第百十四話 降伏の広間
シルビア橋の上には、まだ血の匂いが残っていた。
朝の光はすでに高くなり始めている。川面を渡る風は冷たいのに、石畳へこびりついた熱だけは消えきっていない。壊れた門扉の周囲では、マバール騎士たちが最後の確認を続けていた。倒れた敵の武器を蹴り離し、抵抗しようとする者がいれば迷わず斬る。
橋は落ちた。
砦も、もう砦としては機能していない。
それでも戦場が終わったわけではなかった。橋の奥、街道の先にはシルディア城がある。そこに残った者たちが抵抗する可能性がゼロとは言えない。もっとも、シルディア家当主が死に、筆頭騎士も倒れ、橋を守っていた騎士団が崩れた以上、組織だった反撃は難しいはずだった。
俺は橋の先へ視線を向けた。
川を越えた向こう側には、低い丘を背にした城が見える。マバール城に比べれば、かなり小さい。高く聳えるというより、川沿いの領地を見守るために置かれた館を、後から石壁で固めたような姿だった。
「残党は?」
俺が尋ねると、横にいたクレインが兜をわずかに下げる。
「橋周辺はほぼ排除しました。一部は川へ飛び込みましたが、泳ぎ切れるかは分かりません」
「追う必要はない。橋と砦を押さえろ」
「はっ」
川へ飛び込んだ者まで全て追っていれば時間を食う。今優先すべきは、橋の完全確保とシルディア城の接収だ。
セバスチャンが少し遅れて歩いてきた。
鎧には新しい傷が増えている。脇腹のあたりには血も滲んでいたが、本人はいつも通りの顔をしていた。痛くないはずはない。だが、そこで痛そうな顔をするような男でもない。
「セバス、動けるか?」
「この程度で動けなくなるほど柔じゃありやせん」
「なら行くぞ」
「若様こそ、少しは休まれたらどうですかい」
「城を押さえてからだな」
そう返すと、セバスチャンは肩を竦めた。
マバール騎士団は橋を越えた。
軍旗が風を受けて翻る。黒地に赤い縦十字。その旗がシルビア橋の先へ進む光景を、シルディア城の中にいる者たちが見ていたかは分からない。
街道は静かだった。
戦の直後とは思えないほど、人の気配が少ない。逃げた兵や使用人が残したのだろう、道端には荷物がいくつも転がっている。布袋、木箱、半分だけ詰め込まれた衣類。中には子ども用らしい小さな靴まであった。
俺はそれを馬上から見下ろし、少しだけ息を吐く。
戦う者だけが戦場に巻き込まれるわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているが、今それに浸っている余裕はなかった。
シルディア城の門は、俺たちが近づく前から開いていた。
門前に槍を構えた騎士はいない。弓兵もいない。城壁の上に立つ者も少なく、こちらを見下ろす顔には戦意よりも怯えが濃かった。
中へ入ると、さらに静けさが濃くなる。
広い中庭には、手入れの行き届いた低木が並んでいた。だが、枝は何本か折れ、石畳の上には慌てて逃げた足跡が乱れている。水場の桶は倒れ、洗いかけの布が水を吸ったまま地面へ垂れていた。
城というより、生活の場だな。
俺は周囲を見回しながら思う。
マバール城のような武の城ではない。大軍を受け止めるための厚みも、迷宮のような複雑さもない。シルディア家の本拠は、やはりシルビア橋の砦だったのだろう。
ここは城というより、残された家族のための場所だ。
後宮みたいなもんか。
そう思うと、妙に納得できた。
俺は馬を降り、近くの騎士へ手綱を預ける。
「城内を調べよ」
騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「ただし、礼節は守れ。抵抗する者は斬って構わんが女子供や使用人相手に乱暴をするな」
「はっ!」
返事が揃う。
騎士たちは城内へ散っていった。
