第百七十一話 人の流れ
翌朝、まだ夜が明けきる前に、俺とセバスチャンは宿を出た。
扉を開けてくれた宿の人間は、見るからに眠そうだった。何度も瞬きをしながらこちらを見て、早く出て行ってくれと言いたげに扉の脇へ立っている。
別に何か文句を言われたわけではない。
だが、こんな時間から客に起こされれば、いい気はしないのだろう。
俺だって眠い。
外へ出れば、空はまだ薄暗い。夜の黒さは少しずつ薄れているものの、朝と呼ぶには早すぎる。宿場の建物も暗いままで、開いている店などほとんど見当たらなかった。
軍馬へ跨がりながら、俺は大きく欠伸を噛み殺す。
「まったく、年寄りは朝が早いな」
隣で馬へ乗ったセバスチャンが、何でもないことのようにこちらを見る。
「早めに出立すると言ったでしょうが」
あっさり返された。
いや、確かに昨日そう言っていた。
だから俺も早く出ること自体には同意した。
だが、こんなに早いとは思わなかっただけだ。
気安い関係なのは認める。
認めるが、こいつ、たまに俺が主君だってことを忘れてないか?
俺は一応マバール家の人間で、こいつは俺の筆頭騎士だ。
もう少しこう、主君を労る言葉くらいあってもいい気がする。
そんなことを考えながら馬を進め、宿場を抜けて街道へ出たところで、俺は眠気を少し忘れた。
「……ん?」
人がいる。
まだこれから夜明けを迎えるような時間だというのに、街道にはすでに人の姿があった。
一人や二人ではない。
薄暗い道の先に、荷を背負った者たちが点々と続いている。何人かまとまって歩く者もいれば、荷車を引いている者もいる。
昨日の昼間にも似たような姿は見た。
だが、今は時間が違う。
こんな時間なのに、昨日よりむしろ多く見える。
「いくらなんでも早すぎないか?」
俺が言うと、セバスチャンも街道を歩く人々へ目を向けた。
「こんな頃合いから出立するってことは、かなり歩くつもりなんでしょうな」
「そんなに遠くまで行くのか?」
「さあ。そこまでは分かりやせん」
まぁ、それはそうか。
本人たちに聞いたわけでもないしな。
俺たちは馬に乗ったまま、道を行く人々を眺める。
まだ完全には明るくなっていないせいか、昨日より静かだった。話しながら歩く者もいるが、声は低い。荷車の車輪が土を擦る音と、足音が薄暗い街道に続いている。
やっぱり妙だ。
昨日は、走ってもいないのに急いでいるような感じがした。
今朝はそれとは少し違う。
この時間から歩いているという事実そのものが、妙に気になる。
早く出なければならない理由があるのか、それとも単純に遠くまで行きたいだけなのか。
まだ分からない。
俺たちは街道へ馬を進めながら、すれ違う者たちを見る。
そこで、ようやく気づいた。
進む方向が偏っている。
もちろん全員ではない。
俺たちと同じ方へ進む人間もいるし、道端で休んでいる者もいる。
だが、多くは逆だった。
昨日、俺とセバスチャンがこの宿場へ来た方角。
つまり、シルビア橋がある方へ向かって歩いている。
荷を背負った男が通り過ぎる。
少し後ろには、何人かの大人と一緒に歩く子どもの姿もあった。眠そうな目をこすりながらも小さな足で黙々と進み、その横では大人が荷を持っている。
昨日見たのと似ている。
ただ、今日は朝が早い。
こんな時間から出て、それでもあちらへ向かう。
俺は遠ざかっていく背中を眺めながら、少しだけ眉を寄せた。
「……マバール領までか?」
思わず口から出た。
俺の言葉に、セバスチャンはすぐには頷かなかった。
街道の向こう、俺たちとは逆へ進んでいく人々をしばらく眺めてから、少し顎を撫でる。
「今からならおそらく、シルビア橋まででしょうな。その先は分かりやせんが」
「ふむ」
確かに、橋の向こうまで行くかどうかは本人たちに聞かなければ分からない。
だが、この時間から歩き始めているなら、少なくともかなり先まで進むつもりなのは間違いなさそうだ。
俺は横を通り過ぎていく人々を見ながら考える。
もし、本当にこいつらがシルビア橋を渡ってマバール領まで来るつもりだったら、どうなるんだ?
