第百四十七話 正義の味方
レアの小屋を離れ、俺はレティシアと並んで自室へ戻っていった。
厩舎の匂いを含んだ風が背後へ遠ざかり、城内へ入ると、足音が石造りの廊下へ静かに返ってくる。先ほどまで晴れていたレティシアの表情は、少しだけ曇っているように見えた。
何度かこちらを窺い、そのたびに何か言いたそうに唇を動かしている。
俺がまだ怒っていると思っているのだろう。
まったく。
レティシアは何も悪くない。
俺が腹を立てているのは、あのアホ鳥に対してだ。
俺専用であるレティシアの胸へ、何の断りもなく頭を擦りつけるなど万死に値する。しかも、あれは偶然ではない。あの鳥は間違いなく狙っていた。
あの位置へ迷いなく頭を下げ、柔らかな膨らみに顔を埋めたのだ。
俺には乗せることすら拒んだくせに、レティシアには好き放題に甘える。
思い出すだけでも腹立たしい。
本来なら、あの場で羽をむしり、ちょうどよい大きさに切り分け、火を通してやるところだった。
だが、レティシアが慌てて俺とレアの間へ入り、何度も止めた。
あれほど頼まれては仕方がない。
今回だけは許してやった。
もちろん、二度目はないがな。
もっとも、今回の件については、俺にも多少の責任があった。
レティシアへ、いきなりレアに乗って見せてくれと頼んだのは俺だ。レティシアは断ることなく、そのまま鞍へ上がった。
小屋を離れてから話を聞くと、普段レアの世話をする時には、いつもの使用人服から別の服へ着替えているらしい。
確かに、白い羽毛があれだけ大きな身体を覆っているのだ。世話をすれば、服へ羽や汚れが付くこともあるだろう。
あの使用人服では脚も動かしにくい。
レアへ乗ることまで考えれば、着替えた方がよいのは当然だ。
そして、その服には胸当てもあるという。
それなら、まあ。
ぎりぎり許してやらないこともない。
普段からレアが直接レティシアの胸へ頭を擦りつけているわけではないのなら、今回は俺が突然頼んだために起きた不幸な事故として扱うこともできる。
もちろん、あのアホ鳥が故意にやったことだけは間違いない。
だが、原因の一端が俺にある以上、すべての責任をレアへ押しつけるのは大人の男として正しくないだろう。
俺は寛大だ。
大人の男とは、感情ではなく理性で動くものだからな。
怒りに任せて焼き鳥にせず、事情を聞き、普段の服装まで考慮したうえで処分を見送った。
うむ。
我ながら、実に理性的な判断だ。
だが、今回の件は、ある意味ではよい機会だったのかもしれない。
レティシアの安全について、もっと真剣に考える必要がある。
いや、レティシアだけではない。
ダリアやリエリエールも含め、俺の女たち全員だ。
俺は歩きながら、廊下の先へ目を向けた。
マバール城は厚い石壁に囲まれている。
城門には兵が立ち、城内には騎士たちがいる。外敵が現れれば武器を取り、魔物が近づけば迎え撃つ。
では、何のためにそれほどの備えがあるのか。
簡単なことだ。
レティシアたちを守るためだ。
俺は自信を持って断言できる。
もしレティシアたちに何かあれば、俺は理性を失う。
理性を失えば、いくら大人の男である俺でも、多少暴走するのは仕方がないだろう。
その時、どれほど大きな被害が出るかは分からない。
ならば、最初から俺が理性を失わずに済むよう、レティシアたちを守ればよい。
そのためにマバール城があり、マバール騎士団が存在している。
つまり、マバール城と騎士団は、レティシアたちを護るためにある。
俺の暴走が防がれれば、多くの者が助かる。
多くの者が助かるということは、争いも減る。
争いが減れば、世界は平和になる。
ふむ。
そう考えれば、レティシアたちを守ることは、そのまま世界平和へ繋がっているではないか。
実に崇高な目的だ。
それほど大切な役目を持ちながら、マバール家は時折、その本質を忘れているように感じる。
