第百六十二話 魔力の感触
翌朝、朝食を終えた俺は、自室の椅子に深く腰を下ろしていた。
窓から差し込む朝の光はもう白く、石壁の上をゆっくりと這っている。廊下から聞こえてくる足音も、朝食前の慌ただしいものではない。城の一日はとっくに動き始めているのだろうが、謹慎中の俺には急いでする仕事もなかった。
こうしていると、実に優雅な朝だ。謹慎中だけど。
……いや、正確には、ただゆっくりしているわけではない。
右手を軽く持ち上げ、身体の内側にある魔力へ意識を向ける。
流す。
止める。
少し強くする。
それから、昨夜掴みかけた感覚を思い出しながら、今度は魔力そのものを柔らかく扱ってみる。
柔らかく。
力を抜く、というのとも少し違う。
魔力を弱めるわけではない。押さえ込むわけでもない。ただ、いつもより角を取るような、固く握っていたものを掌の上へ乗せ直すような、そんな感覚だった。
うん。
やっぱり面白いな、これ。
これまでにも魔力を強く扱うことは何度もやってきた。攻撃魔法なら必要なだけ出力を上げるし、防御魔法なら受けるものに合わせて強さを変える。逆に、目立たせたくない時や細かな操作が必要な時には、出しすぎないよう抑えることも当然やっている。
だが、柔らかく扱う、というのは初めてだった。
強いか弱いかではない。
多いか少ないかでもない。
同じ魔力なのに、扱う時の感触だけが違う。
昨夜までは、その違いすらよく分かっていなかった。
何度か同じことを繰り返していると、寝室の扉が静かに開いた。
そちらを見る。
レティシアが出てきた。
服はいつも通りきちんと整えられている。髪にも乱れはなく、見た目だけなら普段の朝と何も変わらない。
ただ、頬が少し赤かった。
俺と目が合うと、その赤みがわずかに濃くなる。
「申し訳ありません」
レティシアが頭を下げた。
「かまわん。むしろ悪いのは俺だ。昨夜は少し興奮しすぎた。身体は大丈夫か?」
「……はい、もう大丈夫です」
返事をした途端、今度は首筋まで赤くなった。
分かりやすいな。
昨夜のことを思い出したのだろう。
「すぐにお茶を用意します」
「ああ、頼む」
レティシアは逃げるように俺から視線を外すと、慣れた手つきで茶の支度を始めた。
俺は椅子へ身体を預けたまま、その後ろ姿を眺める。
茶器を確かめ、湯を扱い、必要なものを一つずつ整えていく。何度も見てきた動きだ。急いでいるようには見えないのに無駄がなく、俺が何か言う前には必要なものが揃っている。
その姿を見ながら、昨夜のことを思い返した。
柔らかく。
たったそれだけの言葉だった。
だが、その一言がなければ、俺は今朝も「細く、小さく」という意味の分からない感覚と格闘していただろう。
「ありがとう」
レティシアの手が止まった。
振り返った顔は、少しキョトンとしている。
「……はい?」
「レティシアが柔らかくと言ってくれたから、新しい可能性に気付いた」
俺は掌の上で、もう一度魔力を柔らかく動かしてみせるつもりで意識を向ける。
もちろん、見えるわけではない。
それでも今の俺には、昨夜までとは違う動かし方をしていることがはっきり分かった。
「いえ、わたくしもただ気付いただけですので」
レティシアはそう言って、柔らかく微笑んだ。
美しいな。
見慣れているはずなのに、こういう顔をされると改めてそう思う。
やがて用意された茶を一口飲む。ほどよい熱が舌から喉へ落ちていった。
俺は杯を置くと、そばに立つレティシアへ手を伸ばした。
「レティシア」
「はい」
「もう一度、魔力を柔らかく使ってみてくれ」
俺の意図を察したのか、レティシアは素直に右手を差し出した。
