第百五十話 覚悟が必要な魔法
飛行魔法について考えれば考えるほど、身体の奥から力が抜けていくようだった。
普通の家の屋根ほどの高さを、人が歩く程度の速さで進む。そのためには服も鎧も脱ぎ、全身から魔力を放たなければならない。
技術として難しいのは分かる。
分かるのだが、頭の中に浮かぶのは、絶妙に見やすい高さをゆっくりと進む全裸の人間ばかりだった。
俺は椅子の背へ身体を預けたまま、向かいに座るオルフィアへ尋ねた。
「……ルディア領では、どのくらいの者たちが空を歩き回っているんだ?」
「空を歩き回るって何よ。飛んでるのよ」
オルフィアが不満そうに眉を寄せる。
だが、あれでは飛行魔法とは呼べないだろう。
自由に空を駆けるわけでもなく、目にも留まらぬ速さで移動するわけでもない。普通の家の屋根ほどの高さを、人が歩く程度の速度で進むのだ。
空中歩行魔法とでも呼んだ方が正しい。
もしルディア家が、この魔法を若い女にしか伝えていないのなら、一度くらいは領地を訪れてみてもいいかもしれない。それなら多少は世の中の役に立っていると言えなくもないだろう。
少なくとも、空を見上げる楽しみは増える。
「えっと……私と父様だけよ」
オルフィアは、ほんの少し声を落として答えた。
二人だけか。
オルフィアは、そこそこ整った顔立ちをしている。目つきは悪いし、生意気で、少し頭が残念ではあるが、顔そのものは悪くない。
その父親なら、それなりに整った顔立ちをしているのかもしれない。
別に興味はないが。
「そうか。お前と父親なら、どちらの方が得意なんだ?」
深い意味もなく尋ねると、オルフィアは僅かに胸を張った。
「私。父様は、人の頭の高さくらいまでしか飛べないから」
なんだか少し自慢げだな。
ちょっとだけ腹が立つ。
「ふーん」
俺はそれだけ答えた。
人の頭ほどの高さを、全裸で歩き回るおっさん。
そんな奴、殺してしまえ。
絶対に皆が喜ぶぞ。
もしかすると、オルフィアはそんな変態から逃げてきたのかもしれない。
……いや、違うか。
こいつも同じことをしているらしいしな。父親だけを変態扱いするのは不公平だろう。オルフィアも十分に立派な変態だ。
もっとも、使えるのがオルフィアと父親だけだということは、やはり相当に難しい魔法ではあるのだろう。
全身から魔力を均等に放ち、身体を浮かせたまま姿勢を保つ。さらに前後左右へ移動するとなれば、ほんの僅かな魔力の偏りも許されないのかもしれない。
どうでもいいことだが、俺ならオルフィアより高く、速く飛べる可能性はある。
魔力容量にも魔力操作にも自信はある。オルフィアのやり方を聞き、仕組みを理解できれば、普通の家の屋根より高く浮かび、人が歩く以上の速度を出すこともできるかもしれない。
だが、より強く全身から魔力を放てば、服は確実に破れるだろう。
高く、速く飛べば飛ぶほど、勢いよく全裸になる。
駄目だ。
俺は、決してオルフィアやその父親のような変態ではない。
全裸で人の頭上を飛び回るなど、恥ずかしくてできるはずがない。誰にも見られない場所であっても、いつ誰が通りかかるか分からないのだ。
空を飛ぶ姿を見られるだけなら格好もつくだろう。
だが、裸でゆっくり進んでいるところを見つかれば、その後どれほど立派な働きをしても、空を歩く変態として語り継がれかねない。
つまり、空中歩行魔法を習得するために本当に必要なのは、魔力容量でも魔力操作でもないのかもしれない。
全裸になることを恐れず、人の頭上を進み続けられるだけの変態度。そして、永遠に変態と呼ばれる覚悟。
それこそが、最後に越えなければならない壁なのだろう。
まさか、変態以外には習得できない魔法が存在するとは。
