第十七話 休日の暇つぶし
城の調理場に立つと、ギルは妙に懐かしい気分になった。
石造りの床は朝の水拭きでわずかに湿り、熱を抱えた竈の前では薪が赤く沈みながらぱちぱちと小さな音を立てている。大きな鍋からは肉と野菜の匂いが立ち上り、別の台では下ごしらえを終えた香草が束ねられていた。壁際には銅鍋や鉄鍋が吊られ、よく研がれた包丁が布の上に並び、粉袋や塩壺、油壺が使いやすい位置に置かれている。
城の調理場は広い。
ただ料理を作るだけの場所ではない。マバール家の当主、家族、騎士、文官、上級使用人、そして多くの下級使用人たちの食を支える巨大な腹のような場所だ。火は絶えず、湯は沸き続け、誰かが刻み、誰かが捏ね、誰かが運び、誰かが洗う。
普段なら、俺がここに立つことはあまりない。
貴族の三男坊が、調理場で包丁を握る必要などないからだ。
それでも、完全に初めてというわけではない。
むしろ、俺にとってこの場所は、ある意味で原点に近い。
明日には、俺が選んだ直属騎士たちがやって来る予定だ。
実際には、レティシアがほとんど選んだような気もするが。
いや、俺もちゃんと考えた。考えたのだが、候補の整理や家の関係、本人の評判、使い道の分類などは、かなりレティシアの力に頼った。俺一人で選んでいたら、もう少し変な人選になっていた可能性はある。
筆頭騎士はセバスチャン。
あのクソじじいだ。
その事実だけで、直属騎士団の今後は少し不穏なものになっている。
明日、彼らが揃ったら何が起きるのか。
考えたくない。
いや、考えなくてはいけないのだが、考えたところでセバスチャンが何かをやらかすことは変わらない気がする。
本当は生産拠点に行こうかとも思った。
だが、今は特に新しいプロジェクトも無い。
もちろん、既存の作業はいくつも動いている。蜘蛛の糸、炭、馬車の改良、道具の細かな調整、食品関係、職人たちへの指示。俺が見に行けば見に行ったで、何かしら口を出すことはあるだろう。
だが、それは本当に必要なことか。
最近、少し考えるようになった。
俺がいると進むことはある。だが、俺がいないと進まないようでは困る。これから直属騎士団を持つなら、俺自身の時間はさらに細かく取られる。戦場に出ることもあるかもしれない。城内での会議や、父上や兄上たちとのやり取りも増えるだろう。
なら、今のうちから生産拠点は俺無しで動くことに慣れてもらった方がいい。
全部を俺が見て、全部に俺が口を出す。
それは気持ちいいかもしれないが、組織としては弱い。
俺は気楽な三男坊でいたいのだ。
自分で自分の首を絞めるような真似は避けるべきだろう。
なら今日は、ダラダラゆっくりしても良かった。
部屋で本を読んでもいいし、レティシアに茶を淹れてもらってぼんやりしてもいい。昼寝をしてもいい。明日に備えて休むというのは、かなり正当な理由に聞こえる。
だが、そうなるとレティシアが大変なことになってしまいかねない。
別にレティシアは嫌がらないだろう。
嫌がらないどころか、俺が求めればいつものように受け入れてくれる気がする。だからこそ危ない。俺も我慢が利く方ではない。部屋で二人きり、予定もなく、時間がある。そんな状況になったら、かなりまずい。
あまり無理はさせたくない。
この言葉を俺が言うと、どの口が言っているんだと言われそうだが、それでも本心ではある。
だから城内で何かやろうと思って、ここに来たのだ。
調理場に来た理由は、そこまで立派なものではない。
暇だった。
腹も減っていた。
たまには自分で何か作って食べたいと思った。
それだけだ。
思えば、俺がこの世界で最初に作ったのは、パンケーキとカステラだった。
別に何か深い考えがあったわけじゃない。
