第百三十二話 急ぐ帰り道
俺たちは乾いた街道を、二頭の馬で駆けていた。
王都を離れてから、まだそれほど時間は経っていない。振り返っても城壁は見えなくなっていたが、北方諸国軍の陣で起こした騒ぎまで遠ざかったとは思えなかった。
カルデアが追わせることはないだろう。
それでも、別のところから父上の耳へ入る可能性までは消せない。
「ほら、急げよ」
俺は隣を走るセバスチャンへ笑いかけ、手綱を軽く引いた。
馬が首を伸ばし、蹄の間隔をさらに狭める。風が頬を叩き、外套の裾を後ろへ持ち上げた。
セバスチャンは遅れずについてきたが、顔には明らかな不満が浮かんでいる。
「だから、寄り道なんかするんじゃねえと言ったでしょ」
「ちゃんと帰ってるじゃないか」
「帰りゃいいって話じゃありやせん。若様が大人しくシルビア橋に残ってりゃ、こんなに馬を急がせる必要もなかったんですぜ」
「でも、カルデアには会えたぞ」
「会えたから何でも許されると思わんでくだせえ」
少し怒っているな。
声を荒らげるほどではないが、普段より言葉の切れが強い。俺が王都へ向かうと決めてから、何度も止めようとしていたのだから当然かもしれない。
それでも最後までついてきたのはセバスチャンだ。
北方諸国軍の前でも隣に立ち、俺が魔力を解放しても逃げなかった。文句を言いながら付き合うところが、この男らしい。
俺は街道の先へ目を向けた。
緩やかに曲がる道の両側には、背の低い草が広がっている。遠くには木々の塊が見えるが、今の道はその脇を避けるように伸びていた。
「うーん、帰り道は別のところを通った方が面白かったかもな」
「アホなこと言わんでくだせえ」
間を置かず返された。
「でも、面白そうじゃないか?」
「何があるかも分からねえ道を選んで、また厄介事に首を突っ込むつもりですかい」
「厄介事があるとは限らないだろ」
「若様が行きたがるところには、大抵ありやすよ」
心外だ。
行きに野盗と出会ったのは偶然だし、王都へ向かったのはカルデアに会うためだった。少なくとも、厄介事を探していたわけではない。
まあ、結果としてどちらにも首を突っ込んだのは否定できないが。
「この道が一番厄介事が少ねえと思いますよ」
セバスチャンは前を見たまま言った。
「行きに通った道なら、宿場の位置も分かりやす。水を取れる場所も覚えてやすし、馬を休ませるところにも困りにくい。今は面白さより、早く戻る方を優先してくだせえ」
「分かった、分かった」
「その返事が一番信用できねえんですよ」
俺は笑いながら、馬の速度を僅かに緩めた。
急ぐとはいっても、最初から最後まで走らせ続けることはできない。ここで馬を潰せば、かえって戻るのが遅くなる。
セバスチャンも同じことを考えていたのか、俺に合わせて速度を落とした。激しかった蹄の音が遠のき、代わりに馬の荒い息遣いが聞こえてくる。
街道を渡る風には、土と草の匂いが混じっていた。
王都の近くに漂っていた煙や、大勢の兵が集まる場所の重たい臭いは、もうほとんど残っていない。
「ふーん」
こうして何もない道を進むのも悪くない。
ただ、急いでいるせいで周りを見る余裕が少ないのは惜しかった。
「平和になったら、皆でいろいろ行ってみても面白いだろうな」
口にすると、セバスチャンがこちらへ僅かに顔を向けた。
俺は行き先も決めないまま、見知らぬ道の先へ思いを巡らせた。
レティシアとダリア、それにリエリエールを連れて、皆で旅に出る。
急ぐ理由もなく、日が暮れる前に宿へ入り、朝も好きな時間に起きる。途中で気になる街や宿場を見つけたら足を止め、そこでしか食べられない物を探してみる。
温泉があるなら、なおいい。
