第百二十八話 包囲下の王都
王都が見えてきた頃には、空が少し白く霞んでいた。
遠くからでも、王城の周囲に人と天幕が集まっているのが分かる。高く厚い城壁はそのまま残り、上には小さな人影が並んでいた。その外側を取り囲むように、北方諸国軍の陣が広がっている。
王城だけが、王都の中で切り離されていた。
ここまで来たのだと実感した途端、無意識に身体の内側へ意識が向く。
「目立つんで、感知魔法は使わんでくださいよ」
隣を進むセバスチャンが、こちらを見ずに言った。
「ああ、分かっている」
俺は小さく頷いた。
北方諸国軍の中に、感知魔法を使える者がどれだけいるかは分からない。だが、これだけ兵が集まっている場所で不用意に魔力を広げれば、誰かに気づかれる可能性はある。
俺たちは王都へ、いくさ見物に来ただけだ。
わざわざ自分から騒ぎの種になる必要はない。
馬の歩調を変えず、そのまま人の流れへ混じる。
王城が包囲されているのだから、王都の中はもっと酷いことになっていると思っていた。
家々の戸は閉まり、道には人影もなく、逃げ遅れた者が息を潜めている。勝手にそんな光景を想像していたが、実際は違った。
道には人がいる。
普段より少ないのだろうが、それでも荷を抱えた男や、子供の手を引く女が足早に歩いていた。開いている商店もあり、布を掛けただけの粗末な台を並べた市まで立っている。
もっとも、並んでいる品は少ない。
籠の中に芋が数個だけ残り、それを何人もの客が囲んでいる店もあった。干した肉を細く切り分けて売っている男の前では、値段を聞いた女が顔を歪め、それでも金を払っている。
俺たちが旅の途中で見た町より、明らかに高い。
道の辻には、見慣れない装備の兵が立っていた。
北方諸国軍の兵だろう。
通りを歩く者へ武器を向けているわけではない。だが、人々は近くを通るたびに声を落とし、視線を合わせないようにして足を速めていた。
兵たちも、ただ立っているだけではない。
道の中央で言い争いを始めた男たちへ近づき、短く何かを告げて引き離している。別の辻では、荷を奪おうとしたらしい男が地面へ押さえつけられていた。
王都を好きに荒らしているようには見えない。
むしろ、混乱が広がらないよう見張っているらしい。
「すごいもんだな」
俺は周囲を眺めながら呟いた。
王城は包囲されている。
すぐ近くには敵軍がいる。
それでも人々は店を開き、食べ物を買い、今日を生きようとしていた。
「食わなきゃ生きていけませんからな」
セバスチャンは、当たり前のことを言うように返した。
「敵がいようが、王様が城に籠もってようが、腹は減りやす」
「まあ、そうだな」
俺たちも同じだった。
王都へ着いたからといって、寝床が勝手に用意されるわけではない。
まずは宿を探した。
だが、これが思っていた以上に難しかった。
一軒目は、入口に部屋がないと書いた板を出していた。二軒目は扉こそ開いていたが、主人が顔を見るなり首を振る。三軒目では、普段ならあり得ないような値段を告げられた上に、それでも空きは一部屋しかないと言われた。
しかもそこにはすでに別の客が詰め込まれているらしい。
王都の中心へ近づくほど人が増え、宿の前には泊まれないかと頼み込む者までいた。
仕方なく、俺たちは外れへ向かった。
大通りから離れると、道幅が狭くなり、閉ざされた戸も増えていく。壁際には荷を抱えたまま座り込む者がおり、軒下で眠っている者もいた。
何軒目だったか分からなくなった頃、ようやく古い宿で空きを見つけた。
「食事は出せん。湯もない。それでもよければだ」
疲れた顔の主人が、こちらを値踏みするように見た。
「寝られればいい」
セバスチャンが答えると、主人はすぐに手を出した。
代金は高かった。
それでも断れば、次に部屋が見つかる保証はない。セバスチャンが金を渡すと、主人は枚数を何度も確かめてから、俺たちを奥へ案内した。
通された部屋には、寝台が二つと小さな机があるだけだった。
水差しすら置かれていない。
扉を閉めると、外を歩く人々の足音が薄い壁越しに聞こえた。
食事も湯もない。
本当に、ただ寝るためだけの部屋だった。
荷を寝台の脇へ置き、俺は外套を脱いだ。
