第百十七話 神祖伝
棚を一つ、また一つと眺めながら歩く。
背表紙には年代だけを書いたものもあれば、当主名だけを書いたものもある。中には文字が擦り切れて読めなくなっているものまであった。
「さすがに多いな……」
思わず苦笑する。
橋が栄えれば、人が集まる。
人が集まれば物が集まる。
そして物だけではなく、知識も集まる。
旅の学者。
写本師。
商人。
役人。
それぞれが書物を持ち込み、写し、また別の土地へ運んでいく。
橋とは、人や荷物だけを渡すものじゃない。
知識まで運ぶ。
だからこそ、シルディア家の書庫は家の規模に比べて大きいのだろう。
「さて……神祖、神祖っと」
棚を見渡しながら指先で背表紙をなぞっていく。
年代記。
戦記。
周辺諸侯録。
河川改修史。
どれも面白そうではあるが、今知りたいのはそれじゃない。
しばらく歩いたところで、一冊の古びた本が目に止まった。
他の本より一回り厚い。
濃い茶色の革表紙は乾いてひび割れ、何度も補修された跡が残っている。
表紙には、かすれた文字でこう記されていた。
『神祖伝』
「おっ」
思わず声が漏れる。
ずいぶん、そのまんまだな。
俺は本を棚から引き抜き、近くの机へ運んだ。
ぱさり、と乾いた音を立てて表紙を開く。
羊皮紙はかなり古い。
何度も書き写されたのだろう。筆跡が途中で変わる頁もある。
「どれどれ……」
最初の数頁は、どの時代に写本されたのか、誰が保管したのかといった記録ばかりだった。
そこを飛ばして読み進める。
やがて、「御神祖」大きく書かれた頁が現れた。
俺は椅子へ腰を下ろし、ゆっくりと頁を押さえる。
「さて、どこまで本当なんだか」
そう呟いてから、最初の一文へ目を落とした。
この世界で一番驚いたものは何だ、と聞かれたら、多くの人間は魔力と答えるだろう。
俺も最初はそうだった。
目に見えない力を身体の中で練り、衝撃波や炎を放ち、身体能力を引き上げ、傷を塞ぐ。前世の常識では考えられない力だ。
だが、何年もこの世界で生きるうちに、それ以上に奇妙だと思うようになったものがある。
宗教だ。
いや、正確には。
「宗教が、無い」
俺は頁へ視線を落としたまま、小さく呟いた。
前世で宗教は、もっと当たり前のものだった。
神を信じるかどうかではない。
共通の認識。
共通の決まり。
共通の価値観。
社会全体が動くための、ある種の共通基盤みたいなものだった。
それがあるから、遠く離れた土地同士でも最低限の共通認識が成立する。
だから宗教そのものより、その役割の方が大きかった。
なのに、この世界にはそれがない。
正確には、存在しなくなった。
理由は目の前の頁に書かれている。
「……こいつか」
神祖。
真祖とも呼ばれる存在。
この人物が、新しい信仰を作り、それ以前にあった宗教を消し飛ばした。
だから現在、この世界には共通宗教が存在しない。
貴族は宗教を嫌う。
それには理由がある。
俺は神祖の項を読み進めた。
どこから現れた人物なのかは分からない。
天から降りた。
神の生まれ変わり。
世界を救うため遣わされた。
そんな伝承も並んでいる。
だが、俺はあまり信じていない。
「たぶん、ごく普通の人間だったんじゃないかな」
神格化なんて、歴史では珍しくない。
功績が大きい人物ほど、死んだあとに尾ひれが付く。
神祖も、その典型だろう。
じゃあ何が異常だったのか。
答えは簡単だ。
「魔力」
この当時、魔力を使えたのは神祖だけだったらしい。
もちろん今みたいに体系化された魔法じゃない。
ただ魔力を叩きつける。
力任せに殴る。
身体を強化する。
そんな原始的な使い方だったようだ。
それでも十分すぎる。
誰も持たない力を、一人だけ持っている。
強い。
硬い。
死ににくい。
当時の権力者から見れば悪夢だったろう。
もっとも。
「それだけなら、何とかなった気もするんだけどな」
どれだけ強くても一人は一人だ。
囲めばいい。
兵を集めればいい。
寝首を掻けばいい。
前世でも、個人が国家を支配し続ける例は少ない。
だが。
神祖には、もう一つ能力があった。
こっちの方が、ずっと厄介だった。
「抱いた女が産んだ子供は、全員魔力持ち」
俺は思わず笑った。
「反則だろ」
当時、魔力持ちは神祖だけ。
つまり抱かれる相手は、全員平民だ。
そして、生まれた子供は例外なく魔力持ち。
