第百三十話 竜の鱗
北方諸国軍の輪が、ゆっくりと割れていった。
槍を構えていた兵たちが左右へ退き、その向こうから一人の貴族が歩いてくる。周囲では何人かが慌てたように声をかけていたが、その人物は片手をわずかに上げただけだった。
それだけで、止めようとしていた者たちの足が止まる。
俺は馬上から、その姿を眺めた。
小さい。
距離がある上に、こちらは馬へ乗っている。正確には分からないが、かなり小柄に見えた。肩幅も狭く、厚みのある身体でもない。白い髪を垂らし、やや俯いたまま歩いてくる姿だけなら、軍勢を従える者というより、誰かに支えられていてもおかしくない老人に見える。
ふむ。
これが本当に、カルデア・トラギスなのだろうか。
周囲の反応を見れば、ただの貴族ではない。先ほど俺の前へ出た男よりも、明らかに扱いが違っていた。誰も進路を遮らず、道を空けた後も、その背を気にするように視線を向けている。
それでも、想像していた姿とは随分違う。
もっとこう迫力があって、立っているだけで周りを押さえつけるような老婆を思い浮かべていた。
近づくにつれ、歩みの遅さがよく分かる。
一歩ごとに確かめるように足を運んでいる。だが、ふらついてはいない。遅いだけで、進む方向に迷いはなかった。
俺たちを囲んでいた騎士の一人が、その前へ出ようとした。
「カルデア様、ここは――」
小柄な貴族が片手を上げる。
騎士は口を閉じた。
そのまま進み、俺とセバスチャンのかなり近くまで来たところで、ようやく足を止める。
俺の馬が落ち着かないように鼻を鳴らした。
俺は手綱を引き、馬上からその人物を見下ろす。俯いたままなので、顔は白い髪の奥に隠れていた。
「馬上にて失礼するが、カルデア・トラギス殿かな?」
声をかけると、白い髪が僅かに揺れた。
ゆっくりと顔が上がる。
深い皺が、額から頬、口元まで幾重にも刻まれていた。頬は痩せ、皮膚は骨へ張りつくように薄い。長い白髪と、年齢を重ねすぎた顔立ちのせいで、ほんの一瞬、男なのか女なのかすら分からなかった。
だが、その目だけは濁っていない。
細い瞼の奥から、こちらを真っ直ぐ見返してくる。腰は少し曲がっているのに、視線だけは少しも下がらない。周囲を埋める騎士や貴族ではなく、最初から俺だけを見ていた。
近くで見れば、手も細い。皮膚の下に骨の形が浮き、剣を握れるようには見えなかった。それでも、その手が一度上がるだけで、これだけの人数が黙る。身体の大きさと、周囲へ及ぼす重さがまるで釣り合っていなかった。
「何用じゃ、小僧」
老婆は笑った。
声は掠れているかと思ったが、意外なほどはっきりしていた。周囲のざわめきにも埋もれず、馬上の俺まで届く。
「カルデア・トラギス殿か?」
重ねて尋ねる。
老婆は口元の皺を深くした。
「答えて欲しくば、まず名乗らんか」
それもそうだな。
こちらは相手の名を呼びつけておきながら、自分のことは何も話していない。家名まで明かすつもりはないが、名くらいは伝えるべきだろう。
俺は馬の背から片脚を外した。
周囲の槍先が僅かに動く。
攻撃するつもりがないと示すため、ゆっくりと地面へ降りた。背後で革が軋み、セバスチャンも無言のまま馬を降りる。俺の横へ並ばず、半歩ほど後ろへ立ったのは、何かあればすぐ動けるようにだろう。
北方諸国軍の騎士たちは、まだ武器を下ろさない。
俺は正面の老婆へ向き直った。
「ギルバートだ。家名はご容赦願いたい」
「ほう」
老婆の視線が、俺の顔から身体へゆっくり落ちる。
隠しているものを探るような目だったが、家名を求めて食い下がることはなかった。
短い沈黙の後、老婆は細い背を僅かに伸ばした。
「カルデア・トラギスじゃ」
周囲の者たちは何も言わない。
だが、その名を本人の口から聞いたことで、ようやく確信できた。
「ほう」
俺は目の前の老婆を、改めてまじまじと見る。
この小柄で、今にも風に揺らされそうなほど薄い身体の女が、百年近く前から北方諸国に名を残し、今は王城を包囲する軍をまとめている。
うーむ。
これが、カルデア・トラギスか。
「それで、何用じゃ」
カルデアが重ねて尋ねた。
声はしっかりしているんだな。
あれほど老いて見えるのに、言葉の端は崩れていない。息が続かず途切れることもなく、こちらの返事を急かすような弱さも感じなかった。
