第百十六話 シルディア城の書庫
シルディア城の書庫には、まだ昼の熱が入り込んでいなかった。
厚い石壁に囲まれた部屋は、外の光を細い窓から少しだけ受け入れている。棚の上段には革張りの古い帳面が並び、下段には麻紐で縛られた紙束がいくつも押し込まれていた。埃と乾いた紙の匂いが鼻の奥に残り、頁をめくるたびに、長く閉じ込められていた空気が指先へ崩れてくる。
セバスチャンが橋の徴税記録を抱えて出て行ったあと、書庫は急に静かになった。
遠くで兵が何かを運ぶ音はする。だが、この部屋の中までは届きにくい。棚と棚の間に立っていると、城を落としたばかりだという事実さえ、少し遠いものに感じられた。
俺は手元の帳面を開いた。
表紙は黒ずみ、角が少し丸くなっている。だが保存状態は悪くない。頁の端には何度も触れられた跡があり、墨の色も時代によって濃淡が違っていた。
「ほう」
思わず声が漏れた。
家系図だ。
シルディア家の歴代当主の名が、枝を伸ばすように連なっている。名の横には、在位期間や簡単な業績が小さく添えられていた。戦で勝った。飢饉を抑えた。城壁を直した。婚姻で近隣家と結んだ。どれも短い。だが、家が何を誇り、何を残したかったのかは、こういう書き方に滲む。
俺は近くの机へ帳面を置き、窓から届く光の位置へ引き寄せた。
頁を押さえる指先に、乾いた紙のざらつきが伝わる。
「ふーん……今の橋って三百年くらい前か」
シルディア家中興の当主、という扱いらしい。
橋の建造。
その言葉の横に、少し細かい記述が並んでいる。大河に石橋を架け、東西の往来を安定させ、通行税によって家を富ませた、とある。
まあ、そうだろうな。
あの橋はただの橋ではない。軍を通せる。物資を運べる。商人を集められる。壊れた道を直すのとは重みが違う。作った側からすれば、家史に大きく書き残したくなるのも分かる。
さらに読み進めたところで、目が止まった。
「ん、マバール家の協力の元……?」
俺は眉を寄せた。
当時のマバール家が橋の建造に協力した、ということか。
物資の輸送を考えれば、協力くらいはするだろう。あの橋が安定すれば、王国東端にいるマバール家にとっても利はある。人も物も流れやすくなるし、国境の動きも掴みやすくなる。
ただ、少し引っかかる。
マバール城や、その城壁を思い出す。
分厚く積まれた石。古い部分と新しい部分が重なり、戦と補修を経ても崩れず残っている城壁。あれを支える石組みの技術が、当時すでにマバール家側にあったとするなら、シルディア家が欲しがった可能性もある。
むしろ、シルディア家の方から頼んだんじゃないか。
そこまで考えて、俺は小さく鼻で笑った。
いや、ちょっと手前味噌すぎるか。
自分の家を高く見たい気持ちはある。だが、帳面には「協力」としかない。誰が頼んだのか、何を出したのか、どちらが主導したのかまでは書かれていない。ここで勝手に話を膨らませると、あまりに都合のいい歴史解釈になる。
ただ、別の違和感は残った。
「……王国の協力が書かれてないの、問題じゃね?」
橋だぞ。
大河を渡る石橋だ。
ある意味、国家プロジェクトだろうに。
王国が金を出したのか、人を出したのか、許可だけ出したのか。それくらいは記録にあってもよさそうなものだが、この頁では目立つ扱いになっていない。シルディア家の家史だから、自家の功績を強めに書いているだけかもしれない。けれど、王国の影が薄すぎるのは少し気になる。
俺は頁をめくった。
現在の石橋以前の記録へ遡る。
「ほう。木製の橋があったのか」
今の石橋が作られる前、同じ場所か、その近くに木橋があったらしい。
大河に木の橋。
想像するだけで、なかなか怖い。
洪水、流木、腐食、虫、火事。問題はいくらでもある。帳面には、その木橋が崩壊し、通行不能となったのを契機に石橋建造が決まったと記されていた。
