第百三十一話 英雄の残り時間
王都の北側を離れるにつれ、焼けた匂いは少しずつ薄れていった。
馬の蹄が乾いた道を踏み、一定の間隔で鈍い音を鳴らす。背後には王城を囲む北方諸国軍が残っているが、追ってくる者はいない。カルデア・トラギスが手出しを禁じた以上、少なくとも陣の中にいる間は、その命令へ逆らう者はいないのだろう。
俺は手綱を握りながら、先ほどまで目の前にいた老婆の姿を思い返した。
小柄で、薄く、白い長髪と深い皺に覆われた身体。
魔力も、貴族とは思えないほど弱っていた。
それでも、周囲の貴族や騎士たちは、カルデアの視線一つで口を閉じた。俺たちを止めようとしていた者たちも、彼女が見ただけで道を開けた。
カルデア・トラギスは、確かに英雄だった。
過去の名声にしがみついているだけの老人ではない。現実に北方諸国軍をまとめ、王都まで進ませ、王城を包囲している。あれほど弱った身体でなお、軍勢の中心に立っていた。
だが、その英雄も、時の流れには抗えない。
どれほど強くても、老いれば魔力は衰える。
どれほど名を残しても、残された時間まで増えるわけではない。
百年前なら、カルデア自身が前へ出て北方諸国軍を引っ張ったのかもしれない。今は、周囲へ命令を下し、軍を動かすことはできても、自ら戦場へ立つ力は残っていないように見えた。
「北方諸国軍は勝てますかねぇ」
隣を進むセバスチャンが、不意に口を開いた。
俺は前を向いたまま答える。
「無理だろうな」
「やはり、そう思いやすか」
「ああ」
王城の城壁は高く、厚い。
北方諸国軍は王都まで入り込み、王城を取り囲むところまでは成功した。だが、城壁を越えることはできなかった。
王国を倒すつもりなら、王城側の態勢が整う前に攻め込む必要があった。
北方諸国軍が王都へ押し寄せ、王城側が混乱している間に城門を破り、城壁を越える。その勢いのまま中へ入り込めていれば、勝ち目はあったかもしれない。
だが、すでに遅い。
王城側は城門を閉じ、籠城へ移っている。
王城の中がどのような状態なのかは分からないが、少なくとも城壁の上には兵が並び、外からの攻撃へ備えていた。北方諸国軍が城壁へ取りつこうとすれば、上から攻撃を受けるだろう。
今から落とすなら、多くの兵を失うことになる。
一度の攻撃では終わらない。
前へ出た兵が倒れ、その後ろから別の兵が進み、死体を踏み越えてでも城壁へ迫らなければならない。城門を壊すにしても、壁を登るにしても、王城側が守る中で続けるなら犠牲は避けられない。
百年前の北方諸国軍なら、それでも進んだのかもしれない。
だが、俺たちが見た軍は違った。
よく統率され、命令を守り、余計な損害を避けようとしている。あれほど整えられた軍だからこそ、大勢を捨てるような攻め方には踏み切れないだろう。
「城壁を落とすまで、兵を使い潰す覚悟があるなら別だがな」
「そんなことをすれば、勝っても軍が残りやせんぜ」
「そういうことだ」
王城を落とせても、北方諸国軍が壊れてしまえば、その後が続かない。
王国は王城だけではない。
残った王国貴族が兵を集めれば、疲れ切った北方諸国軍を押し返すこともできるだろう。領地を奪ったとしても、それを守る兵がいなければ意味がない。
カルデアが若ければ、話は違ったかもしれない。
甚大な犠牲を出しても、生き残った者をまとめ、失った兵を補い、時間をかけて北方諸国軍を立て直すことができた。
再び軍を鍛え、次の世代へ繋ぐこともできただろう。
だが、今のカルデアには、そのための時間が残されていない。
あれほど弱った魔力を思い返し、俺は小さく息を吐いた。
カルデアに残された時間が短い以上、北方諸国軍も長くは王城を囲んでいられない。
