第百三十五話 智者と愚者
シルディア城の広間で、俺は深く頭を下げていた。
磨かれた床へ片膝をつき、両手を添えたまま、正面に座る父上の気配を窺う。
広間の奥にはガルシア・マバールが座り、その隣にはザイン・エディオンがいる。
父上は何も言わない。
ただ、静かに俺を見ていた。
うーん。
怒ってるのか?
顔を上げて確かめるわけにもいかず、伏せた視界の端に映る父上の足元から様子を探る。だが、怒りを押し殺しているような重苦しさは感じなかった。
なんとなくだが、それほど怒っていないような気がする。
父上はシルビア橋へ到着すると、俺へ同行するよう命じ、そのままシルディア城へ入った。
橋から城へ向かう間も、特に不機嫌な様子はなかった。俺を睨みつけることもなければ、王都や北方諸国軍について尋ねることもない。
もしかすると、バレてないのか?
俺は頭を下げたまま、ほんの僅かに視線を横へ動かした。
ザイン殿は父上の隣で平然としている。
俺たちが王都へ向かったことを隠すため、マバール家からの使者へ何度も説明してくれた人物だ。もし父上から何か問い詰められていたなら、少しくらい困った様子を見せてもよさそうなものだが、今の顔からは何も読み取れない。
うん。
バレてないかもしれない。
そうだよな。
俺とセバスチャンは、王都からほとんど全力で戻ってきた。宿へ泊まっても最低限の休息だけで出発し、宿がなければ野宿で済ませた。
ザイン殿も、俺たちは周辺の偵察へ出ていると上手く誤魔化してくれた。
王都で名乗ったのもギルバートだけだ。
マバール家の名までは出していない。
これなら、本当にバレていないのではないか。
「ギルバート」
静かな声が広間へ響いた。
俺は余計な考えを止め、さらに姿勢を正す。
「シルビア橋のこと、ご苦労であった」
「はっ」
短く答え、もう一度深く頭を下げた。
よしっ。
バレてない。
最初に出た言葉が叱責ではなく、シルビア橋での働きを労うものだった。その事実だけで、胸の奥に溜まっていた緊張が少し緩む。
父上が王都行きを知っているなら、わざわざ先に褒める必要はないだろう。
少なくとも今すぐ怒鳴られることはなさそうだ。
俺が内心で安堵していると、隣に座るザイン殿が父上へ顔を向けた。
「ガルシア殿、今日の急な来訪とは、どうなされた?」
ナイス質問。
俺が聞けば、余計なことを探ろうとしていると思われるかもしれない。ザイン殿が尋ねてくれるなら、俺は黙ったまま父上の用件を聞ける。
父上はすぐには答えなかった。
一度だけ俺へ視線を落としたように感じた後、ザイン殿へ向き直る。
「うむ。情勢が変わった」
低く落ち着いた声に、ザイン殿の表情が僅かに引き締まった。
「前線で王国貴族たちに対応せねばならん。ザイン殿にも協力を願いたい」
「うむ。喜んで」
ザイン殿は迷いなく頷いた。
王国側で何か動きがあったらしい。
だが、父上が直接ここまで来て協力を求めるほどの変化とは何だろう。
俺が考え始めたところで、父上の視線が再びこちらへ向いた。
今度は、俺の反応を確かめるような静かな間があった。
「カルデア・トラギスが死んだぞ」
父上は静かに告げた。
「なっ……」
思わず顔を上げる。
父上の表情に冗談の色はない。ザイン殿も初めて聞いたらしく、驚いたように目を見開いていた。
あの婆さんが、死んだのか。
確かに、弱っていた。
俺が感じた魔力は、もはや騎士と大きく変わらないほどまで衰えていた。立って話している姿も細く、長い時間を戦い続けてきた身体には、残された力がほとんどないように見えた。
もう時間がない。
そう思ったのは、つい先日のことだ。
だが、まさか本当に、これほど早く死ぬとは思わなかった。
「本当ですか?」
ザイン殿が父上へ問いかける。
父上はゆっくりと頷いた。
