第十八話 初めての騎士団
翌朝の中庭には、鉄の匂いがあった。
夜明けから少し経ったばかりの空はまだ薄く、城壁の上に残った朝の冷気が、石畳の上へ静かに沈んでいる。日差しはあるが、熱はない。中庭を囲む回廊の影は長く伸び、そこに立つ兵や使用人たちの姿を半分だけ暗くしていた。
その中央に、俺の直属騎士たちが集まっている。
十名。
正確には、レティシアはこの場にいない。
彼女は騎士家の娘であり、俺の直属十名の一人ではあるが、役割は内務補佐だ。城内で普通に仕事をしている。そもそも鎧姿で中庭に立たせる必要はない。あのクソじじいの訓練に巻き込まれないだけでも、かなり良かったと思う。
だから今ここにいるのは、俺とセバスチャンを含め、鎧を着た騎士たち十名だ。
全員が鎧姿だった。
それを見て、俺は内心で少しだけ満足する。
武官寄りだろうが、文官寄りだろうが、騎士は騎士だ。自分がどんな役割を与えられるかも分からない内に、平服で来るようなやつがいたら、その場で馘にしているところだった。
俺は気楽な三男坊でいたい。
それは本当だ。
だが、気楽な三男坊と、舐められる三男坊は違う。
直属騎士を持つ以上、最初の顔合わせで緩みを見せるわけにはいかない。こちらが適当に扱えば、向こうも適当に受け取る。最初に線を引くべきところで引かなければ、後から締め直すのは面倒だ。
だから俺も鎧姿だ。
セバスチャンから渡された訓練用の実用品とは違う、きちんと俺のために整えられた鎧。派手な装飾があるわけではないが、金属の合わせは良く、体に馴染む。実用一点張りに見えて、素材や仕立ての良さは隠しきれていない。
今も、鎧の重みを感じるたび、なんとなく背筋が伸びる。
隣にはセバスチャンが立っている。
もちろん鎧姿だ。
ただし、俺の鎧とは違い、傷と補修の跡が多い。磨かれてはいる。手入れもされている。だが、見栄えのために整えられたものではない。戦場で使われ、何度も傷つき、それでもなお使われ続けてきた鎧だ。
その中に収まるセバスチャンは、相変わらず凶悪な顔をしていた。
顔面傷だらけ。
片耳なし。
六十歳ぐらいのごつい老騎士。
ギルの隣に立つ筆頭騎士としては、かなり異様な絵面だと思う。
そのセバスチャンが、集まった騎士たちを軽く睨みつけている。
いや、普通に見ているだけかもしれんな。
このじじいだと、睨むも見るもほとんど変わらんのだろうけど。
騎士たちは、皆それぞれの表情で立っていた。
緊張している者。
こちらを探る者。
セバスチャンを見てわずかに顔を強張らせる者。
俺を見て、まだ距離を測っている者。
当然だ。
彼らにとっても、これは初顔合わせだ。
俺はマバール家の三男で、初陣でそれなりに派手にやったらしい若様。だが、実際にどんな主なのかはまだ分からない。噂はいくらでもあるだろう。生産拠点を作った、変わった食べ物を作った、女に溺れている、帝国の村を焼いた、セバスチャンを筆頭騎士にした。
うん、噂だけなら、かなり危ない若様に見えるな。
いや、実際危ないのかもしれない。
それでも、今日から彼らは俺の直属になる。
なら、最初に声を出すのは俺だ。
ギルは一歩前に出た。
鎧の金具が小さく鳴る。
中庭の空気が、わずかに引き締まった。
「初顔合わせだ。全員、名と家名を名乗れ」
俺は騎士たちを見渡した。
「まずはオルドからだ」
一番前に立っていた男が、わずかに顎を引いた。
グラント家のオルド。
三十前後。
体格は良い。
鎧の上からでも肩幅が分かる。顔つきは精悍で、目は強い。だが、単純な粗暴さだけではない。こちらを見ている視線には、主を試すような鋭さがある一方で、身分の線を越えない抑制もあった。
ダル兄さんの直属だった男だ。
今回、書状を出して譲ってもらった。
俺とダル兄さんの関係を示すための人選でもあるし、実戦経験のある武官を入れる意味もある。
オルドは胸に拳を当て、名乗った。
「グラント家のオルド。若様にお仕えいたします」
声は太い。
悪くない。
