第百四十二話 成長した大人
アル兄さんとの話を終え、俺は城の自室へ戻った。
もちろん、すぐに解放されたわけではない。
部屋を出る前には、アル兄さんから、くれぐれも自分勝手に動かないよう、穏やかな口調できっちりと念を押された。廊下へ出れば、今度はセバスチャンから、面白がって余計なことを始めないようにと釘を刺された。
二人とも、俺のことを心配して言ってくれている。それくらいは分かっている。
しかし、俺がまた何かしでかすと思われているのは、少し心外だった。
俺は理性的な平和主義者だ。
感情に任せ、何も考えずに動くようなことはしない。状況を見て、損得を考え、最も被害の少ない方法を選んでいる。
まあ、動いた方がいいと思った時に、そのための理屈を捻り出すことは多少あるが、それは感情任せとは違う。きちんと理由があるのだから、むしろ理性的と言っていいだろう。
そんなことを考えながら、俺は座り慣れた椅子へ腰を下ろしていた。
窓から差し込む光は、すでに少し傾き始めている。長く城を離れていたというのに、机の位置も、壁に掛けられた布も、窓から見える中庭も、何一つ変わっていない。
目の前には、白い湯気を立てる茶がある。
レティシアが淹れてくれたものだ。
杯を持ち上げ、香りを味わってから口へ運ぶ。熱さもちょうどよく、旅先の宿で出される茶とは比べるまでもない。
帰ってきた。
本来なら、もっと落ち着いてもよさそうなものだ。
それなのに、座り慣れた椅子へ身体を預けても、なぜか少しだけ居心地が悪かった。
理由は分かっている。
レティシアが、すぐ側にいるからだ。
茶を淹れ終えた彼女は、いつものように姿勢を整え、静かに佇んでいた。使用人服には乱れ一つなく、前へ重ねた手も、わずかに引いた顎も、見慣れた姿のはずだった。
だが、今日は全体の雰囲気が少し柔らかい。
口元には、消えそうなほど薄い笑みが残っている。俺が杯を持ち上げるたび、視線がこちらへ向けられ、目が合いそうになると静かに伏せられた。
露骨ではない。
それでも、先ほどから何度か繰り返されれば、意識されていることくらいは分かる。
ふふふ。
意外に思っているんだろう。
レティシアと会うのは久しぶりだ。
これまでの俺なら、顔を見た途端に手を取り、有無を言わせず寝室へ連れていっていた。そのまま長く離れていた時間を埋めるように、満足するまで求めていただろう。
だが、今の俺は少し違う。
俺は成長しているのだ。
久しぶりに会ったからといって、すぐに欲望へ従うような子供ではない。きちんとムードとか、雰囲気とか、流れとか、そのあたりを考慮して応対する。
具体的に何をどうすればよいのかは、まだよく分からんけど。
しかし、すぐに寝室へ行かず、こうして二人で静かに茶を飲んでいるのだから、十分に大人らしいのではないだろうか。
俺は満足しながら、もう一口茶を飲んだ。
レティシアが空いた茶器を整える。
細い指先が取っ手へ触れ、袖口から白い手首が覗いた。ほんのわずかな動きにすぎないのに、妙に目を引かれる。
視線を上げれば、きっちりと着込まれた襟の上に、滑らかな首筋が見えた。
「お味はいかがでしょうか」
「ああ、うまい」
「ありがとうございます」
柔らかく返す唇が、言葉に合わせてゆっくりと動く。
うむ。
実に柔らかそうだ。
いや、駄目だ。
我慢しろ。
俺は成長しているのだ。
茶へ視線を戻し、気持ちを落ち着かせようとする。しかし、杯を置いた先には、前で手を重ねるレティシアの姿があった。
その姿勢を取られると、使用人服の上からでも胸の豊かさがよく分かる。
さすがだな。
うーむ。
やはりレティシアの胸は素晴らしい。
しばらく見ていなかったせいだろうか。以前よりも、さらに豊かになったような気さえする。決して太ったわけではない。腰は引き締まり、立ち姿にも重さはない。それなのに、全体には以前より柔らかさが増したように見えた。
触れれば、さぞ心地よいだろう。
いや、以前から最高だった。それがさらに成長しているように感じるとは、さすがレティシアだ。
思わず喉が鳴りそうになり、慌てて茶を口へ運ぶ。
大丈夫だ。
俺は成長した。
大人なのだ。
これくらい、きちんと我慢できる。
できるはずだ。
たぶん。