窓は小さく、外から差し込む光も弱い。板戸の隙間には埃が溜まり、壁際には古い染みがいくつも残っている。これであの値段かと思うと笑いたくなるが、泊まる場所すら見つからない者が外にいるのだから、文句を言えるだけ恵まれているのだろう。
寝台へ腰を下ろす。
詰め物は薄く、身体を預けると下の板がすぐに分かった。
「さて」
俺は机の向こうに座ったセバスチャンへ顔を向けた。
「カルデア・トラギスはどこにいるかな?」
セバスチャンは剣を壁へ立てかけ、椅子へ深く腰を下ろした。
「おそらくは王都の外、北側に野営地でも作っているんでしょうよ」
「そうだな。二百歳近い老婆だもんな」
王城を包囲する軍のすぐ近くにいるとしても、自分で城壁の前へ立っているとは思えない。
これほどの軍勢を率いる者なら、命令を出す場所も必要になる。北方諸国の者が集まっている以上、話をまとめる者も必要だろう。王都の北側に大きな陣を構え、その奥にいると考えるのが自然だった。
「いくらなんでも、前線には出ておらんでしょう」
セバスチャンが呆れたように言う。
「二百近くまで生きてるってだけでも大したもんですぜ。わざわざ城壁の下まで出て、石でも落とされたら笑えやせん」
「それはそうだな」
俺は寝台の上で片膝を立てた。
顔だけでも見てみたい。
以前から名前は聞いていた。かつては王国軍を破り、今また北方諸国軍をまとめ、王城を取り囲むまで進めた女だ。
何を考えているのかまでは、遠くから眺めただけでは分からない。
「近づくのは難しいよなぁ?」
「難しいでしょうな」
セバスチャンは即答した。
「王都の中ですら、あれだけ兵が立ってるんです。軍を率いてる本人の周りが緩いとは思えやせん」
俺も窓の方へ目を向けた。
北方諸国軍は王都の辻にまで兵を置いていた。王城の包囲だけでなく、市街の混乱まで押さえようとしている。
その軍勢の中心へ、素性の知れない旅人が近づけるはずもない。
「せめて顔だけでも拝んでみたいが」
「無茶はやめてくださいよ」
セバスチャンの目が細くなる。
「この王都で騒ぎを起こしたら、逃げるのも面倒ですぜ。感知魔法も使わんように言ったばかりでしょうが」
「分かってるって」
口では答えたものの、諦めるにはまだ早い気がした。
軍の中へ正面から入るのは無理だ。
では、カルデア・トラギスが動く時を待つか。
王城の様子を見るために、陣の外へ出てくることはないのだろうか。だが、いつ動くかも分からない相手を、王都の中で待ち続けるわけにもいかない。
「うーん」
考えていると、腹の奥が小さく鳴った。
セバスチャンがこちらを見る。
「とりあえず、メシにしましょうや」
「宿では出ないぞ」
「だから外へ探しに行くんでしょうよ。考えるにしても、腹が減ったままじゃろくなことになりやせん」
「それもそうだな」
ここまで来る間にも食べてはいるが、王都へ入ってから宿を探し回ったせいで、思っていたより身体が疲れていた。
俺は寝台から立ち上がり、外套を羽織り直した。
セバスチャンも剣を腰へ戻す。
扉を開けると、廊下には古い木と人の汗が混じった匂いが籠もっていた。下の階から話し声は聞こえるものの、食べ物の匂いはしない。
主人へ近くで食事ができる場所を尋ねたが、返ってきたのは曖昧な答えだけだった。
「開いてりゃ食える。閉まってりゃ無理だ」
王都の宿屋とは思えない返事だが、今はそれが普通なのかもしれない。
俺たちは宿を出た。
外では日が傾き始めていた。
狭い通りを行き交う人々は、朝よりもさらに足を速めている。店の前に残っていた品も減り、早くも板戸を閉め始めている場所があった。
さて、どこかで食えるところを見つけないとな。
宿のある通りを抜けると、人の数が少し増えた。
大通りほどではないが、店らしき建物が並び、軒先には何が売られているのかを示す古い板が掛かっている。ただ、その大半は戸を閉ざしていた。開いている店も中は暗く、入口に立つ者が客の顔と手元を確かめてから品を出している。
食べ物の匂いは、なかなか見つからない。
代わりに鼻へ入ってくるのは、湿った布と汗、それに道端へ捨てられた汚れの匂いだった。
建物の壁際には、荷を抱えた平民たちが座り込んでいる。
