第百十八話 湯気の中の気づき
シルディア城の書庫を出る頃には、窓の外の光がだいぶ傾いていた。
細い窓から差し込んでいた白い光は、いつの間にか赤みを帯び、棚の影を長く引き伸ばしている。古い紙と革の匂いが服に染みついた気がして、扉を閉めた瞬間、廊下の空気が妙に新鮮に感じられた。
なかなか面白い時間だった。
橋の歴史。
シルディア家の発展。
神祖の伝承。
どれも、今すぐ戦場で役に立つ情報ではない。だが、土地を押さえるというのは、結局そういう積み重ねを知ることでもあるのだろう。誰が何で食い、何を誇り、どこに金を埋めているのか。それを知らずに旗だけ立てても、長くは持たない。
「まあ、どこまで本当かは分からんが」
独り言が石壁へ薄く返った。
歴史なんて、書いた者の都合でいくらでも形が変わる。シルディア家の家系図も、橋の記録も、神祖の本も、全部が全部真実とは限らない。だが、嘘にも残る形がある。何を誇り、何を隠し、何を本当らしく見せたかったのか。それを読み解くのも悪くない。
廊下を歩き出すと、足裏に石床の硬さが戻ってきた。
城内にはまだ戦後のざわつきが残っている。遠くで兵が木箱を運ぶ音がし、どこかの扉が開いて閉まる。さすがにここまでは血の匂いはしないが、決して戦の気配が消えたわけではない。火と油、古い石、湿った布、そして人の緊張が混じった空気が、占領したばかりの城だと知らせてくる。
「あ、あの……」
廊下の角から、細い声がした。
足を止めると、一人の女が壁際に立っていた。平民の使用人だろう。年は若い。頭を下げているが、肩に力が入りすぎていて、礼の形が少し硬い。栗色の髪を後ろでまとめ、飾り気のない服を着ている。顔立ちは整っていた。肌も荒れていないし、目元も悪くない。
ふむ。
なかなか美しいな。
ただ、見覚えはない。マバール騎士の関係者ではないし、直属騎士の関係者でもない。シルディア家、というより、このシルディア城で働いていた女だろう。
「お、お風呂の準備が整いました」
声が少し震えている。
まあ、そりゃ緊張するか。
俺は今、この城を落とした側の貴族だ。しかも城内の平民から見れば、どんな性格かも分からない若い男である。機嫌を損ねれば、仕事を失うどころでは済まないと思っているかもしれない。
平民の使用人は、貴族や騎士と違う。
騎士は家に仕える。主家の命令で戦場へ行き、城を移り、場合によっては領地ごと動く。前世感覚で雑に例えるなら、騎士は正社員に近い。家の一部として扱われ、責任も重いが、その分立場もある。
平民の使用人は違う。
家に忠誠を誓うというより、その城で働いている感覚が強い。店舗従業員とでも言えばいいか。もちろん長く勤めれば主家への情も湧くだろうし、信用も積み重なる。だが、騎士のように主家と一体化するわけではない。
平民は、基本的に動かない。
生まれた土地で働き、その土地で結婚し、その土地で死ぬ。遠くへ行く商人や職人もいるにはいるが、多数派ではない。おそらく、この女もこの城か城下で生まれ、シルディア家の下で働き、今日までここから出たこともほとんどないのだろう。
「あ、あの……」
女がもう一度、恐る恐る声を出した。
しまった。見たまま考え込んでいた。
「ああ、分かった。案内しろ」
「は、はい」
女は深く頭を下げ、慌てたように歩き出した。
俺はその後ろへ続く。
廊下はマバール城より少し狭い。石の積み方も違う。壁の厚みや天井の高さに、その家の考え方が出る。シルディア城は大河と橋で栄えた家の城だからか、マバール城ほど戦を前提にしている感じは薄い。もちろん防御を捨てているわけではないが、国境の城とは緊張の質が違う。
前を歩く女の背中を見る。
顔はいい。
だが、胸と尻は少し弱いな。
惜しい。
顔立ちはかなり悪くないのに、俺の好みからすると物足りない。レティシアやダリアを見慣れているせいもある。あの二人が近くにいると、どうしても基準がおかしくなる。
「平民の使用人は、何人ほど残っている?」
女の肩がびくりと跳ねた。
「あ、はい。あの……半分くらいだと思います」
「そうか」
それだけ答えると、女はそれ以上何も言わなかった。
半分か。
まあ、そんなものだろう。
城が落ちれば逃げる者も出る。主家に近かった者は捕らえられたり、処分を恐れて姿を消したりもする。逆に、逃げる場所がない者、家族が城下にいる者、職を失えば食えない者は残る。
平民の使用人に、主家と運命を共にしろと言うのは酷だ。
もちろん信用できるかは別だが、残った者を全て追い出せば城は回らない。掃除、洗濯、料理、湯、荷運び、寝具、火の管理。兵や騎士だけでどうにかなる仕事ではない。
浴場へ近づくにつれ、湿った空気が廊下に流れてきた。
湯の匂い。