世の中は広いなあ。
飛行魔法について考えるのは、もうやめよう。
技術としてどれほど高度でも、使うために変態にならなければならないのなら、俺には関係のない魔法だ。オルフィアと父親で好きなだけ全裸で空中を歩き回っていればいい。
俺は気を取り直し、ほとんど義務感と責任感だけで口を開いた。
「他に得意な魔法はあるのか?」
「他に?」
「ああ」
もし全裸空中歩行魔法以外にも、妙な個人魔法があるのなら、今のうちに確認しておいた方がいい。
知らないまま近くにいれば、いつ何へ巻き込まれるか分からないからな。変態は危険だ。伝染するかもしれない。
オルフィアは少し考えるように目を伏せた後、軽く首を傾けた。
「そうね。五大魔法も、自分なりに色々と工夫しているわよ」
俺は内心で安堵した。
よかった。
どうやら他に変態魔法はないらしい。
五大魔法の工夫程度なら、服を脱ぐ必要も、人の頭上を裸で移動する必要もないだろう。俺もこれまで、必要に応じて魔力の強さや展開する範囲を変えてきた。それと似たようなものなのだろう。
「ほう。例えば、どのように工夫しているんだ?」
軽い気持ちで尋ねると、オルフィアは指先を膝の上で組み直した。
「えっと、部分的な防御魔法とか、感知されないというか……感知されにくい感知魔法とか」
聞き流しかけた言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
部分的な防御魔法。
感知されにくい感知魔法。
どちらも、俺の考えていた単なる強弱の調整とは違う。
「なんだ、それは?」
俺が身を乗り出すと、オルフィアの口元が僅かに持ち上がった。
「ふっ。気になる?」
さっきまで飛行魔法を馬鹿にされ、赤くなったり怒鳴ったりしていたくせに、急に得意げになったな。
だが、今はその顔へ文句を言っている場合ではない。
「部分的な防御魔法とは、どういう意味だ。防御魔法を身体の一部だけに使うのか?」
「そうよ」
「そんなことができるのか?」
「できるから言ってるのよ」
オルフィアは椅子の背へ僅かに身体を預け、こちらを見る目を細めた。
「元々、防御魔法は部分的な使い方をしていたみたいなの」
「元々?」
「今の防御魔法は、身体の周りへ全身を覆うように展開するでしょ。でも魔力操作を細かく分けて調べてみると、最初から全身を一つに覆う形だったとは思えなかったのよ」
オルフィアは片手を上げ、自分の腕をもう一方の指先で示した。
「たぶん、最初は腕とか胸とか、守りたいところだけに使っていたんだと思う。それが他の人へ共有されて、何度も使いやすく洗練されるうちに、今の全身へ展開する形になったんじゃないかしら」
確定した話ではなく、魔力操作を調べたうえでの推測らしい。
だが、筋は通っている。
攻撃を受ける場所が分からなければ、全身を守った方が安全だ。一部分だけへ展開するより、その方が防御魔法としても分かりやすい。長い時間をかけて共有されるうちに、より安全な全身防御へと発展したとしても不思議ではない。
「それで、お前は部分的な使い方に戻したのか?」
「戻したというより、一度分解して、やり直したの」
オルフィアの声に少し力が入った。
「今の防御魔法がどういう順番で形を作っているのか、魔力操作を一つずつ分けてみたのよ。それから、全身へ繋げず、必要なところだけで止められるように組み直したの」
「……できたのか?」
「できたわよ」
オルフィアは顎を上げた。
「だからこれは、新しい魔法というより、昔のやり方を復活させたって感じかしら」
いや、待て。ちょっと、待て。
防御魔法を一度分解し、部分的に展開できるよう組み直した。なんだそれは。そんな事出来るのか?
