第百四十四話 包み込む女
翌朝、まだ淡い光の中で目を覚ました。
窓布の隙間から差し込む細い明かりが、寝台の上へ薄く伸びている。身体を動かすと、隣から柔らかな感触と温もりが伝わってきた。
枕の上には、白金の髪が扇のように広がっている。
リエリエールは俺へ身体を寄せたまま、静かな寝息を立てていた。
うーむ。
やはりリエリエールはすごかった。
俺も、ある程度は予想していた。
昨日、ダリアの部屋を出た俺は、そのままリエリエールの部屋へ向かった。顔を見るだけでは済まなくなるだろうとは思っていたし、実際、短い挨拶だけで帰れる自信もなかった。
だが、その予想をあっさりと超えてきた。
部屋へ入った俺を迎えたのは、リエリエールとノエルだった。
ノエルはリエリエールに従ってマバール家まで来た専属使用人だ。だが、これまでの二人を見ていると、単なる使用人というより忠臣と呼んだ方が近い気がする。
ノエルが淹れた茶を飲みながら、俺はリエリエールと向かい合って座った。
話した内容は、本当に大したものではない。
「城の暮らしには慣れたか?」
「はい。皆様によくしていただいております」
「不自由なことはないか?」
「ございません。レティシア様にも、ダリア様にも、とても親切にしていただいております」
それから、俺が城を離れていた間のことや、リエリエールがどのように過ごしていたのかを少し聞いた。
俺が旅の途中であったことを話せば、リエリエールは目を細めて聞いてくれた。別に面白く話したつもりはないのに、時折、口元を隠すように手を添え、楽しそうに笑う。
その笑顔を見ているうちに、なぜか身体の奥が少しずつ熱くなっていった。
もちろん、リエリエールの肢体は素晴らしい。
なんというか、肉感的なのだ。
決して太っているわけではない。腰はきちんと締まり、手足も重たくは見えない。それなのに、全身に柔らかな丸みがあり、服の上からでも触れた時の感触を想像させる。
しかも、露出が多いわけでもなかった。
むしろ、貴族の女らしく、首元から足元まできちんと整えられている。椅子へ腰掛け、茶を飲みながら話しているだけだ。
それでも、リエリエールが身じろぎするたび、服に包まれた胸や腰の線へ視線が引かれた。
笑うたびに柔らかな身体がわずかに揺れる。
こちらを見つめる碧い瞳にも、声にも、妙に人を受け入れるような温かさがあった。
ただ身体が美しいだけではない。
レティシアからは、女らしさが滲み出ているように感じる。
本人はいつもきちんとしているし、もしかすると隠そうとしているのかもしれない。だが、それでも指先や声、仕草の一つ一つから、女の気配が零れてくるのだ。
昨日会ったダリアからは、それまでの女としての鋭さに、母になる女の穏やかさが柔らかく混じっていた。
それに対して、リエリエールには、女としての色気と、包み込むようなものの両方が、最初から濃く備わっているように思えた。
本人にそのような意図はないのだろう。
誘惑するような言葉を口にしたわけでもなければ、身体を見せつけるような動きをしたわけでもない。
ただ俺の話を聞き、微笑み、時折楽しそうに笑っていただけだ。
なのに、俺はどんどんその柔らかさに溶かされていった。
気づけば、妙に肩の力が抜けていた。
くだらない話まで口にし、リエリエールがそれを笑って聞いてくれることを心地よく感じていた。
そして、なんとなく甘えたくなった。
うーむ。
これがバブ味というやつか。
さすがリエリエールだな。
そんなことを考えながら、隣で眠る横顔を見る。
白金の髪に縁取られた頬は滑らかで、唇にはまだ薄い赤みが残っていた。掛け布の下から伝わる身体の柔らかさも、昨夜の記憶を嫌でも思い出させる。
このまま、もう一度抱き寄せたい。
だが、二日続けて朝食をすっぽかすのは、さすがに少し気まずい。
昨日はレティシアと寝台にいたせいで、朝食へ顔を出さなかった。今日まで欠席すれば、アル兄さんに何か言われるかもしれない。
俺は名残惜しさを押し込み、静かに寝台から降りた。
床には、昨夜脱ぎ捨てた服が散らばっている。
それを拾い上げ、適当に身体へ纏っていく。
布の擦れる音が聞こえたのだろう。
寝台の上で、リエリエールの瞼がゆっくりと開いた。
まだ目覚めきっていないらしく、碧い瞳は少しぼんやりとしている。
