第百十二話 橋上の激戦
橋の入口では、三度にわたる攻撃魔法の爪痕が生々しく残っている。
厚い門扉は中央から裂け、ギギ、と軋みながら片方は蝶番だけを残して斜めに垂れ下がり、もう片方は細かな破片となって石畳へ散らばっていた。
突破口は出来た。だが油断はできない。
その瓦礫の間には、人影が折り重なるように倒れていた。
バサッ、と風を受けた旗布が大きく翻り、その背後で百を超える騎士たちが一斉に手綱を打った。鼓動が一気に速まる。
「おおおおおっ!」
ドドドドドッ、と橋を揺らすような咆哮と蹄音。音の圧に身体の奥が震える。
蹄が石畳を激しく打ち鳴らし、衝撃が響く。黒い波となったマバール騎士団が壊れた門へ一気に殺到する。ここで止まれば押し潰される、と直感する。
砦の中からも怒号が返ってきた。迎え撃つ覚悟が伝わってくる。
「迎え撃て!」
「橋へ入れるな!」
傷ついたシルディア騎士たちが瓦礫を蹴り飛ばし、ザッ、と飛び越え、槍を構え直す。その動きに、まだ折れていない意志を感じる。
防御魔法を維持していた反動で顔色は悪い。限界が近い、と見て取れる。
鎧は焦げ、盾も欠けている。それでも踏みとどまる姿に、わずかな敬意が湧く。
それでも誰一人として背を向けなかった。逃げ場はないと理解しているのだろう。
橋を失えば家は終わる。その一点に全てを賭けている。
その覚悟だけが、疲弊した身体を無理やり立たせている。だからこそ、ここで崩す。
最初に激突したのは、俺ではなく直属騎士たちだった。任せられる、と判断する。
右前方から飛び出したオルドが、大剣を肩へ担ぐように構える。あの一撃で道を開くつもりだ。
肉体強化魔法で膨れ上がった脚力が身体をさらに加速させる。
ブンッ、と大剣が横薙ぎに唸った。
ガギィンッ!
分厚い鋼が鎧ごと敵騎士を薙ぎ払う。重さごと叩き潰す一撃だ。
鈍い衝撃音。一人目の身体が軽々と吹き飛ぶ。その勢いのまま、ガンッ、と二人目の盾へ刃が叩き込まれた。
バキッ。
盾板が砕け、男はそのまま石畳を転がる。
オルドは止まらない。勢いを殺さないのが正解だ。
返す刃を振り上げ三人目を肩口から叩き斬る。その豪快な一撃だけで、敵前列が一気に崩れた。
その隙へジーノが滑り込む。無駄のない動きに安心する。
スッ。呼吸すら感じさせない。
長槍はほとんど揺れない。狙いが一点に定まっている。
半歩。踏み込み。距離を詰める判断が速い。
トン。迷いがない。
喉を突く。急所を外さない。
ズッ。確実に仕留める。
引き抜く。次へ繋げるための動き。
シュッ。流れるようだ。
身体を返し、胸を突く。連続で崩していく。
必要最小限の動きだけで騎士を一人ずつ仕留め、槍先には余計な力みが一切なかった。
左ではクレインが剣と攻撃魔法を淀みなく使い分ける。状況判断が早い。
牽制の小さな攻撃魔法を放つ。
敵が一瞬、ぐらりと体勢を崩す。その隙を逃さない。
その瞬間、一気に踏み込み。迷いなく距離を詰める。
ザシュッ、と首筋へ刃を走らせる。確実に落とす一撃。
次の敵の攻撃は剣で受け流し、そのまま至近距離から攻撃魔法を叩き込み、橋の欄干まで吹き飛ばした。押し出す判断も的確だ。
後方ではトールが味方の動きを見極めながら魔力を練っている。巻き込みを避けるための集中が伝わる。
ギリギリまで引きつける。タイミングを測っている。
そして、ズドンッ。ここしかない、という一撃。
味方へ巻き込まぬよう僅かな隙間へ攻撃魔法を撃ち込み、敵の陣形だけを崩す。精密さに舌を巻く。