この世界は身分の差が厳しい。
貴族と平民では、立っている場所そのものが違うと言っていい。
多くの貴族は、領地に住んでいる平民一人一人のことまで、それほど気にしてはいない。
誰がどこで何を食っているとか、誰の家の子どもが何人いるとか、そんなところまでいちいち見ているわけではない。
だが、だからといって領民をどうでもいいと思っているわけでもない。
税を払い、農地を耕し、街や村で働く。
そういう人間を他の貴族が勝手に奪えば話は別だ。
下手をすれば敵対行為になる。
王国貴族同士なら、他領の平民を勝手に集めて自分の領民にするなんてことをすれば、まず間違いなく揉めるだろう。
だから本来なら、こいつらが本当にマバール領まで来るとなれば、少し面倒な話になるはずだ。
……まぁ、今さら関係ないけどな。
マバール家はもう王国貴族ではない。
帝国貴族だ。
王国貴族同士なら「うちの領民を返せ」と問題になるところだが、今のマバール家へそんな話を持ち込む奴もいないだろう。
そもそも、こいつら自身もそう考えているのか?
王国内の貴族領から別の貴族領へ勝手に移ることはできない。
だが、帝国貴族となったマバール領なら行ける。
そう考えて、シルビア橋を目指しているのだろうか。
まだ橋を渡ると決まったわけではない。
だが、もしそうなら妙な話だ。
王国内では勝手に動けないのに、王国から出るような形なら動けると考える。
何とも変な感じがする。
「ふむ」
俺はもう一度、反対側へ進んでいく人々を見た。
「彼らが来たとしたら、受け入れると思うか?」
なるべく周囲へ余計なことを聞かせないよう、それだけ聞く。
セバスチャンは何のことか聞き返しもしなかった。
「そりゃ受け入れるでしょうな。簡単に領民、それも働けて払える領民が増えるんですから」
あっさりした答えだった。
俺は少しだけ驚く。
そんなに簡単なものなのか。
前世の俺の感覚では、土地というものは有限だった。
特に、耕せる土地や金を生む土地なんて、どこにでも好きなだけあるようなものではなかったはずだ。
人が増えれば、その分だけ使える土地が必要になる。
だから領民が増えると聞けば、まず住む場所や働く場所の方を考えてしまう。
だが、この世界では少し違う。
馬に揺られながら街道の脇を見る。
まだ朝の薄暗さが残る向こうには、人の手がほとんど入っていない土地が広がっている。
昨日も、その前も、旅をしていれば何度も見た。
街道から少し離れれば、何も建っていない場所など珍しくもない。
俺には、ちょっと耕せば畑になりそうに見えるところだっていくらでもある。
もちろん、本当に簡単に畑になるかどうかまでは知らないが。
だが少なくとも、街や道や畑を作ったせいで土地がなくなって困っているようには見えなかった。
むしろ余っている。
なら、その土地を使うために必要なのは人だ。
畑を作るにも、そこで働く人間がいる。
街を広げるにしても、住む人間がいる。
領地を大きく使おうとすれば、それだけ領民が必要になる。
そう考えれば、セバスチャンがあっさり受け入れると言ったのも分からなくはない。
土地が余っているのに、それを使う人間が足りない。
そこへ勝手に働ける人間がやって来る。
しかも領民になれば、払うものも払う。
領主側からすれば、追い返す理由の方が少ないのかもしれない。
その割には、平民をそれほど大事にしていない気もするけどな。
そこまで考えて、少し違うかと思い直す。
大事にしていないというより、領民一人一人を大事にする感覚が薄いのか。
誰か一人がどうなったかより、領地にどれだけの人間がいて、働いて、払い、暮らしているか。
領民という集団そのものは必要だが、その一人一人まで同じように重く見るわけではない。
そういう感覚に近いのかもしれない。
俺はもう一度、こちらとは逆へ歩いていく人々を見る。
大人もいる。
子どももいる。
荷を背負った者もいれば、荷車を引く者もいる。
まだ、彼らがどこまで行くのかは分からない。
それでも、昨日までとは違う何かが動いているようには見えた。
「行きましょうや」
セバスチャンの声で、考え込んでいた意識を前へ戻す。
「ああ」
俺たちは馬を進めた。
シルビア橋の方へ向かう人々と、何度もすれ違いながら。
人の流れに逆らうように、俺とセバスチャンは街道の先へ進んでいった。
人の流れに逆らって馬を進めながら、俺はさっき考えていたことをもう一度頭の中で転がしていた。
領民。
税を払い、土地を耕し、領地で暮らす人間。
貴族にとって必要ではあるが、一人一人を大切に扱うわけでもない。