家族らしい者同士で身を寄せている者もいれば、一人で壁へ背を預けたまま動かない老人もいた。布を張っただけの場所で子供を寝かせている女の横には、鍋が一つ置かれている。火はなく、中に何か入っているようにも見えない。
北側から逃げてきたのだろうか。
聞けば分かるかもしれないが、足を止めて尋ねる気にはならなかった。こちらを見上げる目には、知らない旅人と話したがる余裕がない。
「随分といるな」
「王都の外へ出るよりは、まだマシだと思ってるんでしょうな」
セバスチャンが声を落として答える。
王都の外には北方諸国軍がいる。
その兵たちが市街で暴れているようには見えないが、何も知らない平民が城壁の外へ出るのは怖いだろう。かといって、家へ戻れるとも限らない。
だから、こうして街角や路地へ集まっている。
通りを二つ曲がったところで、ようやく煮物らしい匂いが流れてきた。
匂いを辿ると、古びた酒場の扉が半分だけ開いている。入口の脇には料理の名も値段も出ていないが、中から人の声が聞こえた。
「ここはやってそうだな」
「他に見つかるとも限りやせん。入りましょう」
扉を押し開ける。
店内は狭く、空気が濁っていた。
いくつかの卓は埋まり、外套を着たまま食事をしている者もいる。客の服装はばらばらだが、楽しげに酒を飲んでいる者はいない。器へ顔を近づけ、周囲を気にしながら急いで食べている。
俺たちが入ると、入口に近い席の男が一度だけこちらを見た。
すぐに視線を戻したが、他所者だと気づいたのかもしれない。
店の奥から出てきた主人らしい男は、俺たちの姿を見ても笑わなかった。
「食えるものは?」
セバスチャンが尋ねる。
「芋と腸詰めだ。酒もある」
「二人分頼む」
告げられた値段に、俺は思わず主人の顔を見た。
旅の途中で食べたまともな食事より高い。
だが、主人は値段を間違えた様子もなく、嫌なら出ていけと言いたげにこちらを見返している。
セバスチャンが金を払うと、主人は一枚ずつ確かめてから奥へ引っ込んだ。
空いていた壁際の卓へ座る。
料理が来るまで、することはない。
自然と周囲の声が耳に入った。
「北の方は、まだ戻れねえってよ」
少し離れた卓で、痩せた男が低い声で話している。
「昨日見に行った奴が、家なんぞ残ってねえって言ってた」
「全部か?」
「全部かどうかなんて知らねえよ。兵に追い返されたらしい」
向かいに座る男が、器の底を指で拭いながら顔をしかめた。
「こっちはまだマシだ。戸を閉めりゃ寝る場所はある」
「そのうち食う物がなくなる」
「もうなくなってるだろ」
二人の声に笑いはなかった。
北側では、この辺りより被害が大きいらしい。
どこまで本当かは分からない。だが、街角にいた者たちの数を見れば、何も起きていないとは思えなかった。
別の卓からは、もっと小さな声が聞こえる。
「兵どもは、勝手に家へ入っちゃこねえ」
「今のところはな」
「食い物は持っていかれたぞ」
「札は置いていったんだろ?」
「あんなもんで腹が膨れるか」
話している男の一人が、卓を指先で叩いた。
「逆らったら縛られる。隠しても見つかりゃ持っていかれる。勝手に盗む奴は捕まえてるみてえだが、軍が持っていく分は別だ」
北方諸国軍は、兵が好き勝手に奪うことを許していないらしい。
だが、軍そのものが必要とする食料は集めているということか。
王都の市に並ぶ品が少なく、値段が跳ね上がっている理由の一つは、それかもしれない。
「随分と厳しくやってるんだな」
俺が小声で言うと、セバスチャンが僅かに頷いた。
「軍勢を遊ばせとくわけにもいきやせんからな」
主人が料理を運んできた。
木の皿に、茹でた芋が二つ。
その横に、短い腸詰めが一本置かれている。湯気は立っているが、香草や油の匂いはしない。
酒の入った器も卓へ置かれた。
「これで、あの値段か」
主人へ聞こえないよう呟き、腸詰めを切る。
一応、肉は入っている。
だが、口へ運ぶと味は薄く、塩気がかすかに残る程度だった。芋も茹でただけで、何も添えられていない。
「うーん。なかなかだな」
思わず苦笑する。
不味くて食えないわけではない。
値段を考えなければ、腹を満たすには十分だ。
セバスチャンは酒を一口飲み、器の中を覗き込んだ。
「酒も薄めてますな」
「水よりは酒の味がするだろ?」
「少しだけですな」
「まあ、食えるだけマシだな」