湯に浸かって疲れを落とし、酒や料理を楽しみ、窓から見える景色でも眺める。山でも森でも、川でも構わない。見慣れたマバール領とは違う景色なら、それだけで面白そうだ。
風光明媚な場所を歩くのもいい。
レティシアは俺の隣から離れず、ダリアは初めて見るものに目を輝かせるだろう。リエリエールは落ち着いた顔を保ちながらも、誰より細かいところまで見ていそうだ。
三人がどんな反応をするのか考えるだけでも、退屈はしない。
もちろん、夜も楽しみたい。
旅先なら、普段とは違う部屋で過ごすことになる。見知らぬ土地へ来た高揚もあれば、いつもより少しくらい大胆になってくれるかもしれない。
レティシアが最初に寄ってくるのか。
ダリアが恥ずかしがりながらも離れなくなるのか。
それとも、リエリエールが二人を見ながら静かに笑うのか。
うむ。
楽しそうだ。
「何をにやついてるんです?」
セバスチャンの声で、頭の中に浮かんでいた光景が崩れた。
「皆で旅するのもいいと思ってな」
「皆ってのは、レティシア殿たちですかい」
「ああ。美味い物を食べて、温泉に入って、景色を見る」
「そりゃ随分とお気楽な旅ですな」
「旅くらい気楽でいいだろ」
俺は笑いながら答えた。
今のように王都まで急ぎ、帰りは父上に知られる前に戻ろうと馬を走らせるのでは、落ち着いて景色を見る暇もない。
泊まる場所を探す時も、料理ではなく馬を休ませられるかどうかが先になる。温泉があっても寄り道などできず、夜は翌日に備えて眠るだけだ。
そういう旅ばかりでは面白くない。
「平和になれば、急ぐ必要もなくなるだろ」
セバスチャンは返事をせず、前方へ目を向けた。
街道の先では、日が傾き始めている。横から差し込む光が草の穂先を照らし、二頭の影を長く道へ落としていた。
しばらくして、セバスチャンが深く息を吐く。
「平和になんかなるんですかねぇ」
その目が、横から俺へ向けられた。
さっきまでの軽い呆れとは少し違う。
王国では北方諸国軍が王城を囲み、マバール家は帝国貴族となった。シルビア橋の向こう側でも、王国と帝国の間が落ち着いたとは言えない。
平和になった後の旅を考えるには、まだ早すぎるのかもしれない。
「なるんじゃないか?」
「ずいぶん簡単に言いやすな」
「ずっと争い続けるわけにもいかないだろ」
「誰もが若様みてえに気楽なら、そうかもしれやせんがね」
「俺は争ってないぞ」
「争ってなくても、騒ぎは起こしてるでしょうが」
北方諸国軍の陣前で魔力を放ったことを言われているのだろう。
それについては、少し反論しにくい。
「まあ、平和になってから考えればいい」
「そこまで何事もなく辿り着ければいいんですがねぇ」
「大丈夫だろ」
根拠はなかったが、俺がそう言うと、セバスチャンはもう一度ため息を吐いた。
日が沈む前に、俺たちは街道沿いの小さな宿へ入った。
馬へ水と餌を与え、俺たちも簡単に腹を満たす。寝台へ横になって目を閉じたが、夜が深くなるまで休むつもりはなかった。
空が白み始めるより先に起き、まだ眠気の残る宿の主人を横目に外へ出る。
冷えた朝の空気の中で馬へ跨がると、セバスチャンは欠伸を噛み殺しながら手綱を握った。
俺たちは薄暗い街道へ馬首を向け、再びシルビア橋への道を急いだ。
それからは、本当に急ぐだけの旅になった。
朝は空が明るくなる前に出て、馬が走れる間は速度を上げる。息が荒くなれば歩かせ、水を飲ませ、脚の様子を確かめてから再び進む。
宿場が見つかれば、日が暮れてからでも金を渡して馬を預けた。
だが、ゆっくり休むことはない。
食事を済ませ、身体についた土を落とし、寝台へ横になる。眠ったと思えばすぐに起き、夜明けには宿を出た。宿の者たちがまだ眠そうな顔をしている横で馬へ荷を戻し、薄暗い街道を進んでいく。
都合よく宿が見つからない夜もあった。
