第百二十一話 戦乱の世
シルビア橋の砦には、風がよく通った。
大河の上を滑ってきた風は、石造りの橋脚にぶつかる水音を連れて砦の上まで吹き上がる。胸壁に立つ兵の外套が揺れ、旗竿の先でマバール家の旗が大きくはためいた。布は何度も風を受け、広がり、折れ、また広がる。そのたびに、まだ新しい支配の色が橋の上へ影を落としていた。
俺は砦の上から、シルビア橋を見下ろしていた。
数日前とは景色が違う。
少し前まで、この橋は警戒の場所だった。渡る者は少なく、兵ばかりが目立ち、商人も平民も遠巻きに様子を見ていた。橋そのものは無傷に近く残っていたのに、人の流れは戻らなかった。戦場になったばかりの石の上を、好き好んで歩く者などいないということだ。
だが今は違う。
荷を積んだ馬車が列を作っている。粗末な家財を縄で縛りつけた荷車が、兵に促されてゆっくり進む。子供を抱いた女が、橋の向こう側を何度も振り返りながら歩いていた。商人らしき男たちは、荷札を握りしめ、兵の確認を受けている。顔色の悪い老人を荷台に乗せた家族も見えた。
人が増えた。
それ自体は悪くない。
だが、この賑わいは平和のものではなかった。
カルデア・トラギス率いる北方諸国軍が、王国へ攻め込んだ。
その報せが届いてから、続報は次々ともたらされた。王国国境軍は突破された。北方諸国軍は止まらず、王都を目指して進んでいるらしい。王都へ向かう街道沿いの宿場では人が逃げ、貴族たちは使者を走らせ、商人は荷をまとめて安全な方へ動き始めている。
国境を守るはずだった王国軍が抜かれた。
その事実は、平民にも商人にも分かりやすかった。
「皮肉なもんだな」
声は風に混じった。
こないだまでは、帝国の方が内乱になりそうだった。
皇帝が死に、四帝家が探り合い、メガレア家、アバルディア家、ザザント家、フリージア家がそれぞれに動いていた。帝国は大きい。だからこそ、一度割れれば面倒なことになると思っていた。
ところが、新しい皇帝は無事に即位した。
もちろん、それで全てが片付いたわけではないだろう。帝国貴族たちは腹の内でいくらでも計算しているはずだし、新皇帝はまだ幼い。だが、戴冠式は行われ、表向きの形は整った。帝国は少しずつ国内をまとめ始めている。
一方で、安定していたはずの王国はどうだ。
帝国との国境を守っていた辺境伯家マバール家を筆頭に、国境貴族たちが一気に帝国側へ移った。その瞬間、王国の東側は大きく揺らいだ。そこに合わせるように王国北部から北方諸国軍が攻め込んだ。
安定していた王国が混乱し、混乱していた帝国がまとまり始める。
笑えない冗談みたいな流れだ。
「戦乱の世か」
呟くと、橋の上から荷車の軋む音が聞こえた。
そんな言葉を口にする年齢ではない気もする。だが、今の景色を見ていると、そうとしか言いようがなかった。俺は前世の倫理を持ち込んで嘆くつもりはない。ここはそういう世界だ。力があり、魔力があり、血統があり、家がある。国境が揺れれば、そこへ牙を立てる者が現れる。
俺たちも同じだ。
シルビア橋を取った。
シルディア城を押さえた。
王国から見れば、俺たちも混乱を広げた側なのだろう。
父上からの使者も来ている。
指示は短かった。
今はまだ動くな。
端的に言えば、それに尽きる。
今はまだ。
その言葉が引っかかる。
父上が何も考えずに待てと言うはずがない。今はまだ、ということは、いずれ動くつもりなのだろう。王国が北方諸国軍に飲まれるのを、ただ橋の上から眺めて終わりにする気はないはずだ。
だが、俺たちはもう王国貴族ではない。
マバール家は帝国へ移った。
旧国境貴族たちも同じだ。
ここで帝国の許可を得ずに勝手に軍を動かせば、余計な疑いを招く。王国へ未練があるのか。裏で内通しているのか。帝国に従う気がないのか。そう見られれば、せっかく手に入れた立場が危うくなる。