俺はセバスチャンと数名の上級騎士だけを連れ、城の広間へ向かった。
広間の扉は、すでに開け放たれていた。
厚い木で作られた両開きの扉には、慌ただしく開閉したのだろう、金具がぶつかった新しい傷がいくつも残っている。
俺はゆっくりと中へ足を踏み入れた。
石壁に囲まれた広間は、マバール城の謁見の間より二回りは小さい。
天井は高いものの、柱の数も装飾も少なく、どちらかと言えば実用を重んじた造りだった。壁へ掛けられたシルディア家の旗だけが、この場所が領主の広間であることを示している。
奥には三人の女性が並んで立っていた。
その中の一人にまだ幼い赤子を抱いた若い女性がいる。
俺が広間へ入ると、三人とも静かに姿勢を正した。
逃げる様子はない。
泣き叫ぶこともない。
貴族らしい礼節だけは最後まで守るつもりらしかった。
俺はゆっくりと歩みを進める。
背後にはセバスチャンと上級騎士たちが続く。
広間へ響くのは、革靴が石床を踏む音だけだった。
近づくにつれ、三人の顔立ちがはっきりと見えてくる。
一番右に立つ女性は、五十前後だろうか。
落ち着いた濃い茶色の髪をきちんと結い上げ、年齢相応に熟れた感じはあるが、その立ち姿に乱れはない。
中央の女性も同じくらいの年齢に見える。
こちらは少し背が低く、淡い金髪を肩口でまとめていた。
そして左。
赤子を抱いている女性だけが、明らかに若い。
二十代半ばほどか。
黒に近い栗色の髪が肩まで流れ、青白い顔には眠れていない疲れが滲んでいる。
それでも赤子を抱く腕だけは、驚くほどしっかりしていた。
……なんか親子みたいだな。
そんな印象が頭をよぎる。
年上の二人が母親。
若い女性が娘。
そう言われても違和感はない並びだった。
もちろん、本当にそうとは限らない。
だが、年齢差だけ見ればそう思ってしまう。
赤子を抱いているのも、その若い女性だ。
おそらく、この子が当主の言っていた赤子なんだろう。
俺が立ち止まると、三人は同時に深く頭を下げた。
一番年長と思われる女性が、一歩だけ前へ出る。
その動きには迷いがなかった。
恐怖はある。
それでも、この場で家を代表する覚悟だけは決めているらしい。
静かに両手を重ね、腰を深く折る。
「シルディア家は正式にマバール家へ降伏致します」
震えを押し殺した声が広間へ響いた。
「どうか……寛大なるご処置を賜りますよう、お願い申し上げます」
言葉を終えても頭は上がらない。
後ろの二人も同じ姿勢のまま微動だにしなかった。
広間へ静寂が落ちる。
セバスチャンたちも何も言わない。
全員が俺の返事を待っていた。
俺は三人を静かに見つめる。
無理に怯えた様子を作っているわけではない。
貴族として最後まで礼節を守ろうとしている。
それだけは伝わってきた。
俺はゆっくりと口を開く。
「シルディア家当主は、立派な方であった」
その一言で、三人の肩がわずかに震えた。
悲しみを堪えていたのだろう。
それでも誰一人として泣き崩れない。
視線を伏せたまま、小さく息を呑むだけだった。
やっぱり、貴族だな。
そう思いながら、俺は三人の様子を静かに見つめ続けた。
しばらく誰も口を開かなかった。
広間には張り詰めた静けさだけが漂っている。
石壁へ掛けられた旗が窓から吹き込む風にかすかに揺れ、その布擦れの音だけが耳へ届いた。
俺は視線をゆっくりと動かす。
年長の女性。
中央の女性。
そして赤子を抱いた若い女性。
その腕の中で眠る赤子は、戦の喧騒など知らぬように小さな寝息を立てていた。
俺はその姿を見つめたまま尋ねる。
「その赤子は、男子か?」
広間の空気がさらに張り詰める。
三人の肩がぴくりと震えた。
答えたのは最初に口を開いた年長の女性だった。
頭を下げたまま、小さく息を吸う。
「……はい」
短い返事だった。
「男子でございます」
声は震えていた。