俺は少しだけ考え、肩の力を抜いた。
「特に用はない」
周囲の騎士たちが僅かにざわめく。
「伝説のカルデア・トラギスを見てみたかっただけだ」
言い終えると、俺の後ろでセバスチャンが小さく息を吐いた。
それが目的だったのだから仕方がない。無理にそれらしい理由を作っても、目の前の老婆には見抜かれそうだった。
カルデアは一度だけ瞬きをした。
それから口元の皺を深くする。
「くっくっく」
乾いているのに、不思議とよく通る笑い声だった。
「それでどうじゃ?」
「何がだ?」
「見た感想じゃ。わざわざ軍を騒がせ、これだけの者へ槍を向けられてまで見に来たのじゃろう」
周囲から、刺すような視線が集まる。
確かに、そのくらいは答えるべきか。
俺は改めてカルデアを見る。
白い長髪。
深い皺。
骨の形が浮くほど細い身体。
立っているだけなら、強そうには見えない。
だが、弱々しいという言葉も似合わなかった。これほど老いてなお、大勢の貴族や騎士を一言も使わず従わせている。身体の薄さとは別の何かが、目の前に残り続けている。
「ふむ」
何に似ているのか考える。
頑丈な城壁とも違う。
古い大木とも少し違った。
長い年月に削られているのに、まだ形を失わず、触れようとする者を拒むもの。
「……竜の鱗だな」
周囲が静かになった。
カルデアの目が細くなる。
「ほう」
その一言だけで、こちらの言葉の奥を探られているような気がした。
竜。
この世界でも、伝説として知られている存在だ。
前世で語られていた竜と大きくは変わらない。途方もなく強く、空を飛び、炎を吐き、どんな武器でも傷つけられない。
ただし、伝説の中だけの魔物だ。
実在したという話は聞いたことがない。
ドラゴンと呼ばれる魔物ならいるらしいが、あれは竜そのものではない。伝説の名にあやかって呼ばれているだけで、本物の竜と並べるような存在ではなかった。
竜の伝説で有名なのは、何もかも焼き尽くす炎と、どんな刃も通さない鱗だ。
竜の鱗。
そう聞けば、何ものにも傷つけられない強固なものを思い浮かべる。
長い年月を生き、王国にも北方諸国にも名を刻み、今なお軍勢の前へ立っているカルデアには、よく似合う言葉だと思った。
少なくとも、表向きには。
カルデアはしばらく俺を見つめていた。
細い瞼の奥で、瞳だけが僅かに動く。俺が何を見てその言葉を選んだのか、一つずつ拾おうとしているようだった。
やがて、カルデアの口元が再び緩んだ。
「くっくっく」
今度の笑いは、先ほどより小さい。
「言いよるわい」
笑いを収めたカルデアは、しばらく俺を見つめていた。
細くなった目の奥には、先ほどまでとは違う光がある。面白がっているのか、警戒を強めたのか、それとも言葉の裏まで読もうとしているのか。俺にはそこまでは分からなかった。
ただ、若い頃はかなりの美女だったんだろうなぁ。
深い皺に埋もれていても、目元や鼻筋には整った名残がある。今の姿から昔を正確に想像できるわけではないが、周囲の男たちが黙って従うのは、権威だけが理由ではなかったのかもしれない。
「ギルバートとやら」
「ん?」
カルデアの声に、意識を戻す。
老婆は僅かに顎を上げた。
「トラギス家を継がんか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
俺より先に、周囲が反応する。
「そんな――」
「この者をですか?」
「こんな怪しい奴をお考え直しください!」
「こいつはただのアホです!」
最後の声は、少し後ろから聞こえた。
振り返る。
セバスチャンは口を挟んでいない。だが、声を上げた騎士の言葉に、うんうんと深く頷いていた。
いや、黙って頷くなよ。
軽く睨むと、セバスチャンは何も悪くないような顔で視線を逸らした。
ざわめきは広がりかけたが、カルデアが周囲へ目を向けた瞬間、声は止まった。
怒鳴ったわけではない。
何も言ってもいない。
ただ一度、細い目で見渡しただけだった。
それだけで、騎士も貴族も口を閉じる。先ほどまで俺へ向いていた視線が、気まずそうに下がった。
改めて、妙な老婆だ。
身体は弱っているように見えるのに、周囲を押さえる力だけは少しも衰えていない。
カルデアは再び俺へ顔を向けた。
「どうじゃ」
どうじゃと言われても困る。
トラギス家を継ぐ。