ただ単に、俺が食いたかったから作っただけだ。
前世の記憶がある者として、甘いものは恋しい。この世界にも甘味はある。だが、前世で慣れ親しんだ柔らかい甘さや、卵と粉と砂糖が焼ける匂いとは少し違った。だから試した。記憶を頼りに、粉を混ぜ、卵を使い、砂糖を入れ、焼いてみた。
それが意外と上手くいった。
俺自身が驚くくらい、この世界は食材が豊富だった。
粉はある。
卵はある。
乳もある。
砂糖もある。
油もある。
香辛料も、種類を問わなければそこそこある。
もちろん前世と全く同じものではないが、代用品は意外と見つかる。無論、貴族の城という環境が大きかったのだろう。庶民なら手が届かない食材も、マバール家の調理場には普通にある。
パンケーキもカステラも、最初から完璧だったわけではない。
焦げたものもある。
膨らまなかったものもある。
甘すぎたものも、妙に固いものもあった。
それでも、試行錯誤の末にそれっぽいものができた。
それで俺は、物作りに興味がある子どもだと思われた。
そこから、いろいろなものへ繋がっていった。
食い物だけではない。
炭。
蜘蛛の糸。
馬車のサスペンション。
メイド服の改良。
ホットサンドメーカー。
失敗した銃もどき。
魔力攻撃を回転させる実験。
全部が全部、調理場から始まったわけではない。だが、前世知識をこの世界で試してみるという感覚は、たぶんここで最初に掴んだ。
そう思うと、なかなか感慨深い。
砂糖を作って荒稼ぎする小説を、前世でいくつか読んだような気がする。
転生した主人公が、現地では貴重な砂糖を作り、貴族や商人を驚かせ、莫大な利益を得る。そういう展開だ。俺も、正直ちょっとやってみたかった。
だが、残念ながらこの世界では砂糖は全然貴重品じゃなかった。
いや、庶民が毎日山ほど使えるほど安いわけではない。だが、少なくとも貴族にとっては珍しくも何ともない。城の調理場には普通に置いてあるし、甘い菓子も存在する。
この世界では、白いリンゴみたいな果実から砂糖がかなり大量に作られていた。
初めてそれを聞いた時は、少しがっかりした。
なんでも、その白リンゴをすりおろして乾燥させると、ほとんどそれだけで砂糖に近いものが出来てしまうらしい。もちろん、俺や父上が口にする砂糖はもっと手間暇をかけた高級品だ。色も白く、雑味が少なく、口溶けも良い。
だが、基本的な作り方はほとんど変わらないそうだ。
これでは砂糖生産で稼ぐのは不可能だ。
まあ、甘いものが普通に食べられるのはありがたい。
荒稼ぎできなかったのは残念だが、甘味がない世界に転生するよりはずっといい。俺はそこまでストイックな人間ではない。食えるなら食いたい。
周囲にいる調理人たちは、なんだか微妙な表情で俺を見ている。
若様が調理場に来た。
それだけなら、もう初めてではない。
だが、彼らの表情には期待より警戒の方が強い。
俺はそれを咎めたりはしない。
大きな声では言えないが、俺は彼らには大きな借りがあるのだ。
砂糖が普通にあることを知った俺は、それならと味噌を作ってみようと思った。
日本人ならやはり米、味噌、醤油だろう。
この世界の食事はけっこうレベルが高いので、そこまで不自由しているわけではない。肉はある。パンはある。煮込みも焼き物もある。香辛料も全く無いわけではない。貴族の食卓はかなり豊かだ。
だが、食えるものなら食ってみたかった。
味噌汁。
白米。
醤油の香り。
焼き魚に醤油。
味噌を塗った焼きおにぎり。
思い出すと、妙に腹が減る。
だが残念ながら、米は無かった。
大豆も無かった。
探せばどこかに存在しているかもしれないので、今も探させてはいる。世界は広い。マバール領に無くても、王国の別地方や帝国、あるいはさらに遠い国に似たものがある可能性はある。