兵を置いているだけでも食料は減る。王都で集められる物にも限りがあり、北方諸国から運ぶにしても距離がある。王城側が城門を閉ざしたまま耐え続ければ、先に苦しくなるのは外にいる軍だろう。
「結局は、王国側の粘り勝ちか」
俺が呟くと、セバスチャンは少し考えるように顎を動かした。
「勝ちと言っていいんですかねぇ」
「王城を落とされず、王家が残るなら勝ちだろ。随分と格好悪いがな」
「籠もったままですからな」
「それでも耐えた方が残る」
王城側が何を考えているのかは分からない。
最初からカルデアの老いを見越し、時間さえ稼げばよいと判断していたのかもしれない。あるいは、外へ出て戦う力がなく、城門を閉ざす以外に手がなかっただけかもしれない。
どちらにせよ、結果は同じだ。
北方諸国軍は王城を落とせず、カルデアには次の機会を待つだけの時間がない。
ただし、何も得ずに帰るとも思えなかった。
あれほどの軍勢を動かし、王都まで進み、王城を包囲したのだ。手ぶらで北へ戻れば、騎士も貴族も納得しないだろう。
「凍らない大地くらいは取るだろうな」
「王国が土地を渡しやすか?」
「王城を守れるなら渡すんじゃないか。全部ではなくても、北方諸国に近いところを少しな」
北方諸国が欲しがっているものは分かりやすい。
冬でも人が住み、畑を使える土地。
北方諸国軍にとっては、金よりも長く残る戦果になる。王国側から見ても、王城そのものを失うよりは受け入れやすい。
包囲を解く条件として、いくらかの領地を譲る。
おそらく、その辺りで話はまとまるのだろう。
だが、カルデアにとっては最低条件だ。
王城を囲みながら、土地を少し得ただけで帰る。
何も得ないよりはましだが、百年近い時を経て動かした軍の戦果としては小さい。少なくとも、あの老婆が最初からそれだけを望んでいたとは思えなかった。
では、なぜ今になって動いたのか。
答えは、マバール家だ。
父上が王国との関係を断ち、マバール家は帝国貴族となった。その後で、カルデアと北方諸国軍が王国へ動いた。
王国の大貴族が一つ抜けた。
しかも、王国と帝国の間を支えていたマバール家が、敵対する側へ移ったのだ。
王国の力が落ちたように見えるのは当然だった。
カルデアは、その変化を好機と見たのだろう。
マバール家が離反した今なら、王国は以前より弱い。
王家と王都貴族が混乱している間なら、王都まで攻め込める。
そう考えて北方諸国軍を動かした。
そして、実際に王都へ入り、王城を包囲するところまでは成功した。
父上の思惑どおりなんだろうな。
もちろん、父上が北方諸国軍へ命令を出したわけではない。
カルデアが動くことまで、最初から読んでいたのかも分からない。
だが、マバール家の離反によって王国の弱みを露出させ、その弱みに北方諸国軍が食いついた。
父上は兵を一人も出さず、北方諸国軍が王国を削るのを見ていられた。
王城そのものには、大きな傷はなさそうだった。
それでも、王国が受けた損害は小さくない。
敵軍が王都へ入り、王の住む城をきっちり囲んだ。
その事実は、城壁の傷より長く残る。
王国貴族たちは考えるだろう。
この王を、本当に信じてよいのか。
疑いが生まれれば、それだけで王の支配は揺らぐ。
王城は守れても、王国への信頼までは守り切れなかった。
俺は遠ざかる王都の方角を振り返らず、馬の手綱を静かに握り直した。
王家への不信が広がるだけでも厄介だが、マバール領に近い貴族たちは、もっと切実だろう。
これまで帝国との国境を主に守っていたのはマバール家だ。
その内側にいた王国貴族たちは、帝国と直接向き合わずに済んでいた。何かあれば、まずマバール家が受け止める。帝国軍が動いても、最初に戦うのは自分たちではない。