その手を握る。
「はい」
指先がわずかに俺の手へ添えられる。
少しして、触れている掌から魔力の動きが伝わってきた。
昨日も感じたものだ。
だが、昨日とは俺自身の受け取り方が違う。
最初に触れた時は、魔力が弱くなっているようにも感じた。
普通の感知魔法より頼りなく、力が抜けているような、そんな感覚だった。
今は違う。
弱いんじゃない。
柔らかい。
そう思って触れてみると、違いが分かる。
レティシアは魔力を押し殺しているわけではない。出力を落として消えかけさせているわけでもない。ただ、いつもの魔力とは違う感触で扱っている。
なるほどな。
俺は五大魔法を使うのは得意だ。
攻撃魔法も、防御魔法も、肉体強化も、感知も、治癒も、覚えること自体にはそれほど苦労しなかった。
魔力をどこへ流すのか。
どれだけ強くするのか。
どう動かし、どの魔法として働かせるのか。
そういうことはずっと考えてきたし、何度も試してきた。
だが――。
その魔力自体を、どんな感触で扱うか。
そこまで意識したことは、ほとんどなかった。
俺の中では魔力は動かすものだった。
必要なら強くする。必要なら抑える。目的に合わせて形を変え、魔法として使う。
それで困ったことがなかったから、それ以上を考えなかった。
けれど、こうしてレティシアの魔力に触れていると、その前の段階にもまだ何かありそうな気がする。
魔力そのものを、どう扱うか。
そこを考えてみるのも、案外面白いのかもしれない。
「もういいぞ」
「はい」
レティシアが小さく息を吐いた。
掌から伝わっていた柔らかな魔力の動きが、ゆっくりと収まっていく。
それでも俺はすぐには手を離さなかった。
さっきまでそこにあった感触を、忘れないように頭の中でもう一度なぞっていた。
「どうでしょうか?」
少し小さな声でレティシアが尋ねてきた。
俺はようやくその手を離し、残っている感触を確かめるように自分の指を軽く動かした。
「素晴らしかった。これがオルフィアのいう細く小さくなのかは分からんが、素晴らしいのは間違いない」
笑いながらそう言うと、レティシアも少し嬉しそうに微笑んだ。
昨日なら、同じ魔力に触れてもここまでは分からなかった。
弱いような、細いような、何かが違うという程度だった。だが、一度自分でも柔らかく扱う感覚を掴んでしまえば、レティシアが何をしているのかが少し見えてくる。
とはいえ、これが本当にオルフィアの言っていたものなのかは別だ。
答えを知っている本人に見てもらうのが一番早い。
茶を飲み終えた俺は立ち上がった。
「行くか」
「はい」
レティシアもすぐに俺の後ろへ続く。
部屋を出て廊下を歩き、オルフィアに割り当てられた部屋へ向かう。朝の城内には使用人たちが行き交っていたが、俺たちの前を塞ぐ者はいない。すれ違うたびに頭を下げられ、それに軽く応じながら歩いていく。
やがて目的の部屋が見えてきた。
その扉の前に、一人の男が立っている。
ジルベッドだ。
……そういえばいたな、こいつも。
オルフィアと一緒に来ていた騎士なのだから、ここにいるのは当然なのだが、どうにも影が薄いんだよなあ。
俺たちに気付いたジルベッドが姿勢を正した。
「おはようございます」
「ああ。オルフィアはいるか?」
「はい」
ジルベッドは頷くと、扉へ手を伸ばした。
案内されて中へ入る。
部屋の中ではオルフィアが椅子に座り、ちょうど茶を飲んでいるところだった。
「おはよう」
俺たちを見ると、オルフィアは杯を少し下げた。
その視線が、俺から隣のレティシアへ移る。
ほんの少しだけ、そこで止まった。
……なんだ?