だから父上は、先に帝国側へ働きかけているはずだ。
新皇帝。
アバルディア家。
帝国上層部。
誰を通すかは分からないが、動くための筋を作っているのだろう。
俺が今ここでやるべきことは、橋を守ることだ。
動くなと言われたなら、動かない。
ただし、見ていないわけではない。
再び橋を見下ろした。
人の流れは多い。
王国側から帝国側へ逃げる者たちがいる。戦乱の噂を聞き、早めに逃げてきた者。国境軍が抜かれたと聞いて慌てて荷をまとめた者。どこまで真実を知っているかは分からない。ただ、不安だけは全員の顔に張りついていた。
逆に、帝国側から王国へ向かう者もいる。
商人の姿をした男。
旅人に見える二人組。
荷運びに紛れた若い男。
全員が密偵だとは思わない。だが、その中にマバール家の者もいれば、帝国側の密偵もいるはずだ。情報を得るために、人は戦場へ近づく。金を得るために、商人も危ない道を進む。
橋とは面白い。
平和な時は商いを運ぶ。
戦の時は恐怖と情報を運ぶ。
同じ石の上を、人は違う理由で渡っていく。
「なかなかの賑わいだな」
俺は苦笑した。
兵が通行人を捌き、荷車が進み、女が子供を抱え直す。マバール家の旗が風を受け、大河は変わらず流れている。橋は、また生き始めていた。
ただし、その命を動かしているのは戦の匂いだった。
マバール城の会議室には、昼の光が鈍く差し込んでいた。
石壁に囲まれた部屋は広いが、窓は大きくない。卓上には王国東部、シルビア河、王都方面、そして北方へ伸びる街道を記した地図が広げられている。地図の端には小さな駒が置かれ、兵の推定位置や報告の届いた地点が示されていた。
ガルシア・マバールは椅子に腰を下ろし、静かに地図を見ていた。
周囲には老武官、老文官、武官、文官、諜報の長が揃っている。誰も声を荒げていない。だが、会議室の空気は重かった。北方諸国軍が王国へ攻め込んだ。その報せだけでも大きい。さらに続報は、王国側にとって悪いものばかりだった。
諜報の長が一歩前へ出た。
「北方諸国軍は、すでに王城を完全に包囲したようです」
誰かが息を飲む音はなかった。
ただ、地図の上に置かれた駒へ、いくつもの視線が集まった。
王城。
王国の中心。
そこを包囲されたということは、北方諸国軍が国境から王都までを一気に抜いたということだ。行軍の速さも、判断の早さも、並ではない。
「さすがですな」
武官が低く言った。
敵を褒める声ではあるが、そこに軽さはない。戦場を知る者の評価だった。
ガルシアは地図から目を離さずに尋ねた。
「カルデア・トラギスの様子は分かるか?」
「魔力反応から、未だ健在かと思われます」
諜報の長の返答は短い。
距離がある。確証を得ることは難しい。だが、王都周辺にいる密偵たちが拾った情報を合わせる限り、北方諸国軍の中心にはまだ強い魔力反応がある。カルデア・トラギス本人と見ていい、ということだろう。
「ふむ。よく持ちますな」
武官が顎に手を当てる。
王国国境軍を突破し、そのまま王都を包囲する。移動だけでも負担は大きい。まして軍を率いる者が先頭に立ち続けているなら、魔力も体力も削られる。だが、それでも健在。カルデア・トラギスという老婆の厄介さが、報告の短さから滲んでいた。
老文官が静かに口を開く。
「国境軍の様子は?」
諜報の長の表情は変わらない。
「それが、北方諸国軍に突破されて以降、ほぼ動いておりません」
そこで、会議室の空気が少し変わった。
武官が眉を寄せる。
「王城を包囲している今が好機ではありませんか?」
別の文官が地図へ視線を落とした。
「後ろから攻めれば、北方諸国軍も挟まれますな」