とはいえ、今のところ見つかっていない。
だが、大豆に似たような豆は普通にあった。
丸く、色は少し違い、味も違うが、豆であることには変わりない。
俺はとりあえずそれを使って味噌を作ってみることにした。
もちろん、俺は味噌の作り方なんて知らない。
知識として、豆と麹と塩が必要だったような気はする。発酵させるのだろう、ということも何となく分かる。だが、麹が何なのか、どう作るのか、どれくらいの温度でどれくらい置くのか、具体的なことは全く分からない。
それでも、前世知識持ちとして一度は試してみたかった。
茹でた豆を刻んで、塩を入れて、重しをして置いといた。
なんとなく味噌ってそんな感じだろ、と思ったのだ。
別に味噌そのものでなくても、それっぽい何かが出来ればいいと思った。
結果は、なんとも言えない悪臭を放つ、どろどろの不気味な液体が出来ただけだった。
今思い出しても、あれは酷かった。
見た目は茶色とも灰色ともつかず、表面に妙な膜が張り、沈んだ豆の欠片がどろりと崩れていた。近づくと、鼻の奥に刺さるような酸っぱさと腐敗臭が混ざった匂いがした。
とても食い物ではない。
俺の前世知識は万能ではないと、あの時はかなり強く思い知らされた。
こんなに臭くなるなら、捨ててもらって全然良かったのだ。
むしろ、すぐ捨てるべきだった。
だが、下級使用人にすぎない彼らは、捨てるに捨てられず、言うに言えず、俺が気付くまでじっと耐えてくれていたのだ。
若様が作ったもの。
若様が置いていったもの。
それを勝手に捨てるわけにはいかない。
たぶん、そういうことだったのだろう。
あれを思うと、本当に申し訳ない。
それ以降、俺は彼らに借りがある。
今も、調理人の一人が恐る恐る近づいてきた。
年配ではないが、若すぎもしない男だ。俺が初めてパンケーキを焼いた時から、この調理場で何度か顔を見ている。
「若様」
「何だ」
「また、あのどろどろを作るんですか?」
声に、切実なものがあった。
周囲の調理人たちも、動きながら耳だけはこちらを向けている。
ギルは少しだけ眉を寄せた。
「安心しろ。あれはもう諦めた」
調理場に、目に見えない安堵が広がった。
空気が柔らかくなる。
包丁を握っていた若い調理人が、露骨に肩の力を抜いた。別の男は、ほとんど息を吐き出すようにして胸を撫で下ろした。女の下働きは、顔を伏せながらも明らかにほっとしている。
「その反応はちょっと傷つくぞ」
「も、申し訳ございません」
「いや、いい。あれは俺が悪かった」
本当に悪かった。
貴族の俺がそう言うと、彼らは逆に困る。
だが、あれに関しては謝るしかない。
別に貴族である俺の強靭な肉体は、多少の毒くらいなら何でもない。治癒魔法もあるし、普通の平民よりはよほど丈夫だ。
だが、別に不味い物を食いたいわけじゃない。
毒に耐えられるからといって、腐ったものを食う理由にはならない。
「今日は少し暇なんでな。昼に食う物を自分で作ってみようと思っただけだ」
調理人たちはまた少し安心したようだった。
ただ、完全に警戒を解いてはいない。
まあ、味噌もどきの前科があるから仕方ない。
ギルは調理台へ近づき、並んでいる食材を眺めた。
今日は何を作るか。
甘いものではない。
腹にたまるものがいい。
できれば前世っぽくて、この世界の食材でも作れて、調理人たちにも再現しやすいもの。
難しすぎると意味がない。
俺が一度作っただけで終わるものより、広がる可能性があるものの方が面白い。
その時、ふと頭に浮かんだ。
休日の昼。
手軽。
肉。
パン。
野菜。
そうだな。
ハンバーガーだ。
