第百二十二話 王城の内と外
シルビア橋の上を渡る人の数は、日ごとに増えていた。
最初は、荷を抱えた商人がぽつりぽつりと通る程度だった。だが今は違う。家財を積んだ荷車が軋み、幼い子供を背負った女が足早に進み、年老いた男が杖を突きながら兵の視線を避けるように橋を渡っている。誰も声を張らない。だが、沈黙の中にある焦りは、むしろ喧騒より分かりやすかった。
俺はシルビア橋の砦から、その流れを見下ろしていた。
大河の風は冷たい。川面には薄い光が揺れ、橋脚に当たる水が白く砕けている。その上を、人が渡る。王国から帝国側へ。ある者は逃げるために、ある者は様子を見るために、ある者は荷を売るために。
北方諸国軍が王城を包囲して、すでに一月近くになる。
王都から届く報告は、日に日に悪くなっていた。王城の城壁は固く閉ざされているらしい。王家は健在。王城も落ちてはいない。だが、それだけだ。王国中へ広がっているのは、安心ではなく不信と不安だった。
北方諸国軍は強い。
だが、数で王国全土を占領できるほどではないはずだ。
王国は広い。城も街も村も多い。各地には貴族がいて、兵がいて、食料がある。北方諸国軍がいくら精強でも、王国全土を塗り潰すのは現実的ではない。
なら、カルデア・トラギスの狙いは何か。
征服ではない。
王国という体制そのものの弱体化だろう。
王城を囲み続ける。それだけで王家の権威は削れる。王都の民は不安になり、地方の貴族は王家の力を疑い始める。王命が届いても、本当に従う価値があるのかと考える者が出る。
王家の力が弱まれば、王国内部で独立の動きが出るかもしれない。
そこまでいかなくても、王家の命令は軽くなる。地方貴族は自分の領地を守ると言い出し、兵を動かさず、税も渋り、王都のために命を張る理由を探さなくなる。
その状態で交渉に入れば、北方諸国はかなり有利な立場に立てる。
領土を広げられる。
一年中凍らない大地。
北方諸国にとっては、喉から手が出るほど欲しい土地だろう。食料を得られる土地。冬でも人が暮らしやすい土地。そこへ手を伸ばすために、王国そのものを揺さぶっている。
俺は橋を渡る避難民の列を眺めながら、口元だけで笑った。
噂通り強かな婆さんだな。
カルデア・トラギス。
ただ強いだけではない。王城を落とすことだけに拘っていない。むしろ、落とさないことで王家を腐らせている。攻め急がず、相手の権威が自壊するのを待つ。
厄介な相手だ。
では、王家側はどうするか。
このまま包囲を許せば、王家の権威は失墜する。弱腰、無策、無能。そう陰でなじられるだけでは済まない。やがて表でも言われるようになる。貴族というものは、負ける支配者に優しくない。
この世界では、強いから偉い。
偉いから強い、ではない。
王家だから偉い。血筋があるから従え。そういう理屈は、力が伴っているうちは通じる。だが、王城に閉じこもり、敵を追い払えず、地方へ命令も届かないとなれば話は別だ。貴族たちは内心で王家の力を測り直す。
王城を包囲した段階で、カルデア・トラギスの勝ちかな。
無理に攻める必要はない。
ある程度包囲を続け、王家の権威を失墜させれば、それで勝ちだ。そして、その狙いはすでに成功しつつある。
王家が支配力を維持するには、北方諸国軍の包囲を自力で撃ち破るしかない。
あるいは、象徴であるカルデア・トラギス本人を討ち取る。
王家である以上、それなりの戦力はあるはずだ。各地の貴族の戦力を結集できれば、決して不可能ではないと思う。だが、結集できていないから今の状況なのだ。そこが一番難しい。
逆転の一手ならどうだろう?
