第百四十一話 亡命の行方
オルフィアが言葉を切っても、部屋にはしばらく誰の声もなかった。
茶器から立ち上る湯気が細く揺れ、窓から差し込む光の中で薄くほどけていく。先ほどまで机を挟んで言い争っていた女と同じ人物とは思えないほど、オルフィアは静かにアル兄さんを見つめていた。
我がルディア家の誇りのために。
父親の判断を否定し、家を出て、それでも家名を捨てるのではなく、自分の行動で守ろうとする。
その考えが正しいのかは、俺にはまだ分からない。家を出た娘一人の行動で、ルディア家がどう見られるかまで変えられるのかも分からなかった。
それでも、少なくともオルフィアは、自分が何を捨てることになるのか理解したうえでここまで来ているように見えた。
アル兄さんは急かさず、静かに彼女を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「あなたの覚悟は理解しました」
穏やかな声が、張り詰めていた部屋へ落ちた。
「帝国へ亡命できるよう、手を尽くしましょう」
オルフィアの目がわずかに見開かれた。
すぐに椅子から腰を上げ、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
街道で俺へ向けていた刺々しさは、そこにはなかった。細い肩にまだ力は入っていたが、声には隠しきれない安堵が滲んでいるように聞こえた。
隣で控えていたジルベッドも遅れて立ち上がり、オルフィアよりさらに深く頭を下げる。顔を上げた時には、先ほどまでより少しだけ表情が緩んでいた。
「お疲れでしょう」
アル兄さんは二人へ座るよう手で促しながら、柔らかく微笑んだ。
「部屋を用意します。そちらでゆっくりとお休みください」
「いえ」
オルフィアは椅子へ戻りかけた身体を止めた。
「これ以上、ご迷惑をお掛けするわけにはいきません」
反射的に断ったようにも見えたが、その目はわずかに迷っている。
昨夜から宿でも落ち着かず、朝になってからは俺たちに追われ、そのまま関所を越えて城まで馬を走らせてきた。本人が平然として見えても、疲れていないはずはない。
「亡命の準備には、多少の時間がかかります」
アル兄さんは断られても表情を変えなかった。
「それに、ここは安全です。外へ出て、あなた方を探している者と出会う危険を増やす必要はありません」
オルフィアは返事をせず、膝の上へ置いた手を見下ろした。
隣のジルベッドも口を挟まない。ただ、休んでほしそうに彼女の横顔を見ている。
しばらくして、オルフィアは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
顔を上げ、もう一度アル兄さんへ頭を下げる。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「そうしてください」
アル兄さんが頷き、部屋の外に控えていた使用人を呼んだ。
すぐに部屋が用意されるわけではないらしい。オルフィアとジルベッドは再び席へ戻り、残った茶へ口をつけた。
誰も無理に会話を始めなかった。
オルフィアは先ほどまでとは違い、肩から少し力を抜いている。自分の意思をマバール家へ伝え、少なくとも追い返されはしなかったことで、ようやく息をつけたのかもしれない。
俺は杯を傾けながら、その様子を眺めた。
父親の決めた結婚から逃げ、騎士一人だけを連れて領境を越え、俺たちに見つかっても家名を伏せ続けた。それでも最後には、自分の口で亡命を求めた。
面倒な女であることに変わりはない。
だが、ただ我が儘で飛び出してきたわけではなさそうだった。
ほどなくして扉が叩かれ、先ほどの使用人が静かに入ってきた。
アル兄さんから部屋の準備ができたと告げられると、オルフィアは杯を机へ戻し、立ち上がった。ジルベッドもすぐに後へ続く。
「では、失礼いたします」
オルフィアはアル兄さんへ丁寧に頭を下げた後、ほんの一瞬だけ俺を見た。
何か言うのかと思ったが、唇は動かない。
俺も声を掛けずに見返すと、オルフィアは小さく顎を上げ、そのまま使用人の後を追った。