「赤身で、ある程度脂の乗った肉はあるか?」
ギルが尋ねると、調理人の表情が仕事の顔へ変わった。
先ほどまでの警戒が少し消え、食材を選ぶ専門家の目になる。
「牛でよろしいですか?」
「牛でもいい。臭みが少ないやつだ」
「でしたら、こちらを」
すぐに肉が出された。
塊だ。
赤身がしっかりしていて、脂も細く入っている。見ただけで悪くないと分かる。前世の牛肉と同じではないが、城で出される肉だけあって質は高い。
「ふむ。これなら使えるな」
ギルは包丁を取った。
調理人たちの視線が一斉に集まる。
貴族が包丁を握る。
彼らにとってはやはり少し落ち着かない光景なのだろう。
だが、もう何度か見ているため、驚きはそこまで強くない。
ギルは肉を切り始めた。
できるだけ細かく。
繊維を断つように。
前世ならひき肉を買えば済む。だが、この世界の調理場には挽肉機などない。刻んだ肉を使う料理はあるので、包丁で細かくすること自体は珍しくないが、ハンバーガーのパティにするならかなり細かくしたい。
肉の塊に刃を入れる。
赤い断面が広がる。
脂が少し包丁に絡む。
調理場の熱で、肉の匂いがほんの少し強くなった。
「手の空いている者は手伝ってくれ」
ギルが言うと、調理人たちがすぐ動いた。
数人が肉を受け取り、同じように刻み始める。
さすがに手際がいい。
包丁の音が増える。
たたたた、と細かな音が調理場に響く。俺の手つきとは比べ物にならない。調理人たちは肉をまとめ、向きを変え、刃の角度を変え、無駄なく細かくしていく。
刻んだ肉を使う料理自体は、この世界にもある。
だから、彼らにとって肉を刻む作業は珍しくない。
俺よりずっと上手い。
ギルは少しやってから、素直に任せることにした。
専門家には専門家の仕事がある。
「終わったら言ってくれ。俺はソースを作る」
「ソース、でございますか」
「ああ」
ハンバーガーにはソースがいる。
肉とパンだけでも食えるが、味としては足りない。
ケチャップはない。
いや、トマトっぽいものはあるが、前世のケチャップを再現するには少し手間がかかる。煮詰める必要もあるし、甘味と酸味の調整もいる。今日はそこまでやる気はない。
なら、マヨネーズだ。
マヨネーズなら、卵と油と酢で作れる。
はずだ。たぶんだけど。
ギルは材料を用意させた。
「卵、油、酢、塩。あと胡椒も」
調理人がすぐに持ってくる。
卵は新鮮なもの。
油は癖の少ないもの。
酢は少し香りの強い果実酢だった。
前世のマヨネーズと同じにはならないだろうが、悪くないはずだ。
ギルは深めの器に卵を割った。
黄身がとろりと落ちる。
白身も一緒に入れるか少し迷った。
前世の知識では、黄身だけだった気もする。いや、全卵マヨネーズもあったような気がする。どちらでもいいのか。分からない。
まあ、試せばいい。
まず黄身だけでやる。
黄身を崩し、塩を少し入れる。
酢を加える。
かき混ぜる。
そこへ油を少しずつ落とす。
確か、油はちょっとずつ入れるんだよな。
一気に入れると分離する、そんな記憶がある。
前世で料理番組か何かで見たのかもしれない。
ギルは慎重に油を垂らしながら混ぜた。
最初はただの黄色い液体だったものが、少しずつ重くなっていく。手応えが変わる。とろみが出る。油を足し、混ぜる。さらに油を足し、また混ぜる。
調理人たちが興味深そうに見ている。
先ほどまでの不安とは違う目だ。
卵と油と酢が、見慣れない白っぽいソースへ変わっていくのが面白いのだろう。
「若様、それは火にかけないので?」
「かけない」
「卵をそのまま使うのですか?」
「新鮮ならたぶん大丈夫だ」
たぶん、である。
だが、この城の食材管理なら問題は少ないだろう。
