第百三十四話 束の間の休息
シルディア城へ戻った翌朝、俺はザイン・エディオンと向かい合って朝食を取っていた。
窓から差し込む朝の光が、卓の上に細長く伸びている。器からはまだ湯気が立ち、焼いた肉と温かなパンの匂いが混ざっていた。
王都から戻る道では、食事をゆっくり味わう余裕などなかった。宿を見つけても長くは留まらず、夜明け前には起きて馬を走らせた。宿がなければ野宿で済ませ、身体の疲れが抜けきらないまま次の日を迎えた。
椅子に座り、温かい食事へ手を伸ばせるだけで、随分と久しぶりに落ち着いた気がする。
昨夜は城へ戻れた安心の方が強かった。
ザイン殿から俺たちがいない間のことを少し聞いたものの、詳しく尋ねる前に身体の疲れが勝ってしまった。寝台へ横になった後の記憶もほとんどない。
向かいに座るザイン殿は、食事の手を止めると、空いている席へ視線を向けた。
「筆頭騎士殿は?」
「シルビア橋の警備に向かいました」
俺は思わず苦笑した。
「どうも休むのは苦手なようで」
「そうか。うむ」
ザイン殿は納得したように頷いた。
セバスチャンも、俺と同じだけ馬に乗って戻ってきたのだ。疲れていないはずがない。それなのに朝になると、橋の様子を見てくると言って城を出ていった。
本人は軽く見回るだけのつもりかもしれないが、あの男が本当に眺めるだけで戻ってくるとは思えない。警備に立つ者の配置から、橋を渡る者への対応まで一つずつ確かめるのだろう。
休ませようとしても、結局は自分から仕事を探す。
俺は杯を置き、昨夜から気になっていたことを尋ねた。
「マバール家よりの使者は、何か言っていましたか?」
ザイン殿は少しだけ眉を下げた。
「うむ。ギルバート殿のことを尋ねられたが、周辺を筆頭騎士殿と偵察中だと答えておいた」
そう言って、困ったように笑う。
俺も同じような顔になった。
「ご苦労をおかけしました」
「まったくだ」
声は穏やかだったが、否定はされなかった。
俺だけでなく、セバスチャンまで城からいなくなっていたのだ。マバール家から問い合わせが来れば、ザイン殿が説明しなければならない。
周辺を偵察しているという話なら、不自然ではない。
シルビア橋を押さえたばかりで、周囲の様子を確かめる必要はある。俺が筆頭騎士を連れて城を離れていても、理由としては通るはずだ。
ふむ。
俺がいなかったことは、バレただろうな。
だが、王都へ行っていたことまではバレていなさそうだ。
王都でマバール家の名を出した覚えはない。北方諸国軍の前でも、名乗ったのはギルバートだけだ。
帰り道の関所でも、セバスチャンが上手く話を作ってくれた。王都から戻る二人組の魔力持ちがいたと伝わったとしても、それだけで俺たちだと決めつけることはできないだろう。
少なくとも、確かな証拠まではないはずだ。
俺が僅かに肩の力を抜くと、ザイン殿がこちらを見た。
「確証はないだろうが、疑ってはいたようだ。お気をつけられよ」
使者と直接言葉を交わしたザイン殿がそう感じたのなら、完全に誤魔化せたと安心するのは早いらしい。
それでも、王都へ行っていたと断定されていないだけましだ。
俺は素直に頷き、ザイン殿へ微笑んだ。
「ええ。ありがとうございます」
朝食を終えた後、俺はシルディア城を出てシルビア橋へ向かった。
城門を抜けると、朝の冷えた空気が頬へ触れる。空はよく晴れており、遠くに見えるシルビア河の水面が光を細かく返していた。
王都から戻る途中は、ひたすら道の先だけを見ていた。
父上に知られる前に戻らなければならない。そのことばかり考え、周囲の景色を楽しむ余裕などなかった。
今は馬を急がせる必要もない。
シルディア城から橋へ続く道をゆっくり進みながら、行き交う人や荷車の様子を眺める。
以前より数が増えている。
商人らしい者たちは荷車を止めることなく橋へ向かい、反対側から来た者も、警備に立つ兵へ過剰に怯えてはいなかった。立場が変わったばかりの場所とは思えないほど、道の流れは落ち着いている。
橋の手前へ着くと、セバスチャンはすぐに見つかった。
警備に立つ者たちから少し離れた場所で、橋を渡る荷車と兵の動きを見比べている。朝から働いているというより、昨夜から一度も休んでいないような顔だった。
「どうだ? 様子は?」
俺が近づきながら尋ねると、セバスチャンは橋から目を離した。
「まあ、だいぶ落ち着いておりますな」
「問題はないか?」
「今のところは。警備の連中も慣れてきやしたし、通る方も前みてえにいちいち足を止めなくなってやす」
言われて見れば、橋の入口で立ち往生している者はいない。
兵たちも必要な確認だけを済ませ、荷車や旅人を通している。王国側から来た者へ武器を向けることもなければ、マバール領側へ向かう者を執拗に調べる様子もなかった。