ジルベッドは俺たちへ慌ただしく一礼してから、置いていかれないよう急いで部屋を出ていく。
扉が静かに閉じた。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを待ってから、アル兄さんは椅子の背へわずかに身体を預けた。
「ふう……」
本人たちの前では見せなかった小さなため息が、静かになった部屋へ落ちた。
アル兄さんのため息には、疲れよりも考え込むような重さがあった。
俺は手にしていた杯を机へ戻し、閉じた扉からアル兄さんへ視線を移す。
「いいんですか? 亡命なんて受け入れて」
アル兄さんはすぐには答えず、杯の中に残る茶を見下ろした。やがて顔を上げると、俺を安心させるように薄く微笑む。
「まあ、それくらいならね」
軽い言い方だったが、本当に軽い話だと思っているようには見えない。
それでも、アル兄さんが大丈夫だと言うのなら、俺よりずっと上手く話を進めるのだろう。父上へ報告するにしても、俺が余計なことを言うより任せた方が確実だ。
オルフィアをこの城へ連れてきたところまでは俺の独断だが、ここから先は俺が口を挟むことではない。
そう思ったのに、先ほどの姿が頭から離れなかった。
「……オルフィアは、亡命して上手くいくんでしょうか?」
アル兄さんの微笑みが、わずかに困ったものへ変わった。
「難しいだろうね」
予想していなかった返事に、俺は眉を寄せた。
「亡命できないということですか?」
「いや。おそらくだけど、帝国は亡命を受け入れると思うよ」
アル兄さんはそう答えながら、指先で杯の縁をゆっくりとなぞった。
「王国貴族の力を、楽に削ぐことができるからね」
口元にはまだ笑みがあったが、目は少しつらそうに見えた。
オルフィア一人が家を出ただけで、ルディア家の兵や領地がすぐに失われるわけではない。だが、家の娘が父親の判断を拒み、帝国へ亡命したとなれば、王国内で何の影響も出ないはずがなかった。
「オルフィアは、どうなるんです?」
「断言はできないけれど」
アル兄さんは一度言葉を切った。
「おそらく、帝国貴族の男子を婿に入れ、帝国内でルディア家の名を継がせるだろうね」
「帝国で、別のルディア家を作るということですか?」
「そうなる可能性は高いと思う」
オルフィアは、父親の力を借りずに自ら帝国へ忠誠を誓うと言った。
だが、帝国がその覚悟だけを受け取り、好きなように生きろと放っておくとは限らない。貴族の娘であり、ルディア家の血を引き、その家名を名乗る意思まで持っている。使い道を考えない方がおかしい。
アル兄さんは少し言いづらそうに視線を落とした。
「そうすれば、帝国へ移るか迷っている王国貴族を揺さぶることになるだろう。財も、大した数の家臣も伴わず、身一つで亡命して、それでも帝国貴族として扱われるのならね」
言われてみれば、分かりやすい話だった。
領地を捨てれば何も残らない。家臣を連れていけなければ、貴族として再び立つこともできない。そう考えて王国に留まっている貴族はいるだろう。
だが、オルフィアが帝国に受け入れられ、帝国内でルディア家の名を残すことができたなら、話は変わる。
財も領地も持ち込めず、護衛の騎士一人を連れただけでも、帝国側で家を作り直せる。その前例を見れば、同じように王国の先行きを不安に思っている者が動き出してもおかしくない。
もちろん、すべてアル兄さんの予想だ。
それでも、ありそうな話だった。
帝国にとっても利はある。
極論だが、貴族の価値は力であり、その力を生み出す根源は血である。オルフィアを受け入れ、帝国貴族の男子を婿に入れれば、戦って領地を奪わなくても、新たな貴族の血統を帝国内へ増やせる。
王国の貴族を揺さぶりながら、自分たちの側には新しい貴族家を作る。
労せずにそれができるなら、受け入れる価値は十分にあるだろう。
「……オルフィアは、そこまで考えて動いたんでしょうか?」
俺が尋ねると、アル兄さんは少し考えるように杯へ目を落とした。
「それは分からないね」
やがて、ゆっくりと首を振る。
