第百四十八話 必要な結果
オルフィアの鋭い視線を受け流していると、アル兄さんは椅子のそばで、ほんの少しだけ疲れたように微笑んだ。
「ギル、どうしたんだい?」
穏やかな声だった。
だが、すぐには答えられない。
アル兄さんの向こうにはオルフィアがいる。こいつはルディア家の人間で、今は客としてマバール城に滞在しているとはいえ、身内ではない。
そんな部外者がいる前で、世界平和に関わる重大な話をしてもいいのだろうか。
俺はオルフィアへ目を向けた。
相変わらず、こちらを見る目が鋭い。
うーむ。
こいつに話したところで、果たして理解できるだろうか。いや、難しいだろうな。人にはそれぞれ器というものがある。俺とアル兄さんの間でならすぐに通じる話でも、オルフィアまで同じ高みへ辿り着けるとは限らない。
俺はアル兄さんへ手を上げ、指先を軽く動かした。
こっちへ来てください、という合図だ。
アル兄さんは一度だけ目を瞬かせたものの、椅子から離れ、こちらへ歩いてきた。
本来なら、こんなことは許される行為ではない。
他家の貴族を残したまま身内だけを手招きし、離れた場所で話そうとする。無礼だと怒られても仕方がないだろう。
だが、まあ、相手がこいつなら問題ない。
そもそもオルフィア自身が無礼なのだ。俺を見る時はいつも睨むような目つきだし、初めて会った時から態度も大きい。多少こちらが礼を欠いたところで、差し引けばまだ俺の方が礼儀正しいに違いない。
そう考えているうちに、オルフィアの目が先ほどよりも鋭くなった。
気づいたらしい。
だが無視だ。無視。
普段なら、アル兄さんもこちらへ来ず、その場で俺を嗜めるはずだった。ところが今日は何も言わず、すんなり扉の近くまで来てくれた。
やはり少し疲れているのだろうか。
どうしたんだろう。心配だな。
なんなら、あとで大きな焼き鳥でも差し入れてやろう。肉を食べれば少しは元気も出るはずだ。幸い、鶏肉には心当たりがある。
白くて大きく、よく育った生意気なやつが。
「ええと、それで何事だい、ギル」
アル兄さんは俺の前で足を止めると、声を落とした。
「先ほどは感知魔法まで使ったようだけど」
やはり気づいていたか。
あれだけ薄く展開したのにな。
俺は会談室の中へ声が流れないよう、アル兄さんへさらに身を寄せた。
「マバール騎士団の運用に関して、相談がありまして」
俺が囁くと、アル兄さんの目つきが少し鋭くなった。
「ほう。言ってごらん」
さすがアル兄さんだ。
俺が騎士団の運用と言っただけで、すぐに重要な話だと理解してくれたらしい。
俺は小さく頷き、世界平和に関わる問題を伝えることにした。
「はい。最近のマバール騎士団は、本来の役目を忘れています」
「本来の役目?」
アル兄さんの眉が僅かに動いた。
「はい。レティシアたちを護り、世界の平和を守るという崇高な役目です」
俺がはっきり告げると、アル兄さんは少し肩を落とし、力なく頷いた。
「そ、そうか。うん、なるほど」
おお。
さすがアル兄さんだ。これだけの説明で、本来の役目を思い出してくれたらしい。
俺はアル兄さんへ、レティシアたちを護ることがどれほど重要なのかを続けて説明した。
彼女たちが安心して暮らせなければ、俺は心安らかに仕事へ向かえない。俺が心安らかに働けなければ、マバール家のために十分な力を発揮できない。そうなればマバール家の未来が揺らぎ、ひいては帝国の平穏にも影響する。
つまり、レティシアたちを護ることはマバール家を護ることであり、帝国を護ることであり、最後には世界の平和へ繋がるのだ。
俺が順を追って説明している間、アル兄さんは何度か頷いていた。
「そうか。うん、なるほど。城内に留めておけば大丈夫かと思ったけど、考えが甘かったか」
