第百二十話 北方からの急報
シルビア橋は、今日も大河の上に重く横たわっていた。
橋の両端にある砦の一つ、その上から見下ろすと、石造りの橋脚が川の流れを受け止めているのがよく分かる。水面は昼の光を受けて鈍く光り、ところどころ白く泡立ちながら、橋の下を東へ押し流されていた。川風は湿り気を含み、石壁の上へ立つ兵たちの外套を小さく揺らしている。
俺は胸壁のそばに立ち、橋の上を見下ろしていた。
兵の配置は悪くない。
橋上には槍を持った兵が間隔を置いて立ち、砦の門近くでは通行人を確認する者がいる。荷を積んだ小さな馬車が一台、ゆっくり橋を渡っていた。その後ろを歩く平民の男は、兵の視線を受けるたびに肩を縮めている。
通る者より、見張る兵の方が多い。
これが今のシルビア橋だった。
「様子はどうだ?」
俺は後ろに立つセバスチャンへ声をかけた。
セバスチャンは胸壁へ肘を預けるようにしながら、橋上を眺めている。顔に残る傷が風に当たり、いつものように不機嫌そうにも、機嫌が良さそうにも見えた。
「これまで橋を警護していた兵は、さすがに手慣れていますな」
「ほう」
少し意外だった。
占領した側としては、元からいた兵をそのまま使うのは危うさもある。だが、橋の扱いに関しては、外から来た兵より慣れているのも事実だ。どこで荷を止めるか。どの時間に人が増えるか。怪しい者がどんな顔をするか。そういう細かい癖は、実際にここで働いていた者の方がよく知っている。
「褒めるとは珍しいな」
「使えるもんは使えますぜ。橋の扱いに関しちゃ、うちの兵より勘がいい。変に全部入れ替えるよりは楽です」
「だが、通行する者はまだ少ないな」
橋の向こう側を見る。
街道は伸びている。
道そのものは生きている。
けれど、人の流れは細い。かつてこの橋がどれほど賑わっていたのかは知らないが、徴税記録で見た数字とは明らかに合わない。あの記録にあった人と荷の流れは、今はどこかで止まっている。
セバスチャンは顎を擦った。
「通行料でも下げますか?」
「いや、やめておこう」
俺はすぐに首を振った。
「ここでいきなり下げると、逆に不安を煽る。シルディア家からマバール家に橋の管理が移っても変わらんと分かれば、多少は増えるだろう」
安くなったから渡れ、というのは少し違う。
今必要なのは、安さではなく安心だ。
橋が通れる。
兵が暴れない。
税も急に変わらない。
平民や商人に、それを何日も何十日も見せるしかない。一度失った流れは、命令だけでは戻らない。
「そうですな」
セバスチャンも頷いた。
こういう時、セバスチャンは妙に現実的だ。血生臭いことも言うし、やることも荒いが、無意味な乱暴を好むわけではない。使えるなら使う。待つべき時は待つ。その辺りの勘は信頼できる。
「密偵はどうだ?」
俺が尋ねると、セバスチャンの口元がにやりと歪んだ。
「近隣の国内貴族どもの密偵が、僅かに潜り込んできました」
その笑いだけで、だいたい分かった。
捕らえたな。
それで情報を抜いた。
たぶん、生きては帰していない。
橋の上を渡る馬車の車輪が、石の継ぎ目を踏んで小さく跳ねる。平民の男は、兵に促されて荷を開けていた。そこには干した豆と布が見えるだけだ。
俺は視線を橋から外さずに言った。
「やりすぎるなよ」
「へいへい」
軽い返事だった。
絶対に分かっていて流している。
だが、ここで細かく問い詰めても仕方がない。セバスチャンに任せた以上、必要な処理はしているはずだ。近隣の国内貴族たちがこちらを探るのは当然で、こちらも探られっぱなしでいるわけにはいかない。
ただ、恐怖だけで橋を固めると、人が戻らなくなる。
その線引きは難しい。
「城の方はどうですかい?」
セバスチャンが今度はこちらへ話を振った。
「まあ、多少は使用人も増えたから、なんとか回っている」
俺は苦い顔を隠せなかった。
「だが、まだまだ人手不足だな」
「増援の兵も増えましたからな」
「ああ」
そうなんだよなぁ。
使用人が少し増えたと思ったら、今度は平民兵も増えた。兵が増えれば食う量が増える。寝床がいる。湯もいる。薪もいる。洗う物も増える。通路は汚れ、厩は臭い、井戸の水は減る。
救いは平民兵は、騎士ほど手が掛からない事だ。
ある程度、自分たちの身の回りは自分たちでやる。鎧の扱いも粗末で、寝る場所にも文句は少ない。だが人数が増えれば、それだけで城全体の仕事は増える。
結局、使用人たちの負担はほとんど軽くなっていない。
むしろ増えた仕事へ、どうにか追いつこうとしているだけだ。
「落ち着くのはまだまだですな」
「そうだな」
橋の上で荷の確認が終わったらしく、馬車がゆっくり動き出した。兵が道を開け、平民の男が何度も頭を下げている。あれが自然に流れるようになるまで、どれだけ掛かるのか。
そう考えていた時だった。
砦の階段を駆け上がる足音が響いた。