薪の匂い。
温泉宿場ほどの強い匂いではないが、熱い水があるだけで身体の奥が少し緩む。
女が扉の前で足を止めた。
「こちらでございます」
案内された浴室は、思っていたより悪くなかった。
もちろんマバール城の浴場よりは小さい。広さも造りも一段落ちる。だが地方城主の浴室として見れば、十分に立派だろう。石で囲まれた湯船に湯気が揺れ、壁際には桶と布が整えられている。床は濡れて光り、排水の溝もきちんと切られていた。
「ふむ。なかなかだな」
「あ、あの……」
女は扉の近くに立ったまま、おどおどとこちらを見ていた。
俺は外套の留め具へ手をかけ、それから女へ視線を戻した。
「ああ。一人で入るから下がって構わん」
「あ、あ、はい。では、失礼します」
女はほっとしたような、逆にさらに緊張したような顔で頭を下げ、急いで浴室を出て行った。
扉が閉まる。
湯気の音だけが残る。
「さて、一人で入るか」
俺は息を吐き、服へ手をかけた。
衣服を脱ぎ、桶で肩へ湯を流す。
熱い湯が首筋から背中へ伝い、書庫で積もった埃と汗をゆっくり洗い流していく。指先で髪を掻き上げると、細かな砂埃が湯と一緒に足元へ流れ落ちた。
「ふぅ……」
思わず息が漏れる。
戦場から戻って湯へ浸かる。
ただそれだけなのに、身体から力が抜けていくのが分かる。
湯船へ足を入れると、熱が脛を包み、そのまま腰まで沈める。
「うぅ……」
肩まで浸かった瞬間、自然と目を閉じた。
「風呂はいいなぁ」
誰へ言うでもなく呟く。
この世界へ来てから何度も思ったことだ。
魔法がある。
魔物もいる。
前世では考えられない力もある。
それでも、熱い湯へ浸かった時の気持ち良さだけは変わらない。
石壁に囲まれた浴室は静かだった。
湯が揺れる音だけが小さく響く。
書庫で読んだ橋の歴史が頭の隅へ浮かんでは消えていく。
三百年前の石橋。
その前の木橋。
さらに前の渡し船。
土地は同じでも、人が変われば使い方も価値も変わる。
結局、今俺がこうして湯へ浸かっているのも、その積み重ねの先にあるわけだ。
「……ん?」
ふと、さっきの使用人の様子を思い返した。
妙に緊張していた。
風呂へ案内するだけにしては、おどおどしすぎていた気がする。
湯へ顎まで沈めながら考える。
そして。
「あっ」
思わず声が漏れた。
「そういうことか」
ようやく気付いた。
あの使用人。
風呂の案内だけじゃない。
俺に抱かせるつもりで選ばれていたのか。
戦場で昂った男性貴族が女を求める。
そんな話は珍しくない。
勝利祝い。
労い。
忠誠の証。
理由はいくらでも付けられる。
まして城を落とした直後だ。
新しい主へ女を差し出すくらい、不思議でも何でもない。
だからあそこまで緊張していたのだろう。
断られれば安堵する。
だが、期待を裏切ったことになるかもしれない。
受け入れられれば、それはそれで覚悟が要る。
どちらへ転んでも気楽ではない役目だ。
「ちょっと惜しかったかな」
湯へ浸かったまま苦笑する。
顔はかなり好みだった。
ただ。
「胸と尻がなぁ」
惜しい。
あと少しあれば。
いや、まあ。
「ま、いっか」
考えても仕方ない。
俺は今、女を抱くためにここへ来たわけじゃない。
橋を押さえ。
城を接収し。
シルディア領を落ち着かせる。
仕事はいくらでも残っている。
それに。
あの女も好きで選ばれたとは限らない。
城に残った使用人たちの中から、「若くて見栄えのする者を」と命じられて前へ出された可能性もある。
無理に抱いて気まずくなるより、今日のところはこれでいい。
肩まで湯へ沈み直し、天井を見上げた。
「そういや」
使用人が半分しか残っていないと言っていた。
あれは地味に困る。
兵だけでは城は動かない。
料理。
掃除。
洗濯。
寝具。
浴場。
薪。
井戸。
細かい仕事はいくらでもある。
全部を騎士へやらせるわけにもいかない。
「補充しないとな」
もっとも、この世界では求人広告なんて便利なものは存在しない。
仕事は、ほとんど縁故だ。
親が働いていれば子も入る。
親戚が紹介する。
近所の知り合いが声を掛ける。
そうやって少しずつ人が増えていく。
だから募集するとしても、残った使用人たちへ任せるのが一番早いだろう。
信用できる者を紹介してもらえばいい。
多少時間は掛かるだろうが、それが一番揉めない。
「明日にでも話をしてみるか」
湯気を見つめながら呟く。
橋。
城。
兵。
使用人。
一つ片付けば、また一つ仕事が増える。
領地を手に入れるというのは、結局そういうことなのだろう。
俺は湯をひと掬いし、顔へ掛けた。
熱い湯が頬を流れ落ちる。
書庫で積もった埃も、戦場でまとわりついた疲れも、少しだけ洗い流せた気がした。




