第百六十九話 ちょっとその辺を見るだけ
俺はセバスチャンと一緒に、オルフィアの部屋へ向かった。
昨日までと変わらない廊下を歩き、目的の扉の前まで来る。俺が何か言うより先に、セバスチャンが軽く扉を叩いた。
ほとんど待つ間もなく扉が開く。
「どうぞ」
顔を見せたのはジルベッドだった。
俺たちの姿を確認すると、そのまま身体を横へずらして中へ通してくれる。
部屋に入って最初に目へ入ったのは、椅子に腰掛けているオルフィアだった。
ちらりと顔を見る。
今日は瞼も腫れていないし、目元も赤くない。
もちろん、父親が死んだことも、その後にどうするのかも、全部振り切れたなんて思わない。ただ、少なくとも昨日よりは少し落ち着いたんだろう。
声をかける前に部屋の中を見回すと、オルフィアたちの他に年嵩の女性使用人が一人いた。俺たちが入ってきたのを見るなり、すぐに茶器へ手を伸ばしている。
……なんだ。
俺が淹れてやろうと思ったのに。
昨日は茶葉が悪かったせいで酷い目に遭ったが、今日はちゃんとした茶葉なんだろう。なら、今度こそ美味く淹れられただろうに。
少しだけ残念に思いながら、俺は空いている椅子へ腰を下ろした。
むろんだからといって、せっかく淹れてくれる茶を断るほど狭量ではない。
ほどなくして目の前へ置かれた杯を持ち上げる。湯気と一緒に柔らかな香りが鼻へ入り、少し冷ましてから口へ含んだ。
……美味いな。
苦すぎないし、薄すぎもしない。昨日ジルベッドが持ってきた茶も美味かったが、これも悪くない。
「どうしたの?」
杯を持ったまま考えていると、オルフィアがこちらを見ていた。
声は普通だな。
少なくとも聞いて分かるほど沈んではいない。
「ん、ちょっと王国貴族たちを見に行こうかと思ってな。それを伝えに来た」
俺がそう言うと、オルフィアの目が少し大きくなった。
だが、それ以上に大きく反応したのは隣だった。
ついさっき椅子へ腰を下ろしたばかりのセバスチャンが、目を見開いたまま立ち上がっている。
なんだ?
「どうした?」
不思議に思って聞くと、セバスチャンは俺をじっと見た。
「聞いとりませんぜ」
いつもより少し低い声だった。
「そうだったか? 言ったような気もするが」
「聞いとりません」
妙にはっきり言われた。
そうだったかな。
さっき部屋で話していた時、現地へ行って見た方が早そうだとは考えた。セバスチャンもそこにいたんだから、だいたい分かっていたと思ったんだが。
「まあ、別にいいだろ。何も王都まで行くわけじゃないんだから、ちょっとその辺を見るだけだ」
「お館様の許しは?」
「さっき思いついたばかりなんだから、あるわけないだろ」
聞かれて、俺はそのまま答えた。
思いつく前に許可を取るなんて出来るわけがない。
だが、セバスチャンはそれで納得するどころか、眉間の皺を深くした。
「それなら、まずはお館様の許しを得てください」
「ちょっとその辺を散歩するのに、いちいち父上の許可なんていらんさ。子どもじゃないんだから」
王都へ向かうわけでもないし、どこかの城へ攻め込むわけでもない。
王国側の貴族たちが何をしているのか、少し見て回るだけだ。
噂だけでは動いていない貴族のことまでは分かりにくい。それなら現地へ行ってみればいい。実際に見れば、噂になっていない何かくらいは分かるかもしれない。
それだけの話だ。