しかも、かなり強力だったと書かれている。
当時も婚姻制度はあったらしい。
だが。
そんなもの。
目の前に、一発で人生が変わる男が現れたら意味を失う。
抱かれる。
妊娠する。
魔力持ちが生まれる。
平民でも一族ごと立場が変わる。
権力者なら、自分の家へ魔力持ちを迎えられる。
これ以上ない利益だ。
「そりゃ群がるわ」
未婚も既婚も関係ない。
帳面には、女たちが列を作った、とまで書かれていた。
少し誇張もあるだろう。
それでも、大きく外れてはいない気がする。
羨ましい。
いや、本当に。
神祖自身も魔力が強かった。
つまり寿命も長い。
しかも種付け能力まで高い。
条件が揃いすぎている。
結果として。
世界には神祖の子供が溢れた。
三百十三人。
五千二百人。
一万二千三百十人。
史料によって数字は全部違う。
「まあ、とにかく滅茶苦茶多かったんだろ」
そこだけは一致している。
ちなみに合計が七になる数字ばかりなのは、七が幸運の数字だかららしい。
後世の創作臭い。
それでも、神祖の子供たちが次々に魔力持ちを産み、その孫もまた魔力持ちを増やした。
もしかすると。
魔力持ちが最も多かった時代は、この頃なのかもしれない。
神祖本人は、そこま強欲な人物ではなかったようだ。
少なくとも、この帳面を読む限りでは。
女好き。
豪快。
よく笑う。
そんな逸話ばかり残っている。
だが。
子供たちは違った。
欲深い者。
頭の切れる者。
武に優れた者。
様々な人間が現れた。
その中の一人が思いつく。
「俺たちは神の血を引く」
よくある話だ。
自分たちは選ばれた存在だ。
だから支配する資格がある。
それだけなら珍しくない。
だが、この世界では決定的に違うものがあった。
魔力だ。
目の前で岩を砕く。
多くの者たちの傷を塞ぐ。
現実に奇跡を見せる。
そんな人間が「神の子だ」と言えば、説得力がありすぎる。
何の力も見せない神を信じるより。
目の前で現実を変える存在を信じる方が早い。
だから。
神祖信仰は、あっという間に広がった。
それ以前の宗教は消えた。というより吹き飛んだ。
世界は、神祖を中心に回り始めた。
しばらくは、それで問題なかった。
だが。
時間は、誰にも平等だった。
神祖の子。
孫。
曾孫。
代を重ねるにつれ、少しずつ魔力は弱くなる。
魔力を持たない子も生まれる。
ここで制度を作り直していれば良かった。
魔力の強い者へ権力を渡し、弱い者は退く。
そうしていれば、現実と制度は一致したままだった。
だが。
「人間、手に入れた権力は手放さないよな」
俺は苦笑した。
魔力を失った神祖直系の一部は、神官となって権力だけを握り続けた。
そこから歪みが始まる。
現実では弱い。
宗教では偉い。
そんな妙な構図が出来上がった。
神官たちは、自分たちに従わせるために様々な決まりを作った。
各地の管理は魔力持ちへ任せる。
だが。
税率は決めさせない。
城も勝手に築かせない。
都市も自由に作らせない。
権限だけは渡さない。
つまり。
今の貴族の祖先たちは、現場を任されながら、肝心の権力は持たされていなかったのだ。
じゃあ。
どうして各地の貴族たちは、それに大人しく従っていたのか。
答えは単純だった。
「神祖が、まだ生きてると信じてたからか」
俺は頁をめくりながら、小さく息を吐く。
今から見れば、間抜けな話に思える。
けれど、当時を生きていた人間からすれば、そう簡単には否定できなかったのだろう。
神祖は最初の魔力持ちだった。
抱いた女をほとんど全員孕ませ、魔力持ちを生ませる異常な能力を持っていた。
そして、この世界では昔から経験的に知られている。
魔力が強い者ほど寿命が長い、と。
ならば。
最初にして最強の魔力持ちなら、数百年生きてもおかしくない。
そう考えてしまうのも無理はない。
もちろん、時代が下るにつれて疑う者も増えた。
何より、年を追うごとに魔力持ちが減っていく。
神祖が本当に健在なら、もっと増えていてもいいはずだ。
そんな疑問は各地で生まれていたらしい。
だが、それでも決定打にはならなかった。
大神殿。
その最奥。
厚い御簾の向こうには、一つの影が立っていたという。
記録には、神祖の魔力も感じられたとある。
もちろん、昔ほどではない。
かなり衰えていたらしい。
だが、高齢を考えれば完全には否定できない程度だった。