つまり、この老婆の後を引き受けるということだろう。
北方諸国軍の中でどれほどの権限を持つのか、トラギス家が何を抱えているのか、俺は詳しく知らない。ただ、目の前の者たちの反応を見れば、軽い話ではないことくらい分かる。
俺は少し考え、素直に答えた。
「光栄だが、断る」
周囲の空気が僅かに緩んだ。
顔を上げた騎士の何人かは、露骨に安堵している。貴族らしい者たちも、互いに目を合わせて小さく息を吐いていた。
残念そうに見えるのは、カルデアだけだ。
「理由を聞いてもよいか?」
「ふむ」
俺は周囲を見渡した。
整然と並ぶ兵。
こちらへ槍を向けながらも、勝手に踏み込んではこない騎士たち。
先ほど俺が無茶なことを言っても、誰も怒りに任せて斬りかからなかった。
「俺は北方諸国軍といえば、もっと蛮族めいた野蛮な軍を想像していた」
周囲の視線が一斉に鋭くなる。
剣へ手を掛けた者までいた。
カルデアは何も言わず、俺を見つめている。
「だが、実際に見た北方諸国軍は随分と礼儀正しく、よく仕込まれていると感じた」
騎士たちの目から、僅かに棘が抜けた。
褒められたと思ったのだろう。
カルデアだけが、一瞬顔を歪めたように見えた。
ほんの僅かな変化だった。
すぐに元の薄い笑みへ戻ったため、見間違いかもしれない。
「まあ、それが理由かな」
「分からんのう」
カルデアが大きく息を吐く。
「褒めておるのか、断る理由を述べておるのか」
「両方だな」
これほどよく整えられた軍を持つ家なら、継げば気楽に過ごせるはずがない。
兵をまとめ、貴族を押さえ、国同士の話まで背負うことになる。今のカルデアを見れば、それくらいは想像できる。
俺の望む暮らしとは、正反対だ。
カルデアはしばらく黙った後、僅かに首を傾けた。
「雄の子なら、野心はないのか?」
「野心ならあるぞ」
「ほう」
先ほどより少しだけ、カルデアの目に興味が浮かんだように見えた。
俺は笑う。
「のんびり気楽に生きることだ」
「わがままな小僧っ子じゃな」
カルデアは呆れたように言いながらも、口元にはまだ笑みを残していた。
「出来ると思っておるのか?」
「出来るかどうかより、やるかやらないかだな」
俺が笑って答えると、カルデアは一瞬だけ目を細めた。
眩しいものでも見たように見えたが、雲の切れ間から差した光が目に入っただけかもしれない。深く刻まれた皺の中では、僅かな表情の変化を読み取るのも難しかった。
「竜の炎は手に入らんか」
カルデアが、独り言のように呟いた。
「なんだ。竜なんか信じているのか?」
思わず聞き返す。
あれほど長く生きてきた老婆が、子供へ聞かせるような伝説を信じているとは思えなかった。
カルデアは鼻を鳴らす。
「ふん。そのような世迷言を信じる暇などあるものか」
吐き捨てるような声だった。
「そうだよな」
俺も頷く。
竜は伝説の中にしかいない。
竜の鱗も、竜の炎も、実際に手へ入るものではない。存在しないものを求め続けるほど、この老婆は暇ではないのだろう。
俺とカルデアの視線が重なる。
細くなった瞼の奥から、老いた瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
何を考えているのかは分からない。
俺の言葉を面白がっているのか、それとも最後まで家名を明かさない俺を警戒しているのか。トラギス家を断ったことに、本当に落胆しているのかさえ確かではなかった。
ただ、会ってみたいという望みは叶った。
顔も見た。
声も聞いた。
これ以上は、さすがに欲張りだろう。
「まあ、なんだ」
俺は少し困ってから、口元を緩めた。
「頑張ってくれ。応援だけはしている」
「ふん」
カルデアも苦笑した。
「礼だけは言っておこう」
北方諸国軍の兵たちが囲みを崩さない中、俺は馬の手綱を取った。
「会ってくれてありがとう。感謝する」
鐙へ足を掛け、鞍へ身体を持ち上げる。
俺が動いたことで、周囲の槍が一斉に揺れた。後ろではセバスチャンも馬へ乗っている。騎士たちは俺たちをこのまま帰すつもりがないらしく、前へ出ようとした何人かが進路を塞いだ。
「まあ、冥土の土産にはなったかの」
カルデアが笑う。
「ずいぶん縁起の悪いことを言うな」
「小僧に心配されるほど、落ちぶれてはおらんわ」
そう言いながら、カルデアは俺たちの進路へ立った騎士たちへ顔を向けた。