それだけでも十分に興味深いが、こいつはもう一つ言っていた。
「感知されにくい感知魔法というのはなんだ?」
「そっちも聞きたいの?」
「当たり前だ。きちんと詳しく説明しろ」
思わず声へ力が入った。
感知魔法は、展開した魔力へ相手の魔力反応が触れることで存在を捉える。その一方で、相手もこちらの魔力へ気づくことがある。
俺は以前、オルフィアたちへ極めて小さな感知魔法を一瞬だけ触れさせた。それでもオルフィアは反応した。
そのオルフィアが、感知されにくい使い方を知っていると言う。
これは聞き流していい話ではない。
俺が真剣に見つめると、オルフィアはますます得意げに微笑んだ。
「聞きたい?」
「ああ」
「ねえ、本当に聞きたい?」
その微笑みが、ものすごく腹立たしい。
だが、これはかなり重要な情報だ。
「頼むから教えてくれ」
俺が素直に言葉を絞り出すと、オルフィアは楽しそうに目を細めた。
「どうしようかなぁ」
この変態全裸残念令嬢め。
俺は椅子へ座り直し、オルフィアを睨み返した。
「お前が全裸で空中を歩き回っている変態だということを、帝国中に流布するぞ」
「なっ……!」
オルフィアの顔が一瞬で赤くなった。
「言っておくけど、それは人目のない場所でしか使ったことはないから!」
「そうなのか?」
「当たり前でしょ! 私だって好きで裸になってるわけじゃないわよ!」
机の上へ身を乗り出しかけたオルフィアは、俺の後ろにレティシアがいることを思い出したのか、途中で動きを止めた。
それでも頬の赤みは消えない。
「私はこの魔法を、服を着たまま使えるように絶対に改良してみせるんだから!」
なるほど。
飛行魔法を未完成と呼んだのは、高さや速さだけの話ではなかったらしい。服を破らずに使える形まで進化させるつもりなのだろう。変態なのに殊勝な事だ。自らの楽しみを捨てるとは。
ふむ、人目のない場所でしか使えないのなら、練習する場所にも困るはずだ。
「なんなら、マバール城の適当な場所に小屋くらいなら作ってやるぞ」
「小屋?」
「ああ。外から見えず、充分な高さがあれば練習もできるだろう」
俺が微笑みかけると、オルフィアは赤い顔のままこちらを睨んだ。
断るのかと思ったが、すぐには何も言わない。
しばらく黙り込んだ後、その視線が僅かに横へ逸れた。
「……それなりの広さも欲しい」
広さまで必要なのか。
小屋の中で真上へ浮くだけなら、高ささえあれば十分だと思っていた。だが、オルフィアの飛行魔法は遅いとはいえ前後左右へ動ける。速度や姿勢を安定させる練習をするなら、確かに狭い場所では難しいだろう。
充分な高さと、それなりの広さがある小屋。
そんな都合のいい建物が、すぐに用意できるだろうか。
俺は腕を組み、マバール城内で見た建物を思い返した。
倉庫では中に物が詰まっている。騎士たちが使う場所を占領すれば、アル兄さんにも余計な負担を掛けるだろう。一から新しく建てるとなれば、人も材料もそれなりに必要になる。
うーん。
ああ、そういえば、ちょうどいい感じの小屋があるな。
さっき見た、あの大きな小屋だ。
あれならオルフィアが立ったままでも頭上に十分な余裕があり、中も普通の小屋より広い。周囲には囲いまである。必要なら、囲いの位置ぐらいまでなら拡張したりもできるのではないだろうか。
オルフィアが人目を避けて全裸になり、空中をゆっくり歩き回るには、かなり都合がいい。
アル兄さんの許可は必要だろうが、中身はどうにでもなる。
そもそも、あんな鳥に立派な小屋など贅沢なのだ。
外で十分だろう。鳥だし。
多少雨が降ったところで、あれだけ大きく育った身体なら耐えられるに違いない。白い羽毛もずいぶん厚そうだった。
騒ぐようなら、今度こそ焼き鳥にしてやればいい。
うん。問題なし。
「よし、なんとかしてやる」
俺が答えると、オルフィアの視線が戻ってきた。
「本当?」
「ああ。ただし、その代わり、お前の知っている魔法を俺に教えろ」
もはや、飛行魔法はどうでもいい。
全裸空中歩行魔法など、習得したいとも思わない。
だが、部分的な防御魔法と、感知されにくい感知魔法は別だ。どちらも使い方次第では、戦場で大きな意味を持つかもしれない。
