第百六十一話 柔らかな魔力
結局、またレティシアの圧勝だった。
もう、あれは圧勝と呼んでいいだろう。
俺たちはあの後、さほど間を置かずに解散した。オルフィアは与えられている部屋へ戻り、俺とレティシアも自室へ戻ってきた。
そして今、俺は部屋の中で静かに佇んでいるレティシアを見ている。
うん。
いつも通りだ。
姿勢も、表情も、俺が知っているレティシアと特に変わらない。さっきまでサイコロを転がすたびに俺とオルフィアを叩き潰していた女には、どうにも見えなかった。
いや、別にサイコロで勝ったから見た目が変わるわけじゃないんだが。
それでも、なんとなく見てしまう。
レティシアも何も言わず、こちらを見返していた。
俺はその顔から視線を少し下げる。
肩、腕、それから手。
そこだ。
俺はレティシアの手をじっと見た。
細い指。整った爪。何度見ても綺麗な手だと思う。
うん、美しい。
だが。
普通の手だよなぁ。
当然だ。サイコロを振るためだけに何か妙なものがついているわけでもない。さっきだって、俺と同じようにサイコロを手に取って、振っていただけだ。
それなのに、勝つ。
ひたすら勝つ。
俺が負けて、オルフィアも負けて、最後にはまたレティシアが勝つ。
何度やったか、もうきちんとは覚えていない。
だが、あの勝率はおかしいだろう。
ついでに俺の敗率もな。
ちゃんと数えて計算したら、ちょっと見たくない数字が出てくる気がする。いや、見たくないというか、たぶん怖い。
ふむ。
「レティシア、すまんが手を見せてくれ」
「はい」
レティシアは理由を聞かず、素直に片手を差し出してきた。
俺はその手を取る。
まず手のひら。
特に何もない。
指を一本ずつ見る。これも普通だ。少なくとも、俺の目には何か変わったところがあるようには見えない。
やはり綺麗なだけだ。
いや、本当に綺麗だな。
何を調べているのか分からなくなりそうになるくらい綺麗だ。
指先を軽く持ち上げ、隣の指との間を見る。
そこで、小さなものが目に入った。
「あっ」
思わず声が出た。
指の間に、小さなほくろがある。
「ふーん。レティシア、こんなところにほくろがあったんだな。知らなかった」
「……はい」
なるほど。
これは知らなかった。
だからといってサイコロに勝つ理由には一切ならないが、知らなかったものを見つけると妙に気になる。
俺はそのままレティシアの指を曲げたり伸ばしたり、手のひらを軽く押したりしながら眺めた。
むにゅ。
むにゅむにゅ。
柔らかい。
当たり前だが、人の手だ。
「あ、あの若様」
「ん?」
「少し恥ずかしいです」
顔を上げる。
レティシアの頬が、ほんの少し赤くなっていた。
……恥ずかしいのか、これ。
もっとあちこち見てるんだけどな。
今さら手のひらや指の間を見られるのが恥ずかしいというのも、なんだか不思議な気がする。
だが、本人がそう言うなら、これはこれで恥ずかしいらしい。
そして、ちょっと恥ずかしそうにしているレティシアは可愛い。
そう思ってしまうと、手を離す理由がなくなった。
俺はもう一度、指先を軽くつまむ。
むにゅ。
レティシアの頬の赤みが、さっきより少し濃くなったように見えた。
うむ。
可愛い。
そのまま手のひらを指で軽く押し、今度は指をまとめて包むように握る。
「若様……」
「ん?」
返事をしながら、もう一度むにゅむにゅする。
……いや。
こんなことやってる場合じゃないな。
楽しいけど。