そういう時は、街道から少し離れた場所で馬を休ませる。冷えた地面へ外套を敷き、火を使わず、持っている物だけで腹を満たした。
夜の草むらから聞こえる虫の音を聞きながら眠り、空が白み始める前には起きる。
身体は重い。
寝台で眠った時ほど疲れは取れず、肩や腰には固さが残った。それでも、馬へ乗ってしばらくすれば眠気も薄れていく。
父上に知られる前に戻る。
そう考えれば、多少の疲れなど気にしていられなかった。
セバスチャンも文句を言いながら、遅れずについてくる。
俺より先に馬の状態を確かめ、休ませる時間を決め、進む速度まで細かく変えていた。急ぎすぎて馬を潰せば意味がないと言っていた通り、無理に走らせ続けることはしない。
それでも、往路より明らかに速い。
寄り道をせず、見知らぬ道へ興味を向けず、目の前の街道だけを進めば、これほど違うものらしい。
何度目かの朝を迎え、俺たちは冷えた空気の中を馬で進んでいた。
夜露を含んだ草が朝日を受け、細い光を返している。道には前日に通ったらしい荷車の跡が残り、乾き切っていない土が蹄の下で僅かに沈んだ。
俺は前方へ目を凝らし、見覚えのある街道の曲がり方を確かめた。
「うん、順調だな」
満足して頷くと、少し前を進んでいたセバスチャンが肩越しにこちらを見る。
「行きもこうしてりゃ、もっと早かったんですがね」
軽い口調だが、言葉には嫌味が混じっていた。
「あれはあれで楽しかっただろ?」
「若様だけでしょうよ」
「野盗を片づけたのは楽しかっただろ」
「王都まで行ったことまで一緒にするんじゃありやせん」
「カルデアにも会えた」
「だから、それが余計だったって言ってるんですぜ」
俺は笑った。
セバスチャンは前へ向き直り、何やら小さな声でぶつぶつ言い始める。
「まったく、後先考えねえんだから……」
「ん? なんか言ったか?」
俺が聞き返すと、セバスチャンの背が僅かに固まった。
すぐに何事もなかったような顔で振り返る。
「いいえ、何にも」
「そうか?」
「そうですぜ」
怪しい。
だが、問い詰めても素直に答えるとは思えない。聞こえなかったことにして、俺は手綱を持ち直した。
往路で時間を使った分を取り戻すように、俺たちはその日も街道を進み続けた。
馬を休ませる時以外は長く止まらず、日が傾いても歩みを緩めない。
そうして、シルビア橋まであと数日というところまで近づいた。
先を進んでいたセバスチャンが、ふいに片手を上げた。
大きな動きではない。
だが、その合図を見た瞬間、俺は手綱を引いて馬の速度を落とした。
二頭の蹄が乾いた道を何度か叩き、やがて歩く速さまで緩む。セバスチャンは振り返らず、街道の先を見たまま手を下ろした。
俺も目を凝らす。
かなり遠い。
道が僅かに盛り上がった先に、人の手が入ったような影が見えた。最初は荷車でも止まっているのかと思ったが、それにしては横へ広い。
道を塞ぐように粗い柵が置かれ、その脇には天幕と簡素な小屋らしいものが建っている。
往路では見なかった。
「関所か?」
「そう見えやすな」
セバスチャンは声を落とした。
立派なものではない。
石を積んだ壁もなければ、大きな門もない。短い間に木を組み、街道を塞げる程度の形へ整えたように見える。
ただし、その周囲にいる人間は多かった。
遠くて顔までは分からないが、柵の近くに何人も立ち、さらに道の左右にも人影がある。道だけ見張るのではなく、周囲から近づく者まで警戒しているような配置だった。
装備も粗末ではない。
日の光を受けて、揃った金属の光が時折返ってくる。野盗が慌てて道を塞いだようには見えなかった。
「行きにはなかったよな」
「ありやせんでしたぜ」
「ふむ」
俺は目を細めた。
人数が多く、装備も整っている。
あれだけ揃っているなら、魔力持ちが混じっていてもおかしくない。
