第百五十三話 最強の女と最弱の男
翌朝、目を覚ますと、すぐ隣にリエリエールの寝顔があった。
窓布の隙間から差し込む朝の光はまだ柔らかく、薄暗い部屋の中で白い筋になって寝台の端へ落ちている。昨夜の名残なのか、寝具の中にはまだ少し熱が残っていた。
リエリエールは俺の方へ身体を寄せたまま眠っている。
別に。
俺が昨夜リエリエールのところへ来た事と、昨日の暇つぶしには何の関係もない。
全くない。
全然ない。
ただ、最近レティシアには何かと世話を掛けているし、たまにはゆっくり休ませてやった方がいいだろうと思っただけだ。
決して、昨日のあの敗北を気にしたわけではない。
そもそも敗北ではない。
ただの暇つぶしだ。
俺は少し身体を動かし、すぐそばにあるリエリエールの柔らかく豊かな胸へ視線を落とした。
……うむ。
俺はただ、ここで少し安らぎたかっただけなのだ。
リエリエールの胸には、なんというか、春の柔らかな日差しに似た安らぎがある。
暖かくて、柔らかくて、何も考えずに埋もれていたくなるような安心感だ。
昨日のサイコロの出目など、思い出す必要もない。
一とか二とか。
いや、何の話だ。
俺は静かに息を吐き、まだ眠っているリエリエールの額へそっと口づけた。
「ありがとな」
当然、返事はない。
起こすつもりもなかったので、そのまま寝台から降りる。
服を整えて部屋を出る頃には、頭もだいぶすっきりしていた。
ノエルにリエリエールの事を任せ、俺は一度自室へ戻る事にした。
廊下にはすでに朝の気配が満ちている。行き交う使用人たちの足音が石床に響き、遠くでは扉の開閉する音も聞こえた。
自室へ戻ると、レティシアがいつものように俺を迎えてくれた。
「おはようございます、若様」
「ああ、おはよう」
微笑んでいる。
うん。
いつも通りだ。
まぁ、当然だな。
レティシアにとって昨日の事なんて、ただ暇つぶしに付き合っただけなのだろう。
だから何も気にしていない。
別に、勝負に弱い俺を蔑んだりしているわけでもない。
決してだ。
「朝食へ行かれますか?」
「うむ」
レティシアが用意していた服を手に取り、俺の着替えを手伝い始める。
肩へ布を掛け、皺を整え、留め具を一つずつ確かめていく。
その手つきもいつも通りだ。
表情にも変なところはない。
やはり何も気にしていないらしい。
そうだよな。
いい大人が、あんなただの暇つぶしをいつまでも気にするわけがない。
俺ももちろん気にしていない。
そう思いながら、何気なく机の方へ目を向けた。
何かが転がっている。
小さな立方体がいくつか。
各面には数字らしきものが彫られていた。
……なんだ、これは。
俺はこんなもの、一度も見た事がないぞ。
うん。
昨日見飽きるほど見たような気もするが、それはたぶん気のせいだ。
俺の視線に気づいたのか、背後で服を整えていたレティシアが静かに言った。
「オルフィア様からいただきました。昨日の記念にと」
「……そうか」
それだけ答え、俺は机へ近づいた。
なるほど。
オルフィアからの贈り物らしい。
何に使う物なのかはよく分からないが、とりあえず一つ――いや、三つまとめて手に取ってみる。
掌の中で軽く転がす。
妙に馴染む感触があるような気がしたが、気のせいだ。
そのまま机の上へ落とした。
ころころと転がった三つの立方体が、一つずつ止まる。
…………。
一。
一。
三。
なにやら、よく分からない数字が出た。
別に何の意味もない。
この数字に弱いとか強いとか、そういうものはない。
ただ出ただけだ。
俺は無言で三つを拾うと、隣にいるレティシアへ差し出した。
「ほら」
「はい?」
レティシアは少し不思議そうな顔をしながらも受け取った。
そして何も説明していないのに、掌の中で軽く転がし、そのまま机へ落とす。
乾いた音が三度響く。
…………。
四。
五。
六。
別に何の変哲もない数字だ。
単に連番が出ただけ。
よくある事だ。
たぶん。
俺からはえらく遠く感じる数字ではあるが、それにも何の意味もない。
別にレティシアが本当に強いとか、強運だとか、それを超えて豪運なんじゃないかとか、そんな事を思ったりはしていない。
「若様?」
「なんでもない」
俺は静かに視線を逸らした。
朝食へ行こう。
うむ。
腹が減った。
それから俺は、アル兄さんとにこやかに朝食を食べた。
「ギル、大丈夫かい?」
「なんでしょう?」
「ちょっと笑顔が引き攣ってるよ」
「そんな事はありませんよ、全然」
アル兄さんが心配そうに俺の顔を覗き込んできたが、気のせいだろう。
たぶん朝の光のいたずらだ。
俺は何にも気にしていない。
平常心だ。
通常運転だ。
朝食を食べ終えると、俺はレティシアを連れてオルフィアの部屋へ向かった。
オルフィアの部屋まで行って扉を叩くと、ほとんど待たされる事もなく中から足音が近づいてきた。
扉が開き、顔を出したオルフィアは俺を見て、それから隣に立つレティシアへ目を向ける。
「あら、おはよう。最強の女と最弱の男」
…………。
朝から意味不明な事を言っている。
無視だ、無視。
「小屋を見に行くぞ」
俺がそれだけ告げると、オルフィアの表情が一瞬だけ止まった。
「……ああ、うん。小屋ね、小屋」
おい。
こいつ、本気で小屋の事を忘れてたんじゃないだろうな。
昨日、俺が何のために部屋まで行ったと思っているんだ。
まさか昨日の暇つぶしにこだわって、俺がまた勝負をしに来たとでも思ったのか?
