がしたくないだけなのか、それとも職人だからなのか。
そこまでは分からない。
ただ、今の状況なら武具を作れる人間を手元に残したいと考えてもおかしくはない。
セバスチャンは少しだけ目を細めた。
「それもありやすが、大戦になりゃ、剣より槍や鉄棍の方がいいんですよ。振り回せばいいですから」
「そうなのか?」
思わず聞き返す。
俺の感覚だと、戦うための武器なら剣の方が上等に思えてしまう。
実際、騎士も剣を持っている奴は多い。
だがセバスチャンは、そんな俺の反応を気にした様子もなく続けた。
「ええ。それなら多少歪んでも鈍っても使えますからな」
「ふむ」
なるほど。
剣は刃がある。
切れなくなれば、その分だけ使い勝手も悪くなる。
だが鉄棍なら、そもそも切るためのものではない。
槍も剣と同じではない。
俺はこれまで自分で武器を手入れするより、使う側として見てきた。
そのせいか、大勢へ一度に持たせる時のことまで考えたことはなかった。
そこで、ようやくセバスチャンが何を言いたいのか分かってきた。
「特に急にかき集めた平民兵には、か」
「そういうことです」
セバスチャンが頷く。
普段から戦っている騎士なら、自分の武器を扱うことにも慣れている。
だが、大きな戦になって急に平民を集めるなら話は違う。
全員に立派な剣を持たせても、それをまともに使えるとは限らない。
それなら、多少雑に扱っても使えるものを数だけ用意する。
そう考えれば、職人を手元に置いておきたい理由も増える。
武具をよそへ流させない。
必要になった時に作らせる。
どちらなのか、それとも両方なのかまでは分からない。
だが、職人を気にする理由としては十分ありそうだ。
「食料に武具か」
小声で呟きながら、俺は皿の上のものを口へ運ぶ。
戦になると決まったわけじゃない。
誰が誰と戦うのかも分からない。
それでも、あちこちで備えだけは始まっている。
何も動いていないように見えた王国の内側で、それぞれが自分の領地を守るために準備している。
そう考えると、俺たちが聞いていた噂だけでは、本当に表面しか見えていなかったのだろう。
その時だった。
向かいに座っていたセバスチャンが、不意に後ろを向いた。
何の前触れもない。
酒杯を持ったまま、いきなり首だけを返すように食堂の奥へ視線を向ける。
俺もつられてそちらを見る。
食堂には、さっきから変わらず客がいる。
飯を食っている男。
酒杯を傾けている男。
何人かで固まって話している者たち。
その中の数人が、セバスチャンが振り向いた瞬間に視線を逸らした。
急に動いたセバスチャンからだ。
それまで、こちらを見ていたらしい。
俺は手にしていたパンを皿へ戻し、声を落とした。
「ふむ。監視も増えているみたいだな」
「まぁ、そこまでの手練れってわけじゃありませんな。おそらく念のためでしょう」
セバスチャンは何でもないようにそう答えた。
それから、口元を少し緩める。
嫌な笑い方だ。
何か思いついた時の顔に見える。
俺が何をするつもりだと聞くより先に、セバスチャンは持っていた酒杯を持ち上げた。
そのまま、さっき視線を逸らした男たちへ向けて掲げる。
乾杯でもするような気軽さだった。
当然、向こうも気づく。
男たちは一瞬こちらを見て、それから何人かが僅かに顔を顰めた。
見ていたことに気づいているぞ。
たぶん、そういう意味なのだろう。
声をかけるわけでもない。
立ち上がるわけでもない。
ただ酒杯を掲げただけ。
それなのに、妙に挑発的に見える。
やっぱりこいつ、楽しんでないか?
俺がそんなことを考えている間も、セバスチャンはにやにやしたまま酒を飲んでいる。
向こうの男たちはすぐには動かなかった。
何人かで短く顔を見合わせ、それから少し時間が経った。
やがて、その中の一人が椅子から立ち上がった。
こちらへ歩いてくる。
俺は何も言わず、その男を見る。
ふむ、とりあえず現場責任者ってとこかな。
少なくとも、酔ってふらついている客には見えなかった。
男は俺たちの卓の近くまで来ると、まずセバスチャンを見た。
「……傭兵か?」
いきなりだった。
だがセバスチャンは眉一つ動かさない。
「まぁ、そんなところだな。孫に戦を教えてやろうと思ってな」
孫。
俺は黙ったままセバスチャンを見る。
いつから俺がお前の孫になった。
いや、今は口を挟まない方がいいか。
せっかく向こうから近づいてきたのだ。
何を聞きたいのか、まずは見た方がいい。
男は俺へ一度だけ視線を向け、それから再びセバスチャンへ戻した。
「どこに向かっている?」
「さてな」
セバスチャンは酒杯を指先で弄びながら、少し考えるふりをした。
「国境を抑えるマバールに向かおうとも思うが、あそこは騎士が強すぎるからな」
よく言う。
俺は思わずセバスチャンの横顔を見る。
マバール騎士団の強さをよく知っている本人が、完全に他人事みたいな顔で言っている。
しかも内容そのものは間違っていない。
男もそれを疑う様子はなかった。
「ふむ」
少し考えるように顎を引く。
「なんなら知り合いを紹介するぞ」
その一言に、俺は内心だけで反応した。
知り合い。
何の知り合いだ?
さっきから俺たちを見ていた理由と関係があるのか。
聞いてみたいが、俺が先に口を出すのはやめておく。
今はセバスチャンに任せた方がよさそうだ。
「おいおい」
セバスチャンは面倒そうに酒杯を卓へ置いた。
「言っただろうが。戦を教えにきたんだ。穴掘りや案山子をやりにきたんじゃねえ」
雑だな。
かなり雑だ。
だが男は怒らない。
むしろ、セバスチャンの言葉を測るように少し黙った。
うーむ。
これはわざとか?