少なくとも、鎧を着て立つ姿は様になっている。
「次」
俺が促すと、別の男が一歩出る。
「バレック家のジノ」
ジノはオルドより若い。
二十代半ば。
槍を得意とすると聞いている。背は高すぎず低すぎず、体は引き締まっている。顔立ちは目立たないが、目の動きが落ち着いていた。こちらだけでなく、周囲も見ている。俺とセバスチャン、他の騎士たち、中庭の配置、回廊の影。
慎重な性格というレティシアの評価は、たぶん当たっている。
「若様の御前に」
短く、堅い声。
気負いは少ない。
俺は頷いた。
次に文官寄りの者たちが名乗る。
「ラディス家のクレイン」
クレインは細身だった。
鎧姿が似合わないわけではないが、戦場で前に出る武官というより、書類や物資を相手にする男に見える。目元に神経質そうな鋭さがあり、こちらを見る時間よりも、整列した騎士たちの間隔や装備の違いを見ている時間の方が長い。
数字に強い。
倉や物資管理に適性がある。
俺が貨幣や戦利品の価値に疎いことを考えると、かなり必要な人材だ。
「エルマン家のトール」
トールは柔らかい顔をしていた。
鎧姿なのに、どこか商人のような空気がある。笑ってはいないが、口元に余裕がある。こちらを見て、セバスチャンを見て、わずかに目を細めた。利に敏いという話は、たぶん本当だろう。
こういう男は使える。
だが、使い方を間違えると噛む。
セバスチャンが言っていたことを思い出し、ギルは内心で注意する。
その後も、騎士たちが順に名乗った。
全員の名と家名を、ギルは頭の中へ入れていく。
今は全員を一度に把握しきる必要はない。役割、家、顔、声。まずはそれだけで十分だ。人となりはこれから見ればいい。
ただし、誰一人として気を抜いている者はいなかった。
少なくとも、今日この場では。
それだけで、最初の関門は通過だ。
全員が名乗り終えたところで、ギルは隣へ視線を向けた。
「最後に、筆頭騎士だ」
セバスチャンが一歩前に出る。
鎧が軋む。
中庭に立つ騎士たちの空気が、少し変わった。
彼らの中には、セバスチャンの名を知る者もいるだろう。
騎士の誇り。
騎士の屑。
必勝の騎士。
乱暴者。
下級騎士。
実戦経験豊富な老兵。
いろいろな噂があるはずだ。
その本人が、俺の筆頭騎士としてここに立つ。
セバスチャンは、顔面傷だらけの凶悪な面で騎士たちを見渡した。
「メルド家のセバスチャンだ」
声は低かった。
大声ではない。
だが、よく通る。
「よろしくな」
そう言って、にやりと笑った。
中庭の空気が、さらに硬くなる。
いや、俺でも少し怖いんだから、初対面の者たちはもっと怖いだろう。
あの笑みは友好的なものではない。
少なくとも、知らない人間にはそう見えない。
獲物を見つけた野獣か、これから地獄へ案内する鬼のようだ。
セバスチャンは、そんな空気を気にした様子もなく続けた。
「じゃあ軽く訓練と洒落込むか」
やっぱ、こうなるよなぁ。
ギルは内心で深いため息を吐いた。
予想していた。
完全に予想していた。
セバスチャンが筆頭騎士になり、直属騎士たちが初めて揃う。そこで顔合わせだけで終わるわけがない。絶対に何かする。間違いなく訓練を始める。あのクソじじいはそういう男だ。
俺は内心で騎士たちに詫びる。
すまん。
俺の筆頭騎士がこれなんだ。
だが、外には出さない。
ここで俺が動揺した顔など見せられない。
主である俺が「え、今からやるの」と驚けば、騎士たちも揺れる。セバスチャンとの連携も疑われる。俺が選んだ筆頭騎士がやると言うなら、俺はそれを承認する立場にいなければならない。
だから、ギルは平然と頷いた。
「やれ」
騎士たちの視線が一瞬だけ俺へ集まる。
そこにあるのは、驚きと警戒。
セバスチャンが何をするつもりなのか、彼らはまだ知らない。
知れば、もっと嫌な顔をするだろう。
セバスチャンは満足そうに顎を引いた。
「訓練は簡単です」
その言葉の時点で、俺は嘘だと思った。
セバスチャンの簡単は、たぶん簡単ではない。
「魔力を使わず、鎧姿で走ります」