「魔力持ちもいそうだな」
「まあ、この距離なら感知魔法にはまだ引っかかってねえでしょうが、どうしやす?」
セバスチャンが俺を見る。
俺ほどの魔力容量と魔力操作があれば、この距離からでも関所にいる魔力持ちを感知するのは難しくない。
だが、広い範囲へ感知魔法を伸ばせば、相手が魔力の動きに気づく可能性がある。まだこちらを捉えていない者たちへ、わざわざ並外れた魔力容量と操作技術を知らせる必要はない。
関所の目的も分からないうちから刺激するのは避けた方がいいだろう。
俺は感知魔法を使わず、遠目に見える人影と装備だけを眺めた。
「迂回できるか?」
「できなくはありませんが、この馬だと森を突っ切るのはちょい厳しいですぜ」
セバスチャンが街道の脇へ目を向ける。
道を外れても、しばらくは草地を進めるだろう。だが、その先には木々が続いている。密集した幹の間には低い枝も多く、地面の状態もここからでは分からない。
「そうだな。軍馬じゃないもんな」
俺たちが乗っているのは普通の馬だ。
街道を進むには十分だが、道のない森を好きに駆け抜けられるようにはできていない。足場の悪い場所へ無理に入れば、速度が落ちるだけでは済まず、脚を傷めるかもしれない。
馬を降りて引いて進むなら可能だろうが、それでは戻るのが遅くなる。
森を大きく回るにしても、どこまで戻ればよいのか分からない。
「なんかあったのかな?」
俺は首を傾げた。
往路からそれほど日は経っていない。
その短い間に関所を作り、多くの人間を置く理由が生まれたことになる。
セバスチャンが鼻を鳴らす。
「もしかしたら、アホなどこぞの貴族でも探してるのかもしれませんな」
「ん?」
俺が見ると、セバスチャンは何食わぬ顔で関所の方を見ていた。
どこぞの貴族。
誰のことだ。
少し考え、俺は眉を寄せる。
「俺のことか?」
「さあ、どうでしょうな」
「まだバレてないだろ」
「そうだといいんですがねぇ」
軽口にしては、妙に不安を煽る言い方だった。
だが、本当に俺たちを探しているのかは分からない。王都で名乗ったのはギルバートだけだ。マバール家の者だとは言っていない。
北方諸国軍の中から何か伝わったとしても、ここまで先回りして関所を作れるとも思えなかった。
「押し通るか?」
思いついたまま呟くと、セバスチャンの顔が露骨に嫌そうになる。
「うーん、目的が分かりませんから、後々問題になるかもしれませんぜ」
「それもそうか」
相手が誰で、何のために道を塞いでいるのかも分からない。
それなのに力ずくで通れば、騒ぎだけは確実に残る。
関所を壊した二人組。
魔力持ち。
馬に乗り、シルビア橋の方へ向かった。
そこまで知られれば、正体へ辿り着かれなくても面倒だ。
父上にバレる前に戻ろうとしているのに、自分から痕跡を増やすのは馬鹿らしい。
迂回すれば時間が掛かる。
押し通れば問題が残る。
関所が普通に旅人を通しているなら、何もせず進むのが一番早い。
俺はもう一度、遠くの柵と人影を眺めた。
「結局、このまま進むのが一番だろうな」
「そうですな」
セバスチャンも頷く。
正面から近づき、何を聞かれるのか確かめる。
通してもらえるなら、そのまま通る。面倒になりそうなら、その時に改めて考えればいい。
「よし。んじゃ、行ってみるか」
俺は手綱を緩め、馬を前へ進ませた。
隣でセバスチャンも歩き始める。
関所までの距離はまだある。慌てて近づけば、かえって警戒されるだろう。俺たちは普通の旅人らしく、街道の中央をゆっくり進んだ。
「問題を起こすなよ」
念のため注意すると、セバスチャンが横から呆れた目を向けてきた。
「自分に言ってくだせえよ」
苦笑交じりの声を聞きながら、俺は遠くの関所へ視線を戻した。