わざと傭兵らしく雑に喋っているのか?
それとも、なんかいつも通りなだけなのか?
俺には分からない。
普段から俺相手でもこんな感じだしな。
俺が黙って聞いていると、男が再び口を開いた。
「実戦はどれほどやっている?」
「さあて」
セバスチャンは少し肩を竦めた。
「いちいち数えるほど暇じゃないんでな」
男の目が僅かに細くなる。
具体的な数を答えたわけではない。
だが、経験が少ないと言っているようにも聞こえない。
セバスチャンらしい答えだった。
男は次に俺を見る。
「孫の方は?」
来たか。
俺は黙ったまま、セバスチャンの返事を待った。
さて、こいつは俺をどう説明するつもりだ。
「まだまだだ。見込みはあるが、山賊まがいの事ばかりでデカい戦はそれほどだな」
おい。
俺は横目でセバスチャンを見る。
山賊まがい。
そこは否定しない。
否定しないが、せめて上品なとつけてほしい。
俺だって好き勝手に襲って奪っているわけではないのだ。
ちゃんと考えているし、相手だって選んでいる。
……いや、それを説明すると余計に山賊っぽくなりそうだからやめよう。
何より、今の俺はこいつの孫らしい。
ここで口を挟んで話を壊すより、黙っていた方がいい。
男は俺を見たまま、少し考えるように目を細めた。
「なら、経験を積める場所を紹介できるぞ」
ほう。
俺は皿へ視線を落としたまま、耳だけをそちらへ向ける。
さっきの「知り合い」より一歩踏み込んできた。
セバスチャンも同じことを思ったのか、酒杯へ伸ばしかけた手を止める。
「ふん。マバール騎士を相手にするほどバカじゃねえ」
男の眉が僅かに動いた。
「誰もそうとは言っておらん」
違うのか。
少なくとも、この男が今持ち出している話は、マバール騎士団を相手にするものではないらしい。
もちろん、それだけで安心できるわけではない。
そもそも誰が戦うのかすら分かっていないのだから。
セバスチャンの口元が、また少し吊り上がった。
「ほう、相手は誰だ?」
「そこまでは言えん」
「ふん」
セバスチャンは鼻を鳴らす。
それ以上は追及しなかった。
相手を知りたい。
俺だって知りたい。
だが、ここで食いつきすぎれば不自然か。
孫に戦を教えたい傭兵という話なのに、誰と誰が争うかばかり気にしていたら、別の目的を疑われるかもしれない。
セバスチャンはそんなことを考えているのか、それとも本当に適当に話しているだけなのか。
やっぱり分からん。
「ふん、ちょいと考えてみるか」
そう言って、セバスチャンはにやにや笑いながら残っていた酒を一気に飲み干した。
男も無理に答えを求めなかった。
「ああ。その気になったら明日もここにいろ。声をかける」
明日。
どうやら、この一度だけで終わらせるつもりではないらしい。
俺が黙って男を見る前で、そいつは宿の者へ片手を上げた。
何か短く声をかける。
すぐに酒が運ばれてきて、空になったセバスチャンの酒杯へ新しく注がれた。
セバスチャンの眉が上がる。
「ほう、なかなか気が利くじゃねえか。気に入ったぜ」
嬉しそうだな。
これは演技か?
いや、酒を追加されたこと自体は普通に喜んでいそうな気もする。
「ああ。では明日な」
「ああ、頼むぜ」
男はそれ以上こちらに留まらなかった。
踵を返して元いた方へ戻る。
すると、さっきまでこちらを見ていた数人も席を立った。
一人ずつばらばらに出るわけではない。
男と一緒に、何人かまとまって宿の外へ向かっていく。
扉が開き、外の空気が一瞬だけ食堂へ流れ込む。
そして最後の一人が出ると、扉はまた閉まった。
周囲の客たちは少しだけそちらを見たものの、すぐにそれぞれの飯や酒へ戻っていく。
俺も、男たちが出ていった扉からセバスチャンへ視線を戻した。
こいつは奢られた酒を早速飲んでいる。
随分と馴染んでるな。
「ふむ」
セバスチャンは酒杯の向こうで扉を眺めた。
「どうやら近くに拠点でもあるみたいですな」
俺も少し考える。
明日もここにいろ。
声をかける。
そう言って、仲間らしい数人を連れて出ていった。
少なくとも、この宿で偶然俺たちを見かけただけには見えにくくなってきた。
だからといって、どこに何があるのかまでは分からない。
宿の近くに集まる場所でもあるのか。
この街のどこかに人を置いているのか。
それとも、明日になればまたここへ来るだけなのか。
まだ判断するには早い。
「明日どうする?」
俺が聞くと、セバスチャンは酒杯を傾けたまま肩を竦めた。
「さて、どうしやすかね」
こいつ。
さっきまであれだけ自然に話しておいて、急にいつもの口調へ戻りやがった。
俺は少し身を乗り出す。
「おい」
「なんです?」
「どっから演技なんだよ」
孫と言い出したところか。
傭兵らしく雑に振る舞っていたところか。
マバール騎士団が強すぎると言っていたところか。
それとも酒を奢られて喜んでいたところまで全部なのか。
セバスチャンは酒杯を口元へ運ぶ。
そして、俺を見ながら僅かに笑った。
「さあ?」
……絶対に教える気ないな。
俺は呆れながら、残っていた食事へ手を伸ばした。