まあ、けっこう激しかったからな。
昨夜は少し無理をさせたような気もする。
本人も嫌がってはいなかったと思うが、それと疲れていないことは別だ。今日はゆっくり休ませた方がいいだろう。
「起こしたか?」
リエリエールは小さく首を振った。
「疲れただろう。今日はゆっくり休め」
俺が言うと、リエリエールは頬へ薄く赤みを浮かべ、照れたように微笑んだ。
それから掛け布を胸元へ引き寄せたまま、静かに頷く。
その姿を見た瞬間、身に纏ったばかりの服をもう一度脱ぎ捨てたくなった。
だが、我慢だ。
俺は大人だからな。
相手に無理はさせないのだ。
たぶん昨夜は、少しだけ無理をさせたような気もするが、今日は休ませるのだから問題ないだろう。
「また来る」
「はい。お待ちしております」
柔らかな声に背中を引かれながら、俺は寝室を出た。
扉の向こうでは、ノエルが静かに待っていた。
俺の姿を見ても、顔色一つ変えずに頭を下げる。
ただ、適当に着たせいで曲がっていた襟へ視線を落とすと、何も言わずに手を伸ばした。
留め方のずれた上着を直し、皺の寄った布を軽く整えていく。
手際がいい。
「リエリエールは、まだ疲れているようだ。今日はゆっくり休ませてやってくれ」
「承知いたしました」
ノエルは短く答えた。
長く身の回りを任せてきたノエルなら、眠っているリエリエールの寝室へ入っても問題はないだろう。後の支度も、体調を見ることも、俺が余計な気を回すより確実だ。
「頼む」
「お任せくださいませ」
整え終えた襟から手を離し、ノエルはもう一度深く頭を下げた。
俺は背後の扉へ一度だけ目を向けてから、朝食の席へ向かった。
朝食の席へ着いた時には、アル兄さんはすでに食事を始めていた。
俺の姿を見たアル兄さんは、手にしていた杯を置き、少しだけ口元を緩める。
「おはよう、ギル」
「おはようございます、アル兄さん」
苦笑しているな。
たぶん、俺がどうして遅れたのか、おおよそのところは察しているのだろう。
昨日はレティシアと寝室へ籠もり、今朝はリエリエールの部屋から戻ってきた。別に自分から言い触らしているわけではないが、城内で完全に隠すのは難しい。
俺は何事もなかったような顔で席へ着いた。
すぐに朝食が運ばれてくる。
温かい湯気と焼いた肉の匂いが立ち上り、ようやく腹が減っていることに気づいた。昨日は昼過ぎまで何も食べず、その後もダリアやリエリエールの部屋を訪ねていたからな。
俺が食事へ手をつけると、アル兄さんはしばらく黙ってこちらを見ていた。
「いいかい、ギル」
「はい」
「君は謹慎中なんだから、くれぐれも大人しくしておくんだよ」
穏やかな声だった。
だが、念を押すような響きがある。
俺は大きく頷いた。
「もちろんです」
俺はきちんと大人しくしている。
城の外にも出ていないし、昨日も城内でレティシアやダリア、リエリエールと会っていただけだ。
何一つ問題はない。
アル兄さんは俺の返事を聞いても、なぜかすぐには視線を外さなかった。
信用されていない気がするな。
俺は少しだけ不満に思いながら、肉を口へ運んだ。
そこで、ふと父上の姿がないことを改めて思い出す。
父上はシルディア城で俺へ謹慎を命じ、そのまま向こうに残っている。俺たちがマバール城へ戻ってからも、まだ帰ってきてはいない。
「アル兄さん」
「なんだい?」
「父上は、いつ頃お戻りになるのでしょう?」
アル兄さんは手を止め、少し考えるように視線を落とした。
「おそらく、しばらくは戻って来られないだろうね」
「そんなにですか?」
「今、王国は大きく揺れているからね」
アル兄さんは静かに息を吐いた。
「マバール家だけじゃない。国境に領地を持つ貴族たちが王国から離れ、王都は北方諸国軍に攻め込まれた。今は一応の和平が結ばれているけど、その和平を王家の弱腰と見る者も多い」
「まあ、そうなるでしょうね」
王都まで敵を通した王家が、その後に和平を結んだ。
事情がどうであれ、遠くから見れば、王家が屈したように受け取る者もいるだろう。
「王国貴族の多くは疑っているんだよ」
アル兄さんの声は穏やかだったが、その言葉は重かった。
「王家は、本当に自分たちを守れるのか。次に同じことが起きた時、領地や家を守ってくれるのか、とね」
「だから父上は、シルディア城から動けないと」