爆ぜた衝撃に敵がビクッと足を止めた瞬間、前衛がその隙を逃さず食い破っていく。連携が噛み合っている。
直属騎士だけではない。全体が同じ意志で動いている。
他のマバール騎士たちも、防御魔法を身へ纏い、肉体強化魔法で踏み込みを速め、剣と槍だけで押し込んでいた。勢いはこちらにある、と確信する。
誰一人として弓を構えない。この距離では無意味だと全員が理解している。
攻撃魔法が飛び交うこの距離では、弓を番える暇があるなら剣を振るう方が速い。
橋の上は、瞬く間に乱戦へ変わっていった。視界が一気に狭まる。
ガンッ、キンッ、ドンッ。音が頭の中で反響する。
怒号と衝撃音が入り乱れる。集中を切らせば終わりだ。
俺はその喧騒を横目に、静かに感知魔法を拡げる。ここからが本命だ、と意識を切り替える。
探す相手は一人だけ。余計なものは切り捨てる。
この橋を守るため、砦全体へ巨大な防御魔法を展開していた男。あれを落とせば終わる。
シルディア家当主だ。必ずいるはずだ、と確信する。
無数の魔力反応が意識へ流れ込む。
橋全体が魔力の奔流に包まれていた。雑音が多すぎる、と眉をひそめる。
その中で、一つだけ騎士とは質の異なる魔力が揺れている。異質だ、と直感する。
ゆらり。かなり弱っている。
かすかに。だが確かに。
俺は目を細めた。焦点を一点に合わせる。
「……見つけた」
魔力が細い。明らかに落ちている。
砦全体を覆う防御魔法。その反動だ。見えない膜が軋むように震え、低く唸る音が耳の奥に響く。
厚みはある。貴族の魔力だ。だが揺れている。隠せていない。淡い光がちらつき、まるで風に煽られる灯火のようだ。
かつては大河。今は細い流れ。肌に触れる魔力の流れも揺れている。
――今なら届く。
確信する。同時に焦る。時間がない。
魔力を練り直す前に終わらせる。絶対だ。
意識を絞る。
乱戦。魔力が重なる。普通なら見失う。爆ぜる音、金属がぶつかる甲高い響き、血の匂いが混ざり合う。
だが、あれだけは違う。追える。
貴族の魔力は異質だ。
強さだけじゃない。質が違う。
騎士は火花。鋭く散る。弾けるたびに乾いた音が耳を打つ。
貴族は塊。重く、澄む。触れれば冷たい石のような圧がある。
その塊が橋の奥で動く。
ゆっくりだ。だが確実だ。
――逃がすな。ここで終わらせる。
歯を食いしばる。奥歯に鉄の味が広がる。
視線を固定する。
砦へ続く道の中央。
騎士が壁を作る。その中心に男。
あれか。
鎧は上等。だが傷だらけだ。
肩当てに深い裂傷。胸当ては焼け焦げている。焦げた金属の匂いが風に乗って届くように感じる。
俺の攻撃魔法だ。
右脚が歪んでいる。折れている。
立てない。騎士に体を預けている。
それでも立つ。無理やりだ。
周囲の騎士たちが治癒魔法を使っている。
光を感じるが淡く弱い。かすかな温もりが空気を震わせる。
脚を包む。骨を繋ごうとしている。
だが遅い。間に合っていない。
簡単には骨は戻らない。
光が揺れるたび、男の顔が歪む。低く押し殺した呻きが聞こえる。
苦痛。それでも倒れない。
左手が上がる。
……まだやる気か。
魔力が膨らむ。わずかずつ。空気が重くなり、肌に圧がかかる。
遅い。だが止まらない。
貴族の攻撃魔法だ。
完成すれば終わる。後ろが巻き込まれる。
俺なら防げる。
だが騎士たちには防げない。
――間に合え。間に合わせろ。
鼓動が速い。うるさい。耳の奥で脈打つ音が響く。
手綱を操る。地面の振動が全身に伝わる。
撃たせる前に止める。それだけだ。
その時。