そもそも俺がレティシアの手を見始めたのは、サイコロの勝率が気になったからだ。手に何かあるのかと思って見てみたが、分かったのは指の間にほくろがあることくらい。
当然、それで何かが解決したわけではない。
俺はレティシアの手を持ったまま、少し考える。
サイコロ。
レティシア。
手。
そして、さっきオルフィアから教わった感知魔法。
そこまで考えたところで、俺はレティシアを見る。
「レティシア、オルフィアから先ほど習った感知魔法は使えるか?」
俺が聞くと、レティシアは静かに頷いた。
「すまんがこのまま使ってみてくれ」
俺はレティシアの手を離さずに言った。
さっきまで散々むにゅむにゅしていた手だが、今度は遊んでいるわけではない。
たぶん。
俺が触っていると集中しにくいかもしれない。だが、こうして直接触れている方が、魔力の動きはずっと分かりやすい。
レティシアは俺に手を預けたまま、わずかに呼吸を整えた。
「いきます」
「ああ」
返事をした直後、触れている手の向こうで魔力が動いた。
やはり分かりやすい。
離れている時にも魔力が動けば感じることはできる。だが、こうして直接触れていると、もっと近い。どこか遠くのものを眺めているのではなく、その動きを手の中で確かめているような感覚がある。
俺は余計なことを考えないようにして、レティシアの魔力だけに意識を向けた。
うーむ。
どうなんだ、これ。
細くなっている……のか?
オルフィアがやっていたものを見た時より、今の方がレティシアの魔力そのものは分かりやすい。だからこそ、変化も感じ取れる。
ただ、それをどう言葉にすればいいのかが難しかった。
なんだか弱くなっているようにも感じる。
だが、弱くしているのかと言われると、少し違うような気もする。
これが細くってことか?
俺はレティシアの指を包んだまま、じっとその変化を追う。
普通の感知魔法とは違う。
それは分かる。
魔力をそのまま外へ出している時の感じとも違う。
だが、何がどう違うと聞かれると困る。
そんなことを考えていると、レティシアの魔力の動きがほんの少し変わった。
ほんの少しだ。
集中していなければ、そのまま見逃したかもしれない。
さっきまでの動きが、こう……。
うにゅうにゅしていたとする。
それが今は、少しだけうにゃうにゃした。
……何を言ってるんだ、俺は。
自分でもさっぱり分からん。
うにゅうにゅとうにゃうにゃの違いを説明しろと言われても絶対に無理だ。
だが、感じたものを無理やり言葉にするなら、それが一番近い。
いや、もう少しまともに考えろ。
うにゃうにゃ……。
違う。
そうだな。
魔力の動きが、ほんの少し滑らかになったような感じか。
さっきまでより引っかかるものが少なくなって、柔らかく流れていくような――。
「ふう」
レティシアが小さく息を吐いた。
同時に、手の中で感じていた魔力の動きが落ち着く。
俺はレティシアを見る。
レティシアは少しだけ力を抜いたように見えたあと、小さく笑った。
「やはり難しいですね。細く小さくはだいたい分かったように感じるのですが、その先にはまだ進めないみたいです」
「いや、一日でなら充分だろ。俺なんか全然分からなかったからな」
慰めで言ったわけではない。
実際、俺よりずっと先へ進んでいる。
少なくともレティシアは「細く、小さく」という部分について、自分なりに何かを掴み始めているらしい。
俺なんか、オルフィアの説明を聞いて自分でやってみた時には、細くも小さくも何がどうなっているのか分からなかった。
だが。
ふむ。
今の感覚か。
うにゃうにゃ。
いや、うにゅうにゅだったか?