善良王がカルデア・トラギスと一騎打ちをして破る。
派手だ。
分かりやすい。
これなら王家の威信は保てるし、王の権威も維持できる。古い物語なら、むしろそれで丸く収まる場面だろう。
だが、カルデア・トラギスが応じるわけがない。
そもそも、あの善良王がそんなことをするとも思えない。万が一負ければ王国自体が吹き飛ぶ。そこまでの賭けに出る王ではないだろう。
それなら、王が一時脱出して体勢を立て直してから反撃に移る。
王城なら秘密の脱出路くらいあるかもしれない。脱出そのものは不可能ではないだろう。だが、そんなことをすれば王都も王城も北方諸国軍へ明け渡すことになる。
逃げた善良王に、貴族たちが今まで通り従うとは思えない。
これは無いか。
となると、北方諸国軍は補給と略奪で持つ間は包囲を続ける。続かなくなったところで交渉し、手打ちにする。王国はかなりの譲歩を強いられ、王家の権威も弱まる。
苦いが、そのあたりが現実的だろう。
俺は胸壁に手を置き、大河の向こうを見た。
マバール家と北方諸国が、直接国境を接することはない。ひとまずはシルビア河を王国と帝国の国境として、王国が十分に混乱してから帝国軍と協力して再侵攻。そんな流れが一番ありそうだ。
王国が北方諸国軍にやられればやられるほど、混乱は広がり、王家は弱体化する。
その間に、父上なら色々と手を回すだろう。
ダル兄さんは帝都で帝国貴族たちとの関係を作る。
アル兄さんなら、シルビア河からマバール領までに残る王国貴族たちを籠絡するだろう。
俺は橋を押さえ、流れを見る。
避難民の列が少しずつ動き、兵が荷車の中を確認している。泣きそうな子供の声が風に乗り、すぐに川音へ溶けた。
俺は小さく息を吐いた。
マバール家としては頑張れ北方諸国軍ってとこか。
王城の中央にある大会議室は、戦時とは思えないほど華やかだった。
高い天井から吊るされた燭台には幾十もの灯火が揺れ、磨き上げられた長机には銀の燭台や水差しが整然と並べられている。窓には厚い布が掛けられ、外から飛び込む冷気も、遠く響く怒号も、この部屋へは届きにくい。
着飾った王都貴族たちは、その長机を囲むように腰を下ろしていた。
「地方貴族たちは何をしている!」
怒鳴る声に、報告役の文官が肩を震わせる。
「はっ……すでにナルド城へ集まりつつあります」
「遅いではないか!」
机を叩く音が響いた。
「それより国境軍はなぜ動かん!」
「はっ……北方諸国軍との戦いで被害甚大のため、現在は再編成中との報告でございます」
「遅い!」
別の貴族が鼻で笑う。
「そもそも奴らが敗れるのが悪いのだ」
「まったくだ」
「油断しよって」
誰一人として、自分たちが国境へ兵を送ろうとは言わない。
責任だけが机の上を転がり続けていた。
「城壁の様子はどうだ」
「はっ。北方諸国軍より断続的な攻撃はありますが、現在も持ち堪えております」
その報告を聞いた途端、一人の年配貴族が胸を張った。
「見よ。我々が指揮しておれば、この程度なのだ」
周囲の貴族たちが満足そうに頷く。
「北方諸国軍など簡単に抑え込める」
「やはり王都の統治こそ正しい」
「地方任せにしておったから乱れたのだ」
実際に城壁の上で矢を受けている兵ではなく、この部屋で椅子へ座る自分たちの判断が正しかったのだと、誰も疑っていない。
「そもそも今回の混乱を招いたマバール家が悪い」
「裏切り者め」
「うむ」
「辺境伯位は返上させねばなるまい」
「領地も没収だ」
「当然だ」
一人の若い文官がおずおずと口を開く。
「ですが……マバール家はすでに帝国貴族となっております」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
しかし、それもすぐに打ち消された。
「けじめというものがある!」
「そうだ!」
「このまま許す訳にはいかん!」
「爵位も領地も没収が相応しい!」
現実は誰も変えられない。
だからこそ、変えられない現実より、自分たちに都合の良い結論だけが積み重なっていく。
「誰か正式な使者を立てよ」
「マバール家へ向かわせるのだ」
「爵位を返上し、領地を明け渡すよう命じよ!」
誰も、その命令を受ける相手が、すでに王国の臣下ではないことを問題にはしなかった。
「北方諸国も北方諸国だ!」
「正式な合意を破るとは!」
「恥知らずな野蛮人め!」