男を支える騎士が顔を上げる。
見覚えがある。
鎧。大剣。
橋の手前で名乗った男。
シルディア家筆頭騎士、ダスト。
奴が支えている。
間違いない。
「あれが当主だ」
呟く。
決まった。迷いはない。
――ここで終わらせる。必ずだ。
あの男を討つ。それで終わる。
「逃がさん!」
叫ぶ。同時に鐙を蹴る。
愛馬が踏み込む。石畳を砕く勢いだ。蹄が打つたびに衝撃が響く。
乱戦へ突っ込む。
敵騎士が振り返る。一斉だ。鎧が擦れる音が重なる。
「若様!」
セバスチャンの声。
理解している。全員だ。
オルドが薙ぐ。力任せだ。風を切る音が唸る。
ジーノが突く。道を開ける。刃が肉を裂く鈍い感触が伝わる。
クレインの魔法が炸裂する。
橋の中央。爆ぜる。閃光とともに熱風が頬を打つ。
空白が生まれる。一瞬だ。
そこへ滑り込む。
距離が縮む。
――まだ遠い。足りない。
もっと速く。
喉が焼ける。焦りだ。
だが目は逸らさない。
騎士たちの顔が変わる。
止めなければ終わる。
それが伝わる。
最前列に一人出る。
ダストだ。
大剣を握る。両手だ。
ゆっくり前へ出る。
背後では当主が下がる。
騎士たちも下がる。
時間稼ぎだ。
筆頭騎士の役目。
――邪魔だ。だが斬る。
ダストが剣先を向ける。
「私が相手だ!」
怒声が橋を震わせた。
「邪魔だ! どけ!」
喉の奥から絞り出すように怒鳴る。乾いた声が、張り詰めた空気を裂いた。
馬上から見下ろす視界の先、ダストは微動だにしない。
答えない。
ただ、静かに大剣を構え直す。
重い鉄の刃がわずかに軋み、刃先がゆっくりと下がる。腰が沈み、地面に根を張るように重心が落ちる。
踏み込みの姿勢。
その一挙手一投足が、まるで地面そのものを押し潰すような圧を帯びていた。
背後では、騎士たちがじりじりと後退している。鎧が擦れる音、荒い呼吸、誰もが息を詰めているのが分かる。
治癒の光は途切れない。
淡い光が当主の身体を包み、傷口を塞ぎ続けている。
当主の左手も止まらない。
指先がわずかに震えながらも、確実に魔力を編み上げている。
魔力が膨らむ。ゆっくりと、しかし確実に。
空気が重くなる。肌にまとわりつくような圧迫感。
――時間稼ぎ。
舌打ちを飲み込む。
消耗しているはずなのに、なお脅威だ。
俺だけならいい。
だが、この距離では。
後続も巻き込む。
完成させるな。
馬腹を蹴る。
筋肉が弾けるように収縮し、馬が前へと跳ねる。蹄が石畳を叩き、乾いた音が連続して響く。
加速。
風が頬を打つ。
ダストは動かない。
逃げない。
ただ、俺を見ている。
その視線は揺るがず、まるでこちらの動きをすべて見透かしているかのようだった。
意識を逸らすな。
十歩。
九。
八。
距離が縮まるごとに、空気がさらに重くなる。
間合い。
魔力が膨れる。
「ぬおおおおっ!」
咆哮が空気を震わせる。
圧が、肌に叩きつけられるように押し寄せる。肺が押し潰されるような感覚。
別人だ。
「……火事場の馬鹿力か」
思わず漏れる。
限界を越えている。
内側から噴き出す魔力が、制御を無視して溢れ出している。
無茶だ。
このままでは壊れる。
それでも止まらない。
命を賭けている。
感知する。
単純な力じゃない。
薄い。ほんの僅かに混じる異質な気配。
……薄いが貴族の血が混じってるな。
だから膨れる。
厄介だ。
その間にも、当主の魔力は練り上げられていく。
くそ。
まとめて吹き飛ばすか。
だが、貴族を倒すほどの攻撃魔法では橋を巻き込むかもしれない。