細い目が、ゆっくりと周囲をなぞる。
声はなかった。
命令すらない。
それでも騎士たちは迷った末に道を空けた。槍を下ろしきる者はいなかったが、俺たちが通れるだけの幅が生まれる。
やはり、とんでもない力を持った老婆だ。
魔法ではない。
これだけの軍勢が、その視線一つに逆らえない。
俺は手綱を引き、馬をゆっくりと進ませた。
「それではな。頑張ってくれ」
「ふん。それではな、わがままな小僧」
カルデアの笑った声を背に受けながら、俺とセバスチャンは北方諸国軍の間を進んだ。
左右に並ぶ兵たちの視線は鋭い。
いつでも武器を向けられる距離を、急がずに抜けていく。背後から攻撃が来ればすぐ動けるよう、身体の内側には魔力を残していたが、カルデアの命令へ逆らう者はいなかった。
やがて人の壁が薄くなり、前方に王都へ続く道が見えた。
俺は振り返らなかった。
* * *
ギルバートと名乗った小僧の背が、兵たちの間を遠ざかっていく。
カルデアはその姿が見えなくなるまで、黙って見送った。
周囲にはすぐに貴族や騎士たちが寄ってくる。誰もが先ほどの出来事を飲み込みきれていないらしく、声を掛けるにも互いの顔を窺っていた。
「お婆様」
その中の一人が、ようやく口を開く。
「このまま帰すのですか?」
「手出しは禁ずる」
カルデアは、小僧が消えた方角を見たまま冷たく告げた。
「なぜです」
問い返す声には、納得できないという響きがあった。
突然現れて桁違いの魔力を晒し、カルデアとの対面を要求した。拒めば力ずくで進むとまで言い放った相手だ。捕らえるべきだと考えるのも無理はない。
だが、その程度の考えしか持てぬことが、カルデアには腹立たしかった。
「せっかくの軍を失いたくはあるまい」
冷たく笑う。
若い貴族が目を見開いた。
「それほどですか?」
カルデアの眉間へ僅かに力が入った。
甘い。
あの小僧が解放した魔力を感じながら、まだ数で囲めばどうにかなると思っている。
先ほどの態度にも緊張がなかった。虚勢で隠したのではない。本当に、ここにいる兵を押し退けられると考えていた。
そして、おそらく実際に出来る。
あの小僧が本気で暴れれば、止めるまでにどれほどの兵を失うか分からない。仮に討ち取れたとしても、その損害に見合うものなど何もなかった。
カルデアは問いへ答えず、周囲へ視線を巡らせた。
「それより、王城に和平の使者を出せ」
「今からですか?」
「今だからじゃ」
北方諸国軍の陣から、あれほど強大な魔力が膨れ上がった。
王城にも感知魔法を使える者はいる。距離があったとしても、何かが現れたことくらいは気づいているはずだった。
あの魔力を、北方諸国軍の有力貴族のものと考えるかもしれない。
あるいは、カルデア自身がこれまで力を隠していたと勘違いする可能性もある。
どちらでも構わない。
王城側が北方諸国軍に新たな力が加わったと疑っている今なら、和平の使者を門前で追い返すことはできまい。条件を呑むかは別としても、話を聞く席には着くはずだ。
「今なら、あちらも動揺しておろう。受け入れはするはずじゃ」
周囲の者たちが顔を見合わせる。
やがて一人が頭を下げ、使者の準備を進めるために離れていった。
カルデアは、もう一度だけ小僧が去った方角へ目を向けた。
トラギス家を継げと告げても断り、野心を問えば、のんびり生きたいと笑った。
それでいて、軍勢の前へたった二人で現れる。
とんでもない小僧じゃったな。
カルデアは胸の内で、僅かに苦笑した。
* * *
北方諸国軍の陣から離れても、背中へ向けられる視線はしばらく消えなかった。
道の両側には兵が立ち、俺たちが通り過ぎるたびに顔が動く。武器を構え直す者はいないが、警戒を解いているわけでもない。こちらが急に馬首を返せば、すぐに道を塞ぐつもりなのだろう。
俺は前を向いたまま、馬をゆっくり歩かせた。
ここで急げば、逃げるように見える。
カルデアに別れを告げた以上、何事もなかったように帰る方がいい。
隣を進むセバスチャンも同じ考えらしく、周囲へ目を配りながら馬の歩調を俺に合わせている。右手はいつでも剣へ届く位置にあったが、柄へ触れてはいなかった。
天幕の並びが背後へ遠ざかる。
道を見張る兵の数も少しずつ減り、焼けた家々が残る王都北側の景色が近づいてきた。
それでも追ってくる蹄の音は聞こえない。