案の定、中庭にざわめきが走った。
小さいが、確かにあった。
魔力を使わず走る。
それは騎士にとって、かなり奇妙な訓練なのだろう。
この世界の騎士は魔力を使う。武官寄りならなおさらだ。肉体強化魔法を使って動き、戦い、走り、跳び、斬る。魔力を持つから騎士なのだ。魔法を禁じられて鎧姿で走れと言われれば、反発や疑問が出るのは当然だった。
だが。
「俺も参加する」
ギルが言うと、ざわめきは一瞬で消えた。
全員がこちらを見る。
ギルは騎士たちを見渡した。
「俺も走る。だからお前たちも走れ」
それ以上の説明はしない。
必要ない。
主が走ると言った。
それで、少なくとも表面上の文句は消える。
セバスチャンが小さく笑った気配があった。
このクソじじい、俺が言うのを待っていたな。
まあいい。
俺も、あの訓練が無意味ではないことは知っている。
魔力を使わず走る。
鎧を着て走る。
それは死ぬほどきついが、戦場で役に立つ。
魔力を使えば感知魔法に引っかかる。いつでも魔力を使えるとは限らない。魔力が使えない状況でも、騎士は動けなければならない。そう叩き込まれたのは、俺自身だ。
だから、やる。
俺がやって見せなければ、彼らも納得しない。
中庭の門が開かれ、走る経路が示された。
城の周囲を回る。
俺がかつてセバスチャンに走らされた道だ。
初日は死ぬかと思った。
肉体強化魔法なし。
鎧あり。
夜まで。
あの日の苦しさは、今でもよく覚えている。
だが、今の俺はあの頃とは違う。
ひと月ほど走らされ、帝国領でも走り、戻ってからも基礎体力はかなりついた。魔力を使わない動きにも慣れている。鎧の重みも、以前ほど苦ではない。
先頭に、俺とセバスチャンが並ぶ。
その後ろに直属騎士たちが続く。
「始めるぞ」
ギルは短く言った。
走り出す。
最初はゆっくりだ。
石畳を鎧の足音が叩く。
がしゃり、がしゃりと金属の音が重なり、中庭から城の外周へ響いていく。朝の空気を切り、城壁沿いの道へ出る。日差しが鎧に当たり、金属の冷たさが少しずつ薄れていく。
走りながら、ギルは横のセバスチャンに声をかけた。
「おい、初日なんだ。ちょっとは加減してやれ」
「加減した訓練なんざ役に立ちませんぜ」
即答だった。
まあ、こいつならそう言うよな。
予想通りすぎる答えに、ギルは少しだけ肩を揺らした。
「夕方までだぞ」
「分かりやした」
「夜まではやらせるな」
「若様がそうおっしゃるなら」
「俺がそう言ってる」
「へいへい」
まったく信用できない返事だ。
だが、夕方までと言った以上、本当に夕方で止めるだろう。セバスチャンは乱暴だが、主の命令を無視する男ではない。無視しない範囲で限界までやる男ではあるが。
後ろの足音は、まだ乱れていない。
最初だから当然だ。
全員が騎士であり、鎧を着て来る程度の心構えはある。走り始めてすぐに崩れるほど弱くはない。
ただ、魔力を使っていないため、動きにはぎこちなさがある者もいる。
武官寄りの騎士ほど、普段の体の使い方と違うのかもしれない。
「なぁ、セバス」
「何です」
「鎧って統一した方が良くね?」
走りながら、ギルはふと思いついたことを口にした。
後ろを見なくても、鎧の音や光り方がばらばらなのは分かる。家ごとに鎧の作りや手入れの癖が違う。色も、形も、細部も違う。俺の直属騎士団としては、もう少し統一感があってもいい気がする。
前世だと赤揃えとかあったし。
どうせなら俺もしてみたい。
見た目の統一は大事だ。
戦場で目立つし、士気も上がるし、かっこいい。
「若様」
セバスチャンの声には、少し呆れが混じっていた。
「鎧がいくらするかご存知ですかい?」
「知らん」
即答した。
セバスチャンがため息を吐く。
走りながらため息を吐くな。
余裕を見せつけられているようで腹が立つ。
「そうですな。まあ、並程度の鎧で平民の家族なら二、三年は食えますな」
「そんなに高いのか」
「若様のその鎧なら十年は食えますな」
ギルは思わず自分の鎧を見下ろしそうになった。