橋脚までは届かないにしても、衝撃で崩れる可能性は高い。
ここまで残した橋だ。
これ以上傷を増やしたくない。
――少しくらい。
そう思った、その瞬間。
「若様ぁっ!」
怒鳴り声が横から突き刺さる。
視界の端から、馬が飛び込んできた。
セバスチャンだ。
一直線。
迷いのない突進。
ダストが反応する。
「邪魔だぁっ!」
大剣が振り下ろされる。
空気を裂く重い音。
次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。
骨が砕ける嫌な音。
馬の身体が崩れ落ちる。
だが、その直前。
セバスチャンはすでに飛んでいた。
鐙を蹴り、宙へと身を投げ出す。
着地と同時に抜剣。
刃が光を反射し、一直線にダストの正面へと立つ。
「若様!」
それで足りる。
ダストは半歩踏み込んでいる。
ほんの半歩。
だが、そのわずかな動きが空間を生む。
迷わない。
強化を引き上げる。
身体が軽くなる。
滑り込む。
肩を掠めるほどの距離で、巨体の脇を抜ける。
「任すぞ!」
視線は前だけ。
背後で、低い笑い声が響く。
「任されやした」
背後で鋼が激しくぶつかり合う音が弾けた。
振り返らない。
振り返る必要もない。
セバスチャンは任せろと言えば任せられる男だ。
俺がやるべきことは一つ。
当主を討つ。
それだけだ。
肉体強化魔法へさらに魔力を流し込む。
馬の速度が限界まで乗る。
正面のシルディア騎士たちが一斉に槍を向けた。
「止めろ!」
「ご当主様に近づけるな!」
怒号と共に槍が突き出される。
俺は馬上から右手をかざした。
魔力を練るほどでもない。
指先から放たれた小さな攻撃魔法が一直線に走り、先頭の騎士へ叩きつけられる。
腹当てが弾け飛び、男は槍ごと後方へ吹き飛んだ。
左右からさらに二人。
今度は防御魔法を纏ったまま剣で斬り込んでくる。
剣筋は悪くない。
だが遅い。
俺は馬を半歩だけ左へ寄せる。
刃が肩先を掠めるより早く、防御魔法へ当たって鈍い音を立てた。
火花が散る。
剣が耐え切れず刃こぼれを起こす。
「なっ……!」
驚く暇は与えない。
返す刃で一人目の喉を裂く。
そのまま身体を捻り、二人目の胸へ浅く剣を走らせる。
鎧は裂け、男は呻きながら膝を折った。
さらに三人。
攻撃魔法が飛んでくる。
防御魔法へ当たった瞬間、眩い光が橋の上へ散った。
熱だけが頬を撫でる。
届かない。
俺はそのまま馬を止めない。
当主まで、あと僅か。
護衛たちも必死だった。
身体を投げ出すように前へ出てくる。
槍。
剣。
盾。
全て俺だけへ集中する。
――忠義か。
胸の奥で小さく呟く。
嫌いじゃない。
だが。
「邪魔だ」
短く言い放ち、剣を振るう。
肉体強化された一撃は鎧ごと騎士を切り裂き、その勢いのまま次の盾を叩き割る。
割れた盾の破片が石畳へ飛び散り、足元で乾いた音を立てた。
止まるな。
あと少し。
感知魔法が当主の魔力を捉え続ける。
まだ練っている。
だが、完成には至らない。
間に合う。
俺は前だけを見据え護衛との間合いを一気に詰めた。
護衛の騎士が歯を食いしばり、盾を構えたまま前へ踏み出す。
その意識は俺ではなく、背後の当主だけを見ていた。
時間さえ稼げればいい。
その覚悟だけで立っている。
だが、その程度では止まらない。
俺は手綱を引き、馬の首をわずかに右へ向けた。
騎士も合わせて動く。
その瞬間だった。
左手から小さな攻撃魔法を放つ。
轟かせる必要はない。
人一人を止めるだけなら、この程度で十分だ。