当然の考えだ。
国境軍が健在なら、抜かれた後でも追撃はできる。王都を包囲している敵軍の後背を叩けば、少なくとも圧力にはなる。王城側と連携できれば、形勢を変えることも不可能ではない。
だが、動いていない。
それは、単なる遅れでは済まない。
老武官が、低く呟いた。
「……裏切ったか?」
諜報の長は一拍置いて頷いた。
「確証は得られておりません。ただ、その可能性が高いかと」
会議室に沈黙が落ちる。
ガルシアは、わずかに顎を引いた。
「うむ」
それだけだった。
怒りも驚きも表に出さない。だが、その一言で十分だった。国境軍が裏切った、あるいは動けないほど内部から崩れた。どちらにせよ、王国側の抵抗は想定より弱い。
老文官は唇を細く結んだあと、別の報告へ移った。
「ダルメシアン様よりの連絡は?」
諜報の長は小さく頭を下げた。
「やはり、当家や旧国境貴族のみで動くのは難しいとのことです」
老武官が唸る。
「帝国軍を受け入れねばならんか」
その声には苦味があった。
無理もない。
マバール家は帝国へ移ったばかりだ。旧国境貴族も同様である。だが、旧王国領へ向けて軍を動かすとなれば、帝国側の許可と関与が要る。勝手に動けば、帝国からも疑われる。かといって帝国軍を受け入れれば、今度は自分たちの戦場へ帝国の手を入れることになる。
老文官が頷いた。
「やむを得ませんな」
「かまわん」
ガルシアの声は短かった。
迷いはない。
自家だけで全てを握ろうとすれば、余計な隙を作る。今は帝国の枠内で動くことを示す方が重要だ。その形を整える必要がある。
ガルシアは地図の別の箇所へ視線を移した。
「アルディスはどうだ?」
「はい。攻略は順調に進んでおります」
諜報の長が答える。
老文官の表情がわずかに和らいだ。
「さすがですな」
老武官も深く頷く。
「うむ。攻め落とすばかりが正しいわけではないからな」
アルディスが進めているのは、剣と魔法で城を焼くような攻略ではない。シルビア河以東に残る国内貴族たちを見極め、交渉し、切り分け、必要なら取り込む。誰を残し、誰を潰し、誰を従わせるか。そういう戦いだった。
城壁を崩すより時間は掛かる。
だが、後に残る土地を使うなら、その方がいい。
老文官が少しだけ苦笑した。
「ギルバート様にも見習ってもらいたいのう」
軽口に近かった。
だが、ガルシアの目がわずかに動いた。
「ギルバートはあれで良い」
声は荒くない。
しかし、部屋の空気が一段締まった。
老文官は即座に姿勢を正す。
「はっ」
ガルシアはそれ以上言わなかった。
ギルバートにはギルバートの使い道がある。そう言われたのと同じだった。橋を奪い、敵の拠点をほぼ無傷で押さえる。乱暴に見えても、それが必要な場面はある。アルディスと同じ動きをさせる必要はない。
会議室の者たちは、それを理解して黙った。
沈黙を置いて、老文官が手元の書状へ視線を落とした。
「ザイン・エディオン殿より、シルビア橋に向かいたいとの書状が届いております」
その名が出た瞬間、老武官が小さく鼻を鳴らした。
「黙って見ておれんようだな」
エディオン家。
王国内でも古い家であり、アルディスの正妻の実家でもある。今の情勢で動かない方が不自然だった。王国が揺らぎ、シルビア河を境に勢力の線が変わろうとしている。そこに縁のある家が手を伸ばすのは当然だ。
若い文官が慎重に口を開く。
「上手く動けば、シルビア河の向こうにも領地を得られますからね」
「それほど簡単な狙いではあるまい」
老文官が首を横へ振った。
老武官は地図上の橋へ目を落とす。
「狙いはシルビア橋か」
橋。
今この地域で、最も価値のある石の塊。
人が通り、荷が通り、兵が通る。王国と帝国の境に近い位置でありながら、今はマバール家が押さえている。ここを誰が持つかで、周辺の力関係は変わる。