「ダリアの体調はどうだ? 腹の子の様子は?」
何度か聞いていることではあるが、城へ戻った以上、改めて確かめておきたかった。
レティシアは胸元で重ねていた手をわずかに解き、静かに頷く。
「はい。どちらも順調です。ご心配はいりません」
そう答えて微笑んだ頬には、ほんのりと赤みが差していた。旅へ出る前より艶やかに見えるのは、久しぶりに会ったせいだろうか。
うむ。
やはり美味そうだ。
いや、今はダリアの話だ。
レティシアへ吸い寄せられかけた意識を戻し、俺は杯を机へ置いた。
「そうか。それならよかった」
すぐにでも顔を見に行きたい。
腹がどれほど大きくなったのかも気になるし、本人が不安なく過ごせているのか、自分の目で確かめたかった。
だが、帰ってきた勢いのまま押しかけるのもよくないだろう。
「うむ。あまり急かしてもなんだ。明日、ゆっくり会おう」
「はい。少しの間でしたら、大丈夫です」
レティシアが静かに頷く。
その動きに合わせ、胸元がわずかに揺れた。
すごいな。あれだけの動きで揺れるのか。
いや、だから今はダリアの話だ。
この世界では、男が妊婦へ頻繁に会いに行くことは、あまり歓迎されない。
特に俺のように魔力の強い男が近づけば、腹の子が穢れると考える者もいる。どこまで本当なのかは分からない。昔から続く迷信にすぎないのかもしれないし、魔力が胎児へ影響することなどないのかもしれない。
それでも、絶対に大丈夫だと確かめたわけではなかった。
俺の魔力は、自分でも扱いに困るほど強い。普段は抑えているとはいえ、近くにいるだけで何かが起きないとは言い切れない。
万が一があってからでは遅い。
自分が孕ませた女と、その子――まだ子と呼ぶには早いのかもしれないが――に会うだけなのに、ずいぶん面倒な話だとは思う。
だが、こういう昔からの伝統や迷信は、案外馬鹿にできない。理由が正しく伝わっていないだけで、何かしら避けるべきものがあった可能性もある。
ここは大人しく従っておこう。
レティシアも、俺が長くダリアの側にいることを喜んではいないらしい。面会を断ちはしなかったが、「少しの間」とわざわざ付けた。
俺が余計なことをしないよう、きちんと見ているのだろう。
「リエリエールはどうだ?」
続けて尋ねると、レティシアの瞳が柔らかく細められた。
「はい。お元気で、城での生活にも慣れておられます」
「そうか」
リエリエールなら、城の作法や貴族の暮らしに戸惑うことは少ないだろう。
元は帝国貴族なのだから当然だ。
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
ん?
マバール家が帝国貴族になったのなら、リエリエールも帝国貴族へ戻るのだろうか。
いや、実家はすでに滅んでいるようだし、元の家へ戻れるわけではない。ならば、帝国貴族へ復帰するという言い方も違う気がする。
だが、今のリエリエールは俺の側室だ。
俺は帝国貴族となったマバール家の三男なのだから、その側室であるリエリエールも帝国貴族として扱われるのかもしれない。
うーむ。
よく分からんな。
まあ、いいか。
肩書きがどう変わろうと、城内での扱いまで急に変わるわけではない。必要ならアル兄さんたちが考えるだろう。
「リエリエール様にも、お会いになりますか?」
レティシアの問いに、俺は少し考えるふりをした。
会いたい。
もちろん会いたい。
だが、リエリエールもレティシアに負けず劣らず、ひどく目を引く身体をしている。久しぶりに顔を合わせて、挨拶だけで済む自信はなかった。
「いや、リエリエールも明日にしよう」
「かしこまりました」
レティシアは何も追及せず、いつものように綺麗な一礼をした。
その動きで、引き締まった腰の線が使用人服越しに浮かぶ。
胸だけではない。
この細い腰も実に素晴らしい。
あれだけ豊かな胸を支えながら、どうしてここまで綺麗に締まっているのだろう。何か特別な運動でもしているのだろうか。
今度、聞いてみるか。
いや、聞いてどうする。
同じ運動を俺がしたところで、胸が大きくなるわけでもない。
そんな馬鹿なことを考えながら、俺は再び茶へ口をつけた。
茶の香りを味わっているうちに、先ほどまでいた部屋の光景がふと頭へ戻ってきた。