走っているので、完全には見られない。
だが、鎧の重みが急に別の意味を持つ。
「これ、そんなに高いのか?」
「装飾が少ないだけで、素材も仕立ても良いですからな。若様が着る物ですし、命に関わる物です。安物を着せるわけがないでしょう」
「まあ、それはそうか」
「騎士全員の鎧を揃えるとなると、相当かかりますぜ」
「うーむ」
赤揃え計画、早くも難航。
考えてみれば当然だ。
鎧は高い。
前世の感覚でも、フルプレートとかはめちゃくちゃ高かったはずだ。貴族や騎士が自前で用意する装備なのだから、簡単に統一などできるわけがない。
「色を塗るだけならどうだ?」
「手入れが面倒になりますな。塗料もただじゃありません。何より、目立つ鎧は狙われます」
「ああ、そうか」
前にも聞いた。
高価な鎧は戦場で狙われる。
目立つ装備はそれだけで標的になる。
俺は魔力が有り余ってるからまだしも、普通の騎士に派手な鎧を着せるのは危険かもしれない。
「じゃあ、やめとくか」
「賢明ですな」
「なんか腹立つ言い方だな」
「褒めてますよ」
「嘘つけ」
走りながら軽口を叩く。
後ろの騎士たちには聞こえているのだろうか。
聞こえていたら、どう思っているのだろう。
自分たちが必死で魔力なしの鎧走を始めたばかりなのに、先頭の若様と筆頭騎士が鎧の費用について雑談している。まあ、嫌な気分にはなるかもしれない。
ギルは少し後ろを確認した。
まだ列は崩れていない。
だが、騎士たちの表情には差が出始めている。
オルドは額に汗を浮かべながらも、歯を食いしばっている。力で押すタイプなのだろう。足運びは強いが、少し重い。
ジノは落ち着いている。呼吸も整えようとしているし、無駄に前へ出ようとはしていない。慎重な性格が走り方にも出ている。
クレインは意外と崩れていなかった。
細身だからすぐ苦しむかと思ったが、歩幅を小さく取り、呼吸を乱さないようにしている。トールも同じだ。派手さはないが、案外しぶとい。
ふむ。
文官寄りの方が頑張っている気がするな。
ギルがそう思っていると、セバスチャンが横から言った。
「案外、文官寄りの騎士の方が素の身体は強いんですよ」
「そうなのか?」
「武官は普段から肉体強化魔法を使って動きますからな」
「ああ」
「もちろん鍛えてはいますが、魔力込みでの動きに慣れすぎる者も多い。文官寄りは戦場で派手に動く機会が少ない分、普段の仕事で足腰や持久力が地味に鍛えられていることがあります」
「なるほどな」
ギルは感心した。
確かに、武官寄りの騎士は強い。
だが、その強さは魔力を使った上での強さなのだろう。肉体強化魔法を前提にした動きに慣れていると、魔力を禁じられた時に感覚が狂う。
文官寄りは、そもそも魔法を使って暴れる場面が少ない。
書類を運び、倉を見て、城内を歩き、時には長距離を移動する。派手な戦闘力はなくても、素の持久力は侮れない。
役割によって身体の作り方が違う。
面白い。
「お前、そういうのちゃんと見てるんだな」
「見なきゃ死にますんで」
「返しが重い」
「戦場は軽くありませんからな」
それはそうだ。
後ろに合わせて調整しているので、俺とセバスチャンにはまだ余裕がある。
この速度なら、俺は夕方まで走れるだろう。
セバスチャンも同じだ。
しっかしこのじじい、本当に六十ぐらいなのか。
いや、六十ぐらいといっても、この世界の魔力持ちは前世の老人と同じではない。魔力と鍛錬で肉体を保っている。とはいえ、魔力を使っていない今でもこれだけ動けるのは異常だと思う。
「鎧が駄目なら、武器はどうだ」
ギルはまた思いつきを口にした。
「武器なら統一できるだろ?」
「使い慣れん武器は危ないだけですぜ」
これも即答だった。
「それもそっか」
「若様は、急に変なことをおっしゃる」
「思いついただけだ」
「戦場で思いつきの装備変更は死にます」
「はいはい」
武器の統一も却下。
考えてみれば当然だ。