老文官がガルシアへ向き直った。
「どうなさいますか?」
「かまわん」
ガルシアは即答した。
「ギルバートなら上手く相手が出来るだろう」
部屋の者たちは、わずかに視線を交わした。
ギルバートは若い。
だが、すでに帝国相手の交渉も、山賊もどきの襲撃も、メガレア家関係の処理も経験している。荒っぽいだけではない。相手の立場を見て、逃げ道を作り、時には知らぬ顔もできる。ザイン・エディオンが来たところで、ただ押し込まれるだけでは終わらないだろう。
老文官は確認するように尋ねた。
「……シルビア橋は、ザイン・エディオン殿に渡しても?」
「所詮は一時的な話だ」
ガルシアは頷いた。
橋を誰が表で管理するか。
それは大事だ。
だが、永遠ではない。
今ここでエディオン家に顔を立て、橋の一部を渡す形になったとしても、その先の支配構造がどうなるかは別の話だ。
ガルシアは地図を見下ろしたまま、小さく笑った。
「ザイン・エディオンの息子とアルディス、どちらが優れる?」
それだけで老武官は意味を悟った。
「ザイン・エディオン殿亡き後、アルディス様なら長男を傀儡に出来ますな」
老文官も目を細める。
エディオン家を正面から奪う必要はない。
縁を使う。
婚姻を使う。
後継者を支えるふりをして、裏側の実務を握る。
アルディスなら、それを無理なく進められる。
「裏で実権を握れば良い」
ガルシアは静かに言った。
その声に乱暴さはない。
むしろ当然の手順を確認するような響きだった。
戦場で敵を斬ることだけが支配ではない。相手の家を残し、看板を立てたまま、中身を喰らい自分のものにする。それもまた貴族の戦い方である。
老武官が低く笑った。
「アルディス様向きですな」
「あれは笑って動けるからな」
ガルシアも笑った。
アルディスは剣を抜かずに間合いを詰める。
相手の肩へ手を置き、笑いながら逃げ道を塞ぐ。
そういう男だ。
老文官は少し表情を緩めた。
「ふむ。そこだけはギルバート様にも見習って欲しいものですな」
今度はガルシアも咎めなかった。
むしろ、かすかに口元を動かす。
「そうだな」
会議室に小さな笑いが広がった。
老武官も、文官も、諜報の長も、それぞれに短く笑う。張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
だが、その笑いは明るいものではない。
地図の上では、王城が北方諸国軍に囲まれている。国境軍は動かず、帝国軍との調整は必要で、シルビア橋には別の貴族が手を伸ばそうとしている。笑いながら話している内容は、いずれ誰かの家を呑み込み、誰かの領地を塗り替えるものだった。
ガルシアは笑みを消し、地図へ視線を戻した。
「帝国側への返答を急がせろ。ダルメシアンには、旧国境貴族だけで動かぬ形を崩すなと伝えよ。アルディスには、エディオン家の動きも含めて進めさせる」
「はっ」
老文官が頭を下げる。
「ギルバート様へは?」
老武官が尋ねた。
「ザイン・エディオンが向かうと伝えればよい」
ガルシアは短く答えた。
「余計な指示はいらん」
その言葉に、会議室の数人がまた少し笑った。
ギルバートへ細かく命じると、かえって妙な方向へ理屈を伸ばす。ならば、必要な情報だけを渡す方がいい。そういう認識が、マバール家上層部にはすでにあった。
老文官は静かに頷いた。
「承知いたしました」
窓の外では、夕刻の光が城壁へ落ち始めていた。
帝国はまとまり、王国は崩れ、北方諸国軍は王城を囲む。
その混乱の中で、マバール家もまた静かに手を伸ばしている。
笑いの余韻が消えた会議室には、紙の擦れる音と、次の指示を書きつける筆の音だけが残った。