普段なら、ここまで音を立てて走る者はいない。兵が何か言おうとしたが、その前に見覚えのある細身の騎士が姿を現した。
クレインだった。
息が上がっている。
額に汗が浮かび、整えた髪も乱れていた。文官寄りの男が、ここまで露骨に慌てるのは珍しい。
「ギルバート様!」
声も硬い。
「王都より急報です!」
橋の上を吹いていた風が、一瞬だけ冷たく感じた。
王都。
そこにはマバール家の密偵が潜んでいる。王都からの急報というだけで、軽い話ではない。
「すぐに呼べ」
「はっ!」
クレインは返事をするなり、来た道をすぐに戻った。
セバスチャンが目を細める。
「嫌な報せですかね」
「良い報せなら、あいつはあそこまで走らん」
俺は橋から目を離し、砦の内側へ向き直った。
ほどなくして、クレインが一人の男を連れて戻ってきた。
男は荷を背負った行商人そのものだった。
日に焼けた顔。
少し擦り切れた上着。
肩へ掛けた荷袋も、ごく普通の旅商人が持つ程度の大きさしかない。
背丈も体格も平均的。
人混みへ入れば二度と見つけられそうにない。
特徴がない。
それが一番の特徴だった。
……さすがだな。
俺は内心で感心した。
優秀な密偵ほど目立たない。
美男でもなく、醜男でもない。
金持ちにも貧乏人にも見えず、着ている物を変えれば兵にも商人にも見える。
誰の記憶にも残らない人間こそ、一番優秀なのだ。
男は俺の前まで来ると静かに片膝をついた。
「報告しろ」
短く命じる。
男は顔を上げた。
「はっ」
一度だけ頷く。
「王国国境に北方諸国軍が攻め込みました」
その一言で、砦の空気が変わった。
橋を渡る荷車の音も。
兵の掛け声も。
すべて遠くへ押しやられたような感覚になる。
「やはり動いたな……カルデア・トラギス」
思わず口から漏れた。
予想はしていた。
いや、正確には父上が予想していた。
マバール家が王国から帝国へと動く。
その混乱を狙う者は必ず現れる。
北方諸国が動くなら、今しかない。
そう読んでいた。
その読みが当たっただけだ。
それでも。
「決断が早い」
感心せずにはいられない。
王国が最も混乱する瞬間を逃さなかった。
動くべき時を知る者というのは厄介だ。
「いくさの様子は?」
俺は続けて尋ねた。
「どちらが優勢だ」
密偵は迷わず答えた。
「マバール家の帝国編入で混乱していた王国国境軍は、かなり押し込まれている模様です」
やはり。
そこを狙ったか。
マバール家が抜けた混乱は、それほど大きい。
情報は錯綜し、士気にも影響しているのだろう。
そこへ北方諸国軍が全力で叩き込めば、国境軍だけで抑え切れるはずがない。
「見事だな」
思わず呟く。
敵を褒めるのは好きではない。
だが、評価すべきところは評価する。
戦とはそういうものだ。
「王都の様子は?」
国境も気になるが、重要なのは王都の反応だ。
密偵は小さく息を整えてから口を開いた。
「王都は混乱に拍車が掛かっております」
「ふむ」
「王城は城門を閉め、守りを固めておりました」
守りを。
俺は眉を寄せた。
「援軍は出していないのか?」
普通なら。
国境軍が持ちこたえている間に増援を送り込む。
国境を抜かれれば、その後の被害は比較にならない。
だから多少無理をしてでも援軍を送る。
それが戦の常識だと思うのだが。
「はっ」
密偵は頷いた。
「私が王都を出た時には、その動きはありませんでした」
「そうか」
それだけ答える。
密偵を責めても仕方がない。
見たことだけを報告するのが密偵の仕事だ。
推測は俺たちがする。
俺はクレインへ視線を向けた。
「早馬を用意してやれ」
「はっ」
「必要なら騎士もつけろ」
「承知いたしました」
クレインは即座に動き出した。
密偵も深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「休める時に休め」
俺が言うと、男はもう一度礼をしてクレインの後を追った。
階段を下る足音が遠ざかる。
再び砦へ静けさが戻った。
残ったのは俺とセバスチャンだけだった。
しばらく橋を眺めていた俺は、小さく息を吐いた。
「どう見る?」
セバスチャンへ尋ねる。
セバスチャンは腕を組み、川の向こうを眺めたまま答えた。
「普通なら、国境軍が踏ん張っておる間に援軍を送りますが……」
そこで言葉を切る。
その横顔には疑いが浮かんでいた。
俺も頷く。
「そうだな」
普通ならば。
兵を集める。
王都から出す。
国境で敵を止める。
それが当たり前だ。
だが。
俺の頭に浮かぶのは、一人の男だった。
善良で。
誠実で。
戦より理想を信じる王。
俺はシルビア河の流れを見つめたまま、小さく呟いた。
「あの善良王に、それが出来るか?」
その問いに答える者はいなかった。
ただ、大河だけが何事もないように流れ続けていた。
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