剣を使う者、槍を使う者、斧を使う者。得意な武器は人によって違う。見た目を揃えるために使い慣れない武器を持たせるのは愚かだ。
前世の軍隊のように規格化するには、訓練体系も補給も全て変えなければならない。
今の俺の直属騎士団でやることではない。
いや、将来的に平民兵の装備を揃えるとかなら考える余地はあるかもしれないが、それも金がかかる。
やはり金だ。
何をするにも金がいる。
貴族の財力は大事だなと、改めて思う。
走り続ける。
朝の涼しさが少しずつ薄れ、体温が上がる。
鎧の内側が蒸し始める。
汗が背中を伝う。
息はまだ苦しくはない。
だが、後ろの騎士たちの呼吸は少しずつ乱れてきた。
金属音もばらけている。
足音に重さが増していた。
セバスチャンは速度を少し調整している。
倒れないぎりぎりではない。
だが、楽ではない速度。
初日としては十分きつい。
ギルは横目でセバスチャンを見る。
「本当に夕方までやるのか」
「もちろん」
「初日だぞ」
「だから夕方までで勘弁してるんです」
「普通は午前だけとかじゃないのか」
「甘く優しい訓練が役に立つとでも?」
「それ前にも聞いたな」
「大事なことですからな」
腹立つ。
だが反論できない。
俺自身、その訓練でかなり鍛えられたのは事実だ。
セバスチャンの訓練はきつい。
だが、意味はある。
意味があるから余計に厄介なのだ。
昼近くになると、騎士たちの差はさらに広がった。
オルドはまだ前の方についているが、顔が赤い。意地で走っている。武官としての誇りがあるのだろう。セバスチャンに見られ、俺に見られ、他の騎士に見られているこの場で、簡単には崩れられない。
ジノはペースを守っている。
少し後ろに下がったが、呼吸はまだ整っている。自分の限界を測りながら走っているようだ。
クレインは意外な粘りを見せていた。
汗はかなりかいているが、目は死んでいない。身体の使い方が地味に上手い。荷や帳簿を運ぶだけでも、足腰は鍛えられるのかもしれない。
トールは苦しそうだが、周囲を見ている。
誰が遅れそうか、誰が意地を張っているか、誰が崩れそうか。走りながら観察しているのが分かる。これはこれで使える男だ。
他の騎士たちも、それぞれに特徴が見え始めていた。
走らせるだけで、かなり分かる。
セバスチャンがいきなり訓練を始めた理由が、少し分かる気がした。
名乗りだけでは分からない。
座って話しても分からない。
走らせれば、意地、体力、呼吸、判断、見栄、限界への向き合い方が見える。
このクソじじい、やっぱりただのクソじじいではない。
「若様」
「何だ」
「そういえば、忘れてやした」
セバスチャンが、走りながら何でもないことのように言った。
「戦場で女を押し倒すなら、平民だけにしてくださいや」
「ん? なんでだ?」
反射的に聞き返してから、ギルは少し顔をしかめた。
「いや、押し倒す気は無いけど念のため」
そこは大事だ。
俺は別に、戦場で女を押し倒したいわけではない。
いや、綺麗な女を見れば興味はあるかもしれないが、レティシアがいる。今のところ、レティシアの基準が高すぎて、普通の女ではなかなか反応しない気もする。
ただ、セバスチャンが何を言い出すのかは気になる。
「平民の女なら、まあ、敵に魔力持ちが増えることはまずありません」
「そうだな」
平民は魔力を持たない存在だ。
魔力持ちの子が生まれる可能性はかなり低い。数回抱くだけなら、ほぼ無視できる程度だ。
「ですが、女騎士を押し倒すなら話は別です」
「別なのか」
「別ですな。女騎士を押し倒してもかまわんって言えばかまわんのですが、その時は必ず掻っ攫うか殺してください」
「物騒だな」
「子が敵方で生まれれば、敵に褒美を与えてるようなもんですからな」
ギルは少し黙った。
走る足音が続く。
鎧の音。
息遣い。
遠くで兵が何か叫ぶ声。
その中で、セバスチャンの言葉だけが妙に重く残った。
女騎士。
魔力持ちの女。
そこに子が生まれれば、魔力持ちの可能性がある。
敵側で生まれれば、敵の戦力になる。
だから攫うか殺す。