アル兄さんが小さく呟く。
まったく同感である。
レティシアたちを城内に留めておけば大丈夫などという考えは、あまりにも甘い。何かが起きてからでは遅いのだ。常日頃から備えを整え、万が一にも危険が近づかないようにしなければならない。
うーむ。さすが聡明なアル兄さんだ。
ここまで理解してくれるとは思わなかった。
これほど俺の考えを汲んでくれるのなら、少しくらい褒美を与えてもいいかもしれない。
アル兄さんには、レティシアを見る権利を少しだけおまけしてやろう。
なんなら、俺の監視下でなら見てもいい。レティシアの姿を見れば、アル兄さんの疲れも少しは取れるだろう。
うむ。
実に寛大だな、俺は。
「ほら、アル兄さん。レティシアを見てください。三回くらいならいいですよ。四回は駄目ですけどね」
なんだか以前と同じ回数のような気もしたが、三回も見られるのなら問題ないだろう。
俺が少し身体をずらして、後ろに控えるレティシアが見えるようにすると、アル兄さんは意図が通じたのか、一瞬だけ彼女へ目を向けた。
それから俺へ視線を戻し、苦笑した。
「うん、なるほど。これでは駄目なようだね」
アル兄さんは何かを決めたように一度頷くと、俺の両肩を掴んだ。
「ギル、いいかい。これから僕が言うことを、頭を空っぽにして聞くんだよ」
「はあ? ですが、マバール騎士団の運用を考えなければなりませんよ?」
今は世界平和にも関わる大事な相談の最中だ。頭を空っぽにしている場合ではない。
そう思って答えると、肩に置かれたアル兄さんの手へ力がこもった。
うーん。
アル兄さん、見た目よりかなり力強いんだな。
指が服越しに肩へ食い込んでいる。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだが痛い。
「いいかい、ギル」
アル兄さんは穏やかな口調を崩さないまま、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「マバール騎士団には、余裕のある運用が必要だ。これから何があるか分からないからね」
「はあ。それはそうですが、今のままでは少し不十分では?」
レティシアたちを護るためには、城内に騎士がいるというだけでは足りない。
普段から彼女たちの周囲へ十分な人数を配置し、いつ何が起きても即座に動けるよう備えておくべきだ。俺が城を離れる時には、さらに守りを厚くしなければならないだろう。
俺の答えを聞いたアル兄さんは、一度だけゆっくり瞬きをした。
「いいかい」
声は先ほどと変わらず静かだった。
だが、肩を掴む手は少しも離れない。
「うーん、まあ」
何をそこまで念押ししたいのか分からなかったが、俺が頷くと、アル兄さんも力強く頷き返した。
「そうなんだよ。そこで、ギルは何をすればいいと思う?」
何をすればいいか。
俺は少し考えた。
騎士を増やすだけでは、その場しのぎにしかならない。いくら人数がいても、護るべきものを理解していなければ意味がないのだ。
ならば、まず必要なのは意識の改革だろう。
「マバール騎士団に、真の目的を叩き込む?」
俺が答えると、アル兄さんの肩が先ほどよりも大きく落ちた。
同時に、俺の肩を掴んでいる手の力が、また少し強くなったような気がする。
痛い。
いや、まだ我慢できるけどな。
「うん、そうだね。それもいいかもしれないね」
アル兄さんは僅かに俯いたまま答えた。
「でもね、そうすると動きにくくなるかもしれない」
顔を上げたアル兄さんが、なんだか必死に俺へ言ってくる。
アル兄さんも真剣に考えてくれているようだ。
「それは、そうかもしれませんね」
俺はアル兄さんの言葉を頭の中で転がした。