多忙な俺が、そう何度も何度も暇つぶしに付き合えるわけないだろうが。
俺は何も言わずにオルフィアを見る。
オルフィアも少しだけ目を逸らした。
……怪しいな。
「行くぞ」
「分かってるわよ」
ようやく部屋を出てきたオルフィアを連れ、レティシアと三人で昨日までレアが使っていた小屋へ向かった。
朝の光の下を歩き、小屋の前まで来る。
昨日までなら、この辺りまで来ればレアの白い身体が目に入っていたものだが、今はもういない。
代わりに、小屋の中は綺麗に片付けられていた。
オルフィアは中へ入ると、壁から壁までゆっくり視線を動かした。天井を見上げ、何歩か歩いて広さを確かめるようにしてから、その場で一度振り返る。
「飛行魔法を極めるにはちょっと狭いけど、普通の魔法研究には充分ね」
「そうか」
頷きながら、俺は内心で別の事を考えていた。
もう飛行魔法は諦めた方がいいんじゃないか?
もちろん口には出さない。
俺だって飛行魔法そのものの有用性は分かっている。
空を自由に飛べるなら便利だ。移動にも使えるだろうし、使い方によっては色々できそうではある。
だが、お前のは違う。
全裸空中歩行魔法だ。
変態魔法だ。
あれはもう飛行魔法ではない。
全裸で空中を歩き回る魔法なんて誰もやりたがらないだろうし、このままだとあんまり発展もしなさそうだ。
オルフィアはそんな俺の内心など知らず、小屋の奥まで歩いていく。
中には小さな机と椅子がいくつか置かれていた。
昨日まではなかったはずだ。
おそらくレティシアが手配してくれたのだろう。
俺は机の方へ歩き、椅子を一つ引いた。
「とりあえず座れ」
「なに?」
オルフィアがこちらを見る。
「またやるの? どうせ負けるわよ」
…………こいつ。
俺をなんだと思ってるんだ。
「違う。こないだ言っていた部分的な防御魔法と、感知されにくい感知魔法の事だ」
「ああ、そっち」
なんだ、その反応は。
オルフィアは俺の向かいにある椅子へ腰を下ろしながら、少し残念そうに肩を落とした。
「なんだ。新しい遊び方教えてあげようと思ったのに」
「そ、それは終わってからだ」
思わず答えてしまった。
いや。
違う。
別に興味があるわけではない。
昨日とは違う遊び方というものがどういうものなのか、少しだけ知的好奇心を刺激されただけだ。
俺はなんとか耐え、机へ肘をつく。
「とりあえず防御魔法を見せてくれ」
「いいわよ」
オルフィアは素直に答えると、こちらへ向かって片手を上げた。
掌を俺へ見せる。
最初は何も感じなかった。
だが、次の瞬間、オルフィアの身体を巡っていた魔力の流れが変わった。
掌へ集まっていく。
「ほら、こんな感じ」
オルフィアが軽く笑う。
俺はその手をじっと見つめた。
ぼんやりと、掌だけが光っているように感じる。
もちろん実際に光っているわけではない。
目に見える光なんか出ていない。
だが、そこだけに魔力があるせいか、感覚の中では薄く浮かび上がっているように思えた。
そして、それ以外の場所にはその感覚がない。
腕にも、肩にも、身体にも。
掌だけだ。
ふむ。
本当に部分的に防御魔法を使っているようだ。
きちんと細かいところまで確認するなら感知魔法を使った方がいいだろうが、今はこれだけでも充分だった。
「うーむ……どうやって使っているんだ?」
「えっとね」
オルフィアは防御魔法を解き、上げていた手を少し振った。
「こう、魔力を抜くような感じかな? 全身の力を抜いて、手のひらだけに意識を集中させたの」
「それだけか?」
「うん。魔力を込めるより、魔力を抜くのがコツ」
そう言って頷く。
簡単そうに言うな。
俺も片手を上げてみる。
まずはいつものように防御魔法を使う。
身体を包む魔力の感覚は慣れたものだ。これは何も難しくない。
問題はここから。
掌だけを残す。
それ以外から魔力を抜く。
……抜く。
…………。
「違う違う。手にもっと魔力を込めようとしてるでしょ」
「してない」
「してるわよ」
オルフィアが笑った。
くっ。
見ただけで分かるのか。
俺は一度防御魔法を解き、もう一度やり直す。
全身へ防御魔法。
そこから手のひらへ意識を集中する。
他は抜く。
抜く。
…………どうやって?