昨日の勝負を根に持ったりしてないよなぁ、こいつ。
レティシアには一回も勝てなかったからな。俺もだが。
「感知魔法の続きを頼む」
「……ああ、うん。そうね、まだ途中だもんね」
一瞬キョトンとしたあと、オルフィアは思い出したように頷いた。
おい。
こいつ、俺たちが遊びに来たと思ったんじゃないだろうな。
昨日のサイコロが相当気に入ったのかもしれない。
まあ、今は魔法だ。
オルフィアも立ち上がり、俺たちは昨日使った小屋へ向かうことになった。
部屋を出る直前、オルフィアが何気ない顔で何かを持った。
小さなサイコロだった。
俺は何も見なかったことにした。
まったく。
俺はそこまで暇ではないのに、しょうがないやつだ。
……謹慎中だから、暇なのは暇なんだが。
小屋へ着くと、昨日と同じように余計なもののない空間へ三人で入った。
扉が閉まる。
オルフィアは遊ぶ気など最初からなかったような顔で俺の前へ立つと、すぐに口を開いた。
「それじゃ、魔力を細く小さくしてみて。いい? 弱くじゃなくて、細く小さくね」
「ああ。細く小さくだな」
昨日と同じ言葉だ。
だが、昨日とは違う。
俺は目を閉じることもせず、自分の内側へ意識を向けた。
まずは、柔らかく。
魔力を弱めない。
抑え込まない。
いつものように力を調整しようとするのではなく、昨夜から何度も試してきたあの感触だけを思い浮かべる。
柔らかく。
柔らかく。
固く握らない。
魔力をそのままにして、扱い方だけを変える。
昨日までは「細く、小さく」と考えた瞬間、どうしても出す魔力そのものを弱めようとしてしまった。
だから、最初からそこを目指さない。
まず柔らかくだ。
柔らかいものなら、細く出来る。
柔らかいから、小さく出来る。
そう考える。
それだけをイメージする。
自分の中で魔力の感触が変わる。
そこで初めて、ゆっくりと細くする。
小さくする。
弱くするんじゃない。
柔らかく、細く、小さく。
昨夜までなら、そこで何をどうすればいいのか分からなくなっていた。
今は違った。
柔らかくした魔力を、そのまま少しずつ細くしていく。
無理に押し潰すような感覚もない。力を削っていく感覚もない。
ああ。
これなら分かる。
最初から「細く、小さく」とだけ考えるより、ずっとイメージしやすい。
そのまま魔力を操り続ける。
自分では悪くないように思える。
だが、正解を決めるのは俺じゃない。
ふとオルフィアを見る。
目が合った。
いや、正確には、オルフィアは俺を見たまま目を見開いていた。
「どうした?」
返事がない。
じっと俺を見ている。
「いくら美人でも、そんなに目を見開くとさすがに台無しだぞ」
「……で、出来てる」
オルフィアが小さな声で呟いた。
「ん?」
俺がそのまま見返すと、ようやく自分が黙り込んでいたことに気付いたらしい。
オルフィアは一度瞬きをしてから、改めて俺の魔力へ意識を向けた。
「細く小さくはなってるわ」
そう言って、はっきりと頷く。
「まだ感知魔法じゃないけど」
なるほど。
俺は自分の中で動かしている魔力を感じながら、口元を緩めた。
ひとまず、このやり方でよかったようだ。
オルフィアは細く小さくと言っていた。
だが、どうやれば細く小さく出来るのか、その感覚までは教えなかった。
いや、教えなかったというより、教えられなかったのかもしれない。
おそらくだが、オルフィア自身は本当にただ細く、小さくと考えているのだろう。それだけで魔力が思った通りに動くなら、他人へ説明しようとしてもそれ以上の言葉は出てこない。
俺にそれでは分からなかった。
レティシアの「柔らかく」の方が分かりやすかった。
優劣というより、相性なんだろうな。
コツなんて案外、そんな些細なものだ。
自分では当たり前にやっていることほど、言葉にするのが難しいのも分かる。
「それで、次は?」
細く小さくした魔力を保ったまま尋ねる。
オルフィアはまだ少し納得がいかないような顔をしていたが、すぐに俺の魔力へ意識を戻した。
「そこまで出来たなら、そのまま感知魔法にしていけばいいわ。普通の感知魔法みたいに強く感知しようとしないでね」
「ああ」
そこから先は早かった。
今の俺は、魔力の強さ――ある種の出力をほとんど変えていない。
ただ柔らかく扱い、そのまま細く、小さくしている。
だったら、この状態の魔力へ感知魔法を加えてやればいい。
俺は自分の中にある感知魔法の感覚を思い浮かべた。
いつもなら、魔力を感知魔法として働かせる。
だが今は、そのまま全部を感知魔法にするように考えない。
細く小さくした魔力へ、感知魔法の色を混ぜるような感じだ。
色。
……いや、別に本当に色が見えるわけじゃない。
なんというか、そんなイメージが一番近かった。
細く小さくした魔力へ、感知魔法らしさを少しずつ混ぜていく。
元が細く小さいから、そこへ混ざる色も自然と薄くなる。
そう考えると、不思議なくらい簡単だった。
柔らかい魔力を崩さない。