ギルは少し味見した。
舌に油の重さが乗る。
酸味はある。
だが、少し油っぽい。
「ちょっと油っぽいか?」
酢を足す。
混ぜる。
もう一度味見。
少し良くなる。
「胡椒も入れてみるか」
胡椒を少し挽かせる。
香りが立つ。
混ぜる。
また味見。
悪くない。
前世の市販マヨネーズとは違う。もっと素朴で、酸味が強く、油の香りも残っている。だが、これはこれで肉とパンには合いそうだ。
確かマヨネーズってこれで作れるはずなんだけどな。
ギルは心の中で呟いた。
少なくとも、マヨネーズっぽい何かにはなった。
失敗味噌のような地獄ではない。
「若様、刻み終わりました」
「おお、ありがとな」
調理台を見ると、刻まれた肉が山になっていた。
思ったよりだいぶ多い。
手伝ってくれと言ったら、調理人たちがかなり本気で刻んでくれたらしい。
まあ、多少多くなっても構わんだろう。
余れば彼らに食わせればいい。
ギルは刻んだ肉に塩と胡椒を入れた。
本当はつなぎに卵やパン粉を入れるのかもしれない。
だが、ハンバーガーのパティなら肉だけでもいいはずだ。前世で食べた肉肉しいハンバーガーは、たぶんそんな感じだった。いや、詳しくは知らないが。
とにかく、今回は肉を食う料理だ。
余計なものは少なめでいい。
ギルは肉を手に取り、平べったく丸めた。
丸めるというより、押し固める。
薄い円形にする。
真ん中を少しへこませるべきだったような気もする。焼くと膨らむから、そんな技があったはずだ。
記憶を頼りに、中央を軽く押す。
「これを焼いてくれ。まず一つ」
火加減は重要だ。
案外、いやかなり大事だ。
肉料理は火を通しすぎれば固くなるし、足りなければ危ない。俺が適当に焼くより、プロに任せた方がいい。
調理人が鉄板を熱し、油を薄く引いた。
肉を置く。
じゅ、と音が立つ。
脂が溶け、香ばしい匂いが一気に広がった。
調理場にいる者たちの視線が自然と集まる。
刻んだ肉を平たくして焼くだけ。
それ自体は難しくない。
だが、形が違う。
用途が違う。
肉の焼ける匂いが、さっき作ったマヨネーズの酸味と混ざり、妙に腹を刺激してくる。
片面を焼き、ひっくり返す。
焼き目がついている。
良い。
かなり良い。
焼き上がったものを、ギルは少し切って味見した。
熱い。
肉汁が出る。
塩胡椒だけだが、十分うまい。
「うん、美味い」
調理人がほっとしたように息を吐いた。
「よし、この感じで焼いてくれ。平たくしろよ。厚くしすぎるな」
「承知しました」
「玉ねぎはあるか?」
「ございます」
「横に切って焼いてくれ。輪っかになる感じだ」
玉ねぎに似た野菜が出される。
前世の玉ねぎとほぼ同じだ。少し香りは違うが、焼けば甘くなる。
それを横に切らせる。
鉄板の空いた場所で焼く。
透明感が出て、端が少し焦げる。
いい匂いだ。
「あと、サラダに使う野菜はあるか? 出来れば青いやつ」
「こちらを」
葉物野菜が出される。
少し厚みがあり、前世のレタスほど柔らかくはないが、食感は良さそうだ。
「それでいい。洗って水を切ってくれ」
「トマトはあるな?」
「はい」
トマトもある。
前世と比べると少し小ぶりで、味は濃い。これもありがたい。
「輪切りにしてくれ」
調理場が動き出す。
肉を焼く者。
玉ねぎを焼く者。
野菜を洗う者。
トマトを切る者。
パンを用意する者。
さっきまで若様が何を始めるのかと恐る恐る見ていた調理人たちが、今は完全に料理の流れへ乗っている。彼らの手際はやはり見事だった。俺が一つ言えば、必要な作業へ自然に人が散る。
「パンを半分に切って焼け」
ギルは丸いパンを選ばせた。
この世界のパンは前世のバンズとは違う。少し固めで、香りも違う。だが、半分に切って断面を焼けばかなり良くなるはずだ。