徹底している。
いや、戦場の理屈としては分かる。
分かってしまうのが嫌だ。
くっコロ騎士は、本当にくっコロになってしまうのか。
前世の妙な言葉が頭に浮かび、ギルは少しだけ遠い目になった。
この世界の女騎士は、負けた時に誇り高く「殺せ」と言うのかもしれない。
そして、セバスチャンは本当に殺すだろう。
あるいは、役に立つと思えば掻っ攫う。
そこに情緒はない。
戦場の合理だけだ。
「若様」
「何だ」
「変なことを考えてますな」
「考えてない」
「そうですかい」
セバスチャンはにやりと笑った。
腹立つ。
なぜ分かる。
いや、表情に出ていたのかもしれない。
俺は走りながら息を整えた。
後ろの騎士たちは、今の会話を聞いていただろうか。
聞いていたら、どう思っただろう。
筆頭騎士が戦場での女の扱いを淡々と語り、若様がそれを聞いている。かなりひどい絵面だ。だが、これも戦場の話なのだろう。
綺麗ごとでは済まない。
済まないからこそ、最初から聞いておく必要がある。
そんなことを話しながら走っていると、城門の方で空気が動いた。
遠くから馬の蹄の音が響く。
速い。
ただの移動ではない。
早馬だ。
ギルとセバスチャンは、ほぼ同時にそちらへ意識を向けた。
城門へ向かって、一騎が駆け込んでくる。
馬は汗をかき、乗っている者もかなり急いでいる様子だった。門番が反応し、兵が道を開ける。中庭とは少し離れているが、異変の気配は十分伝わった。
「なんかありましたな、ありゃ」
セバスチャンが言う。
「そうだな」
ギルは走りながら城の方を見る。
「訓練する暇があればいいけどな」
「若様は心配性ですな」
「お前が雑すぎるんだよ」
早馬。
このタイミング。
帝国か。
王都か。
父上の疲れた顔を思い出す。
何かが動いている。
それは分かる。
だが、今ここで俺が走るのをやめて駆け込むわけにもいかない。俺にすぐ知らされるべきことなら、誰かが呼びに来るだろう。そうでないなら、今は訓練を続けるしかない。
セバスチャンも止めない。
俺も止めない。
後ろの騎士たちは、早馬に気づいてざわつきかけたが、俺とセバスチャンが走り続けているため、結局ついてくるしかなかった。
それからも走った。
昼を越え、日差しが強くなり、やがて傾き始めるまで。
途中で水を取らせた。
完全な休憩ではない。立ち止まり、飲み、また走る。座り込むことは許さない。セバスチャンはそういう男だ。
騎士たちは少しずつ壊れていった。
最初に足取りが乱れた者。
呼吸が荒くなった者。
兜を脱ぎたそうにしたが、周囲の目を気にして耐えた者。
意地だけで前に出ようとして、逆に失速した者。
それぞれの限界が見えた。
オルドは最後まで前の方にいた。
だが、かなり無理をしている。意地と根性はある。だが、力任せな部分も多い。セバスチャンの訓練を受ければ、その辺りは徹底的に削られるだろう。
ジノは最後まで崩れにくかった。
速度は目立たないが、安定していた。戦場ではこういう男が地味に生き残るのかもしれない。
クレインは途中からかなり苦しそうだったが、歩かなかった。
細い顔が青くなり、唇が乾き、目の焦点が少し怪しくなっても、足を止めなかった。あれはあれで、なかなか根性がある。
トールは遅れそうな者の位置を気にしていた。
自分もきついはずなのに、周囲を見ている。こういう男は、情報を拾わせるには向いている。反面、自分の損得も常に見ているだろうから、扱いには注意がいる。
夕方。
空の色が少し赤くなり始めた頃、セバスチャンがようやく足を緩めた。
「ここまで」
その一言で、騎士たちの多くが崩れた。
膝に手をつく者。
その場に座り込みそうになって、必死で堪える者。
兜を外し、荒く息を吐く者。
完全にグロッキーだ。
鎧の金属音が、ばらばらに鳴る。
汗の匂いが中庭に満ちている。
ギルは呼吸を整えながら立っていた。
疲れていないわけではない。
だが、まだ動ける。
セバスチャンも同じだ。
少し汗をかいているが、騎士たちのような崩れ方はしていない。