白く圧縮された魔力が盾へ命中する。
鈍い破裂音。
盾が内側へ大きく歪み、受け止めた騎士の身体ごと弾き飛ばした。
その横を馬が駆け抜ける。
残る二人が剣を振り上げた。
金属音が連続して鳴る。
一人の剣は防御魔法へ弾かれ、その反動で手首が跳ね上がる。
もう一人は無理やり間合いを詰め、脇腹を狙ってきた。
悪くない。
橋の上では正しい判断だ。
だが、遅い。
俺は身体を半歩だけ捻り、剣を受け流した。
刃と刃が擦れ、耳障りな音が響く。
そのまま手首を返す。
振り抜いた剣が鎧の継ぎ目へ吸い込まれた。
鮮血が飛ぶ。
男は息を呑み、膝から崩れ落ちた。
残る一人が叫ぶ。
「ご当主様をお守りしろ!」
叫びへ応えるように、さらに奥から騎士たちが押し寄せる。
だが、俺の感知魔法は別のものを捉えていた。
当主だ。
治癒魔法を受けながらも、なお左手で魔力を練り続けている。
さっきより速い。
魔力の渦が徐々に形を成し始めていた。
間に合わんか。
いや、間に合わせる。
俺は鐙を強く踏み込み、馬上から飛び降りた。
肉体強化魔法が全身を駆け巡る。
着地と同時に石畳が砕け、身体が前へ弾けた。
馬と変わらない速度。
いや、それ以上だった。
護衛の騎士が驚きに目を見開く。
「なっ――」
言葉は最後まで続かない。
剣を振るうより早く、小さな攻撃魔法が胸当てへ突き刺さる。
鎧が弾け、男は後方へ吹き飛んだ。
左右からさらに二人。
攻撃魔法が放たれる。
どれも俺の防御魔法へ触れた瞬間、霧散して消える。
次の瞬間には剣が走る。
肉体強化魔法で振り抜かれた刃は、騎士の剣ごと鎧を断ち切った。
砕けた刃が石畳へ散る。
俺は立ち止まらない。
当主まで、あと数歩。
感知魔法が、その魔力の鼓動を鮮明に捉えていた。
背後で剣戟が弾ける。
鋼がぶつかり合う重い音。
ダストの怒号。
セバスチャンの笑い声。
どちらも聞こえた。
だが、振り返らない。
あの男は、背中を預けられる騎士だ。
俺が見るべき相手は一人しかいない。
掌の上へ集まり続ける魔力。
空気が震える。
橋の石畳が低く唸るような圧迫感。
ここまで練り上げたか。
あと一息。
その一息で完成する。
俺は足を止めなかった。
剣を下げたまま、一歩、また一歩と間合いを詰める。
当主も俺を見ていた。
歳は五十を越えているだろう。
深く刻まれた皺。
疲労で青白い顔。
それでも瞳だけは濁っていなかった。
互いに無言のまま距離が縮まる。
五歩。
四歩。
三歩。
その時だった。
当主の左手から魔力がふっと消えた。
攻撃魔法を解いた。
俺は思わず眉を寄せる。
撃たないのか。
当主はゆっくりと息を吐いた。
苦しげだった呼吸が、不思議なほど静かになる。
「……待て」
低い声だった。
戦場の喧騒の中でも、不思議とはっきり耳へ届く。
俺は剣を構えたまま立ち止まった。
あと三歩。
踏み込めば終わる距離。
当主は俺を真っ直ぐ見つめる。
「幼い子が……城にいる」
言葉を区切るたび、肩が小さく震える。
「まだ……赤子だ」
戦場には似つかわしくない言葉だった。
俺は黙って聞く。
「その子だけは……助けてやってくれ」
その願いだけだった。
家を残せとも言わない。
領地を返せとも言わない。
自分の命乞いですらない。
残したのは、赤子一人への願いだけ。
残したいのは、シルディアの血だけ。
俺は当主の目を見返した。
そこには嘘も打算もなかった。
静かに頷く。
「分かった」
その一言で十分だった。
当主の口元が、わずかに緩む。