「マバール家はすでに帝国貴族なんですぜ。ちゃんとお館様に言わんと怒られますぜ」
「忙しい父上の手を煩わすこともないだろ。安心しろ、戻ったらちゃんと報告するさ」
別に隠れて行くわけじゃない。
帰ってきたら、見てきたことも含めてきちんと話せばいい。
今の父上は忙しい。それなのに、ちょっと出かけるくらいでいちいち時間を取らせる方が悪いだろう。
大げさなやつだなぁ。
ちょっと見に行くだけなのに。
セバスチャンはまだ何か言いたそうな顔をしている。
仕方ない。
「大丈夫だ。父上はちゃんと考えれば動いていいと言っていた」
言っていた。
……たぶん。
違うかもしれないが、だいたいそんな感じのことを言っていたはずだ。
「本当ですかい?」
全然信じていないような口調だった。
「ああ、本当だ」
俺は頷いておく。
少なくとも、何も考えずに動くなとは言われた。
なら、ちゃんと調べて、考えてから動けば大丈夫なのは本当だ。
王国側で増税が増えている理由も聞いた。動きのある貴族だけではなく、動きのない貴族も気になった。噂だけでは分からないから、自分で見に行こうとしている。
ちゃんと考えている。
問題はない。
そう思っている俺の横で、セバスチャンはなぜかまだ納得していない顔をしていた。
セバスチャンが何か言い返そうと口を開きかけたところで、それまで俺たちのやり取りを見ていたオルフィアが、おずおずと口を挟んだ。
「えっと、本当になにしにきたの?」
……なんだ、その少しズレた質問は。
王国貴族を見に行くと、さっきちゃんと言っただろう。
俺は手にしていた杯を卓上へ戻し、オルフィアへ視線を向ける。
「暇があればだが、ルディア領にも行ってみる。なんか見とくとこあるか?」
オルフィアが瞬きをした。
正直なところ、ルディア領へ行ったからといって、オルフィアの父親がどうして死んだのか分かるとは思っていない。
父上が調べても、まだ原因は分かっていないのだ。
俺が少しその辺を歩き回ったくらいで答えが転がっているなら、とっくに誰かが拾っているだろう。まして、その事情を全部知っているような奴が道端をうろうろしているとも思えない。
だが、何かを知っている奴そのものが見つからなくても、何かを知っていそうな奴を知っている人間くらいならいるかもしれない。
誰に聞けばいいのか。
どこを見ればいいのか。
その程度でも、何もないよりはましだ。
俺よりルディア領をよく知っているオルフィアに聞いておくのが一番早い。
オルフィアはすぐには答えなかった。
少し伏せた目が卓上へ落ちる。指先が膝の上でわずかに動き、やがて顔を上げた。
「それなら、ジルベッドの姉に会ってほしいわ。私とジルベッドは元気にしてるって伝えてほしいの」
「ジルベッドの姉?」
思わず、オルフィアの後ろにいるジルベッドへ目を向けた。
姉がいたのか。
それは別におかしくないが、今まで聞いた覚えがない。
ん?
会ってほしいということは、ジルベッドの実家へ寄れということだろうか。
騎士の家の娘なら、普通は家にいるんじゃないのか。少なくとも俺の頭に最初に浮かんだのは、そういう姿だった。
俺がジルベッドを見ながら考えていると、オルフィアがこちらの様子を見て口を開いた。
「ジルベッドの姉は騎士をしてるの。ルディア領では唯一の女騎士だから、分かると思うわ」
「へえ、珍しいな」
女騎士か。
俺は改めてジルベッドの顔を見た。
……女騎士。
ん?