そして神官たちも巧妙だった。
「御神祖のお言葉です」
その一言で全てを決めた。
直接会わせることはない。
御簾の向こうから姿を見せることもない。
言葉だけが伝えられる。
各地の貴族たちも、完全には信じていなかったのだろう。
だが、完全に否定もできなかった。
もし本当に生きていたら。
逆らった瞬間、自分だけが滅ぶ。
そんな疑いと恐れが、神官たちの権威を支えていた。
もちろん。
神官たちと結託する貴族もいた。
宗教権力を利用し、自分たちも利益を得る。
互いに利用し、互いに牽制し合う。
そんな均衡が長く続いていたらしい。
ところが。
ある時、一人の貴族がその均衡を壊した。
大神殿から遠く離れた地方。
その貴族は神官たちの命令を拒絶した。
距離があったことも大きい。
中央の軍がすぐには届かない。
だが、それだけじゃない。
その男には逆らえるだけの理由があった。
「一種の先祖返り、か」
帳面にはそう記されている。
その貴族は並外れた性豪だった。
抱いた女は数え切れず、その血族には非常に多くの魔力持ちがいたという。
一千人。
そう書く史料もある。
「さすがに盛ってるだろ」
俺は苦笑する。
だが、誇張を差し引いても、とんでもない規模だったのは確かだ。
周囲を圧倒するほどの魔力持ち。
それだけの血族を抱えていた。
さらに、その土地では豪商や豪農まで味方についていたらしい。
名目は貢物。
あるいは協力。
だが実態は支援だ。
実力のある貴族へ投資する。
そんな構図は、今だって珍しくない。
もちろん、魔力目当てでもあったんだろう。
結果として、その地方貴族は宗教権力がなくても生きていけるだけの現実的な勢力を築いていた。
当然。
神官たちは激怒した。
即座に各地へ討伐命令を出す。
逆賊を討て。
神祖へ逆らう者を許すな。
そんな命令だったらしい。
ところが。
その逆賊は、強かった。
血族の数だけではない。
本人も相当な魔法の使い手だったようだ。
「性欲の強さが戦闘力に繋がるのか、戦闘力が性欲に繋がるのか……」
俺は思わず腕を組む。
「なかなか面白いテーマだけど、一旦置いとこう」
今は関係ない。
とにかく討伐軍は何度も敗れた。
敗れるだけでは終わらない。
戦うたびに寝返る貴族まで現れた。
神官たちへの不満は、思っていた以上に積もっていたのだろう。
あるいは地方貴族たちが、それだけ現実の支配力を持つようになっていたとも考えられる。
討伐軍は敗北を重ね。
逆賊側へ協力する貴族は増える。
神官たちは完全に行き詰まった。
そこで大神殿へ有力貴族たちを集め、大会議を開く。
名目は会議。
だが実際には、これ以上裏切り者を出さないための忠誠確認だったのだろう。
ところが。
その場で、一人の貴族が何気なく口を開いた。
「御神祖が直接お言葉をかければ、全て解決するのではありませんか」
誰も反論できない言葉だった。
御簾の向こうに神祖がいる。
その前提なら、本人が一言命じれば終わる。
逆賊も。
討伐も。
議論も。
全部終わる。
神官たちは顔色を変えた。
御神祖はご高齢である。
御出座は難しい。
これまで通り、我らがお言葉を伝える。
御神祖は神官以外との対面を望まれていない。
必死に理由を並べ立てた。
だが、それが決定打になった。
疑っていた貴族たちの不信感は、一気に膨れ上がる。
そして。
一部の貴族たちは強引に大神殿最奥へ踏み込んだ。
神官たちは止められなかった。
ほとんど魔力を失った彼らに、魔力持ちの貴族を止める力は残っていなかった。
貴族たちにも覚悟があったのだろう。
ここで真実を確かめなければ、この先も永遠に利用され続ける。
その危機感が、最後の一歩を踏み出させた。
そして。
御簾の向こうに立っていたのは。
神ではなかった。
生きた神祖でもなかった。
木乃伊となった神祖だけだった。
神祖ははるか以前に死んでいた。
神官たちは、その亡骸を利用し、御神祖のお言葉を捏造し続けていたのである。
俺は頁から目を離した。
「今の俺からすれば、まあ、そうだろうなって話だけど」
決定的な証拠がなかった当時では。
ここまで来るしかなかったのかもしれない。
決定的な証拠を目にした貴族たちは、激怒した。
それも当然だ。
何百年もの間、神祖は生きている。
神祖のお言葉だ。