魔力を込めるのは得意だ。
必要ならもっと強く、もっと多く、という方向なら感覚的にも分かりやすい。
だが、防御魔法そのものを維持したまま、必要な一部以外の魔力だけを抜くとなると話が違う。
抜こうとすると全部が薄くなる。
掌だけを残そうと意識すると、今度は掌へ魔力を足そうとしてしまう。
そうじゃない。
足すんじゃなくて、他を抜く。
分かっている。
分かっているんだが、身体が――いや、魔力がその通りに動いてくれない。
こういうところが、この世界の魔法のやっかいなところだ。
呪文や魔法陣なんかは必要ない。
頭の中で何か決まった言葉を唱えれば同じ結果が出るわけでもない。
結局は自分の魔力をどう動かすかという感覚になる。
だから、目の前で成功例を見て、やり方まで聞いても、それをそのまま真似できるとは限らない。
前世でいうなら、新しい変化球を覚えるようなものだ。
こう握って、こう腕を振ればいい、と教えられたところで、それだけで同じ球が投げられるわけじゃない。
しかも魔法の場合、見た目に似た変化が起きたからといって、同じように魔力を使えているとも限らない。
逆に、魔力の動かし方を近づけても、狙った変化になるとは限らない。
そこがさらにややこしい。
俺は何度か繰り返した。
最初よりは掌へ残る感覚がはっきりしてきた気がする。
だが、オルフィアのように綺麗には分かれない。
なんとなく出来そうで、出来ない。
どうしても「魔力を抜く」という感覚が掴みにくかった。
「うーむ……やはり難しいな」
思わず呟く。
するとオルフィアが、少し呆れたように俺を見た。
「そんな事ないわよ」
「そうか?」
「見ただけですぐに真似られるだけでもすごいわ」
オルフィアはそう言って、俺の上げた手を眺める。
「最初からそこまでできる人、そんなにいないと思うけど」
「そんなもんかな」
俺は自分の掌を見た。
まだ全然納得はいかない。
だが、今すぐ完璧にしなければならないわけでもない。
感覚さえ分かれば、そのうちもう少し上手くできそうではあった。
「そもそも、部分的な防御魔法ってなんの役に立つんだ?」
俺は掌に残していた魔力を消し、椅子の背へ身体を預けた。
出来るようになれば魔力操作の訓練にはなる。
全身を覆う防御魔法とは違い、必要な場所だけへ魔力を残せるのなら、特定の場面では役に立つ事もあるかもしれない。
だが、今の俺にはその特定の場面というものがあまり思いつかなかった。
オルフィアは俺の質問を聞くと、それまでこちらを見ていた目を少し逸らした。
「……その」
「なんだ?」
「使えれば、飛行魔法の時に隠せるかなって」
小さな声だった。
しかも、さっきまで偉そうに俺へ魔力の使い方を教えていた奴が、今度は少しだけ頬を赤くしている。
俺はそんなオルフィアを見つめた。
「いや、防御魔法では隠せないだろ」
「分かってるわよ!」
即座に返された。
「でも、上手く使えば服が耐えられるかもしれないじゃない」
「服?」
「そうよ」
オルフィアは赤くなった顔のまま、少しむっとしたように俺を見る。
なるほど。
そういう事か。
部分的な防御魔法で何かを見えなくするつもりではなく、飛行魔法を使う時に服を守ろうというわけだ。
だが。
……いけるのか、それ?
俺はさっき自分で試したばかりの魔力の感覚を思い返した。
部分的な防御魔法は、全身に使っている防御魔法から必要な場所以外の魔力を抜いていく。
一方、オルフィアの飛行魔法は全身から魔力を放つ。
つまり。
「部分的な防御魔法で必要なところだけ守ってから、飛行魔法を使うって事か?」
「出来ればね」
オルフィアは頷く。
俺は眉を寄せた。
待て。
それはつまり、全身から魔力を放ちながら、同時に全身の魔力を抜いて、必要な部分にだけ防御魔法を残すという事になるんじゃないのか?