考えてみれば、俺が前世でぼんやり持っていた貴族のイメージとはずいぶん違う。
前世で貴族と聞けば、なんとなくフリフリした華美な服を着て、広い屋敷で優雅に暮らしている姿を思い浮かべていた。
なぜか語尾にはザマスとか付けたりしてた。
まぁ、たぶん、そんな貴族は実在しなかったと思うけど。
そもそも俺は貴族なんて実際に見たこともなかったし、知識だって大したものじゃない。
それでも、ぼんやりとしたイメージだけはあった。
だが、この世界で実際に貴族として生きてみれば、そんなものとはまるで違う。
華美な服を着る奴がいないわけではない。
優雅に暮らしている奴だっているだろう。
ただ、それは貴族の本質ではない。
土地を持つ。
そこに住む人間から取る。
その代わり、自分の領地へ手を出す奴がいれば戦う。
他の貴族が勝手なことをすれば揉める。
自分の領民を奪われれば怒るし、土地を取られれば当然やり返す。
そう考えていくと、前世で一番近いものは何だろう。
俺は馬上でしばらく考えた。
そして、すぐに思いつく。
……ヤクザだな。
暴力で街を支配して、そこにいる人々はみかじめ料を払う。
その代わり、何かトラブルがあれば守ってもらう。
少なくとも俺の前世で持っていたヤクザのイメージはそんな感じだった。
もちろん、細かいところまで同じなわけがない。
だが、仕組みだけを大雑把に眺めれば妙に似ている。
貴族が面子をやたら大事にするところなんかもそうだ。
損か得かだけでは動かない。
舐められたら終わり。
自分のものに手を出されて黙っていれば、次もやられる。
だから面子を守る。
そういうところまで考えると、ますます似ている気がしてきた。
大雑把に言うなら、以前のマバール家は王国会傘下広域暴力団マバール組って感じだろう。
王国会。
なんだそれ。
自分で考えておいて少し馬鹿らしくなる。
だが、妙にしっくりくる。
そのマバール組が、今では帝国連合傘下広域暴力団マバール組になったわけだ。
今さら考えると、とんでもないな。
王国側からすれば、自分のところにいた最大の組が、そのまま敵対している側へ移ったようなものだ。
それなのに王国は、少なくとも俺から見れば、それに対して大きくやり返したようには見えない。
そりゃ舐められるか。
傘下の組――じゃない、貴族たちからすれば、面白くないだろう。
しかも、それだけじゃない。
本家というか王都まで、格下だと思っていた北方諸国軍に包囲された。
あの時は俺も実際に王都へ行った。
北方諸国軍が王都を囲んでいたのは事実だ。
それで最終的にはどうなったかといえば、和平。
前世のヤクザみたいな言い方をすれば、手打ちだ。
王都まで囲まれて、それでも相手を完全に叩き潰したわけではない。
もちろん、戦争なんて勝手に続ければいいものでもないし、和平そのものが悪いとは思わない。
損を減らせるなら、その方がいい場合だってある。
俺だって無駄に戦いたいわけではない。
だが、貴族たちがどう見るかは別だ。
ふむ。
そう考えると、王国貴族たちが不安になるのも少し分かるような気がする。
貴族にとって面子は遊びじゃない。
やられたら、やり返す。
損になろうが、不利になろうが、それでも必要ならやる。
少なくとも、それが出来ると思われていなければならない。
そうでなければ、自分の下にいる連中だって信用しなくなる。
いざという時、守ってくれるのか。
自分たちが攻められた時、本当に相手へやり返してくれるのか。
そんな疑問を持たれたら、上に立っている意味が薄くなる。
特に今は、平和な時代がずっと続くような空気じゃない。
帝国も王国も動き、北方諸国まで王都を囲んだ。
この先、戦乱の世になろうとしている。
そんな中で、やられてもやり返してくれない相手へ生命を預けろと言われても、難しいだろう。
俺なら嫌だ。
自分が危ない時に助けてくれるか分からない奴の下につくくらいなら、自分でなんとかした方がいいと思う。
そう考える貴族がいたとしても、おかしくはない。
だから関所を増やす。
税を変える。
兵を動かす。
……いや、そこまで全部が繋がっているかはまだ分からないか。
俺たちが昨日見聞きしたのは、関所が増えているという話と、税について話す者がいたこと。
それだけだ。
理由まで直接聞いたわけじゃない。
ただ、王国の今の状態を考えれば、それぞれの貴族が勝手に備え始めても不思議ではないようには思える。
馬の揺れに合わせて身体を任せながら、俺は小さく息を吐いた。
ふむ。
こうして考えると、本当にヤクザに近いな。