なんで崩壊したんだ。
経年劣化か。
洪水か。
帝国の破壊工作か。
目を細めて周辺の記述を追うが、原因ははっきりしない。被害の大きさと再建の必要性ばかりが書かれている。
「うーん、そこは書いてないな。まあ、いいか」
原因が分からなくても、今必要なのは橋の管理だ。
俺は先へ進んだ。
崩壊した木橋の木材も、石橋建設の一部に利用されたらしい。足場、仮設の支え、運搬用の台、そういうものに回したのだろう。書き方は淡々としているが、工事の記述が増えるにつれて、作業の重さが見えてくる。
魔力持ちが何人も動員されていた。
石を運ぶ。
流れに逆らって土台を組む。
崩れた資材を引き上げる。
重いものを持ち上げ、支え、押し込み、固定する。今の俺の感覚で読むと、魔力持ちをほとんど重機代わりに扱っている。だが、この世界ではそれが現実的な運用なのだろう。人の身体で足りない部分を、魔法と魔力で補う。
それでも、死者が出ている。
記録はそこだけ妙に短かった。
何名、水難により没す。
何名、土台崩落により没す。
何名、病により没す。
わずか数行の記述だ。だが、その数行の向こうに、濁った川と、濡れた縄と、潰れた足場が見える気がした。
河の流れは止められない。
水中で呼吸できる魔法なんてない。
五大魔法の中にそんな便利なものはないし、防御魔法で水を完全にどうこうするのも、少なくとも一般的な工事技術ではなかったはずだ。肉体強化魔法で力は出せても、息が続くわけではない。治癒魔法があっても、溺れて死んだ後では間に合わない。
仕方ない、と言えば仕方ない。
だが、きつい工事だ。
俺は頁の端を指で押さえながら、ふと別のことを考えた。
俺なら攻撃魔法でポロロッカみたいなことができるだろうか。
いや、正確にはポロロッカではない。あれは自然現象だ。だが、攻撃魔法で水面を押し返し、流れを乱すことくらいはできるかもしれない。大河の流れを一瞬でも割るように道を作れたら、見た目はかなり派手だ。
ちょっとカッコいいかもな。
そう思った直後、俺は首を振った。
いや、工事現場でそんなことをしたら死人が増えるだけかもしれない。
視点と思考を頁に戻す。
木橋の建造時期を探すため、さらに古い記録へ遡った。
「おっ、あった」
今度は文字が少し乱れている。写し直された記録なのか、元の文が古すぎるのか、ところどころ読みにくい。
木橋以前は渡し船だったらしい。
まあ、順当だ。
大河がある。向こう岸へ行きたい。なら船を出す。橋を架ける技術や金がなければ、それが一番早い。
だが、渡し船は安定しない。
洪水の時には使えない。普通の時でも転覆があれば死者が出る。荷が流される。人が流される。馬や家畜を渡すとなると、さらに厄介だ。記録にも、何度か大きな事故があったことが残っていた。
そこで、一念発起して橋を作る。
「この時は王国も協力したのか」
木橋建設の記録には、王国からの支援がはっきり書かれていた。
資材。
技師。
許可。
それから、協力の見返りとして通行税の一部を王国へ納める取り決め。
俺は少し唸る。
まあ、時代を考えれば仕方ない、のか。
シルディア家だけで負担するには重すぎる。王国が助ける代わりに、将来の税から回収する。前世でも似たような発想はあった。名目や制度は違っても、金の流れはどこも似たようなものだ。
木橋そのものは、土台さえできれば比較的早く進んだらしい。
問題はやはり土台だ。
川の中へ杭を打ち、流れに耐える基礎を作る。ここでも死者は出ている。魔力持ちが投入され、平民の労働者も大量に動かされた。安全な国内でなければできない工事だ。周囲に敵がいて、いつ攻め込まれるか分からない場所なら、こんな長い工事は続かない。
だから橋は、シルディア家にとって転換点だったのだろう。
この時の土台を、後の石橋建設時に拡大し、強化して再利用している。