「うむ。王国との和平が成立し、北方へ戻る途中で息を引き取ったようだ」
和平。
カルデアは、王城を落とすことなく北へ帰る決断をしたのか。
やはり、あの軍を失うほどの攻撃には踏み切れなかったらしい。
それでも、帰り着くまでは生きていられなかった。
王都の北側で、こちらを見上げていた小さな姿が頭に浮かぶ。
俺へトラギス家を継げと言い、断れば竜の炎は手に入らぬかと笑った。
あれが、最後だったのか。
「それでは、北方諸国軍は?」
ザイン殿の声が、どこか遠くから聞こえた。
俺の意識はまだ、カルデアの姿から戻り切っていない。
「王国軍に背後から襲いかかられたが、大崩れせず北方まで戻ったそうだ」
父上の返答に、俺は僅かに眉を寄せた。
和平が成立した後に襲ったのか。
北方諸国軍が王都から離れ、しかもカルデアを失った直後なら、王国側にとっては絶好の機会に見えたのかもしれない。
だが、背後から襲われても崩れなかった。
あの軍なら、あり得る。
規律は確かだった。カルデアが死んでも、命令された隊列や動きまで一瞬で失われるわけではない。少なくとも北へ戻るまでの間は、残された者たちが軍を保ったのだろう。
「ほう。よくあの善良王が背後から襲いましたな」
ザイン殿が意外そうに言う。
父上は小さく鼻を鳴らした。
「ふっ。勝手に貴族どもが動いただけのようだ」
「なるほど」
ザイン殿は顎へ手を添えた。
善良王が命じたのではない。
王国貴族たちが、自分たちの判断で北方諸国軍を追った。
和平を結んだ後だというのに。
「うーむ」
ザイン殿は少し考えた後、困ったように眉を下げた。
「背後から襲われながら崩れなかった北方諸国軍を褒めるべきか、背後から襲いながら敵を崩せなかった王国軍を嘆くべきか。善良王も悩んでおるでしょうな」
「嘆いておるのではないかな?」
父上の口元に、僅かな苦笑が浮かんだ。
「どうやら、和平の条件である領土割譲は行うようだからな」
北方諸国軍を追撃しながら、それでも土地は渡すのか。
王国貴族が勝手に動いただけで、善良王としては和平を破ったつもりはないのだろう。北方諸国との約束も、そのまま守るつもりらしい。
だが、追われた側がどう思うかは別だ。
「それはまた、呑気なものですなぁ」
ザイン殿の声には、呆れたような響きが混じっていた。
父上は否定せず、静かに座っている。
俺はまだ膝をついたまま、二人の会話を聞いていた。
カルデアは死んだ。
北方諸国軍は戻った。
王国貴族は和平後の軍を背後から襲い、それでも王国は約束どおり領地を渡す。
数日の間に、俺が考えていたよりも多くのことが動いていた。
ザイン殿が感心したように父上を見る。
「しかし、さすがガルシア殿ですな。情報が早い」
「王都にも多少は諜報を残しておる」
父上はそう言って、静かに頷いた。
その視線が、ゆっくりと俺へ戻る。
何も言われていない。
だが、妙に長い。
さっきまで胸の奥に残っていた安堵が、急速に萎んでいった。
……王都にも諜報を残している。
北方諸国軍の動きも、カルデアの死も、王国貴族たちの追撃まで知っている。
それなら、王都の北側で派手に魔力を解き放ち、カルデアを呼び出した者の話が、父上へ届いていないはずがない。
うん、これはバレてるな。
俺は頭を下げたまま、全身から冷たい汗が滲むような感覚を覚えた。
俺が王都へ向かったことを知っている。
それどころか、カルデアと会ったところまで把握しているかもしれない。
だから先ほど、カルデアの死を告げる前に俺の反応を見たのか。
ザイン殿が平然としていたのも、父上に知られていないからではなかったのだろう。あの人はただ、何も顔に出さなかっただけだ。
うーん。
完全に早とちりした。
「ギルバート」
「はっ」
父上の声に、俺は姿勢を正した。
