第百十五話 巌と火の風
帝都の皇帝宮は、朝から冷たい光を受けていた。
高い窓から差し込む陽は白く、磨かれた石床の上を細く伸びている。壁には帝国の古い紋様が刻まれ、柱の影は大広間の奥へ向かって重く沈んでいた。香を焚いた匂いが空気の中に薄く残り、集まった貴族たちの衣擦れと、鎧の金具が鳴る小さな音だけが広間の隅々へ染みていく。
エレオノーラは、列から少し離れた位置で、その光景を見ていた。
玉座は高い。
そこへ座る新たな皇帝は、まだ幼かった。小さな身体に重い衣をまとい、黄金の冠を戴いている。背筋は伸ばしているが、手は肘掛けの上でかすかに強張っていた。視線は前を向いている。けれど、その目が一人一人の顔を見ているのか、それともただ正面の空気を見つめているだけなのか、エレオノーラの位置からは分からない。
玉座の脇には、中年の男が控えていた。
濃い色の礼服に身を包み、表情をほとんど動かさない。帝国貴族たちの視線は、幼い皇帝よりも、時折その男へ集まっていた。宰相。今日この場で声を返すのは、ほとんど彼の役目だった。
最初に進み出たのは、アバルディア家当主だった。
新皇帝家となった家の当主は、広間中央へ進み、帝国式に両膝をついた。古くから受け継がれた所作に乱れはない。深く頭を垂れ、静かに祝いの言葉を述べる。その声は低く、大広間の石壁へ触れて戻ってくるようだった。
宰相が応じる。
幼い皇帝は、かすかに頷いた。
次に進み出たのは、メガレア家の新当主だった。
先代皇帝家。そう呼ばれることになった家の男は、若く見えた。先代皇帝の次男。式服の肩には重い刺繍があり、顔には疲れを隠すための硬さがあった。彼が両膝をついた瞬間、大広間の空気がわずかに揺れる。誰かが息を飲んだわけではない。ただ、そこに立つ者たちが同時に、同じものを思い出したような沈黙が広がった。
エレオノーラは瞼を伏せなかった。
今ここで顔を逸らせば、必要以上の意味を持つ。
メガレア家の新当主は、定められた言葉を述べた。宰相は同じく無難に返し、新皇帝の手は肘掛けの上で動かなかった。
続いてザザント家当主が進み、フリージア家当主が続いた。
四帝家。
その名が並ぶだけで帝国の形が見える。だが、今日の大広間にある形は、以前の帝国とは違っていた。どこが欠け、どこが盛り上がったのか、まだ誰も声に出さない。けれど、衣の皺、足の置き方、挨拶の間、視線の逃がし方に変わったものは滲む。
そして、その後に進み出た男を見て、広間の視線がまた動いた。
大柄な男だった。
派手ではない。だが、歩くだけで床の石が存在を受け止めているように見える。肩は厚く、背は真っ直ぐで、礼服の上からでも鍛えられた身体の重さが分かる。顔立ちは整っているが、柔らかさより先に、頑強さを思わせる落ち着きがあった。
あれが、マバール家嫡男ダルメシアン。
エレオノーラは胸の内でその名を置いた。
ダルメシアンは、広間中央で足を止めた。帝国貴族たちの注目が集まる中、彼は迷いなく両膝を石床につけた。王国の辺境伯家ではなく、帝国貴族としての礼。ほんのわずかな動きの違いを、周囲は見逃さない。
大きな身体が膝を折っても、卑屈には見えなかった。
「お初にお目にかかります。マバール公爵家嫡男、ダルメシアンでございます。戴冠、誠におめでとうございます」
声はよく通った。
低く、穏やかで、必要な言葉だけを石の上に置いていくような声だった。
マバール公爵家。
その言葉が、大広間の中で静かに重みを持った。さりげない。だが、聞き流せるほど軽くもない。エレオノーラの近くにいた帝国貴族の一人が、扇の影で目を細める。別の男は顎を少し引いた。
宰相は表情を変えずに頷いた。
「うむ。これからの忠節を頼むぞ」
返答は無難だった。
無難だからこそ、余計な傷を作らない。幼い皇帝は宰相の声に合わせるように小さく頷き、ダルメシアンは深く頭を下げた後、ゆっくりと立ち上がった。
膝をついた痕を気にする様子もない。衣の裾を整える動きも最小限だった。広間中央から退いた彼の周囲へ、すぐに人が寄る。アバルディア家の者、メガレア家の者、ザザント家に近い貴族、フリージア家の家臣筋。誰もが、挨拶という形で距離を測りに来ていた。
ダルメシアンはそれを一つ一つ受けた。