正しくは、オルフィアのことだ。
アル兄さんは、帝国があいつの亡命を受け入れる可能性は高いと言っていた。だが、その後に待っているものが、オルフィアの望んだ暮らしになるとは考えていないようだった。
帝国貴族の男を婿に入れ、帝国内でルディア家の名を継がせる。
オルフィアは父親が決めた婚姻から逃げ、自分の意思で帝国へ忠誠を誓うためにここまで来た。それなのに、亡命した先で別の政略結婚を命じられるのだとしたら、少しばかり気の毒ではある。
いや、別に同情しているわけではない。
心配しているわけでもないぞ。
ただ、あれだけ妙な形で出会い、城まで連れてきたのだ。多少の縁くらいはある。どうなるかを少し気にする程度なら、アル兄さんから注意された「勝手に動く」には入らないだろう。
そうだな。
帝国貴族の知り合いへ、手紙でも出してやるか。
俺が直接頼み事をできそうな帝国貴族など、エレオノーラ殿くらいしか思いつかないが、何も相手を探して結婚を止めろと書くわけではない。帝国へ亡命するルディア家の令嬢がいるから、悪く扱われないよう少し気に掛けてくれ、と伝える程度だ。
実際に帝都で話を進めるのは、ダル兄さんになるのだろう。
ならば、俺が手紙を一通加えたところで大した問題にはならないはずだ。
素の部分は少し残念な奴だが、覚悟だけは本物らしいから、よろしく頼む。
内容としては、そのくらいでいい。
自室で書くのだから、城の外へ出るわけでもない。謹慎を破ったことにもならないだろう。
たぶん。
ふむ、オルフィアか。
思い返してみれば、道中ではずっと頭から外套を被っていた。外套を取った姿をまともに見たのは、城へ入ってからだ。
もっとも、アル兄さんが同席する真面目な会談だったので、レティシアを見る時のようにじっくり眺めたわけではない。立ち上がった姿や、席へ着いた時の輪郭が目に入った程度だ。
それでも、うん。
なんというか、落ち着く身体だったな。
こう、目を奪われるというより、心が穏やかになるというか。妙に安心して見ていられるというか。
応援したくなる感じだった。
頑張れ、オルフィア。
まだ機会はあるぞ。
これからが成長期かもしれない。
何を応援しているのかは、自分でもよく分からんが。
「若様?」
不意に声を掛けられ、意識が自室へ戻った。
レティシアが、先ほどまでより少し近い場所に立っている。
俺が茶を飲む手を止め、違うことを考えているのに気づいたのだろう。わずかに首を傾け、椅子に座る俺の顔を確かめるように覗き込んでいた。
別に無礼な動きではない。
離れている間に何かあったのかと、俺の様子を気にしただけだろう。レティシアには何の責任もない。
ただ、ほんの少し近づいたのが悪かった。
茶の香気を越えて、覚えのある匂いが届く。
旅の間にはなかった、レティシアの匂いだ。
それだけでも、先ほどから積み上げてきた我慢にひびが入った。
さらに、覗き込むために少し前屈みになったのも悪い。
レティシアが前屈みになる。
それは当然、使用人服に包まれた豊かな胸が、普段より強く目の前へ迫るということだった。
近い。
素晴らしく近い。
「何か、お気に掛かることでも――」
レティシアの唇が動く。
だが、言葉の続きはほとんど頭へ入らなかった。
俺は成長した。
大人になった。
ムードも雰囲気も流れも大切にする。
そのつもりだった。
だが、考えてみれば、久しぶりに会ったレティシアと二人きりで茶を飲み、ダリアやリエリエールの無事を確かめ、ゆっくりと言葉を交わしたのだ。
ムードもあった。
雰囲気もあった。
流れも、たぶん十分にあったはずだ。
ならば、もう我慢する必要はないのではないだろうか。
そこから先は早かった。
レティシアが何か言ったはずだが、内容までは頭に残っていない。
気づけば俺は椅子から立ち上がり、目の前にいた彼女の身体を抱き寄せていた。
腕の中へ収まった柔らかさに、長く保っていた理性が音もなく崩れる。
「わ、若様……」
驚いたような声が胸元から聞こえた。
それでも、レティシアが俺を押し返すことはなかった。
俺は彼女を抱き締めたまま、迷うことなく寝室へ向かった。
大人として十分に我慢した。
少なくとも、俺はそう思うことにした。