「……頼むぞ」
そう呟くと、男は右手で腰の剣を静かに抜いた。
周囲の騎士たちが息を呑む。
誰も動けない。
俺も動かなかった。
当主は一度だけ空を見上げる。
朝日が鎧へ淡く反射した。
「シルディア家……万歳」
迷いなく剣先を首へ当てる。
次の瞬間、剣先が喉元を完全に貫いた。
鮮血が朝日に散る。
男の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
石畳へ膝をつき、そのまま前へ倒れた。
俺は動かなかった。
感知魔法だけが、最後まで男を追い続ける。
重く澄んだ魔力が、少しずつ薄れていく。
ゆっくりと。
静かに。
そして、完全に消えた。
しばらく、その場を動けなかった。
橋の上では、なお怒号が飛び交っている。
剣が打ち合わる音。
攻撃魔法が炸裂する轟音。
傷ついた者の悲鳴。
様々な音が混じり合っているというのに、その男の周囲だけは不思議なほど静かだった。
俺は倒れた当主を見つめ続ける。
感知魔法にも、もう何も映らない。
先ほどまで確かに存在していた重い魔力は、跡形もなく消え去っていた。
戦いは終わった。
少なくとも、この男にとっては。
石畳へ流れた血が、ゆっくりと目の前を広がっていく。
朝日に照らされた赤は妙に鮮やかだった。
「若様」
後ろから聞き慣れた声がした。
肩へ軽く手が置かれる。
振り返ると、セバスチャンが立っていた。
鎧のあちこちには剣傷が増え、左肩からは血が流れている。
外套も裂け、頬には浅い切り傷まで走っていた。
それでも口元にはいつもの笑みがある。
「死にましたね」
静かな口調だった。
感知魔法で確認したのだろう。
俺は小さく頷く。
「ああ」
それだけ答えた。
その時だった。
「おおおおおおっ!」
橋の向こうから大きな勝ち鬨が上がる。
直属騎士たちだ。シルディア家当主が倒れた事に気付いたらしい。
当主の死を見た敵兵たちが、一斉に動揺し始めていた。
誰かが武器を落とす。
誰かが後ずさる。
橋の欄干へ駆け寄る者までいる。
統率が崩れた。
感知魔法でも、それがはっきり分かる。
先ほどまで一つへまとまっていた魔力反応が、蜘蛛の子を散らすように四方へ広がっていく。
当主が倒れれば貴族家はおしまいだ。
俺はゆっくりと剣を握り直した。
「敵残党を排除せよ!」
橋いっぱいへ声が響く。
「逃がすな!」
その命令と同時に、マバール騎士たちが咆哮を上げた。
「おおおおおっ!」
黒地に赤い十字の軍旗が風を受けて大きく翻る。
勢いを失ったシルディア騎士たちは背を向けて走り出した。
橋から河へ飛び降りる者。
後ろの門へ殺到する者。
押し合い、転び、踏みつけ合いながら必死に逃げていく。
後ろの門扉は人一人がようやく通れるほど開かれたが、押し寄せる兵たちによってさらに押され、大きく広がっていく。
そこへ次々と敵兵が流れ込む。
だが、遅い。
マバール騎士たちは勢いを緩めなかった。
肉体強化魔法で一気に距離を詰め、逃げ遅れた敵を次々と斬り伏せていく。
橋の上には再び怒号が満ちていった。
その喧騒の中で、セバスチャンが俺の剣へ視線を落とす。
刃はあちこちが欠け、わずかに歪んでいた。
何人もの騎士を鎧ごと斬り続けた代償だった。
セバスチャンは苦笑する。
「若様、剣技はまだまだですな」
俺も自分の剣を見下ろき、小さく鼻を鳴らした。
「やかましい」
そう返すと、俺たちは同時に笑った。
その笑い声は、勝利へ沸く橋の喧騒へ静かに溶けていった。