「ここがエポックメイキングってやつか」
思わず前世の言葉が出た。
橋を作ったから、通行税が取れる。
通行税が取れるから、人と物の流れを握れる。
人と物の流れを握るから、周囲に対する発言力が増す。
家史に誇るのも当然だ。
さらに読み進めたところで、俺は眉を上げた。
「……けっこうがっつり取ってやがる」
初期の通行税は高い。
そりゃそうか。
橋を作った直後は、建設費を回収したい。王国への分もある。危険な渡し船より安全だと言えば、多少高くても使う者はいる。
だが、記録を見ると、橋が出来た直後でも普段は渡し船を使う者が多かったらしい。洪水時や増水時だけ橋に人が集中していた、とある。
そりゃそうだ。
高ければ避ける。
人間はだいたいそういうものだ。
そして、シルディア家の解決策は実に貴族らしかった。
「渡し船を禁じた、と」
頁の下に、反抗した船頭たちへの処分が記されている。
首に縄をかけ、橋に吊るす。
完全に見せしめだな。
俺は息を吐いた。
「力こそパワーな貴族的解決法だな」
渡し船で食っていた連中がどうなったのか、救済策などは見当たらない。全員が処刑されたわけではないだろうが、逆らえば吊るされる。それだけ示せば、残りは従う。ひどい話だが、この世界の貴族ならやる。
やるだろうな、という納得が先に来るあたり、俺もだいぶ染まっている。
ただ、通行量が増えるにつれて税率は下がっていた。
最初は高く取り、橋の利用を強制し、人が増えたら一人当たりを下げる。大雑把な総量計算だ。人数が増えれば総収入は維持できるし、税が下がれば反発も減る。
乱暴だが、一応考えてはいたようだ。
「うん。けっこう面白いな」
橋の歴史を読み終えた俺は、さらに頁をめくった。
歴代当主の名は、代を重ねるごとに細く一本の線へ収束していく。
戦で名を上げた者。
橋を築いた者。
城壁を修復した者。
飢饉を乗り越えた者。
一人一人の名は違うが、その線は最後には必ず同じ場所へ辿り着く。
「ああ、これか」
思わず呟いた。
シルディア家初代。
そして、そのさらに上。
家系図の起点として記されている、一人の人物。
伝説の真祖。
あるいは神祖。
全ての貴族、騎士、そして魔力持ちの祖。
「うむ。貴族の家系図って、やっぱりこいつに辿り着くんだな」
マバール家の家系図でも同じだった。
家は違っても、遡れば最後は神祖へ行き着く。
それがこの世界の貴族たちの共通認識なのだろう。
俺はその名を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……実在したのかねえ」
帳面を閉じる。
乾いた革表紙が静かな音を立てた。
家系図としては、ここまでだ。
さすがに神祖について詳しいことまでは書かれていない。
俺は椅子へ深く腰掛けたまま、書庫を見回した。
棚が高い。
部屋も広い。
書物の数も、一地方貴族が持つには少し多すぎる気がした。
「……シルディア家の規模にしては、この書庫ずいぶん立派だな」
視線を棚の奥へ向ける。
年代ごとにまとめられた帳面。
写本。
古びた羊皮紙。
戦記らしい厚い本まで並んでいる。
橋。
あの橋が人だけじゃなく、物も運び、金も運び、情報も運んだ。
商人は荷物だけを運ぶわけじゃない。
噂も運ぶ。
知識も運ぶ。
書物だって流れてくる。
「橋で栄えた家なら、書物が集まるのも不思議じゃないか」
橋は通行税だけを生んだわけじゃない。
知識まで運んできたのだろう。
そう考えれば、この書庫の大きさにも納得がいく。
俺は立ち上がり、棚の間をゆっくり歩き始めた。
「神祖について書いた本くらい、どっかに残ってるだろ」
家系図だけでは分からない。
なら、歴史書を探せばいい。
そう思いながら、古びた背表紙へ一冊ずつ視線を滑らせていった。