「そういうことだね。向こうで見なければならないものが多すぎる。今すぐマバール城へ戻るのは難しいだろう」
「なるほど」
それなら仕方がない。
父上が帰ってくれば、俺の謹慎も少しは早く解けるのではないかと思っていたのだが、しばらく戻らないとなると話が変わる。
俺は食事を続けながら、少しだけ考えた。
「アル兄さん」
「今度は何かな?」
「俺は、いつまで謹慎していなくてはいけないのでしょう?」
アル兄さんは目を瞬かせた。
それから、困ったように笑う。
「まだ謹慎したばかりでしょ」
「そうですが」
「もう少し我慢しなさい。僕からも、父上にはギルを許してもらえるようお願いしておくから」
そう言ってくれるなら、少し安心だ。
アル兄さんから父上へ話してもらえば、俺が直接頼むより聞き入れてもらえる可能性も高いだろう。
だが、念のために確認しておきたいことがある。
「城下くらいなら大丈夫ですか?」
アル兄さんの笑みが、そのまま固まった。
「駄目だよ」
「少し見るだけでも?」
「駄目」
「生産拠点ぐらいなら」
「ギル」
今度は、少しだけ声が低くなった。
「許してあげるのは城内までだよ」
「……分かりました」
うーむ。
仕方ないか。
ここで勝手に城下へ出れば、父上だけではなくアル兄さんにまで怒られそうだ。
それは避けたい。
俺は大人しく頷き、残っていた朝食へ手を伸ばした。
朝食もほとんど終わり、皿の上にはわずかな肉とパンが残るだけになっていた。
俺は杯へ手を伸ばしかけたところで、昨夜考えていたことを思い出した。
「アル兄さん」
「まだ何かあるのかい?」
警戒されているような気がするな。
城下へ出たいと頼んだだけだというのに。
「少し書状を出したいのですが、書けたらアル兄さんへお渡ししても構いませんか?」
父上はシルディア城にいる。
ダル兄さんは帝都だ。
アル兄さんなら、二人と書状をやり取りしているだろう。俺が自分で使いの者を探すより、アル兄さんへ預けた方が早く、余計な手間も掛からない。
謹慎中の身としても、実に慎ましい方法だ。
そう考えていたのだが、アル兄さんは俺の顔を見たまま動きを止めた。
しばらくして、肩が目に見えて落ちる。
「……どんな書状かな?」
声まで少し疲れているように聞こえる。
まだ内容も話していないのに、なぜそんな反応をするのだろう。
「二通だけです。一通は、シルビア橋の警備態勢について父上へ。もう一通は、オルフィアのことを帝国貴族の知人へ少し頼もうかと思いまして」
アル兄さんは何も答えなかった。
ただ、俺をじっと見つめている。
責めるような目ではない。怒っているようにも見えない。
だが、その沈黙が妙に長い。
「えーっと……書状も駄目ですか?」
恐る恐る尋ねると、アル兄さんは深く頷いた。
「駄目だよ」
「城から出るわけではありませんよ?」
「そういう問題じゃないんだ」
「自室で大人しく書いて、アル兄さんへ渡すだけですが」
「ギル」
名前を呼ばれただけで、それ以上の理屈を口にする気が少し失せた。
アル兄さんは額へ手を当て、静かに息を吐く。
「君は謹慎中なんだから、勝手に書状を出したら駄目だよ。どちらも詳しく僕に話しなさい。必要なら、僕の方から対応しておくから」
うーむ。
書状まで駄目なのか。
城内で書くだけなら、謹慎を破ったことにはならないと思ったのだが。
しかし、アル兄さんの表情を見る限り、これ以上ここで争っても許可は下りそうにない。
「分かりました。では、まずシルビア橋の方から」
アル兄さんは額から手を下ろし、俺へ向き直った。
「何が気になったの?」
「あの二人のことです」
「オルフィアとジルベッドだね」
「はい。二人は商人に金を渡して、シルビア橋を渡っていました」
アル兄さんは手を止め、俺の話に耳を傾けた。
「結果として、二人は敵ではありませんでした。ただ、商人に金を渡せば素性を隠したまま橋を渡れるとなると、話は別です」
「商人に同行する者の確認が不十分かもしれない、と?」
「橋の兵がどこまで確認していたのかは分かりません。商人から事情を聞いていた可能性もありますし、怪しいと判断して後日、報告していたかもしれません。なので、警備が甘いと決めつけるつもりはありません」
俺が聞いたのは、外套で顔を隠した二人が商人に金を渡し、そのまま橋を渡ったことまでだ。