切ったパンの断面を鉄板で焼く。
軽く焦げ目がつき、香ばしさが増す。
そのパンの下側を皿に置く。
ここからが大事だ。
ただ挟むだけではない。
順番がある。
ギルはマヨネーズを手に取った。
「まず、下のパンにこれを塗る」
「先ほどのソースでございますか」
「そうだ。肉汁でパンがべちゃっとなるのを防ぐ。たぶん」
たぶん、と言ったが、前世の記憶ではそうだった気がする。
パンにマヨネーズを塗る。
薄く、しかし全体に。
次に葉物野菜を乗せる。
「これがクッションだ。熱い肉を直接パンに置くより、たぶん食感がいい」
その上に肉。
焼き立てのパティを乗せる。
脂と肉汁がじわりと野菜へ染みる。
肉の上に焼き玉ねぎ。
甘い匂いが上がる。
その上にトマト。
赤い色が入ると、一気に見た目が良くなった。
さらにマヨネーズを少し。
上のパンを乗せる。
少し押さえる。
できた。
ハンバーガーだ。
完全に前世のものと同じではない。
パンも違う。
肉も違う。
野菜も少し違う。
マヨネーズも市販品ではない。
だが、これはもうハンバーガーだ。
ギルはそれを持ち上げた。
調理人たちが見ている。
手掴みで食べることに、少し驚きがあるようだ。貴族の若様が、パンで挟んだ肉料理をそのまま手で持つ。調理場でなければ、かなり行儀が悪いと思われるだろう。
だが、これはこう食うものだ。
ギルは一口齧った。
焼いたパンの香ばしさ。
マヨネーズの酸味と油。
葉物の歯応え。
肉汁。
焼き玉ねぎの甘み。
トマトの酸味と水分。
全部が口の中で混ざる。
「うん」
思わず頷く。
「美味いな」
調理場に、また安堵が広がった。
だが今度の安堵には、興味と驚きが混ざっている。
ギルはもう一口齧った。
美味い。
かなり美味い。
久しぶりに前世の休日っぽい味がする。
「よし、どんどん肉を焼け。平たくしろよ」
調理人たちが動き出す。
肉をまとめ、成形し、焼く。
パンを切り、焼く。
野菜を準備する。
トマトを並べる。
マヨネーズを追加で作る。
俺が最初に作ったものを見て、調理人たちはすぐに再現し始めた。やはり本職は違う。一度見れば、工程を理解し、より効率よく動ける。肉の焼き加減も、パンの焼き方も、すぐに安定していく。
休日の昼っていったらハンバーガーだろ。
前世の記憶が、妙に鮮やかに蘇った。
休みの日、外で食べたハンバーガー。
安いチェーン店の味。
少し高い店の肉っぽい味。
包み紙を開ける時の匂い。
ポテトも欲しいところだが、今日はそこまではやらない。
いや、芋があるなら揚げればいいのか。
だが、今日はハンバーガーだけでいい。
変に広げるとまた大事になる。
そう思っていた時点で、もう十分に広がる準備は整っていたのだが、ギルはまだ気づいていなかった。
出来上がったハンバーガーをいくつか皿に並べる。
そのまま手で持てる料理なのに皿に乗せるのは妙な感じもするが、城内で運ぶなら必要だ。汁が落ちるかもしれないし、見た目も整えたい。
調理人の一人が、おずおずと尋ねた。
「若様、余った物は?」
「お前たちで食え」
調理人たちが一瞬固まった。
「よろしいのですか?」
「ああ。多すぎるしな。味を知っておいた方が、次に作る時もやりやすいだろう」
「ありがとうございます」
その声には、先ほどまでと違う明るさがあった。
貴族の料理を下級使用人が食べる。
それ自体は珍しいことではない。余り物や試作品が回ることはある。だが、今この場で若様が作った新しい料理を、自分たちで食べていいと言われるのは、彼らにとってかなり特別なのだろう。
俺としては、味噌もどきの借りを少し返す気持ちもあった。