自分で考えておいて意味が分からなくなってきた。
魔力を出す。
魔力を抜く。
しかも同時に。
さっき俺が片手だけに防御魔法を残そうとしただけでも、あれだけ面倒だったのだ。
その状態でさらに別の魔法を使う?
しかも全身から魔力を放つ飛行魔法を?
「つまり全身から魔力を放ちながら、全身の魔力を抜いて必要な部分にだけ魔力を込めるのか?」
確認するように聞く。
言葉にしてみても、やはり無茶にしか聞こえなかった。
オルフィアもすぐには答えず、少しだけ唇を尖らせた。
「そんな事、難しいのは分かっているわ」
「だよな」
よかった。
こいつもそこまでは分かっているらしい。
だったら諦めればいい。
俺がそう思ったところで、オルフィアは急に胸を張った。
「だから、あなたなのよ」
「……どういう事だ?」
なんでそこで俺が出てくる。
俺は飛行魔法なんて使えないぞ。
そもそも全裸で空を歩き回る趣味もない。
オルフィアは、そんな俺の疑問が不思議だとでも言いたげに首を傾けた。
「私が飛行魔法を使っている間、あなたが私に防御魔法を使えばいいのよ」
「俺が?」
「そう。あなたぐらいの使い手なら、少しくらい離れていても使えるでしょ」
「ああ……」
言われてみれば、それ自体はおかしくない。
肉体強化魔法や防御魔法を自分以外へ使う事は珍しくない。
乗っている軍馬へ使う事だって普通にある。
俺自身、馬を走らせながら自分と馬の両方へ魔法を維持する事には慣れているし、多少離れた相手へ魔法を使う程度なら、そこまで難しい事でもない。
だが、問題はそこではない。
俺は頭の中でオルフィアの言葉を組み立て直した。
オルフィアが飛行魔法を使う。
俺が外から部分的な防御魔法を使い、服を守る。
そのままオルフィアが空中を歩いていく。
俺はその魔法を維持する。
「つまり、全裸で空中を歩き回るお前について歩くのか?」
「あなたがいれば全裸じゃなくなるわよ」
オルフィアは笑顔で答えた。
いや、そこまで自信満々に言われてもな。
本当にそうなるのか?
そもそも飛行魔法を使う時、どの程度の服まで残せるのかも分からない。
オルフィアの話を聞く限り、身体から魔力を放つ邪魔になるようなものは駄目なのだろう。
だったら、仮に防御魔法で服を守れるとしても、最初から分厚い服を着込むのは無理そうだ。
最低限の服。
そう考えた瞬間、頭の中に妙な光景が浮かんだ。
ビキニみたいな格好をしたオルフィアが、空中をてくてく歩いている。
その後ろを俺が地上からついていく。
もちろん、オルフィアの身体へ部分的な防御魔法を使い続けながらだ。
少し離れすぎれば魔法を調整する。
動きが変われば合わせる。
風でも吹けば、さらに面倒になるかもしれない。
そして、何かの拍子に俺の集中が乱れる。
防御魔法が一瞬ずれる。
次の瞬間。
空中でオルフィアの服が消える。
やっぱり全裸だ。
…………。
ありそうだ。
ものすごくありそうだ。
いや、俺は全裸空中歩行魔法に詳しいわけではない。
部分的な防御魔法だって、ついさっき教えてもらったばかりだ。
そんな俺でも、事故る未来が簡単に想像できる。
それなのに、この女はやる気満々である。
そこまでして挑戦したいものなのか?
飛行魔法そのものを極めたい気持ちは分からなくもない。
空を自由に動けるようになれば便利だろう。
だが、そこへ至るまでの道のりがあまりにも変態的すぎる。
もしかして。
いや。
やっぱりこいつ、変態なのではないだろうか。
俺は少し考えた。
しかし、よく考えれば個人の趣味というものは他人がどうこう言うものでもない。
誰かに迷惑を掛けているわけでもない。
本人がそれで満足なら、俺が否定する必要もないだろう。
むしろ友人として受け入れてやるべきなのかもしれない。
俺は椅子に座ったまま姿勢を正し、オルフィアへ静かに語りかけた。
「オルフィア」
「なに?」
「別に全裸で歩き回りたいなら、協力してやるぞ」
「は?」
オルフィアの笑顔が消えた。
だが俺は構わず続ける。
「変態だとは思うが、誰にも迷惑は掛けていないんだ。個人の趣味として認めてやるよ」
「誰が変態なのよ!」
俺の親切な提案は、オルフィアの怒声に遮られた。