「ただ、同じ手口が他の者にも使えるなら危険です。商人が金を受け取り、素性の分からない者を連れてきた場合、どこまで確認する決まりになっているのか。一度調べておいた方がいいと思います」
「分かった。確認してみるよ。必要なら、父上にも僕から伝える」
「お願いします」
「結果だけを見れば、二人は敵ではありませんでした。オルフィアは亡命を望む王国貴族で、ジルベッドはそれを守っていただけです」
アル兄さんは黙って続きを待っている。
「ですが、次も同じとは限りません」
シルビア橋は、ただ川を渡るための橋ではない。
今では王国側と帝国側を繋ぐ場所だ。
人も物も、これまで以上に集まるだろう。その中から怪しい者をすべて見つけるのは難しい。
だからこそ、何を見て、誰へ伝えるのかを決めておく必要がある。
「分かった」
アル兄さんは小さく頷いた。
「お願いします」
「警備について気づいたことを話すのは構わないんだ。ただ、謹慎中の君が、自分の判断で父上や現場へ命令に近い書状を出すのは駄目だからね」
「注意を促すだけのつもりでしたが」
「受け取る側が、ただの注意だと思うとは限らないでしょ」
それは、まあ、そうかもしれない。
俺はマバール家の三男だ。
しかも、シルビア橋を巡る戦いでは、自分でもかなり目立つことをした。その俺から警備について書状が届けば、受け取った者が命令に近いものとして扱う可能性はある。
そんなつもりはなかった、と後から言っても面倒だろう。
「では、そちらはアル兄さんにお任せします」
「そうしてくれると助かるよ」
アル兄さんの声に、少しだけ安堵が混じったように聞こえた。
「それで、もう一通はオルフィアのことだったね」
「はい」
「誰に出すつもりだったの?」
「エレオノーラ殿です」
アル兄さんの目が細くなった。
「エレオノーラ殿に、何を頼むつもりだったのかな?」
「大したことではありません。帝国へ亡命するルディア家の令嬢がいるから、少し気に掛けてやってほしいと、それだけです」
「昨日、自分で言っていたよね。オルフィアへ同情しているわけではないと」
「同情ではありません」
「心配もしていない?」
「もちろんです」
アル兄さんは黙って俺を見た。
なぜだろう。
さっきより、さらに信用されていない気がする。
「ただ、多少の縁はありますから」
「宿場で会って、後をつけて、城まで連れてきただけだよね?」
「それを多少の縁と言うのでは?」
「普通は、そこから帝国貴族へ口添えの書状まで出さないと思うよ」
「ですが、あいつは自分の意思でここまで来ました」
外套を被り、たった一人の騎士だけを連れ、父親の決めた婚姻から逃げてきた。
やり方は無茶だ。
素の部分は少し残念でもある。
それでも、自分の言葉で帝国へ忠誠を誓うと言い切った覚悟は、本物だったと思う。
「帝国へ行った後、悪く扱われないよう少し頼むだけです。婚姻を止めろとか、特別扱いしろとか、そこまで言うつもりはありません」
「ギルが書けば、相手はそう簡単には受け取れないよ」
「そうでしょうか?」
「少なくともエレオノーラ殿は、なぜギルがそこまで気に掛けるのか考えるだろうね」
俺としては、ただ少し応援してやろうと思っただけだ。
頑張れ、まだ成長する機会はあるぞ、と。
もちろん、その部分まで書状に書くつもりはない。
「オルフィアの件は、僕からダル兄さんへ伝える」
アル兄さんはそう言って、残っていた茶を飲み干した。
「亡命後の扱いについても、必要なら向こうで話してもらうよ。だから、ギルは誰にも書状を出さないこと」
「エレオノーラ殿へ、一言だけでも?」
「駄目」
「挨拶のついででも?」
「駄目だよ」
即答だった。
仕方ない。
俺は大人しく頷いた。
「分かりました。では、お願いします」
「うん。任せておきなさい」
アル兄さんは席を立った。
だが、すぐに歩き出さず、俺を見下ろす。
「本当に、大人しくしているんだよ」
「もちろんです」
俺が胸を張って答えると、アル兄さんは少し疲れたように微笑んだ。
それから使用人へ何かを告げ、部屋を出ていく。
残された俺は、冷めかけた茶を口へ運んだ。
城下へも出られない。
書状も出せない。
気になったことを伝えるにも、すべてアル兄さんを通さなくてはならない。
うーむ。
謹慎とは、思っていた以上に不自由なんだな。