橋を押さえる者が変わっても、通行料と警備のやり方は変えなかった。
新しく支配する場所だからと急に何かを変えれば、平民も商人も警戒する。橋を渡るたびに取られる金が増えるのか。王国側の人間というだけで止められるのか。昨日まで通れた道を、今日から使えなくされるのか。
そうした不安を増やさず、これまでどおり通れると示した。
その結果が、今の落ち着きなのだろう。
「さすがザイン殿だな」
「エディオン家の当主ですからな。あの程度で手間取る御仁じゃありやせんよ」
セバスチャンの返事には、ザイン殿への信頼が滲んでいた。
シルディア城も同じだ。
俺たちが最初に入った頃は、城内のどこを見ても人手が足りていなかった。残っていたシルディア家の使用人たちは、少ない人数で部屋を整え、食事を用意し、城を維持しようとしていた。
休んでいる姿を見る方が珍しいほどだった。
だが、ザイン殿が連れてきたエディオン家の使用人たちが加わってから、城内の動きは明らかに変わっている。
誰か一人がいくつもの仕事を抱え込むことも減り、廊下を走るように行き来する者も見かけなくなった。昨日城へ戻った時も、以前からいた使用人たちの表情には、少し余裕が戻っているように見えた。
エディオン家の者たちも、勝手に城を仕切っているわけではない。
もともと働いていた者へ確認しながら、足りないところへ入っている。そのためか、シルディア家の使用人たちも警戒するより、助かったと感じているようだった。
橋も城も、ザイン殿が来てから上手く動いている。
「ふむ。さすがだな」
改めて呟くと、セバスチャンが俺を横目で見た。
「安心しすぎるのも早いですぜ」
「ああ、分かってる」
俺は周囲に聞こえないよう、声を落とした。
「何かあれば報告しろ」
セバスチャンは返事をせず、僅かに頷いた。
ザイン殿やエディオン家が裏切るとは思っていない。
アル兄さんの婚約者の父であり、父上と共に王国を離れた協力者だ。国境貴族たちをまとめた実績もある。
だからこそ、ここまで任せられているのだろう。
だが、シルビア領をこれからどう扱うのか、父上から正式な命はまだ届いていない。
何も決まっていないうちから、すべてを任せ切ってよいわけではなかった。
俺は橋を渡っていく荷車へ目を向けたまま、緩みかけていた気を静かに引き締めた。
それから数日は、大きな問題も起こらなかった。
朝になればシルディア城で食事を取り、その日の様子に合わせて橋や砦へ向かう。通行する者の数を眺め、警備に立つ者たちの動きを確かめ、何か報告があれば話を聞く。
だが、俺が直接手を出さなければならないことは、ほとんどなかった。
橋を渡る荷車は滞りなく進み、通行料を巡って揉める者も見かけない。王国側から来た者たちは、最初こそ兵の姿を警戒するものの、これまでと変わらず通れると分かれば、肩の力を抜いて先へ進んでいく。
警備に立つ者たちも、必要以上に旅人を止めようとはしなかった。
俺が最初に決めた形をザイン殿は崩さず、余計な変化を加えていない。
その単純なことが、今のシルビア橋には一番よいのだろう。
俺が橋へ顔を出しても、何かを命じる必要はなかった。兵たちは自分たちの役目を理解しており、セバスチャンも細かなところまで目を配っている。
ならば、俺が無理に仕事を増やすこともない。
昼前には砦へ戻り、窓から橋の様子を眺める。何もなければ椅子へ座り、茶を飲みながら時間を過ごした。
王都まで走り、カルデアに会い、急いで戻った。
身体の疲れは寝台でゆっくり眠った事でほとんど抜けたが、何もせず椅子へ背を預けていると、いつの間にか瞼が重くなることもあった。
そういう時は、無理に起きていようとはしなかった。
父上に見つかる前に戻らなければならないという焦りもない。北方諸国軍の陣前で何が起こるか警戒する必要もなく、道の先に野盗や関所が現れることもない。
久しぶりに、時間がゆっくり進んでいるように感じられた。
セバスチャンは相変わらず忙しそうだった。
橋へ行けば警備を見て、砦へ戻れば報告を聞き、気になるところがあれば自分で確かめに行く。俺が休んでいる横を通るたびに、呆れたような目を向けてくることもあった。
「少しくらい休めばいいだろ」
そう言うと、セバスチャンは鼻を鳴らした。
「若様が二人分休んでるんで十分ですぜ」
「俺は働いてるぞ」
「どこがです?」
「皆を見てる」
「それを休んでるって言うんですよ」
反論しようとしたが、窓の外を眺めながら茶を飲んでいるだけでは説得力がなかった。
俺は諦めて杯へ口をつけた。
平和だ。
少なくとも今は、橋を巡って誰かが争う様子もなく、城内から急報が届くこともない。
ザイン殿がシルディア城にいて、セバスチャンが橋を見ている。
何かあれば、どちらかが知らせてくるだろう。
もちろん、父上から正式な命が来るまでは油断できない。