そう言われ続け、自分たちの権利を制限され、税を納め、命令へ従ってきた。
その根拠が、乾いた木乃伊だったのだ。
何百年も前に死んだ人間だった。
怒りが爆発しない方がおかしい。
帳面によれば、その日のうちに大神殿は修羅場になったらしい。
神官たちは逃げる間もなく討たれ、大神殿そのものも破壊された。
細かい戦いの様子までは残っていない。
だが、そこへ至る怒りだけは、文字越しでも伝わってくるようだった。
そして。
各地へ戻った貴族たちは、一斉に独立を宣言した。
長年押さえ込まれていたものが、一気に噴き出したのだろう。
誰もが自分こそ正しいと思い。
誰もが自分こそ支配者になれると信じた。
戦乱の世。
帳面には、その文字だけが静かに記されている。
だが、その裏側では、どれだけの城が燃え、どれだけの村が踏み荒らされ、どれだけの血が流れたのか。
想像するだけで十分だった。
面白いことに。
最初に神官へ反旗を翻した、あの地方貴族も最後まで勝ち残ったわけではない。
その後の大戦乱へ飲み込まれ、結局は滅んだと書かれている。
「まあ、そうなるよな」
神官という共通の敵がいる間はまとまれる。
だが、その敵が消えれば、今度は勝者同士で争う。
歴史なんてそんなものだ。
その長い戦乱を経て、最終的に権力を確立した勢力が、現在のエルディア王国と帝国になった。
今俺が生きている世界は、その時代の勝者が築いた秩序というわけだ。
さらに頁をめくる。
「ん?」
小さく書き添えられた一文が目に入った。
大神殿会議へ参加したと伝えられる諸家。
その中に見覚えのある名があった。
「エディオン家か」
アル兄さんの正妻、その実家。
今でも王国内で名門として名の知れた家だ。
本当かどうかは分からない。
ただ、少なくともエディオン家はあの大会議へ出席した、と伝えられているらしい。
歴史というより風評だな。
そういう話は、どこの家にも一つや二つある。
俺は肩を竦め、さらに読み進めた。
今度は、神祖の木乃伊についてだ。
「やっぱり、行方不明か」
多くの書物が、その存在自体は認めている。
当時、集まった貴族たちがその目で見ているからな。
だから木乃伊そのものは、本当にあったんだろう。
問題は、その後だ。
大神殿ごと焼かれた。
いや、信仰心の厚い貴族が密かに持ち出した。
あるいは、貴族同士が奪い合い、身体を分けて持ち帰った。
説は様々だった。
俺は帳面を閉じかけて、もう一度開く。
「たぶん……焼けたんじゃないかな」
俺ならそう考える。
大神殿は破壊されている。
木乃伊なんて乾燥した死体だ。
燃えれば終わる。
あるいは建物の崩壊に巻き込まれて砕けたか。
わざわざ持ち帰る理由も思いつかない。
もちろん。
当時の人間がどう考えたかは別だけどな。
本を静かに閉じる。
革表紙が乾いた音を立てた。
結局。
この世界の貴族たちは、宗教そのものを嫌うようになった。
もっと正確に言えば。
宗教が権力を持つことを嫌うようになった。
だから現在も、組織宗教は存在しない。
大神殿のような巨大宗教組織も。
神官という支配階級も。
二度と作られなかった。
ただ。
だからといって信仰まで否定したわけではない。
そこが面白い。
貴族たちは今でも神祖を敬っている。
家系図の一番上には必ずと言っていいほどその名を書く。
祭礼では献酒を捧げる。
武勲を立てれば神祖へ感謝する。
平民たちも似たようなものだ。
神を信じる者はいる。
精霊へ祈る者もいる。
豊作を願う祭もある。
旅の無事を祈る者もいる。
それを止める貴族は、ほとんどいない。
だが。
それを宗教として組織化することだけは許さない。
神殿を巨大化させない。
神官へ権力を持たせない。
土地も軍も税も持たせない。
歴史を知れば、その理由はよく分かる。
一度、世界そのものが壊れた。
だから二度と同じ失敗は繰り返さない。
それが貴族たち全体の暗黙の了解になっている。
俺は窓から差し込む光へ目を向けた。
いつの間にか日が少し傾いている。
静かな書庫には、頁をめくる音ももう残っていなかった。
歴史は面白い。
英雄だけでは国は残らない。
制度だけでも残らない。
人の欲も、恐怖も、勘違いも、全部積み重なって今になる。
俺は本を棚へ戻し、小さく笑った。
「なかなか面白い世界だよな」
独り言は、古い石壁へ静かに吸い込まれていった。