細さも、小ささもそのまま。
そこへ感知魔法としての働きを加える。
自分の中で魔力の感触が変わった。
今度は分かる。
これは感知魔法だ。
「……なんで」
オルフィアの声が聞こえた。
そちらを見ると、さっきとは違う意味で顔をしかめている。
「どうした?」
「なんで昨日は全然出来てなかったのに、なんであっさり出来るのよ」
妙な怒り方をされた。
「いや、俺からしたらかなり苦労したんだが」
「昨日ずっと分からないって顔してたじゃない」
「だから、その分からないところが分かったんだよ」
俺は細く伸ばした感知魔法を維持しながら答える。
オルフィアも俺の魔力を確かめているようだったが、止めろとは言わない。
なら、少なくとも大きく間違ってはいないのだろう。
正確にはオルフィアのものと細かな魔力操作は違うはずだ。
俺は柔らかくしてから細く、小さくしている。
オルフィアが同じようにやっているとは思えない。
だが、この世界では魔力操作が多少違っても、働きが同じなら同じ魔法として扱うのが普通だ。
なら、これもほぼオルフィア式の感知魔法でいい。
習得したと言ってよさそうだな。
難しかったのは、感知魔法そのものではなかった。
柔らかく。
そのイメージだ。
これまで一度も、そんなふうに魔力を扱おうとしたことがなかった。だから、何をすればいいのかすら分からなかった。
一度そこを掴んでしまえば、その先は俺がずっと使ってきた感知魔法だ。
「レティシアもやってみる?」
オルフィアがそう言って、今度はレティシアへ顔を向けた。
「はい」
レティシアは少し緊張した様子で頷き、魔力を動かし始めた。
俺も意識を向ける。
やはり、柔らかい。
そこから細く、小さくなっていく。
このあたりは昨日よりずっと迷いがない。
「そこまでは出来てる」
オルフィアもすぐに頷いた。
だが、その先でレティシアの魔力の動きが鈍った。
細く小さくした状態は保っている。
それでも、感知魔法にはならない。
面白いな。
俺はそこへ来るまで散々苦労したのに、レティシアはそこまでは順調だった。
そして俺が簡単に越えたところで、今度はレティシアが止まっている。
レティシアの眉がわずかに寄った。
「感知魔法にしようとすると、少し違ってしまいます」
「ふむ」
俺は自分がさっき何をしたのか思い返した。
細く小さくした魔力へ、感知魔法を加えた。
ただ、それだけだ。
……これも、そのまま言って分かるか?
「こう、なんというか……感知魔法の色というか、風味というか、なんかそんなのを混ぜる感じだ」
口にしてから、自分でも酷い説明だと思った。
オルフィアが横から何とも言えない顔で俺を見る。
「何よ、感知魔法風味って」
「俺だって言葉に出来ないんだからしょうがないだろ」
さっきオルフィアについて考えていたことが、そのまま自分へ返ってきた。
だが、レティシアは笑わなかった。
俺の言葉を考えるように少し視線を落とし、もう一度魔力を動かし始める。
柔らかく。
細く、小さく。
そこから――。
「あ」
オルフィアが声を漏らした。
レティシアの魔力に、さっきまではなかった感覚が混じる。
感知魔法だ。
まだ俺のものともオルフィアのものとも少し違って感じるが、細く小さな魔力がそのまま感知魔法として動いている。
「うん、出来てる」
オルフィアが頷いた。
レティシアの表情がふっと緩んだ。
これならレティシアも、ほぼ習得したと言っていいだろう。
「レティシア」
「はい」
「どんな感じにやった?」
レティシアは自分の魔力を確かめるように少しだけ間を置いてから答えた。
「ゆっくりと、お茶を淹れるような感じです」
「茶?」
「はい。急いで混ぜるのではなく、少しずつ馴染ませるような……そのような感じです」
なるほど。
俺の感知魔法色だか風味だかという意味不明な説明を、レティシアは自分なりにそう受け取ったらしい。
俺は色を混ぜる。
レティシアは茶を淹れる。
オルフィアは、たぶんそんなことすら考えていない。
それでも出来上がるものは、ほとんど同じ感知魔法だ。
やっぱり魔法にはイメージが大事なんだな。
知っていたことではある。
だが、こうして同じ魔法を三人が別々の感覚で扱っているのを見ると、改めて面白いと思う。
「……なんで二人ともそんなに簡単に出来るのよ」
横から低い声が聞こえた。
見ると、オルフィアが俺とレティシアを交互に見ている。
口元がわずかに尖って見えた。
なんだ、こいつ。
拗ねてるのか?
教えた相手が出来るようになったんだから喜べよ。
俺は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うのよ」
「いや、別に」
「絶対なんか思ってるでしょ」
「出来たんだからいいじゃないか」
「それはそうだけど……」
まだ何か言いたそうなオルフィアを見ていると、ますます笑えてくる。
おもろいやつだなぁ。
さすがオルフィアだ。