その震えは悲しみだけではない。
恐怖だ。
男子ならば殺されるかもしれない。
そう考えているのが手に取るように分かった。
まぁ、そう思うよな。
貴族同士の争いでは珍しい話じゃない。
跡継ぎは後々まで火種になる。
だから幼いうちに始末する。
それだけで争いが終わるなら、そうする家も少なくない。
俺は赤子へもう一度視線を向けた。
眠ったまま小さく身体を動かす。
何も知らない。
親が死んだことも。
家が負けたことも。
この先の運命も。
まぁ、だが。
シルディア家当主は立派だった。
最後まで家を守ろうとし、死ぬ間際にはこの赤子だけを頼んできた。
それに父上も、赤子まで殺せとは言わないだろう。
……色々使えるし。
そんな計算も頭をよぎる。
俺は静かに頷いた。
「シルディア家の降伏を認める」
その一言が広間へ落ちる。
三人とも顔を上げた。
信じられない。
そんな表情だった。
やがて安堵が広がる。
年長の女性の目には涙が浮かんだ。
それでも零さない。
深く頭を下げ直す。
「ありがとうございます」
後ろの二人も続いた。
「ありがとうございます」
赤子を抱いた若い女性は、胸へ赤子を抱き寄せながら何度も頭を下げる。
俺はその様子を見届けてから続けた。
「ただし、そのまま自由という訳にはいかん」
三人の表情が再び引き締まる。
「魔力封印を施す」
誰も口を挟まない。
「その上でマバール城へ移し、保護する」
保護。
その言葉へ三人が反応する。
捕虜でも幽閉でもない。
少なくとも今すぐ命を奪うつもりはないと理解したのだろう。
「その後の処遇については父上が決められる」
そこは父ガルシアの判断だ。
俺が勝手に決める話ではない。
三人はもう一度深々と頭を下げた。
「はい」
「ありがとうございます」
その返事を聞きながら、俺は改めて三人を見渡した。
若い女性はともかく。
年長の二人は……。
内心で小さく考える。
死んだ当主と年齢も近い。
それなのに赤子を抱いているのは若い女性だけだ。
おそらく、この二人が子を授からなかったから、新たに迎えられたのがあの若い女性なのだろう。
貴族同士は子を成しにくいからな。
……いや。
相性が悪かった可能性もあるか。
年齢的には、まだ子を産めない歳ではない。
全く価値が無い訳じゃない。
そんな考えが頭の中を静かに巡っていった。
赤子がいる限り、この三人は軽々しく動けない。
逆に言えば、赤子をきちんと保護している限り、無茶な真似をする可能性も低い。
シルディア家が完全に消えたわけではない。
その希望だけは残る。
ならば従う理由も生まれる。
俺はそんな計算を頭の中で並べながら、三人を改めて見た。
若い女性は、まだ二十代半ばほどだろう。
戦の疲れは隠せないが、貴族らしく姿勢は崩れていない。
腕の中の赤子へ視線を落とすたび、その表情だけがわずかに柔らかくなる。
母親らしい。
その一方で、年長の二人は終始こちらを見据えていた。
恐怖もある。
不安もある。
それでも感情だけで動かない。
長年、貴族として生きてきた者らしい落ち着きだった。
貴族の寿命を考えれば、まだ数人くらいなら子を産めるだろう。
全く価値が無いわけではない。
騎士家へ降嫁させるという手もある。
貴族の血を引く子を得られるなら、喜ぶ騎士家は少なくないはずだ。
本人たちが従順であり続けるなら、その赤子が成人した時、シルディア家を小さく再興させる道だって残せる。
家名を完全に潰すより、その方が使い道は多い。
もっとも、それを決めるのは父上だが。
そこまで考えてから、俺は三人の顔立ちをもう一度眺めた。
年長の二人は落ち着いた容姿だった。
まだ肌に張りもある。
若い女性も整ってはいる。
だが――。
……無いな。
思わず内心で結論が出る。
俺の好みではない。