あの時は本当に悪かった。
ハンバーガーくらい食ってくれ。
ギルは皿を持って調理場を出た。
廊下へ出ると、焼いた肉とパンの匂いが後ろからついてくるようだった。
部屋に戻るまでの間、何人かの使用人がちらりと皿を見る。
見慣れない料理。
焼かれたパンに、肉と野菜が挟まれている。
匂いは良い。
だが形は変わっている。
その視線に気づきながら、ギルは少しだけ胸を張った。
これはうまいぞ。
部屋へ戻ると、レティシアが待っていた。
彼女は皿を見て、一瞬だけ目を瞬かせる。
「若様、それは」
「昼飯だ」
「若様がお作りに?」
「ああ」
レティシアの視線が皿へ落ちる。
手掴みで食べる料理だと察したのか、ほんの少しだけ戸惑いが見えた。
だが、すぐに整った笑みへ戻る。
「ご用意いたします」
「いや、このままでいい。これは手で持って食う」
「手で、でございますか」
「ああ」
ギルは椅子に座り、レティシアにも食べるよう促した。
彼女は少し迷ったが、俺が先に持ち上げて齧ると、静かに覚悟を決めたように手を伸ばした。
その動きが、妙に上品だった。
ハンバーガーを手で持つだけなのに、レティシアがやると何か儀式のように見える。指先で形を崩さないように支え、少しだけ顔を近づけ、小さく口を開く。
一口。
彼女はゆっくり噛んだ。
目が少しだけ開く。
もう一度噛み、飲み込む。
「どうだ?」
ギルが尋ねると、レティシアは少しだけ頬を緩めた。
「美味しいです」
「そうか」
「手掴みなのは少し気になりますが、美味しいです」
その評価に、ギルは満足した。
レティシアが美味いと言うなら、かなり成功だ。
「こういうのは手で持って食うからいいんだよ」
「そういうものなのですか」
「たぶん」
「たぶん、でございますか」
前世ではそうだったよ。
もちろん、それは口には出さない。
ギルは代わりにもう一口齧った。
肉の脂とマヨネーズが合う。
トマトの酸味も良い。
パンがもう少し柔らかければさらに近いが、これはこれで悪くない。
レティシアは二口目から少し慣れたようだった。
最初より自然に持ち、こぼさないように上手く食べている。こういうところも器用だ。俺なら初めて食べた時、たぶんソースをこぼす。
いや、今も少しこぼしそうだ。
レティシアが布を差し出してくれる。
「ありがとう」
「はい」
穏やかな昼だった。
明日には直属騎士たちが揃う。
セバスチャンが何かするだろう。
父上や兄上たちとの関係、貴族社会の面倒、帝国の情勢、考えることはいくらでもある。
だが、この瞬間だけはハンバーガーを食べていればいい。
レティシアと二人で、手掴みの昼飯を食べる。
それだけで、かなり良い休日だった。
ただし。
料理というものは、匂いと味があれば広まる。
特に城の中では、下の者たちの間で広まる速度が早い。
その日のうちに、調理場で焼かれた肉の匂いは城のあちこちへ広がった。
最初に食いついたのは、下級使用人たちだった。
皿もいらず、手で持ってそのまま食べられる。
刻んで焼いた肉と、焼いたパンと野菜。
マヨネーズは少し手間だが、工程そのものは難しくない。肉を刻み、平たくして焼き、パンで挟む。下級使用人たちにとっては、仕事の合間に食べやすいことが大きかったのだろう。
最初は恐る恐るだったはずだ。
若様が作った料理。
変わった形。
手掴み。
だが、一度口にした者たちは、次の日には自分で作り始めていたらしい。
気づけば、見慣れない形のパン料理を手にした下級使用人たちの姿が、城内の裏方で当たり前のように見られるようになっていった。
それを見た上級使用人たちが眉をひそめる。
手掴み。
その一点がどうにも引っかかるのだろう。
当然だ。
城の中には格式がある。