「そういうことですな」
俺たちは料理を口へ運びながら、引き続き周囲の話へ耳を傾けた。
店の奥では、年配の男が何度も首を振っている。
「北の兵は、まだ行儀がいい方だ」
「何人か女がやられたって聞いたぞ」
「そりゃいるさ。あれだけ兵が集まりゃ、全部が言うことを聞くわけねえ。だが、見つかった奴は連れていかれたって話だ」
「本当に罰を受けたかは分からんだろ」
「少なくとも、道端で好き放題やってるわけじゃねえ」
向かいの男は納得していない様子だったが、それ以上は言い返さなかった。
乱暴された者はいる。
ただ、軍全体がそれを許しているわけでもないらしい。
俺が王都へ入ってから見た兵たちも、住民へ絡むより、騒ぎを起こす者を押さえていた。
話はやがて王城へ移った。
「城の中は、まだ余裕なんだとよ」
「誰が見たんだ」
「知らねえよ。そういう話だ」
「城門を閉めてから、何もしてこねえじゃねえか」
「壁があれだけ高けりゃ、籠もってる方が楽だろ」
「北の軍も攻めねえな」
「攻められねえんだろ。登ろうとすりゃ上から落とされる」
「なら、ずっとこのままか?」
その問いに答える者はいなかった。
王城側は城門を閉ざし、籠城に徹している。
北方諸国軍も、厚く高い城壁を前に攻めあぐねている。
少なくとも、この酒場にいる者たちはそう考えているらしい。
俺は残っていた芋を口へ入れた。
薄い塩味が、妙に長く舌へ残った。
皿の上を空にしても、腹が満たされたというより、空腹が少し遠のいただけだった。
それでも、店を出てからしばらく何も食べられない可能性を考えれば十分だ。薄められた酒を最後まで飲み、俺たちは席を立った。
店の主人はこちらを見たが、追加で何か頼むつもりがないと分かると、すぐに別の客へ顔を向けた。
外へ出ると、通りは少し暗くなっていた。
日が傾き、家々の影が道の中央まで伸びている。店じまいを急ぐ者たちの足音が重なり、遠くでは板戸を閉める音が何度も響いていた。
「北の方も少し見てみるか」
俺が言うと、セバスチャンは予想していたように小さく息を吐いた。
「遠くからですぜ」
「分かってる」
「本当に分かってるんでしょうな?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「面白そうだと思ったら、すぐ近づく若者ですな」
否定しにくい。
返事をせずに歩き出すと、セバスチャンも隣へ並んだ。
酒場で聞いた話がどこまで本当なのか、少しは自分の目で確かめておきたかった。北側には北方諸国軍の陣があり、その近くにカルデア・トラギスもいるかもしれない。
もちろん、今すぐ会いに行けるとは思っていない。
だが、何も見ずに宿へ戻って考えても、想像の中で悩むだけだ。
通りを北へ進むにつれて、人の数が減っていった。
最初は閉まった店が増えただけだった。さらに歩くと、板戸を打ちつけた家が目立つようになり、道端に座り込む者の姿も少なくなる。
人がいないのではない。
壊れた家の陰や、閉ざされた戸の向こうから、こちらを窺う気配がある。だが、誰も自分から外へ出ようとはしなかった。
道の辻には北方諸国軍の兵がいる。
南側で見た兵より数が多い。
二人一組で立つ者もいれば、道を塞ぐように並んでいる者もいた。俺たちと同じ方向へ歩く者は止められていないが、荷車や大きな荷物を持つ者は中身を確認されている。
俺たちは旅人らしい歩調を崩さず、兵たちから距離を取った。
正面を見たまま、余計な視線を向けない。
剣を持っていること自体は珍しくない。だが、立ち止まって兵の配置を数えれば、それだけで怪しまれるかもしれない。
やがて、空気に焦げた匂いが混じり始めた。
古い煙の匂いだ。
火はもう見えないが、焼けた木や布の臭いが道の奥から流れてくる。
さらに進んだところで、家並みが途切れた。
俺は足を緩める。
遠くに見える家々は、これまでの通りとは様子が違っていた。
屋根を失った家がある。
壁の一部が崩れ、内側が剥き出しになった建物もあった。焼けて黒くなった梁が斜めに残り、その周囲には瓦礫が積もっている。
道の端には、壊れた荷車が横倒しになっていた。
片方の車輪が外れ、焦げた荷台の下から縄が垂れている。近くの家は扉ごとなくなり、窓の穴だけが黒く開いていた。