「正式な抗議の使者を送るべきだ」
「うむ」
「遺憾の意を伝えるのだ」
「正式に抗議せねばならん」
戦況を変える策は出ない。
出てくるのは、形式と体裁を整える話ばかりだった。
「陛下は何をなされておる」
文官が一礼する。
「はっ。陛下は自室でお食事中であります」
「そうか」
「さすがは陛下、豪胆な事よ」
一人が立ち上がる。
「では、そろそろ食事の時間だな」
「そのようですな」
「では、本日の会議はここまでということで」
椅子が引かれる音が重なり、貴族たちは穏やかな笑みを浮かべながら会議室を後にしていく。
会議室の外では、壁を震わせる攻撃魔法の音がまた一つ響いた。
中からは、それをかき消すように貴族たちの笑い声が漏れていた。
王城を包囲する北方諸国軍の本営では、昼を過ぎても慌ただしい足音が絶えなかった。
幾重にも張られた天幕の間を、鎧姿の兵が行き交う。炊き出しの煙が細く立ち上り、荷車からは干し肉や穀物袋が次々と運び出されていた。槍を立てた歩哨は周囲へ目を光らせ、遠く王城の石壁を見据えている。
その中央に建つ一際大きな天幕では、二人の貴族が机を挟んで向かい合っていた。
筋骨隆々とした大柄な男が地図から目を上げる。
「補給はどうだ」
控えていた騎士がすぐに一歩前へ出た。
「はっ。現在の備蓄なら、まだ一月は持ちましょう」
「そうか」
大柄な男は短く頷く。
その隣で地図を眺めていた細身の貴族も、小さく息を吐いた。
「兵にはたっぷり食わせてやれ」
「はっ」
「腹を空かせた兵ほど役に立たんものはない」
騎士は笑みを浮かべて頭を下げる。
「承知いたしました」
大柄な男は王城を示す印へ指を置いた。
「無理に攻める必要は無い」
静かな声だった。
「まずは穴が無いよう包囲せよ」
「はっ」
細身の貴族も続ける。
「逃げたがる王国民は逃がしてやれ」
騎士は少しだけ首を傾げた。
「財貨の持ち出しは構わん」
そこで細身の貴族の目が細くなる。
「だが、食料だけは持ち出させるな」
「承知いたしました」
騎士は深く一礼すると天幕を出ていった。
幕が閉じられ、外の喧騒が少し遠くなる。
二人だけになると、大柄な男は声を潜めた。
「実際にはどうだ」
細身の貴族は苦い顔を浮かべる。
「厳しいな」
その一言に、大柄な男も眉を寄せた。
「予想より王都の食料備蓄が少ない」
「……少ない?」
「調査では半年分あるはずだっただろう?」
「書類上は、な」
細身の貴族は肩を竦めた。
「実際は違う」
大柄な男は腕を組む。
「横流しか」
「おそらくだ」
重苦しい沈黙が流れた。
外では兵が号令を掛け、荷車の車輪が軋む音が響いている。
「……奴らは折れるか」
大柄な男が低く尋ねた。
細身の貴族は少し考え込む。
「分からん」
そして静かに続けた。
「あと一月で折れるかどうか」
大柄な男は深いため息を吐いた。
細身の貴族はその横顔を見つめ、小さく口を開く。
「カルデア様のご様子は」
その問いに、大柄な男はしばらく答えなかった。
やがて視線を落とす。
「……お婆様も年だからな」
細身の貴族も表情を曇らせる。
「…どの程度持つ」
「……半年か、一年だろう」
短い返答だった。
「二年は」
「難しいな」
細身の貴族は静かに頷いた。
「そうか」
天幕の中へ沈黙が降りる。
誰も声を上げない。
王城を包囲している彼らにも、時間という敵は確かに存在していた。
王城の最奥。
厚い石壁に囲まれた静かな一室では、落ち着いた空気が流れていた。
卓には温かな料理が並び、銀の器にはまだ湯気が立っている。
「陛下……よろしいのですか」
控えていた貴族の女性が、おそるおそる尋ねた。
一人の男性貴族は肉を切り分けながら顔を上げる。
「かまわん」
落ち着いた声だった。
「所詮、彼奴らに城壁は抜けん」
杯を取り、ゆっくりと酒を口へ運ぶ。
「それにカルデアも、さほど持つまい」
その口調に焦りはない。
勝算を失っている者ではなく、自分の計算を信じている者の声音だった。
女性は少し間を置き、小さく言い直した。
「……いえ、王都貴族たちのことです」
「ああ」
男性貴族は軽く笑う。
「放っておけ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「何も出来ん」
酒杯を静かに卓へ置く。
「吠えるだけの犬にはエサを投げれば良い」