そう思いながら、俺は隣を走るセバスチャンへちらりと目を向けた。
こいつの場合は、さらにタチの悪い山賊だけどな。
昔、こいつに教えられたことがある。
いい騎士とは何か。
敵をたくさん殺して、敵からたくさん奪って、味方にたくさん与える。
言葉だけ並べると、やっぱり山賊みたいだ。
だが、今ならそれが間違っていないこともよく分かる。
敵を倒せなければ味方を守れない。
敵から何も奪えなければ、戦ったところでこちらが疲弊するだけだ。
そして得たものを自分だけで抱え込むのではなく、味方へ分ける。
殺して、奪って、分ける。
随分と乱暴だが、この世界の騎士としては実に正しい。
俺自身、もう何度もそうしてきた。
敵を殺したこともある。
奪ったこともある。
その結果を持ち帰ったこともある。
今さら前世のどこかで聞いたような綺麗な騎士像を持ち出して、これは違うなんて言うつもりはない。
現実に戦場へ立てば、綺麗事だけでは何も残らない。
そういう意味では、セバスチャンは本当に立派な騎士なのだ。
俺が見ていることに気づいたらしく、セバスチャンが顔をこちらへ向けた。
「なんです?」
「いや、お前は立派な騎士だなぁ、と思ってな」
素直にそう言ってやる。
セバスチャンは少し首を傾げた。
「何を当たり前のこと言っとるんです?」
……うん。
そうだな。
こいつにとっては当たり前なんだろうな。
自分が立派な騎士であることも、敵を殺して奪って味方へ分けることも、たぶん同じくらい当然のことなんだろう。
だが、こいつを見ているうちに一つ気になった。
「なぁ」
「なんです?」
「なんで俺たちは報復されないんだ?」
セバスチャンが俺を見る。
「こうして考えると、王国にかなり酷いことをしているんだが」
マバール家は王国を離れて帝国側へ移った。
さっき自分で考えた例えを使うなら、王国会の最大の組が、そのまま帝国連合へ移ったようなものだ。
面子を重んじるなら、到底そのままにはしておけない気もする。
もちろん、今すぐ何かが起きていないからといって、この先も何もないとは限らない。
だが、少なくとも今のところ、王国側がマバール家へ大きくやり返してきたわけではない。
セバスチャンは少し考える様子すら見せず、あっさり答えた。
「そりゃ王国最強のマバール騎士団ですからな」
「……それだけか?」
「それだけで十分でしょうが」
随分と自信満々だな。
だが、否定もしづらい。
マバール騎士団が強いことは俺だって知っている。
国境で帝国と戦い続けてきた騎士たちだ。
俺自身、その中で何度も戦った。
だから、王国側がマバール家へ何かするなら、その騎士団を相手にしなければならないということくらいは分かる。
それでも、相手は王国だ。
一つの貴族家とは規模が違う。
「だが、相手がデカいとかなり面倒だぞ」
俺が言うと、セバスチャンは呆れたような顔をした。
「若様、そんなこと考えなきゃいいんですよ」
「いや、考えるだろ」
「ただ、やると決めたらやる。それだけです」
セバスチャンは前を向いたまま言う。
「いつもやっとるでしょうが」
言われて、少し黙る。
いつも。
そんなにいつもやっているつもりはないんだが。
俺だって何も考えずに動いているわけではない。
ちゃんと考える。
どうすればいいか考えて、それでやると決める。
危ないなら危ないなりに考えるし、面倒なら面倒なりに考える。
それでも必要ならやる。
……あれ?
それだと、確かにセバスチャンの言っていることとあまり変わらない気がする。
だが、なんとなくそのまま認めるのも癪だった。
「俺は平和主義だぞ」
「へいへい」
軽い。
随分と軽い返事だった。
こいつ絶対に信じてないな。
別に嘘を言ったつもりはない。
俺だって平和に暮らせるなら、その方がいい。
わざわざ戦場へ行きたいわけでもないし、敵がいなければそれに越したことはない。
ただ、必要なら戦うだけだ。
それのどこが平和主義じゃないんだ。
少し納得がいかなかったが、セバスチャンはもう話を終えたつもりらしい。
俺もそれ以上は言わなかった。
空はいつの間にか少しずつ明るくなっていた。
夜の名残が薄れ、街道の先まで見えるようになっていく。
その道を、俺たちとは逆へ歩いていく人々がまだいる。
荷を背負い、荷車を引き、時には子どもを連れて、シルビア橋の方へ向かっていく。
どこまで行くのか。
何のために行くのか。
それはまだ分からない。
俺とセバスチャンは、その人の流れとは逆の方向へ向かって、そのまま街道を進んでいった。