酒場で聞いた話は、少なくとも全部が嘘ではなさそうだった。
こちら側より被害が大きい。
家を失った者たちが南へ逃げ、街角や路地で身を寄せていたのだろう。
瓦礫の間を動く人影も見えた。
兵なのか住民なのか、ここからでは判別できない。壊れた家へ入り、何かを運び出している者もいる。
さらに奥には、王都の外へ続く道が見えた。
その向こうに、いくつもの天幕が並んでいる。
距離があるため細かいところまでは分からないが、王城を囲んでいた陣の一部だろう。そこへ向かう道には兵が多く、荷を積んだ車がゆっくりと動いている。
食料か、武器か、それとも別の物か。
荷には布が掛けられていて、中身は見えなかった。
「随分といるな」
声を落として呟く。
「この先は陣に近いらしいですからな」
セバスチャンも前を見たまま答えた。
王城の周囲に集まっている兵だけではない。
市街の北側にも見張りが置かれ、陣へ続く道を押さえている。ここから不用意に進めば、どこへ行くつもりなのか問われるだろう。
俺は焼けた家々の向こうへ目を凝らした。
カルデア・トラギスがいるとすれば、さらに奥だ。
あの天幕のどれかにいるのか、それともここからは見えない別の場所に陣を構えているのか。目印になるようなものは見当たらない。
そもそも、カルデア本人の姿を知らない。
二百歳近い老婆を探せばいいとはいえ、遠目に一人ずつ顔を確かめられるはずもなかった。
もう少し先まで行けば、何か分かるかもしれない。
一歩進もうとしたところで、セバスチャンが俺の腕を軽く掴んだ。
「あまり近づかんでくださいよ」
声は小さいが、笑ってはいなかった。
前方の辻に立つ兵の一人が、こちらへ顔を向けている。
偶然かもしれない。
だが、今の俺たちは焼けた街並みを眺めながら立ち止まっている。これ以上長くいれば、不審に思われてもおかしくない。
「ああ」
俺は素直に頷いた。
カルデアへ会う前に捕まっては、何をしに来たのか分からない。
来た道へ身体を向ける。
慌てて逃げるようには見せず、興味を失った旅人のように歩き出した。セバスチャンも何も言わず隣へ並ぶ。
背後から呼び止める声はなかった。
いくつか辻を曲がり、焼けた匂いが薄くなったところで、ようやく肩の力を抜く。
「見られてたな」
「見られてやしたな」
「もう少しくらいなら平気だったんじゃないか?」
「そうやって少しずつ近づいて、最後には陣の中へ入るつもりでしょうが」
「そこまでは言ってないぞ」
「顔に書いてありやした」
セバスチャンが呆れたように息を吐く。
俺は笑って誤魔化した。
北側の被害は確認できた。
北方諸国軍の陣へ続く道が厳しく見張られていることも分かった。
収穫がなかったわけではない。
ただ、カルデア・トラギスへ近づく道は、まだ見つからなかった。
日が沈みきる前に、俺たちは宿のある王都外れへ戻った。
宿へ戻る頃には、通りの明かりもほとんど消えていた。
店は戸を閉ざし、人の姿も昼間より少ない。遠くで兵の声が上がるたび、壁際を歩く者たちが足を速めていた。
宿の主人は、俺たちが戻っても顔を上げただけだった。
何も聞かれないのはありがたい。
狭い階段を上がり、部屋へ入る。扉を閉めると、外の音が少し遠くなった。
俺は外套を脱ぎ、寝台へ腰を下ろした。
昼間より板の硬さが気になる。
酒場で腹へ入れた芋と腸詰めは、すでにどこかへ消えてしまったらしい。腹は満たされていないが、もう一度食事を探しに出る気にもならなかった。
「うーん」
腕を組み、天井を見上げる。
「カルデア・トラギスに会うのは、かなり難しそうだなぁ」
向かいの椅子へ座ったセバスチャンが、剣を壁へ立てかけながら首を振った。
「難しいんじゃなく、無理ですよ」
「そこまで言うか?」
「言いやすよ。あの先は北方諸国軍の陣ですぜ。王都の中を歩くのとは訳が違いやす」
北側で見た兵の数を思い返す。
焼けた家々の向こうには、陣へ続く道があった。荷車が行き交い、辻ごとに兵が立ち、少し足を止めただけでも視線を向けられた。
あそこを旅人の顔で抜けるのは難しい。
仮に抜けられたとしても、その先にカルデアがいる場所まで辿り着けるとは限らない。
だが――完全に不可能かと言われれば、そうとも言い切れない。はずだ、たぶん。