だが、今は違う。
そのマバール家が帝国貴族となった。
王国側から見れば、帝国との間に立っていた盾が、そのまま向こう側へ移ったようなものだ。
それまで国境ではなかった領地が、突然帝国と向き合う場所になる。
しかも、帝国は以前より強くなっている。
マバール家が加わったのだから当然だ。
王国貴族たちは、これまで自分たちを守っていた家を相手側に置いたまま、自分の兵だけで領地を守らなければならない。
その上に立つ王は、北方諸国軍に王城を包囲されている。
信じろという方が難しいだろうな。
自分たちが帝国に攻められた時、善良王は兵を出してくれるのか。
王都貴族たちは、自分たちを助けるために動くのか。
それとも、今回と同じように王城へ籠もり、領地を切り捨てるのか。
疑い始めれば、いくらでも不安は増える。
王家が命令を出しても、以前ほど素直には従わない貴族が出るかもしれない。兵や食料を求められても、自分の領地を守るために残す者もいるだろう。
そうなれば、王国は外から攻められなくても内側から弱くなる。
「ふむ」
思わず声が漏れた。
父上からすれば、計算どおりか。
北方諸国軍が動いたことで、マバール家は何もしなくても王国を弱らせることができた。
兵を出していない。
食料も使っていない。
領地も荒らされていない。
それなのに、王国の支配力だけが落ちていく。
棚ぼた。
いや、漁夫の利と言った方が近いかもしれない。
北方諸国軍と王国が争い、その間にマバール家だけが力を残す。
父上がここまで狙っていたのかは分からない。
だが、少なくとも起きた状況を無駄にはしないだろう。
では、父上の狙いは何だ。
マバール家の安定。
領地の拡大。
それだけなのだろうか。
シルビア河までは、実質的なマバール領として固めるつもりだろう。
橋を押さえ、城を使い、周辺の貴族へ影響を及ぼす。
そこまでは分かりやすい。
問題は、その先だ。
父上はさらに王国側へ領地を広げるつもりなのか。
直接奪えば、確かにマバール領は大きくなる。
だが、領地が広がれば守る場所も増える。騎士も役人も必要になり、今まで以上に手間が掛かる。
父上が、ただ大きくすることだけを望むとは思えなかった。
むしろ、その先は帝国貴族へ渡すのではないか。
小さな領地に不満を持ち、もっと大きな土地を欲しがっている貴族ならいるだろう。
新皇帝へ功を示し、王国から切り取った領地を望む。
危険はあるが、成功すれば一気に力を増やせる。
博打を打つ貴族は出るはずだ。
では、その貴族たちは誰を頼る。
遠く離れた帝都か。
新皇帝へ助けを求めても、兵や物資が届くまで時間が掛かる。
それよりも、すぐ隣にあるマバール家を頼るだろう。
領地を守る兵が足りない。
食料が足りない。
王国貴族との交渉がうまくいかない。
何かあるたびに、マバール家へ助けを求める。
そうなれば、土地を直接持たなくても影響力は広がる。
帝国貴族でありながら、実際にはマバール家の力を借りなければ生き残れない貴族が増えていく。
帝都の新皇帝より、隣にいる父上の顔色を窺う者が増える。
気づいた時には、マバール家を中心に一つのまとまりができているかもしれない。
帝国でもない。
王国でもない。
その間に立ち、どちらへも完全には従わない勢力。
うーん。
もしかして父上は、帝国と王国の間で第三勢力として動くつもりなのか。
馬の歩みに合わせ、視界の端で街道脇の草が流れていく。
考えれば考えるほど、父上がどこまで先を見ているのか分からなくなった。
「どうしやした?」
隣から声を掛けられ、俺は顔を上げた。