だが、俺は怒ったりはしない。
崇高な目的というものは、大きすぎるがゆえに輪郭がぼやけることもある。人はそれほど賢い生き物ではないのだ。
目的を見失うことくらい、誰にでもある。
ならば、気づいた者が教えてやればよい。
俺が大人の男として、優しく諭してやるべきなのだろう。
もちろん、優しく言っても理解できない者はいる。
その時は、力ずくで無理やり教えを叩き込む必要もあるだろう。
それもまた、大人の男の役割だ。
俺の考えがあまりに深すぎるため、時には周囲から誤解されるかもしれない。怒りに任せて暴れているだけだと思われたり、自分勝手な理屈を押しつけていると言われたりする可能性もある。
だが、誤解を恐れて正しいことを行わないのは、大人のすることではない。
何を言われようと、必要なことをやり遂げる。
それこそが、真の大人の漢というものではないだろうか。
ふむ。
誤解されても世界のために正しいことを行う。
これは間違いなく正義だ。
そして、それを実行する俺は間違いなく正義の側にいる。
つまり、真の漢とは正義の味方ということか。
うーん。
世界の真理の一端に気づいてしまった。
「あの、若様?」
隣から声を掛けられ、俺は顔を上げた。
レティシアが歩みを少し緩め、こちらを窺っている。眉尻が僅かに下がり、口元には困ったような色が残っていた。
俺が真の漢として背負う役目の重さを、心配しているのだろう。
優しい女だ。
「うむ。大丈夫だ。俺は俺の役目を果たす」
「そ、そうなのですね」
レティシアは一度目を瞬かせ、それから少し曖昧に微笑んだ。
やはり心配しているらしい。
俺が世界の平和を背負い、その重さに押し潰されるのではないかと案じてくれているのだろう。
だが、安心しろ。
俺はその程度で挫けたりはしないぞ。
もっとも、一人だけで全てを進める必要はない。
俺はしばらく謹慎中で、城内から出ることができない。考え方によっては、これは安全対策について腰を据えて話し合うためのよい機会でもある。
まずはアル兄さんへ相談するべきだろう。
アル兄さんは忙しいかもしれないが、これほど重要な要件なら最優先にしてくれるはずだ。
何しろ、レティシアたちの安全だけではない。
マバール城と騎士団の本来の役目、そして世界平和に関わる話である。
アル兄さんなら、きっと俺の考えを理解してくれる。
協力も惜しまないだろう。
「ふむ。レティシア、アル兄さんがどこにいるか分かるか?」
「いえ。申し訳ありませんが」
レティシアは歩みを止め、軽く頭を下げた。
おっと。
これは愚問だったな。
レティシアが俺以外の男のことなど、いちいち考えているわけがない。
アル兄さんが城内のどこにいるか知らないのも当然だ。むしろ、知らないと聞いて少し安心した。
仕方ない。
感知魔法を使うか。
城内で広く使えば、何事かと思われるかもしれない。だが、これは世界平和のために必要な行為だ。
多少驚かせても許されるに違いない。
アル兄さんの魔力反応なら、すぐに分かるしな。
俺は足を止め、意識を城内へ向けた。
感知魔法を一瞬だけ拡げる。
薄く展開した魔力が、石壁も廊下も関係なく城内を駆け抜けた。次の瞬間、周囲に存在する幾つもの魔力反応が、位置と強さを伴って頭の中へ浮かび上がる。
騎士たち。
魔力を持つ使用人。
そして、その中にある見慣れた反応。
アル兄さんだ。
目的の反応を捉えたところで、すぐに感知魔法を消した。
隣では、レティシアが驚いたようにこちらを見ていた。近くを歩いていた使用人たちも足を止め、何人かが不安そうに周囲を見回している。
問題ない。
マバール家の者なら、今の感知魔法が俺のものだと分かるだろう。
たぶん。
おそらく。
「ふむ」
俺は首を傾げた。
アル兄さんの反応は見つかった。