シルビア領をどこまでマバール家が押さえ、エディオン家がどこまで関わるのか。今後の形が決まっていない以上、今の落ち着きがそのまま続くとも限らない。
それでも、目の前で問題が起きていないのなら、急いで騒ぐ必要もなかった。
俺は数日の間、シルディア城とシルビア橋を行き来しながら、久しぶりの静かな時間を味わった。
このまま、しばらく何も起きなければいい。
そんなことを考えながら、俺はいつものように砦の窓辺へ立ち、シルビア橋を眺めていた。
その日も、橋の流れは穏やかだった。
砦の窓から見下ろすと、荷を積んだ荷車がゆっくりと橋を渡っている。反対側からは馬に乗った旅人が来て、入口に立つ兵へ何かを答えた後、そのままマバール領側へ進んでいった。
怒鳴り声もない。
足を止めて揉める者もいない。
大河を渡る風が砦の壁へ当たり、開いた窓から冷たい空気を送り込んでくる。水面には昼の光が揺れ、橋の下を流れる水の音が、遠くから薄く届いていた。
俺は窓枠へ片手を置き、橋の向こうへ目を向ける。
この数日で、ここから見える景色にも随分と慣れた。
橋を渡る者の数。
荷車が進む速さ。
警備に立つ兵たちが交代する頃合い。
眺めているだけでも、いつもと違うものがあれば何となく分かるようになっていた。
だから最初は、道の向こうに何か見慣れないものがあるのかと思った。
「ん?」
マバール領側から、何かが近づいている。
姿が見えたわけではない。
街道の先は距離があり、地形に隠れている部分も多い。それでも、普段とは違う何かがこちらへ向かっているような感覚があった。
「なんだ?」
独り言が漏れる。
兵の一団か。
商人の集まりか。
それとも、マバール家から正式な命を運ぶ使者でも来たのか。
目を凝らしても、まだ遠すぎて分からない。
俺は窓辺から身体を起こし、感知魔法を展開した。
魔力を薄く拡げ、街道の先へ伸ばしていく。
橋を渡っている平民や商人たちから、魔力反応は返ってこない。窓から姿は見えていても、感知魔法の中には何も浮かばなかった。
そのまま橋を越え、さらにマバール領側の街道へ魔力を伸ばしていく。
やがて、こちらへ近づいている複数の魔力反応に触れた。
その中に、よく知っているものがある。
「げっ!」
思わず声が出た。
間違えるはずがない。
子どもの頃から何度も近くで感じてきた。城内にいれば、それだけでどこにいるか分かるほど覚えている。
「なんで……」
北方諸国軍でもない。
王国側の貴族でもない。
王都へ行ったことを問い詰められるより、今はもっと会いたくない相手だった。
いや。
王都へ行ったことを問い詰めるために来た可能性があるからこそ、会いたくない。
胸の奥が急に重くなる。
ザイン殿は、なんとか誤魔化したと言っていた。
使者も確証までは持っていなかったらしい。
俺がシルディア城にいなかったことは疑われても、王都まで行ったことは知られていない。そう考えていた。
だが、向こうから近づいてくる魔力反応は、そんな俺の期待を簡単に壊していた。
なぜ本人が来る。
使者を送れば済むだろう。
正式な命を伝えるだけなら、わざわざシルビア橋まで来る必要はない。
嫌な予感しかしない。
背後から足音が近づいた。
廊下を急ぐ重い足取りが扉の前で止まり、間を置かずに開く。
「何事ですかい?」
セバスチャンが部屋へ入ってきた。
俺が感知魔法を展開したことに気づいたのだろう。普段より速い足取りで駆けつけたらしく、すぐに窓辺まで来て街道の先へ目を向ける。
俺は感知魔法を保ったまま、近づいてくる反応をもう一度確かめた。
消えていない。
別人でもない。
こちらへ真っ直ぐ進んでいる。
「マズいぞ」
俺が答えると、セバスチャンの顔から軽さが消えた。
窓の外へ視線を向けたまま、身体に僅かな力が入る。
「まさか敵ですかい?」
声は低い。
だが、セバスチャン自身も疑問に思っているようだった。
反応が来ているのはマバール領側だ。
王国側から橋を渡ってくるならともかく、こちら側から敵が近づいてくる可能性は低い。
俺は首を横に振った。
「いや、敵ではない」
「なら、何をそんなに慌ててるんです?」
「今、一番会いたくない相手だ」
「は?」
セバスチャンが戸惑った顔で俺を見る。
俺は感知魔法を解き、窓枠へ両手を置いた。
逃げるわけにもいかない。
今からシルディア城へ戻って隠れても、すぐに見つけられるだろう。むしろ、逃げたと分かれば余計に怒られる。
王都へ行ったことを知られているのか。
知らずに別の用件で来たのか。
まだ分からない。
だが、どちらにしても、安心できる理由は一つもなかった。
「父上だ」
肩を落として答えると、セバスチャンはしばらく黙った。
それから深く息を吐く。
「ふう……こりゃヤバいですなぁ」