「カルデアをどう思う?」
その声には、ほんの少しだけ面白がっているような響きが混じっている気がした。
俺がどう答えるのか、試しているのかもしれない。
ここで会っていないふりをする意味は、もうないだろう。
父上がどこまで知っているのか確かめるために、下手な嘘を重ねれば余計に印象が悪くなる。
それに、カルデアについてだけは誤魔化したくなかった。
「老いてはいましたが、間違いなく英雄であると感じました」
俺は顔を上げ、胸を張って答えた。
魔力は衰えていた。
自ら前へ出て戦う力も、もう残っていなかっただろう。
それでも、あの場にいた北方諸国軍の貴族や騎士たちは、カルデアの一言で黙った。あれほどの軍を王都まで進め、王城を包囲したのは間違いなく彼女の功績だ。
老いたからといって、英雄であった事実まで消えるわけではない。
隣を見ると、ザイン殿がほんの少し困ったような顔をしていた。
俺があっさり答えるとは思っていなかったのかもしれない。
父上は俺の顔をしばらく見た後、僅かに眉を上げた。
「ほう。王都行きを認めるのか?」
「はい」
俺は迷わず頷いた。
隠し通せるとは思えない。
ならば、変に言い訳をするより正直に認めた方がいい。
「同行したのはセバスチャンだけか?」
「はい。私が命じました」
セバスチャンが勝手についてきたわけではない。
止められた上で、俺が連れていくと決めた。
あの男が責任を負う理由はなかった。
「ザイン殿にも、私が協力をお願いしました」
父上の隣に座るザイン殿へ視線を向ける。
マバール家からの問い合わせを誤魔化してくれたのも、俺が頼んだからだ。ザイン殿自身が俺を王都へ行かせようとしたわけではない。
父上はゆっくりと俺の言葉を聞き終えると、背もたれへ僅かに身体を預けた。
「ふむ」
広間に短い沈黙が落ちる。
「すべてはお前の責任だな、ギルバートよ」
問いかける形ではあったが、声は確認するように静かだった。
「はい。すべては私一人の責任です」
俺は深く頭を下げた。
やむを得んな。
無断で王都まで行ったのは俺だ。
セバスチャンを連れ出したのも、ザイン殿へ口裏を合わせてもらったのも俺の判断だった。
ここで二人へ責任を押しつけるくらいなら、最初から王都になど行くべきではなかった。
どんな処分を受けることになるのかは分からない。
だが、覚悟だけは決めておこう。
そう考えたところで、父上は意外なことを尋ねた。
「カルデア以外に、北方諸国軍に見るべき人物はいたか?」
「いえ、いませんでした」
俺は少し考えてから答えた。
もちろん、北方諸国軍にいた全員を詳しく見たわけではない。
だが、カルデアの周囲に集まっていた貴族や騎士たちの中に、彼女と並べて考えられるような人物は見当たらなかった。
「カルデアは確かに英雄でしたが、確かに衰えていました。後を継ぐ者に苦慮しているように感じました」
俺へトラギス家を継がないかと持ちかけたことまでは口にしなかった。
ただ、あの場で感じたことに嘘はない。
カルデアが一言発すれば、周囲は黙った。
俺を囲んでいた者たちが声を荒らげても、彼女が目を向けるだけで押し黙った。北方諸国軍があれほど整っていたのも、あの老婆が長い時間をかけて作り上げたからだろう。
だが、その中心にいる者が大きすぎた。
父上は俺の答えを聞き、ゆっくりと頷いた。
「うむ。カルデアはあまりに大きすぎたな。あれでは後を継ぐ者は比べられるだけだ」
「いつの世も、英雄の後継者には苦労しますな」
ザイン殿も静かに頷く。
カルデアほど長く生き、国そのものを背負うように立ち続けた者の後へ座る。
それだけでも苦しいだろう。
前の者と同じことができなければ弱いと言われ、違うことをすればカルデアならそうはしなかったと言われる。どれほど力があっても、最初から自分自身を見てもらえない。