違う。最初がうにゅうにゅで、そのあとがうにゃうにゃだ。
……どうでもいいな。
まぁ、だいたいあんな感じなんだろう。
だったら、今度は俺がやってみればいい。
「俺の手を握れ。だいたいでいいから、近づいていると感じたら教えてくれ」
「はい」
今度はレティシアの方から俺の手を握った。
指が重なり、手のひらが触れる。
俺はその感触を意識の端へ追いやり、自分の中へ意識を沈めた。
まず魔力を動かす。
大きくではない。
そっと。
さっき触れて感じた、あの動きを思い出す。
うにゃうにゃ。
うにゅうにゅ。
いや、どっちだ。
とにかく、そっとだ。
そっと。
そっと。
うにゃうにゃ、うにゅうにゅ。
そっと……うにゃ――。
くっ。
途中で崩れた。
「ふう」
息を吐く。
何だ今の。
最初は上手くいきそうな気がした。
魔力を静かに動かして、余計な力を入れないようにしていたはずだ。
なのに途中から急に強くなった。
うにゃの途中で、なんかぐにゃとした。
意味が分からん。
だが失敗したことだけは分かる。
俺は握られている手を見たあと、自分の中の魔力へ意識を戻した。
うーむ。
なんだか魔力の多さが邪魔しているのかもしれん。
もちろん、本当にそうなのかは分からない。
ただ、そっと動かしているつもりでも、途中で急に強くなってしまう。抑えようと意識した瞬間に、逆に余計なところへ力が入るような感覚まである。
「すまんが、もう一度やる」
「はい」
レティシアは手を離さなかった。
俺はもう一度、呼吸を整える。
うにゃだ。
うにゅだ。
こう、そっと。
滑らかに。
魔力を動かす。
急ぐ必要はない。
ゆっくりでいい。
さっきレティシアから感じたものへ、少しずつ近づければいい。
……違う。
今のは強い。
もう一度。
そっと。
今度はさっきより少し長く続いた。
だが、途中でまた魔力の動きが崩れる。
もう一度。
今度は最初から違う。
さらにもう一度。
何度か繰り返したが、どうにも上手くいかなかった。
「ふう」
俺は息を吐き、握られていたレティシアの手をそっと外した。
「若様」
顔を上げる。
レティシアがこちらをじっと見ていた。
その呼び方だけで、何を気にしているのかなんとなく分かる。
「諦めていないし疲れてもいない。ただちょっと休憩だ。心配いらん」
そう言って笑いかけると、レティシアの表情がわずかに緩んだ。
そして、少し考えるように俺の手へ視線を落とす。
「最後の方は少し柔らかくなったように感じました」
ん?
柔らかく?
俺は自分の手を見る。
うにゃのことか?
「レティシアは柔らかくして魔力を細く小さくしているのか?」
俺が尋ねると、レティシアはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ目を閉じる。
さっき自分が魔力を動かしていた時の感覚を思い返しているのだろうか。
やがて目を開くと、俺を見て静かに頷いた。
「はい、そう考えていたように思います。細く小さくと言われたので、柔らかくした方がいいかと思いました」
「柔らかく……」
思わず、その言葉を口の中でもう一度転がす。
柔らかく。
オルフィアが言っていたのは、細く、小さくだ。
俺もそれをどうにか再現しようとしていた。
細くする。
小さくする。
そっと動かす。
弱くする。
……いや。
弱くする?
そこまで考えたところで、何かが引っかかった。
俺は普段、魔力をどういうものとして感じている?
魔力そのものは魔力だ。
だが、それを動かす時、頭の中で何の形もなく扱っているのかと言われると、そうでもない気がする。
なんとなくだ。
本当になんとなくでしかない。
俺は魔力の流れを、こう……エネルギーが流れているようなものとして感じている気がする。
そしてエネルギーと言われると、頭に浮かぶものがある。
光っているようなもの。
雷。
電気。
前の世界で知っていた、そういうものがどこかで混ざっているのかもしれない。
もちろん、魔力が雷や電気だと思っているわけじゃない。
あくまで無意識のイメージだ。
今まで魔法を使うたびに、毎回そんなものを頭に思い浮かべていた覚えもない。
レティシアと話しているうちに、そういえば自分はそんな感じで魔力を捉えているのかもしれないと、なんとなく気づいただけだ。
だから、いつもそうだったかなんて分からない。
だが。
仮に、俺が無意識のうちに魔力を光るようなエネルギーの流れとして捉えていたとしたら。
さっき俺は何をしていた?