街道は緩やかに続き、遠くには低い丘が重なっている。王都を離れてから随分進んだはずだが、考え込んでいたせいか、周囲の景色をほとんど見ていなかった。
セバスチャンがこちらを窺っている。
「さっきから、ずっと黙ってやすぜ」
「いや、なんでもない」
俺は小さく笑った。
「父上は怖い人だなと思っただけだ」
「当たり前でしょうが」
セバスチャンは迷うことなく言い切った。
「そこは否定してくれてもいいんじゃないか?」
「何を今さら。お館様が怖くなかったら、マバール家なんぞとっくに好き勝手やられてやすよ」
それもそうか。
父上が何をどこまで考えているのかは分からない。
北方諸国軍が動くことまで読んでいたのか。王国貴族が揺らぐところまで狙っていたのか。帝国貴族を王国側へ並べ、マバール家を中心とした新しい勢力を作ろうとしているのか。
全部、俺の考えすぎかもしれない。
父上はただ、起きたことを見て最も都合のいい形へ動いているだけとも考えられる。
それでも、結果だけを見れば恐ろしい。
マバール家は王国を離れた。
北方諸国軍はそれを好機と見て王都へ進んだ。
王城は包囲され、善良王への信頼は揺らぎ、マバール領に近い王国貴族たちは帝国への不安を抱えることになる。
その間、父上は何も失っていない。
兵も領地も金も減らさず、マバール家の立場だけが強くなっている。
俺なら、ここまで綺麗にはできない。
そもそも、途中で面倒になっているだろう。
「まあ、父上のことだからな」
そう呟くと、セバスチャンが眉を寄せた。
「お館様にあんまり怒られんようにしてくださいよ」
口調は軽い。
だが、遠回しに心配されているのは分かった。
無断でシルビア橋を離れ、王都まで来た。
途中で野盗狩りまでして、最後には北方諸国軍の陣前で魔力を解放し、カルデア・トラギスを呼び出した。
父上に知られれば、怒られる理由はいくらでもある。
「そうしてるだろ?」
俺は笑った。
セバスチャンが、しばらく何も言わずこちらを見る。
「どこがです?」
「ちゃんと無事に帰ってる」
「まだ帰り着いてねえでしょうが」
「もう帰る途中だ」
「王都へ来ること自体、黙ってたんでしょう?」
「知らせたら止められるだろ」
「止められるようなことを、するんじゃありやせん」
まったく正しい。
正しいが、従っていたらカルデアには会えなかった。
あの老婆の顔を見て、声を聞き、北方諸国軍の様子まで確かめられた。父上に怒られる可能性を含めても、来た意味はあったと思う。
ただ、それを父上に説明して納得してもらえる気はしない。
カルデアに会いたかったから。
そんな理由で王都まで行ったと知られれば、まず間違いなく呆れられる。北方諸国軍を騒がせたところまで伝われば、呆れるだけでは済まないかもしれない。
俺は後ろを振り返った。
王都はもう見えない。
追手らしい姿もなく、街道には俺たち以外の人影も少なかった。
カルデアが手出しを禁じた以上、北方諸国軍が追ってくる可能性は低い。王都側も、俺たちの正体までは掴んでいないはずだ。
ならば、後は戻るだけだ。
「では、バレないうちに急いでシルビア橋に帰るか」
俺が笑うと、セバスチャンは深々とため息を吐いた。
それでも馬の速度を上げる辺り、この男も父上に知られる前に戻りたい気持ちは同じらしい。
俺も手綱を握り直し、馬の腹へ軽く踵を当てた。
二頭の馬が街道を駆け始める。
背後に残した王都も、北方諸国軍も、カルデア・トラギスも、やがて遠ざかっていく。
英雄の残り時間がどれほどなのかは分からない。
父上がその先で何を狙っているのかも分からない。
だが今の俺にできることは、余計なことが露見する前にシルビア橋へ戻ることだけだった。