声を荒げることも、必要以上に笑うこともない。相手の家名を聞き、礼を返し、短い言葉で場を結ぶ。重すぎず、軽すぎず、相手が差し出した皿の重さを確かめてから、同じだけのものを戻しているようだった。
ガルシア殿に似ているわね。
エレオノーラは、マバール城で一度だけ見た男を思い出した。
あの時のガルシアは、直接多くを語らなかった。だが、城の空気は彼を中心に重く保たれていた。声を上げなくとも、そこにいるだけで周囲が姿勢を正す。ダルメシアンには、あの重さが少し若い形で宿っているように見えた。
王国と帝国。
胸の中でその二つを並べると、広間のざわめきが遠くなる。帝国は幼い皇帝を戴いた。アバルディア家が前へ出た。メガレア家はまだ残り、ザザント家もフリージア家も動いている。そして、王国東端のマバール家が帝国貴族としてここに立った。
これで、ほぼ互角になる。
安定へ向かっているのか。それとも、釣り合った刃が向かい合っただけなのか。判断するには、まだ早い。マバール家がどう動くか。王国がどこまで踏み込むか。今日の礼が、明日の鎖になるのか、それとも逃げ道になるのか。
考えがそこまで進んだ時、こちらへ向かう足音がした。
ダルメシアンが、数人の挨拶を終えて、静かに近づいてきていた。
エレオノーラは微笑みを整えた。
「はじめまして。ダルメシアンと申します」
彼は軽く頭を下げた。大柄な身体に似合わず、動きは丁寧だった。
「エレオノーラです。よろしくお願いいたします」
エレオノーラも礼を返す。距離は近すぎない。周囲に聞こえすぎず、しかし密談にも見えない程度の間合いだった。
ダルメシアンの目が、一瞬だけ穏やかに細くなる。
何も知らない顔ではない。
少なくとも、こちらをただのアバルディア家の女とは見ていない。
エレオノーラは扇を胸元で閉じ、微笑みを崩さずに言った。
「ダルメシアンとは、古語のドゥルメズゥアン……大きな岩、でしょうか」
ダルメシアンの眉がわずかに上がった。
驚きは大げさではない。けれど、確かに一拍あった。
「おお。さすが、学識豊かなアバルディア家の一門ですな」
低い笑いが返る。
エレオノーラは、その言葉を受け取りながら、目だけで相手を見る。
私のことを知っている、と伝えてきたわね。
名と家だけではなく、何を学び、どこで使われ、どう動いたか。その程度までは調べている。驚きの中に礼を混ぜた返答は、こちらへの評価と牽制を同時に含んでいた。
ならば、こちらも……
「では、御三男のギルバート様は、グェルンバルド……火の風、ですか?」
ダルメシアンは、今度ははっきりと笑った。
「ええ、その通り。まったく、その名の通りの弟で」
弟、と言った時だけ、声にわずかな温度が混じった。
エレオノーラは、胸の奥で小さく息を整える。ギルバートの名を出しても、ダルメシアンは嫌な顔をしなかった。むしろ、こちらが弟を知っていることを当然のように受けた。
それだけで十分だった。
ダルメシアンもまた、エレオノーラがギルバートをただ噂で知っているのではないと察したはずだ。
「火の風とは、穏やかではありませんね」
「ええ。近くで吹かれると、なかなか騒がしい」
「けれど、凍えた場では頼もしいのでは?」
「燃え移らぬ距離ならば、ですな」
二人は微笑んだまま、短い言葉を交わした。
大広間では、まだ別の貴族たちが新皇帝への祝いを述べている。幼い皇帝は玉座に座り、宰相は変わらぬ声で応じていた。石床に伸びる白い光は、いつの間にか少し傾いている。
エレオノーラは、扇の縁を指先で軽く押さえた。
目の前の男は巌だ。
だが、その巌の向こうには、火の風がいる。
帝国の新しい朝は、静かに始まったように見えて、どこか焦げた匂いを隠している気がした。
シルディア城の書庫は、昼を過ぎてもなお薄暗かった。
小さな窓から差し込む光は高い位置にあり、棚の間までは届かない。古びた羊皮紙と革表紙の匂いが積み重なり、長年動かされなかった埃が、人の気配に揺れて細く舞っていた。
棚の前へしゃがみ込んだギルは、一冊ずつ背表紙を確かめながら息を吐く。
「違う……これも違う」
軍の記録。
砦の補修。
兵糧。
どれも今すぐ欲しいものではない。
俺が知りたいのは橋だ。