細くしようとしていた。
小さくしようとしていた。
そっと動かそうとしていた。
その時、頭の中では……。
光を弱くしようとしていたのか?
流れを遅くしようとしていたのか?
少なくとも。
柔らかく、とは考えていなかった。
「ふむ……」
自分の手を見る。
魔力は見えない。
それでも、その内側にあるものへ意識を向ける。
柔らかくか。
改めてそう考えてみると、不思議とさっきまでよりしっくりきた。
細く、小さく。
細いものを作ろうとするより、柔らかいものを細くする方が自然な気がする。
小さく押し込もうとするより、柔らかいものを小さくまとめる方が、少なくとも俺には想像しやすい。
正しいかどうかは知らん。
オルフィアがそんなことを言っていたわけでもない。
ただ、今までの俺のやり方よりは試してみる価値がありそうだ。
俺は顔を上げた。
「レティシア、すまんがもう少し付き合ってくれ」
「はい」
レティシアはすぐに頷いた。
そして、また俺の手を取る。
今度は俺から握るのではなく、レティシアの指が俺の手へ重なった。
柔らかい。
さっきまで散々触っていたから知っているはずなのに、今は妙にその柔らかさが気になった。
力を入れているわけでもなく、かといって離れそうなほど弱くもない。
ただ、柔らかく握られている。
俺はその感触を残したまま、自分の中へ意識を向けた。
もういい。
細くも小さくも知らん。
とにかく柔らかくだ。
まず、そこだけやってみる。
自分の中にある魔力を感じる。
いつもの魔力だ。
これを弱くしない。
抑えもしない。
小さく押し込めようともしない。
ただ。
柔らかく。
柔らかく。
頭の中にある、あの光るようなものを弱めようとするのではなく、そのもの自体が柔らかくなるようにイメージする。
力を抜くのとも少し違う。
魔力を減らしたいわけじゃない。
ただ柔らかくする。
それだけだ。
柔らかく。
もっと柔らかく。
余計なことを考えると、またさっきみたいにぐにゃと崩れそうな気がする。
だから細くも、小さくも考えない。
レティシアの手の感触だけを少し意識に残して、自分の魔力を柔らかくしていく。
どれくらいそうしていたのか。
「あっ」
小さな声が聞こえた。
俺は集中を完全には解かないまま、レティシアを見る。
レティシアも俺を見ていた。
「何か変わったか?」
「はい」
レティシアは握っている俺の手へ一度視線を落とし、もう一度こちらを見た。
「先ほどわたくしがやった時に近いように感じます」
そう言って、柔らかく微笑む。
近い。
できた、ではない。
オルフィアと同じとも言っていない。
だが、さっきレティシア自身がやった時には近いらしい。
それで充分だ。
「そうか。ありがとう、レティシアのおかげだ」
「いえ」
レティシアは小さく首を振った。
俺はそのまま、自分の中に残っている感覚を確かめる。
柔らかく。
さっきまでとは確かに違う。
これが進歩なのか退化なのかは知らん。
オルフィアが言っていた「細く、小さく」とは、まったく違うところへ進んでいる可能性だってある。
レティシアだって、まだその先には進めないと言っていた。
だから、これで正解だなんて分かるはずもない。
だが、まぁ。
少なくとも俺にとって、新しい魔力の動かし方には違いない。
さっきまで何度やっても掴めなかったものが、レティシアの一言で少し形を変えた。
同じ魔力なのに。
同じ自分の中にあるものなのに。
どうイメージして、どう動かそうとするかだけで、感じ方まで変わる。
俺は握られたままの手を見て、それからレティシアを見る。
レティシアは静かに俺を見返していた。
口元には、まだ小さな笑みが残っている。
俺も少し笑った。
やはり魔力や魔法は面白いな。