上級使用人は貴族に近い場所で働く。食べ方、立ち方、話し方、全てに一定の品が求められる。下級使用人が仕事の合間に手で持って食べるのとは違う。
だが、どこで聞きつけたのか、その料理を作ったのが誰かが伝わると、空気が少し変わった。
若様が作った料理。
その一言で、指摘の声は次第に小さくなる。
完全に受け入れたわけではない。
だが、否定する理由もまた、どこか曖昧になる。
若様の料理を下品だと言うのか。
若様が調理場で作ったものを、使用人が勝手に否定するのか。
そういう空気が生まれれば、誰も強くは言えない。
やがて、皿に乗せられ、形だけ整えられたハンバーガーが、上級使用人の間にも入り始めた。
そこで最もはっきりした態度を見せたのは、メイド長だった。
メイド長は、静かに皿の上のそれを見下ろした。
焼かれたパン。
肉。
野菜。
トマト。
そしてソース。
見た目は悪くない。
香りも良い。
だが、手で持つ料理だ。
周囲の上級使用人たちが見守る中、メイド長は迷いなくナイフを取った。
パンを押さえ、刃を入れる。
軽く切り分ける。
肉汁がわずかに滲む。
フォークで一切れを刺し、口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
飲み込む。
「悪くはありません」
淡々とした評価。
だが、そのまま手で持つことはしない。
あくまでナイフとフォークで食べ続ける。
周囲の上級使用人たちも、それを見て同じように振る舞う。
手掴みという選択肢は、そこでは最初から存在しないかのように。
同じ料理なのに、食べる者の立場で姿が変わる。
下級使用人は手で持つ。
上級使用人は切り分ける。
俺としてはどちらでもいいのだが、城の中ではそういう形になるらしい。
そして、しばらくして。
朝食の席に座った俺は、目の前の皿を見て固まった。
焼かれたパンに、肉と野菜が挟まれている。
見覚えしかない。
俺は無言で皿を見下ろした。
なぜここにある。
いや、経路は分かる。
分かるんだが。
早すぎるだろう。
視線を上げると、父上がそれを手に取った。
ナイフもフォークも使わない。
そのまま齧る。
ゆっくり噛み締め、飲み込む。
もう一口。
その動作に迷いはなかった。
完全に順応してるじゃねぇか。
メイド長は少し離れた場所で、静かに控えている。
たぶん、彼女ならナイフとフォークで食べるだろう。
父上は手掴みだ。
同じ料理なのに、まるで別物のようだった。
「ふむ」
父上が短く声を漏らした。
手に持ったハンバーガーを見下ろす。
「仕事中に手軽に食べれそうだな」
何でもないことのように言って、また齧る。
やめろ。
妙に納得した顔をするな。
確かにそうだけど。
そうだけど、そんな評価をされると困る。
俺は思わず口を開きかけた。
「……いや、あの」
一瞬だけ声が出る。
だが、その先が続かない。
ただの休日の暇つぶしだったんだよ。
そう言いかけて、飲み込む。
ここで余計なことを言うと、確実に話がややこしくなる。
俺は小さく息を吐いて、何事もなかったように目の前のハンバーガーを持ち上げた。
一口齧る。
美味い。
だから余計に質が悪い。
完成度が上がっている。
調理場の誰かが改良したのだろう。パンは少し柔らかくなり、肉の焼き加減も安定し、マヨネーズも酸味が整っている。トマトの厚さもちょうどいい。
やめろ。
そんなに完成度高く再現するな。
俺は内心で頭を抱えながら、何食わぬ顔で食べ進めた。
こういうのは、気づいても気づかないふりをするのが一番だ。
たぶんこれ、そのうち普通に定着する。
いや、本当にやめてほしい。
ただの休日の暇つぶしだったんだよ。