なんか引っかかるな。
どこかで見たような。
ぼんやり記憶を探っていると、王都から戻ってきた時の街道が頭に浮かんだ。
そういえば、行きにはなかった関所が帰りには出来ていた。
そこで止められて――。
ああ。
いたな。
女騎士。
たしか、関所にいた連中の中に一人だけ女の騎士がいたはずだ。
俺はじっとジルベッドを見る。
似ているだろうか。
目元か。鼻か。それとも全然似ていないのか。
……分からん。
なんとなく似ているような気もするし、そう言われたからそう見えているだけのような気もする。
そもそも、あの時の女騎士の顔をそこまで真面目に覚えていない。
関所そのものの方が印象に残っている。
行きにはなかったものが帰りには出来ていたんだから、そっちが気になるのは当然だ。
「あんま覚えてないしな……」
小さく呟きながら首を傾げる。
隣を見ると、セバスチャンも何かを思い出したらしく、顎へ手をやっていた。
「そういや、新しい関所に女騎士がいましたな。それがその姉とやらなのかは分からんですが」
そう言って、セバスチャンは一度だけ頷いた。
「ジルベッド、お前の姉は関所の警備してるのか?」
ちょうど本人がいるんだから、考えるより聞いた方が早い。
俺がそう尋ねると、ジルベッドは少し首を傾けた。
「いえ、姉上はルディア城にいるはずなんですが」
「ふーん、なら別人かな。まあいっか」
あの女騎士が誰だったとしても、今のところ別に困らない。
もしジルベッドの姉なら会った時に分かるかもしれないし、違うなら違うでそれだけだ。
「ですが、城には入れんでしょう」
セバスチャンが現実的なことを言ってきた。
そういえばそうか。
ルディア領へ行くことばかり考えていたが、ルディア城へ行ったところで、俺はもう王国貴族ではない。門の前でジルベッドの姉を呼べと言って、素直に呼んでもらえるかは分からない。
俺がどうしたものかと考えるより早く、ジルベッドが腰へ手を伸ばした。
「これを」
差し出されたのは一本の短剣だった。
俺が受け取る前にセバスチャンが手を出し、その短剣を受け取る。
「我が家の紋章がありますので、これを見せれば連絡ぐらいならしてもらえると思います」
「なるほどな」
俺も横から覗き込む。
けっこう豪奢な短剣だった。
柄にも鞘にも飾りがあり、俺が普段見ているものよりずっと華やかだ。実際に腰へ差して戦うには少し邪魔そうな気もするが、きれいではある。
セバスチャンは短剣を手の中で一度返し、それから鞘を押さえて刀身を抜いた。
細い金属音がする。
しばらく剣身を眺め、角度を変え、切っ先まで確認してから、ぼそっと呟いた。
「おもちゃですな、こりゃ」
「こら、そんなこと言うな。お前らしいけど」
ジルベッド本人の前だぞ。
せっかく貸してくれた物に向かって、いきなりおもちゃ扱いするな。
……まあ、内心では完全に同意するけど。
少なくとも、俺が戦うために短剣を選べと言われたらこれは選ばない。
セバスチャンも同じなんだろう。
だからといって口に出す必要はない。
ジルベッドの方を見ると、特に何も言わずセバスチャンの手元を見ていた。
俺はもう一度、短剣へ目を戻す。
そういえば、マバール家ではあんまりこういうのは見ないな。
まったく無いわけじゃない。
飾りのついた武具を見たことくらいはある。
だが、普段目に入るのはもっと実用一点張りの物ばかりだ。
剣なら斬れるかどうか。
槍なら折れずに突けるか。
防具ならちゃんと身体を守れるか。
使えるなら使うし、壊れて使えなくなれば棄てる。
あとは、たぶん溶かすなりなんなりして再利用しているんだろう。
その辺を誰がどう処理しているのかまでは知らないが、少なくとも使えなくなった武器を綺麗だからといつまでも飾っているところは、あまり見た覚えがない。
だから余計に、この短剣が珍しく見えるのかもしれない。
「まあ、これがあれば姉に連絡くらいは出来るんだな?」
「はい。そのはずです」
ジルベッドが頷く。
なら十分だ。
城へ入ること自体が目的じゃない。
ジルベッドの姉に会えればそれでいい。
セバスチャンが短剣を鞘へ戻すと、俺はそれを受け取った。
見た目の割には重くない。
紋章がどこにあるのか確認してから、ひとまず預かっておく。
「分かった。会えたら二人とも元気だって伝えとく」
「お願いします」
ジルベッドが頭を下げた。
オルフィアの方を見ると、こちらをじっと見ていた。
「なんだ?」
聞いても、すぐには答えない。
少しだけ迷うように視線を揺らしてから、オルフィアは小さく息を吐いた。
「……私のために無茶しないでね」
「は?」
何を言ってるんだ、こいつ。
「いや、別に全然お前のためじゃないんだが?」
王国貴族を見に行こうと思ったのは、増税している連中と、逆に動いていない連中が気になったからだ。
ルディア領へ寄るのだって、そのついでだ。
暇があれば行く。
そう言っている。
だから、そのまま事実を教えた。
「あっそう」
オルフィアはそれだけ言うと、顔を横へ逸らした。
なんだ?
急にどうした。
さっきまで普通に話していただろ。
「……なんだ? こいつ?」
思わず口から漏れた俺の声に、向かいではセバスチャンが何とも言えない顔をしていた。