確かに、全員へ一つの目的を強く叩き込みすぎれば、状況に合わせた判断ができなくなるかもしれない。命令されたことしかできない組織では、突然の危機へ柔軟に対応するのは難しいだろう。
硬直した組織に未来はない。
レティシアたちを護ることが最も重要なのは間違いないが、そのための手段まで一つに決めてしまえば、かえって守りに隙が生まれる可能性もある。
うーむ。
そこまで考えているとは、さすがアル兄さんだ。
「そうだろう」
俺が納得したのを見て、アル兄さんは僅かに身を乗り出した。
「大事なのは、皆が一つの考えで動くことじゃない。それぞれが必要な結果を出すことだ」
その言葉を聞いた瞬間、目の前にかかっていた薄い霧が晴れたような気がした。
そうだよな。
大事なのは結果だ。
どれほど崇高な目的を掲げていても、レティシアたちを護れなければ何の意味もない。逆に、騎士たちが俺と同じ考えに至っていなくても、必要な時に必要な場所で彼女たちを守ってくれるのなら、結果は同じだ。
俺は、あまりにも理論的すぎたようだ。
世界平和へ至る正しい道筋を示そうとするあまり、目的を共有させることそのものに囚われかけていた。
「なるほど。そうですね。アル兄さんの言葉で目が覚めました」
俺がそう告げると、アル兄さんの顔にようやく笑みが戻った。
両肩を掴んでいた手からも、少しずつ力が抜けていく。
「ギル、分かってくれたんだね」
安堵したような声だった。
やはりアル兄さんは、俺が自力で答えへ辿り着くのを待っていてくれたらしい。
俺は兄の期待へ応えるように、大きく頷いた。
「はい。レティシアたちを護るためなら、皆がどのように考え、動いても正義の行いですもんね」
俺が答えると、アル兄さんの笑みが止まった。
僅かに開いた瞳が、ゆっくりと俺を見つめる。
その瞳が、なんだか少し潤んでいるように見えた。
アル兄さんも、俺の成長に感動してくれたようだな。
自分で言うのもなんだが、俺も少し感動している。アル兄さんの導きがなければ、目的を共有させることに力を使いすぎ、肝心の結果を見失っていたかもしれない。
「うん、そうか。そうだね」
アル兄さんは一度視線を落とし、細く息を吐いた。
「そこはもう、それでいいかな」
どうやら、俺の答えに異論はないらしい。
俺も笑顔を返し、もう一度大きく頷いた。
「はい」
アル兄さんは、まだ少しだけ頼りない笑みを浮かべたまま、俺の肩から手を離した。
「うん。だからね、ギルが動きたいと思った時は、必ず相談してほしいな」
「もちろんです」
俺が笑顔で答えると、アル兄さんも納得してくれたのか、小さく頷いた。
本当に小さな頷きだったが、アル兄さんと俺の間に余計な言葉はいらない。どうやら俺たちは、レティシアたちを護り、世界の平和を、すなわち正義を守るという同じ思いを共有できたらしい。
やはり兄弟だな。
アル兄さんなら、いつかは俺と同じところまで辿り着いてくれると思っていた。
「なんというか、その……色々と大変ですね、マバール家も」
背後から声が掛かった。
振り返ると、オルフィアが椅子のそばからこちらを見ていた。さっきまで鋭かった目つきが僅かに緩んでいるようにも見えるが、俺を馬鹿にしているのか、マバール家の置かれた状況を心配しているのかまでは分からない。
「ふん。マバール騎士は、どんな困難にも恐れも怯みもしないのだ」
俺が胸を張って答えると、隣でアル兄さんが小さく息を吐いた。
「うん。それはそうなんだけど、ちょっとだけ意味合いが違うかな」
声が小さくてよく聞こえなかったが、マバール騎士への評価そのものには同意しているようだ。
それよりも、まだ聞いていないことがある。
「そもそも、お前はこんなところで何をしているんだよ」
俺が尋ねると、オルフィアは再び目を細めた。