俺は首だけを僅かに傾けた。
「誰も追ってこんなぁ」
「とっとと帰りましょうや」
セバスチャンは振り返ろうともせずに答えた。
「そうだな」
目的は果たした。
カルデアの顔を見て、少し言葉を交わした。それどころか、なぜかトラギス家まで押しつけられそうになった。
これ以上ここへ残れば、次は本当に戦うことになるかもしれない。
王都へ戻る道へ入る前に、俺たちは焼けた家並みを避けるように進路を変えた。北方諸国軍の兵は見えるが、こちらを止めようとはしない。カルデアの一言が、ここまで届いているのだろう。
大したものだ。
「北方諸国軍は、思った以上に規律正しかったな」
「ええ。驚きましたな」
セバスチャンも僅かに眉を上げた。
「もっと荒っぽい連中だと思ってやしたよ。あれだけ兵がいて、若様の首を取ろうと勝手に動く奴が一人もおらんとはねぇ」
「俺もだ」
百年前の戦いで、北方諸国軍は王国軍を破っている。
その時の話を聞く限り、今のように慎重で整然とした軍ではなかったはずだ。勢いに任せ、恐れず踏み込み、王国軍が受け止めきれないまま押し潰した。
北方諸国軍の強さは、統率よりも狂気に近い勢いだったのだろう。
だが、勝ったからといって被害が少なかったとは限らない。
むしろ、勢いのままぶつかったのなら、王国軍を破るまでに北方諸国側も相当な血を流したのではないか。
カルデアは、その戦いを知っている。
勝利の後に残った死体も、失われた騎士も、次の戦いでは使えなくなった兵も見てきたはずだ。
だから鍛えた。
次は同じ損害を出さないように、兵を従わせ、規律を植えつけ、勝手に動かぬ軍へ変えた。
牙を、さらに鋭く研ぐつもりだったのだろう。
だが、俺が見た北方諸国軍は、王城を囲みながら攻め込めずにいる。
王城側が動かないからという理由もある。高く厚い城壁を無理に攻めれば、大きな被害が出ることも分かる。
それでも、百年前の北方諸国軍なら、損害を承知で噛みついたのではないか。
カルデアが鍛えたことで、軍はよく統制された。
命令を守り、無駄な略奪を抑え、不審な相手を囲んでも軽々しく斬りかからない。
軍としては、今の方が優れている。
だが、北方諸国軍が持っていたある種の狂気は、その代わりに薄れてしまった。
皮肉なものだ。
鋭く研いだつもりの牙が、削るほど丸くなっていた。
俺は馬上で、カルデアの皺だらけの顔を思い返した。
「セバスチャン」
「なんです?」
「お前、竜を信じているか?」
セバスチャンは一瞬こちらを見た後、鼻で笑った。
「まさか。あんなもんを信じるのは子供だけですぜ」
「そうだよなぁ」
俺は頷いた。
竜の鱗。
どんな刃も通さず、何ものにも傷つけられないもの。
そこから、硬い意志や挫けぬ心を表す言葉としても使われる。
カルデアへ伝えたのは、まずその意味だった。
百年以上生き、王国との戦いを潜り抜け、老いてなお北方諸国軍の上に立つ。どれだけ削られても折れずに残った存在として、竜の鱗はよく似合う。
だが、竜は実在しない。
どれほど強固だと語られても、実際に触れられる鱗はどこにもない。
形だけは恐ろしく見えても、実物が存在しないのなら、誰も守れない。
張り子の虎みたいなものだ。
竜だけど。
カルデアの魔力は、かなり弱っていた。
近くで向き合ったからこそ分かった。かつてどれほどの魔力を持っていたのかは知らないが、今の反応は貴族とは思えないほど細い。
ほとんど騎士と見紛うほどだった。
あれでは、まともに戦うことはできないだろう。
周囲の者たちは、カルデアの視線一つで黙る。北方諸国軍は彼女の命令に従い、その名だけで王城にも圧力を掛けている。
だが、本人にはもう、伝説どおりの力は残っていない。
竜の鱗という言葉を聞いた時、カルデアは俺の目をじっと見ていた。
表向きの意味だけを受け取った顔ではなかった。
おそらく、裏に込めたものにも気づいていた。
だからこそ、竜の炎は手に入らんか、と呟いたのかもしれない。
実在しない鱗で軍を守りながら、存在しない炎を求める。
それでも、立つことをやめられない。
俺は前方へ目を戻した。
王都の家並みが、少しずつ近づいてくる。
カルデアも、つらい立場だな。
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