直属騎士たちが、俺とセバスチャンを見ていた。
化け物を見るような目だった。
セバスチャンだけなら、まだ分かる。
あの老騎士は見た目からして化け物だ。実戦経験豊富な筆頭騎士が異常な体力を持っていても、納得はできる。
だが、俺まで同じように立っているのが、彼らには予想外だったのだろう。
マバール家の三男。
内政や開発に興味がある若様。
専属メイドに溺れているらしい若様。
その若様が、魔力なしで鎧を着て夕方まで走り、まだ平然としている。
彼らの認識が、少し変わったのが分かった。
それでいい。
俺は息を整え、騎士たちを見渡した。
「今日はここまでだ」
声はなるべく平静にする。
「明日以降のことは、セバスチャンから伝える」
騎士たちが、わずかに絶望した顔をした。
明日以降もある。
それが分かったからだろう。
すまん。
だが、ある。
俺もかつてやられた。
お前たちも頑張ってくれ。
セバスチャンがにやりと笑う。
その笑みに、騎士たちの顔がさらに引きつった。
俺はそれを見なかったことにして、城内へ向かった。
セバスチャンも隣を歩く。
スタスタと。
何事もなかったように。
後ろでは、騎士たちがまだ息を整えている。
「なかなか悪くありませんな」
セバスチャンが言った。
「そうなのか」
「初日であれだけ走れば十分でしょう」
「お前がそう言うなら、本当に悪くないんだろうな」
「若様の騎士としては、まだまだですがね」
「そこは厳しいな」
「当然です」
城の中へ入る。
廊下の冷えた空気が、汗ばんだ体に少し心地よかった。
鎧を脱ぎたい。
風呂に入りたい。
レティシアに会いたい。
そう思ったところで、早馬のことを思い出す。
「セバス」
「はい」
「さっきの早馬、何だと思う」
「帝国でしょうな」
「やっぱりか」
「この時期、この速さで飛び込んでくるなら、まあ、そうでしょう」
セバスチャンは淡々としていた。
俺は少しだけ口を引き結ぶ。
帝国皇帝。
その名が浮かんだ。
だが、父上の疲れや国境の妙な空気、帝国騎士の動きの鈍さを考えれば、何か大きなことが起きていてもおかしくない。
夜。
その答えは正式に告げられた。
帝国皇帝の死去が発表された。
マバール城の空気が、音もなく変わった。
鐘が鳴ったわけではない。
誰かが叫んだわけでもない。
だが、廊下を歩く者の足取りが硬くなり、文官たちの持つ書類が増え、武官たちの目が鋭くなった。使用人たちも、直接意味を理解しているかどうかは別として、何か大きなことが起きたことを肌で感じているようだった。
帝国皇帝が死んだ。
それは、遠い国の老人が一人死んだというだけの話ではない。
帝国が揺れる。
後継争いが起きるかもしれない。
国境が荒れるかもしれない。
内乱が起きれば難民や敗残兵が流れてくる可能性もある。
逆に、外へ目を向けて戦を仕掛けてくる可能性もある。
善良王が望むいくさのない世の中など、ますます遠くなるだろう。
ギルは自室の窓から、夜の城を見ていた。
鎧は脱いだ。
体は疲れている。
だが、妙に頭は冴えていた。
明日から、俺の直属騎士たちはセバスチャンにしごかれる。
そして同じ頃、帝国では皇帝の死をきっかけに何かが動き出す。
俺は気楽な三男坊でいたい。
その気持ちは変わらない。
だが、世界の方が俺を放っておいてくれるかどうかは、かなり怪しくなってきた。
背後で扉が静かに開く。
レティシアの気配。
足音だけで分かる。
「若様」
「ああ」
振り返ると、レティシアがそこにいた。
いつも通り美しい。
その顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
「皇帝が死んだらしい」
「はい」
「面倒になりそうだな」
「はい」
レティシアは静かに答えた。
余計な慰めはない。
それがありがたい。
ギルは窓の外へもう一度目を向けた。
夜のマバール城は静かだった。
だが、その静けさの下で、何かが確かに動き始めていた。