「私はアルディス様と、魔法のことについて話をしていただけよ」
「魔法のこと?」
思わず首を傾げる。
オルフィアがマバール城にいること自体は不思議ではない。アル兄さんに滞在を許され、本人もそれを受け入れている。だが、二人きりで会談室に入り、わざわざ話すほどの魔法の話があるとは思っていなかった。
「うん」
アル兄さんが俺の疑問へ答えた。
「オルフィア殿は、なかなか魔法に対して造詣が深いようなので、話をしていたんだよ」
「ふーん」
アル兄さんは俺に同情するなと言っていたくせに、自分は少しくらい同情しているのかもしれない。
こうして気晴らしの話に付き合ってやっているのだろう。
もっとも、オルフィアの魔力操作がなかなかのものなのは俺も知っている。こちらが極めて小さく触れさせた感知魔法へ反応したほどだ。本人かルディア家には、何か面白い魔法の使い方があるのかもしれない。
そう考えると、急に話の中身が気になってきた。
「俺も同席してもいいでしょうか?」
アル兄さんへ尋ねると、すぐには返事がなかった。
アル兄さんは俺を見た後、オルフィアへ目を向け、また俺へ戻す。何かを確かめるように何度か瞬きをしてから、小さく頷いた。
「うん、そうだね。うん、そうか。なるほど」
独り言のように呟いたアル兄さんの顔へ、ゆっくりと笑みが戻ってくる。
「ギルは、魔法が好きだろう?」
いきなり聞かれ、俺は少し考えた。
好きか嫌いかで言えば、好きだろう。魔法は使い方を考えるだけでも面白いし、実際に役立つ。これまで生き延びることができたのも、魔法の力によるところが大きい。
「はい。魔法は好きです」
「そうだよね。ギルは魔法が大好きだよね。うん」
アル兄さんは笑顔で大きく頷いた。
いや、大好きとまでは言っていない。
どちらかというと、必要だから使っているという部分も大きいのだが、久しぶりに見るアル兄さんの晴れやかな笑顔を前にすると、なんとなく訂正しにくかった。
「ギルバートはこう見えて、なかなか魔法が得意なんですよ。きっとオルフィア殿とも話が合うでしょう」
アル兄さんがオルフィアへそう告げると、彼女は少し驚いたように俺を見た。
何を驚いている。
俺が魔法を使えることくらい、お前も知っているだろう。
「うん、そうですね。僕には仕事もありますし、ギルバートにオルフィア殿のお相手をさせましょう。ギルバートなら今は時間も余っていますし、うん、それがいい。そうしましょう」
アル兄さんは、そこまでをほとんど一息で言い切った。
オルフィアは少しぽかんとしているように見える。
「どうです? オルフィア殿、構いませんか?」
アル兄さんが尋ねると、オルフィアの頭がほんの少しだけ動いた。
その直後には、アル兄さんの手が俺の背へ添えられていた。
「ではギル、オルフィア殿のお相手をしなさい。くれぐれも礼儀正しくね」
押されるまま、俺はアル兄さんが先ほどまで座っていた席へ向かう。
「それと、絶対に聞いた魔法を試したりしては駄目だよ。絶対にね。何かしたくなったら、必ず僕に相談すること。いいね、約束だよ」
「分かっていますよ」
さっき約束したばかりだというのに、ずいぶん念入りだな。
俺が席の前まで導かれると、アル兄さんはようやく手を離した。そして、扉の近くに控えているレティシアへ顔を向ける。
「レティシア、二人のことをくれぐれも頼むよ」
「かしこまりました」
レティシアが静かに頭を下げる。
アル兄さんはそれを見届けると、どこか足取りも軽く会談室を出ていった。扉が閉じ、廊下へ遠ざかる足音が聞こえなくなってから、俺は遅れて口を開いた。
「……アル兄さん、レティシアと話す許可はしていませんよ」
俺の呟きは、アル兄さんには届かなかったようだった。