必要な場所だけを防御できるなら、全身を覆うより魔力を抑えられる可能性がある。防御を一か所へ集中させることで、同じ魔力でも強度を高められるかもしれない。
感知されにくい感知魔法なら、相手へこちらの存在を気づかれずに魔力反応を探れる可能性がある。
どちらも詳しい仕組みを聞かなければ断定はできないが、聞く価値は十分にあった。
「えー、どうしよっかなぁ」
オルフィアは、またそんなことをほざいた。
こちらは小屋まで用意してやると言っているのだぞ。
何が不満なんだ。
俺が目を細めると、オルフィアは先ほどまでの赤い顔を忘れたように、憎たらしい笑みを浮かべた。
「ねえ、魔法の工夫も手伝ってくれる?」
「魔法の工夫?」
「そう。飛行魔法もそうだけど、他の魔法も一人で考えていると行き詰まることがあるのよ」
オルフィアは机の上へ僅かに身を乗り出した。
「あなた、かなりの魔法の使い手でしょ。あの時の感知魔法には驚いたわ」
「ああ、あの時のか」
マバール城へ戻る途中、宿屋で不審だったオルフィアたちへ使った感知魔法のことだろう。
警戒していそうだったため、極めて小さく、瞬間的にだけ展開した。
それでもオルフィアには反応されたが。
「あれは、感知魔法を一瞬だけ使っただけだぞ」
俺が苦笑すると、オルフィアの表情から先ほどまでの得意げな色が薄れた。
「その一瞬が難しいのよ」
「そうなのか?」
「あれほど短い間だけ感知魔法を展開して、すぐに消すなんて、相当細かく操作できないと無理なはずよ。それに、反応もすごく小さかった」
オルフィアは真剣な目で俺を見ている。
正直に言えば、大した工夫のない魔法だと思っていた。
気づかれたくなかったから小さくし、長く使えば警戒されるからすぐに消した。それだけだ。必要だったから、そう使ったにすぎない。
だが、オルフィアには何か参考になるらしい。
こいつが自分で組み直した魔法を教え、俺が魔力操作の工夫を手伝う。
悪くない取引だ。
「ふむ。よし、協力してやる」
俺は頷いた。
「だから、お前も魔法を教えろ」
オルフィアは俺の顔をしばらく見つめた後、今度ははっきりと頷いた。
「分かったわ」
これで取引成立だな。
もっとも、レアの小屋を勝手に使うわけにはいかない。正義の志を同じくするアル兄さんにも、何かする前には必ず相談すると約束したばかりだ。
「小屋はすぐには用意できん。使えるようになったら、魔法を教えろ」
「ええ。約束よ」
オルフィアは先ほどまでとは別人のように、すっかり元気を取り戻していた。
飛行魔法を馬鹿にされた時には顔を赤くして怒鳴っていたくせに、今は口元に笑みまで浮かんでいる。
魔法の研究ができるのが、よほど嬉しいのかもしれない。
話もまとまったため、俺は椅子から立ち上がった。
レティシアも静かに一礼し、俺の後ろへつく。
オルフィアとは会談室で別れ、俺たちは自室へ戻ることにした。
廊下は静かだった。
窓から差し込む光が石床へ細長く伸び、歩くたびに靴音が壁の間を返ってくる。
しばらく進んだところで、隣を歩くレティシアがこちらを見ていることに気づいた。
その口元には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「なんだ?」
俺が尋ねると、レティシアは微笑んだまま答えた。
「オルフィア様は、若様にずいぶんと懐かれましたね」
「ふん。あんな生意気なのに懐かれてもな」
俺はそう答えながら、ふと気づいた。
オルフィアとレア。
なんだか似ているな。
どちらも生意気で、こちらを睨むような目を向けてくる。自分の得意なことには妙に自信があり、そのくせ肝心なところが残念だ。
ふむ。
それなら、懐いている分だけオルフィアの方がましかもしれない。
オルフィアと似た者同士なら、レアもきっと喜んで小屋を差し出すだろう。
これで何も問題はない。
そう考えながら隣へ目を向けると、レティシアはまだ静かに微笑んでいた。
微笑んでいるレティシアは、やはり美しかった。
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