「自分の亡命が、王国に残る貴族たちへどんな影響を与えるのか。帝国が自分をどう扱おうとするのか。そこまで正確に考えていたかは、本人に聞かなければ分からない」
アル兄さんは杯を持ち上げたが、すぐには口をつけなかった。
「ただ、かなり頭の良い女性だとは感じたよ。少なくとも、目の前の婚姻が嫌だというだけで飛び出してきたわけではない。父親の選択が家の将来へどう繋がるか、自分なりに考えている」
「時代の先を見ている、ということですか?」
「そうだね」
アル兄さんは静かに頷き、ようやく茶を一口飲んだ。
「どこまで正しく見えているかは別として、自分たちを取り巻く状況が変わったことには気づいている。王国貴族として今までどおり振る舞っていればいいとは考えていない。それだけでも、十分に珍しいと思うよ」
言われてみれば、オルフィアは父親が帝国貴族になろうとしていること自体には反対していなかった。
王国に残るべきだと叫んだわけでも、帝国へ移ることを恥じたわけでもない。気に入らないのは、そのために最初からマバール家へ縋ろうとした父親のやり方だったのだろう。
婚姻を嫌がって家を飛び出した面倒な令嬢。
最初はそれだけだと思っていたが、少し違うらしい。
「道中は、あまりそうは見えませんでしたけど」
昨夜の宿で周囲を警戒していた姿も、昼間の街道で目立つ外套を被り続けていた姿も、頭の良い人間の行動には見えなかった。こちらが何か言うたびに怒鳴り返してきた態度まで含めれば、なおさらだ。
アル兄さんは俺の言葉を聞くと、困ったように苦笑した。
「ギル。貴族のご令嬢が、騎士一人だけを護衛にマバール領まで旅をするのは、君が思う以上に大変なんだと思うよ」
「それは……まあ、そうでしょうけど」
城で守られて暮らしてきた令嬢が、家を抜け出して街道を進む。
どこに追手がいるかも分からず、頼れるのはジルベッド一人だけ。馴染みの商人へ金を渡し、荷に隠れてシルビア橋を抜け、宿では誰が自分たちを見ているかも分からない。
俺にとっては妙な行動でも、本人たちは必死だっただけなのかもしれない。
晴れた昼間に頭から外套を被っていたのも、隠れようとして他に考えが回らなかっただけなのか。関所を抜けた時に驚いていたのも、ようやく追手から離れられたと思ったからかもしれない。
ん?
もしかして、俺へのあの態度も、長旅で余裕がなかっただけなのか?
いや、いや。
それはあり得んだろう。
俺が名乗る前から睨んできたし、名乗った後も焼き尽くすと脅された。城へ着いてアル兄さんの前へ出ても、俺が話している途中で平然と遮っている。
あれがあいつの素の姿だ。
そうに違いない。
考えをまとめて顔を上げると、アル兄さんがじっとこちらを見ていた。
「何ですか?」
「いや」
アル兄さんはわずかに目を細めた。
「ギル。言っておくけれど、くれぐれも大人しくしておくんだよ」
「分かってますよ」
「最後まで聞きなさい」
先ほどと同じ言葉に、俺は口を閉じた。
「君は謹慎の身なんだから、彼女に同情して勝手に動いたりしたら駄目だからね」
「そんなことしません」
即座に答える。
「俺はオルフィアを城まで連れてきただけです。ここから先はアル兄さんたちに任せますよ」
「本当に?」
「本当です」
アル兄さんはまだ疑うように俺を見ている。
「分かっています。大人しく謹慎しますよ。別に同情なんてしてません」
「どうですかねぇ」
背後から、聞き慣れた声が割り込んだ。
振り返ると、少し離れた席にいたセバスチャンが、腕を組んだまま口元を歪めている。
「お前は黙ってろ」
「若様が大人しくしてくれるなら、別に何も言いませんぜ」
「するって言ってるだろうが」
セバスチャンは返事の代わりに鼻を鳴らした。
アル兄さんまでもが、俺とセバスチャンを見比べながら苦笑する。
「ギルは、気に入った相手には優しいからねぇ」
「誰も気に入ってなどいません!」
思わず声を張ったが、アル兄さんの苦笑は消えず、セバスチャンも少しも信じていない顔をしていた。
人の気配が薄れたはずの部屋で、それでも俺の言い訳だけが行き場を失い、静かに宙へ溶けていく。
その残響だけが、やけに耳の奥に残ったままだった。