だが、そのすぐ近くに、もう一つ魔力反応があった。
まったく知らない反応ではない。
どこかで一度、感じた覚えがある。
しかし、アル兄さんやレティシアのように、触れた瞬間に誰か分かるほど見慣れてもいない。
強さはそれなりにある。
おそらく貴族だろう。
だが、誰だ。
あれは。
それに、アル兄さんの反応がある場所も少し妙だった。
執務室ではない。
城内の位置を思い浮かべながら、先ほど捉えた反応を重ねていく。俺が間違えていなければ、あの辺りにあるのは会談室だったはずだ。
アル兄さんが誰かと話しているのだろうか。
近くにあった反応が、その相手なのかもしれない。
それなりに強い魔力だったのだから、おそらく貴族だ。だが、マバール家の者ではない。城内にいる騎士たちの反応とも違う。
まったく初めてではない。
どこかで感じた。
それだけは間違いないのに、相手の顔が浮かんでこなかった。
「わ、若様?」
レティシアの声が耳に届いたが、俺は先ほどの魔力反応を思い返し続けた。
うーん。
誰だったかな。
一度しか会っていない相手だろうか。
いや、反応だけなら何度か感じたような気もする。だが、見慣れていると言えるほどではない。
喉まで出かかっているというより、頭の奥で引っかかっている。
もう少し考えれば思い出せそうなのに、その先へ進もうとすると、なぜか思考が鈍る。
思い出せないというより、思い出したくない。
そんな感覚だった。
何だ、これ。
俺は過去の記憶を探ろうとした。
貴族。
それなりに強い魔力。
最近会った相手。
そこまで並べても、顔も名前も出てこない。
頭のどこかが、そのまま放っておけと訴えているような気さえする。
だが、アル兄さんと一緒にいるのなら、危険な相手ではないだろう。
たぶん。
そもそも、ここで立ち止まって悩み続ける必要もない。
会えば分かる。
うん。
それでいいか。
「アル兄さんに大事な話ができた」
そう告げて歩き出すと、レティシアは一度だけ目を瞬かせた。
「アルディス様にですか?」
小さく首を傾げながらも、すぐに俺の後ろへついてくる。
なるほど。
俺と少しでも離れたくないのだな。
俺も同じ気持ちだぞ。
先ほどまで自室へ戻る途中だったが、進む方向を変えた。俺は感知した位置を思い出しながら、レティシアを連れて会談室へ向かう。
廊下ですれ違う使用人の中には、まだ俺の方を窺っている者もいた。
さっき感知魔法を展開したことが気になっているのだろう。
だが、心配する必要はない。
俺は世界平和のためにアル兄さんと話し合おうとしているだけだ。城内に敵が入り込んだわけでもなければ、これから何かを壊すつもりもない。
少なくとも、今のところは。
アル兄さんが俺の崇高な考えを理解してくれれば、すべて穏便に進むだろう。
理解してくれなかった場合は、真の漢として色々と教える必要があるかもしれないが、それは話してみなければ分からない。
まずは対話だ。
大人の男だからな。
俺たちが進むにつれて、先ほど捉えた二つの魔力反応との距離が縮まっていく。
感知魔法をもう一度使う必要はない。
城の造りは分かっているし、アル兄さんが会談室から移動していなければ、もうすぐ着く。
角を曲がると、見慣れた扉が視界へ入った。
予想どおり、会談室だ。
俺は扉の前まで進み、そのまま中へ入った。
室内へ足を踏み入れると、まずアル兄さんの姿が目に入る。
本当にいた。
そして、アル兄さんの近くには、もう一人いた。
先ほどの、見覚えがあるのに思い出したくなかった魔力反応。
その正体を見た瞬間、頭の奥へ引っかかっていたものが一気に外れた。
ああ。
こいつか。
「何してるんだよ、お前」
そこにいたのは、オルフィアだった。
そしてオルフィアは、俺を睨んでいた。
なんかいつも睨んでるな、こいつ。