俺は腕を組んだまま、頭の中で状況を整理する。
まず、陣の外縁は厳重だが、物資の出入りはある。荷車が通っていた以上、補給線は機能しているはずだ。そこに紛れる手はあるかもしれない。
ただし、荷運びの人間は顔を覚えられている可能性が高い。急に増えた人間は目立つ。
ならば、外から入るのではなく、中へ引き込まれる形を作るか。
「なんとかならんかな?」
「傭兵にでも混ざりますか?」
セバスチャンが苦笑する。
俺は少し考え、すぐに首を振った。
「いや、昨日今日入った傭兵じゃ会えんだろ?」
「冗談なんですがね」
「分かりにくい冗談だな」
「本気で考える若様が悪いんでしょうが」
俺は寝台へ背中を預けた。
傭兵として紛れ込んでも、軍の外側へ置かれるだけだろう。カルデアの近くへ行くどころか、顔を見る機会すらなさそうだ。
だが、傭兵という発想自体は悪くないかもしれない。
軍に属する理由を持つ者――それも、多少の自由が利く立場。
例えば、伝令や案内役、あるいは捕虜の扱いに関わる者。
そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。
どれも完全な行き止まりではないが、かなり難しい。
王都の住民に紛れる方法も使えない。
北側へ住む者なら陣の近くまで行けるかもしれないが、あの辺りは被害が大きく、兵の目も厳しい。見慣れない顔が歩けば、今より余計に怪しまれるだろう。
ならば、王都側からではなく、北方諸国軍側に「必要とされる理由」を作るべきか。
例えば――情報。
王都内部の情報を持っていると見せれば、話を聞く価値があると判断される可能性はある。
問題は、その情報の信憑性と、そこへ辿り着くまでの過程だ。
「正面から会わせてくれと言うのは?」
「どこの誰だと聞かれて終わりですな」
「旅の貴族だと言えば?」
「そんな奴を軍の大将に会わせると思いやすか?」
「思わんな」
自分で言っておきながら、すぐに諦める。
マバール家の名を出せば、少なくとも門前払いにはならないかもしれない。
だが、それでカルデアに会えるとも思えない。
俺は窓の方へ目を向けた。
板戸の隙間から、細い夜の色が見える。
その向こうには王都があり、さらに北には北方諸国軍の陣がある。カルデア・トラギスは、おそらくそのどこかにいる。
ここまで来て、何も見ずに帰るのは惜しい。
ならば、危険を抑えつつ接触する方法を選ぶべきか。
直接会うのではなく、まずは近づく。
近づいた上で、機会を待つ。
あるいは、向こうから呼び寄せる。
例えば、小規模な騒ぎを起こして指揮官を引き出す――いや、それでは余計な被害が出るし、小規模な騒ぎ程度でカルデアが出てくるとも思えない。
もっと静かで、確実性のある手。
「うーん」
「まだ考えてるんですかい?」
「せっかく王都まで来たんだぞ。顔くらい見たいだろ」
「あっしは別に見たくありやせん」
「付き合いが悪いな」
「若様の好奇心に付き合って、王都まで来てる奴へ言う言葉じゃありやせんぜ」
確かにそのとおりだった。
野盗狩りにも付き合い、包囲された王都にも付き合い、今もこうして俺が妙なことを始めないか見張っている。
俺は少し笑い、再び考え込んだ。
普通に近づくのは無理。
旅人としても、傭兵としても難しい。
名乗ることもできない。
だが、完全に手がないわけでもないはずだ。
問題は、その糸口をどう掴むかだ。
「なんか、無理矢理会うしかなさそうだなぁ」
「物騒なこと言わんでください」
セバスチャンの声が一段低くなった。
「会うために陣へ殴り込もうなんて考えんでくださいよ」
「そこまでは考えてないぞ」
「今は、でしょうが」
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
力ずくで兵を倒して進めば、カルデアの顔ぐらいは見れるか。話すのは無理だろうけどな。
「うーん」
俺は唸りながら、寝台へ身体を横たえた。
天井の染みを眺めながら、頭の中でいくつもの可能性を並べては消していく。
完全な答えはまだ見えない。
だが、ただの行き詰まりではない。
どこかに、通れる隙間はあるはずだ。
隣では、セバスチャンが深いため息を吐いていた。