北方諸国軍が帰還まで崩れなかったとしても、その先までまとまり続けるかは分からない。
俺が考えている間に、父上の視線が再びこちらへ向いた。
「ギルバート」
「はっ」
「シルビア橋の件は見事だ」
胸の奥が僅かに軽くなる。
だが、続く言葉を待つ間に、その軽さはすぐ消えた。
「しかし、勝手に王都へ行ったことはけしからん。マバール城へ戻り、謹慎せよ」
「はっ」
俺は深く頭を下げた。
やはり、処分はあるらしい。
怒鳴られることも、長々と説教されることもなかった。だが、父上の声には逆らえる余地がない。
マバール城へ戻り、謹慎。
どのくらいの間なのかは告げられなかったが、少なくとも自由に外へ出ることはできなくなるのだろう。
カルデアに会うという目的は果たした。
ならば、ここで不満を口にする理由もない。
「善良王には会ったか?」
頭を下げたまま、俺は少しだけ顔を上げた。
処分を告げた後に、そこを確認するのか。
「いえ。正直、カルデアほど興味がありませんでした」
王都まで行ったからといって、善良王にまで会いたいとは思わなかった。
王城は北方諸国軍に囲まれていたし、無理に入り込めば余計な騒ぎになる。それ以前に、そこまでして顔を見たい相手でもない。
カルデアは百年前の英雄だった。
死ぬ前に一度会ってみたいと思った。
正直なところ善良王には、そう思わせるものがなかった。
「そうか」
父上はそれ以上尋ねず、短く頷いた。
叱責も質問も終わったらしい。
俺はもう一度頭を下げた。
「それでは、失礼します」
立ち上がり、父上とザイン殿へ礼をしてから広間の出口へ向かう。
背中へ父上の視線を感じたが、振り返らずに歩いた。
扉へ手をかけようとした時、後ろから声が届いた。
「ギルバート」
足を止め、振り返る。
父上は先ほどと変わらぬ姿勢で座っていた。
「智者は読めるが、愚者は読めん。気をつけよ」
「はあ」
思わず曖昧な返事になった。
父上はそれ以上何も言わない。
ザイン殿も口を挟まず、静かにこちらを見ている。
俺はもう一度頭を下げ、広間を出た。
扉が背後で閉じる。
広間の張り詰めた空気から離れた途端、肩に入っていた力が少し抜けた。
自室へ向かう廊下を歩きながら、父上の最後の言葉を思い返す。
智者は読めるが、愚者は読めん。
「んー?」
王国貴族たちのことか?
和平が成立した後、善良王の命令でもないのに北方諸国軍へ襲いかかった者たち。勝てると考えて動いたのか、カルデアが死んだと知って勢いだけで追ったのかは分からない。
あるいは、善良王のことか。
自分の束ねる貴族たちが和平を破るような真似をしても、領土割譲はそのまま行う。父上やザイン殿の話を聞く限り、俺にはよく分からない動きだった。
どちらを指しているのだろう。
両方かもしれない。
考えても、父上の真意までは読めなかった。
それよりも、今は謹慎だ。
「うーむ」
重い処分なのか、軽い処分なのか分からんなぁ。
ただ勝手に王都へ行っただけと考えれば、マバール城へ戻されて謹慎というのは重い気もする。
だが、父上から正式な命も受けていないのに、シルビア橋と周辺のことをザイン殿へ頼み、セバスチャンだけを連れて王都まで行った。
その間に何か起きていれば、俺はすぐに戻れなかった。
そう考えると、謹慎だけで済むのは軽いのかもしれない。
「んー? やっぱり父上、そんなに怒ってないような?」
シルビア橋での働きは褒められた。
王都で見たことも聞かれた。
セバスチャンやザイン殿へ責任を負わせることもなく、俺を怒鳴りつけることもなかった。
まあ、怒っていないからといって、勝手に動いてよかったことにはならない。
俺は廊下の先にある自室の扉を見ながら、小さく息を吐いた。
「まあ、反省はしなくちゃな」