橋をどれだけ人が通り、どれだけ税を取っていたのか。その程度でいい。細かい数字までは要らない。大体の流れが分かれば十分だ。
棚の一番下へ手を伸ばす。
指先に革ではなく、麻紐で束ねられた紙の感触が触れた。
「おっ、あった」
束ごと引き抜くと、乾いた埃が一気に舞い上がる。
軽く咳き込みながら、そのまま後ろへ放り投げた。
「危ねぇ」
ぼやきながら受け止めたセバスチャンが、腕の中の書類を見下ろす。
「なんです、こりゃ?」
「橋の徴税記録だ」
その言葉に、セバスチャンは束を抱え直した。
「へぇ」
「助かった。焼かれてるか、持ち出されてるかと思った」
敵が撤退する時、真っ先に消すのは記録だ。
兵数。
物資。
税。
どれも残せば相手の利益になる。
だから半分くらいは諦めていた。
それでも残っていたのなら運がいい。
セバスチャンは麻紐をほどき、紙を何枚かめくる。
紙は新しい。
端もまだ傷んでいない。
ぱらぱらと数枚確認したあと、顔をしかめた。
「しかし、こりゃ一年にも満たない程度ですぜ」
「だいたい分かればいい」
「大雑把ですなぁ」
呆れたような声が返る。
俺は別の棚へ手を伸ばきながら肩をすくめた。
「管理がマバール家になった途端、通行税を上げたなんて言われたくないからな」
それだけで商人は疑う。
平民も噂する。
事実がどうであれ、一度広まった話を消すのは面倒だ。
だったら最初から比べられる材料を持っていた方が早い。
セバスチャンも紙へ目を落としたまま頷いた。
「そりゃそうですね」
「クレインとジノに渡しとけ。数字をまとめさせろ」
「へい」
「橋は片付けが終われば通していい」
紙を揃えていた手が止まる。
「お館様の許可を待たなくていいんですかい?」
「平民だけなら構わんだろ」
荷を運ぶ商人まで一度に通せば混乱する。
だが、近隣の平民まで止め続ける理由は薄い。
畑へ行く者。
親類を訪ねる者。
生活のために橋を渡る者。
そういう人間まで止めれば、不満だけが積もる。
セバスチャンは顎を掻いた。
「密偵も潜り込みますぜ」
「なら、お前も行け」
「へ?」
間の抜けた声が返ってくる。
「怪しい奴がいたら取り調べろ」
「簡単に言いますなぁ」
「お前なら出来る」
「若様は、人を便利に使うのがお上手で」
ぶつぶつ言いながらも、本気で嫌がっている様子ではない。
俺は棚から別の帳面を引き抜いた。
「橋の警備をしてた平民兵は、そのまま使って構わん」
「寝返るかもしれませんぜ」
「だからこそだ」
帳面をめくる。
中身は橋の補修記録だった。
今すぐ必要な物ではないな。
ちゃんと橋は壊さなかったし。
元へ戻す。
「今は橋が通れるって証明したい」
戦が終わったばかりの橋は、人が近づかなくなる。
危ない。
壊れている。
また戦になる。
そんな噂が立てば、橋は橋としての役目を失う。
だったら最初に人を通す。
平民が行き来し始めれば、商人も様子を見る。
商人が来れば荷が流れる。
橋は自然に生き返る。
セバスチャンは何度か頷きながら書類を束ね直した。
「なるほどねぇ」
「橋を守る兵まで全部替えたら、それだけでも余計な噂になる」
「元からいた連中なら、近隣の平民も安心しますか」
「そういうこと」
戦場は勝った。
だが、領地経営は別だ。
橋一本で金が流れる。
人が流れる。
情報も流れる。
だから止めすぎてもいけない。
放置してもいけない。
「分かりました」
セバスチャンは書類を抱え直した。
「お任せください」
「頼むぞ」
俺は振り返らずに答える。
「俺はもう少し書庫を漁る」
「はいはい」
扉へ向かったセバスチャンが振り返る。
「ほどほどにしてくだせえよ」
「善処する」
「信用できませんな」
苦笑混じりの声を残し、扉がゆっくり閉まる。
静寂が戻った。
俺は棚を見上げる。
シルディア城は落ちた。
だが、城そのものは残っている。
ならば、物だけではなく、記録も財産だ。
誰が何を管理していたのか。
どれだけ税を集めていたのか。
橋だけではない。
倉庫。
街道。
兵站。
まだ使えるものが、この書庫には眠っているはずだ。
指先で一冊の帳面を引き抜く。
表紙には薄く擦れた文字が残っていた。
「……今度は何だ?」
独り言を漏らしながら頁を開く。
窓から差し込む細い光が、古い紙の上へ静かに落ちていた。