それだけのことだった。
余計なことを考えるのは終わりだ。
俺は小さく息を吐き、三人へ視線を戻した。
「下がってよい」
三人は同時に姿勢を正す。
「出立の準備をしておけ」
マバール城まで移送する以上、最低限の身支度は必要になる。
着替えもあるだろう。
赤子に必要な物もあるはずだ。
「はい」
年長の女性が静かに答える。
「ご配慮、感謝申し上げます」
その言葉へ続き、残る二人も深々と頭を下げた。
赤子を抱いた若い女性も、小さく身体を折る。
腕の中の赤子は目を覚ますこともなく、小さく寝息を立てていた。
三人はゆっくりと身を起こし、礼を崩さぬまま後ろへ下がる。
扉の前で最後にもう一度頭を下げると、静かに広間を後にした。
扉が閉まる。
重い木の音が広間へ響き、静寂が戻ってきた。
俺は肩の力を抜く。
「やれやれ」
思わず口から漏れる。
「やっぱ降伏の受け入れって、めんどくさいな」
戦っている方が、よほど分かりやすい。
そう苦笑すると、背後から小さく笑う声が聞こえた。
セバスチャンだった。
いつものように口元へ笑みを浮かべ、広間の柱へ軽く背を預けている。
脇腹には包帯が巻かれ、その上から鎧を着直していた。
傷は浅くないはずだが、本人はまるで気にしていない様子だった。
「若様らしいですな」
穏やかな声だった。
俺は肩を竦める。
「何がだ」
「橋じゃ敵を斬って終わりですが、降伏はそうはいきやせん」
セバスチャンは苦笑する。
「生かすなら生かすで、後のことまで考えなきゃならねえ」
「それが貴族ですからな」
上級騎士も苦笑していた。
俺は広間の奥に置かれたシルディア家の旗を眺めた。
さっきまで、この城の主を示していた旗だ。
今はただ静かに垂れ下がっている。
「戦う方が楽だ」
思わず本音が漏れる。
敵なら倒せば終わる。
降伏した相手は終わらない。
どこへ住まわせるか。
誰が監視するか。
誰と婚姻させるか。
子はどうするか。
家を残すのか潰すのか。
全部考えなければならない。
父上は、今までずっとそんなことを繰り返してきたのか。
領主ってのも大変だな。
そんなことを考えていると、セバスチャンが肩を揺らして笑った。
「そのうち慣れますぜ」
「慣れたくないな」
「皆さん最初はそう言うんでさ」
俺もつられて笑う。
広間の空気が少しだけ和らいだ。
その時だった。
外から足音が近づいてくる。
一人の騎士が広間へ入り、膝をついた。
「若様」
「どうした」
「城内の確認が完了しました」
俺は軽く頷く。
「報告しろ」
「城内の抵抗はありません。残っていた使用人も武器は持っておらず、全員保護しております」
「略奪の類は」
「ありません。若様のご命令どおり、礼節を守っております」
その返事に小さく息を吐く。
それでいい。
勝ったからといって何をしてもいい訳じゃない。
いや、奪うんだが決まりは必要だ。
「食料庫」
「十分に残っております」
「武具庫」
「一部持ち出されておりますが、大半はそのままです」
「厩」
「馬は三十七頭確認しました」
想像より多いな。
橋へ戦力を集中させていたせいで、城へ残した馬まで運び出す余裕はなかったのだろう。
俺は報告を聞き終えると、静かに立ち上がった。
「よし」
広間を見回す。
セバスチャンも上級騎士たちも俺を見ていた。
「シルディア城は本日よりマバール家が接収する」
誰も異論はない。
「橋の修復と砦の整理を優先しろ。負傷者の治療も忘れるな。抵抗する者は殺せ」
「はっ!」
力強い返事が広間へ響いた。
俺は最後にもう一度だけ、静まり返った広間を見渡す。
この城も。
この橋も。
今日からはマバール家のものだ。
俺は踵を返した。
「次の仕事だ」
そう言って歩き出すと、黒地に赤い十字を染め抜いた軍旗が、広間の入口で静かに風を受けて揺れていた。




