第百七話 軍旗の下
夜明け前の空は、まだ黒に近かった。
東の端だけが薄く灰色に滲み、街道の土は夜露を吸って重く沈んでいる。馬の蹄が踏み込むたび、湿った音が低く鳴った。吐く息は白く、手綱を握る指先には冷えが絡みついている。だが、身体の奥で魔力が薄く巡り、眠気も寒さも浅い膜の向こうへ押しやられていた。
前方に関所の灯りが見えた。
小さな火だ。
城や砦の灯りとは違う。道を塞ぐための門と、そこに控える人間のための灯り。遠目にも、厳重な守りという感じはしなかった。街道を押さえるには十分かもしれないが、百名近いマバール騎士を止めるには、いかにも頼りない。
俺は手綱を引き、馬の速度を落とした。
周囲の騎士たちも同じように動く。誰も声を上げない。鎧の擦れる音さえ抑え、馬の鼻息も必要以上に響かないよう手綱を調整している。闇の中で、セバスチャンがこちらを振り返った。
「若様」
「任せる」
俺が短く答えると、セバスチャンは口の端をわずかに上げた。
それだけで、数騎が前へ出る。
セバスチャン、オルド、ジノ、それから道中で先導していた領内の道に詳しい騎士たち。彼らは馬を降り、魔力をさらに薄く抑えながら関所へ向かった。魔力を消すわけではない。消せるものでもない。ただ、遠くから感知されにくいよう、身体の内側へ押し込む。
俺は後方で待つ。
感知魔法を薄く展開すると、関所のあたりに魔力持ちの反応がいくつかあった。数は多くない。平民の気配までは感知魔法では拾えないから、そこに何人いるかを魔力だけで断定することはできない。灯りの位置、門の影、わずかに動く人影。それらを目で拾いながら、俺は息を殺した。
派手な攻撃魔法は使われなかった。
火も上がらない。
轟音もない。
ただ、闇の中で人影が動き、しばらくして関所の灯りの揺れ方が少し変わった。誰かの短い声が聞こえた気もしたが、風に紛れてすぐ消える。馬が一頭、落ち着かなげに鼻を鳴らした。その後は静かだった。
静かすぎるくらいだった。
やがて、セバスチャンが戻ってきた。
当然のように無傷だ。息も乱れていない。剣は抜いていたが、もう軽く拭われているように見えた。後ろに続く騎士たちも同じだ。ひと仕事終えたという顔はしているが、戦った直後という荒さはない。
「終わりやした」
「ずいぶん油断してるな」
俺は首を傾げた。
関所を抜くのに時間がかからないとは思っていた。だが、ほとんど騒ぎにならないのは少し意外だった。こちらが優秀なのは間違いない。セバスチャンたちが下手をするとも思っていない。それでも、関所ならもう少し警戒していてもよさそうなものだ。
「まだマバール家が帝国についたとは知らんのでしょう」
「ああ、まだ数日だもんな」
セバスチャンの言葉で納得した。
マバール城で宣言してから、まだ大した時間は経っていない。王都どころか、周辺の小領主にも正式な情報が届いていない可能性は高い。まして夜明け前に、マバール家の騎士が魔力を抑えて関所を襲うなど、考えてもいなかったのだろう。
「それに、この関所は別に防御用って訳じゃありやせんからね」
「ん?」
俺は一瞬、関所を見た。
門はある。小屋もある。道を塞ぐ柵もある。だが、確かに砦としては頼りない。壁も低い。見張り台も、守るためというより通行人を見下ろすための位置に見える。
ああ。
「通行料をせしめる為の関所か」
「そんなところでしょうな」
セバスチャンが頷いた。
敵を本気で防ぐための場所ではない。街道を通る商人や旅人を止め、荷を確認し、金を取るための施設。だから守りは薄いし、警備の意識も緩い。これが国境の砦なら、さすがにもう少し面倒だったはずだ。
俺は馬を降り、関所の中へ入った。
床に死体が転がっていた。
数人。
どれも騒ぎを起こす前に倒されたのだろう。武器へ手を伸ばしかけた姿勢のまま固まっている者もいれば、椅子から半分ずり落ちている者もいる。灯りはまだ消えておらず、揺れる火が血の色を鈍く照らしていた。
「どうする? これ?」
口ではそう言いながら、俺はしゃがみ込んだ。
死体を見る。
胸ではない。
腹だ。
鎧の継ぎ目の奥へ刃が入っている。正面から鎧を抜いたわけではない。動きの中で隙間を取ったのだろう。血の広がり方を見るに、叫ぶ間もあまりなかったはずだ。
ふーん。
ちゃんと鎧の隙間を刺してるな。
次の死体を見る。
喉ではない。
こちらも腹だ。
喉を狙えば声は止めやすいが、相手も反射的に顎を引いたり、手で押さえたりするかもしれない。腹の隙間に深く入れれば、身体が折れる。呼吸も崩れる。声を出すより先に力が抜けるのかもしれない。
こっちは後頭部か。
床に伏せた男の頭の後ろが潰れている。刃ではなく、柄か何かで打ったのだろうか。いや、セバスチャンなら手甲でもやりかねない。見ていないから断定はできないが、こういう雑で確実なやり方は、あのクソじじいっぽい。
静かに殺す。
それも技術だ。
俺はどちらかというと攻撃魔法でドッカーンとやる方が多い。派手で分かりやすいし、一気に片づく。だが、こういう場所ではそれだけでは足りない。音を立てず、魔力も抑え、刃や拳で確実に命を取る。そういうやり方も覚えないとな。
かなり物騒なことを考えている自覚はある。
だが、必要なものは必要だ。
騎士の一人が近づいた。
「獣が寄ってくるかもしれませんし、焼いて灰にしますか?」
ふむ。
「よし、俺に任せろ」
俺は立ち上がった。
関所の中に残っている者がいないことを確認する。セバスチャンたちもすぐに外へ出た。荷や使えるものを漁るつもりはない。そんな時間をかける場所ではない。
俺は関所の外へ出て、少し距離を取った。
手を上げる。
魔力を流す。
攻撃魔法が関所へ叩き込まれた。
夜明け前の闇が、一瞬白く裂ける。次いで赤い炎と衝撃が広がり、木と土で作られた門や小屋がまとめて吹き飛んだ。屋根が跳ね、柱が折れ、火が死体ごと中を呑み込む。乾いていた部分はすぐに燃え、湿った土は黒く弾けた。
煙が立つ。
鳥がどこかで騒いだ。
朝の静けさは完全に壊れた。
セバスチャンが、じっと俺を見ている。
「静かにやった意味がねえじゃねえですか」
「あちこちバラけられると面倒だ。城に集まってる方がやりやすいだろ」
「それなら先に言ってくだせえよ」
「今考えついたからな」
俺が平然と答えると、セバスチャンは呆れたように鼻を鳴らした。
「まっ、それもありですな」
関所の火は、しばらく燃え続けるだろう。
これで異変は伝わる。街道沿いに住む者が煙を見れば、本拠地へ走るかもしれない。だが、それでいい。散らばって小さな抵抗をされるより、城に集まってくれた方が楽だ。逃げ道も、守る場所も、考えることも減る。
俺たちは馬へ戻り、そのまま街道を駆けた。
夜明けが近い。
空の灰色が濃くなり、遠くの畑や林の輪郭が浮かび上がってくる。関所の煙は背後へ流れ、街道の先には低い丘が見えた。馬の脚を緩めず進むと、やがて前方に城壁が現れた。
小規模だが、城塞都市だった。
本城と城下がひとつの城塞に囲まれている。大都市ではない。壁もマバール城のような圧はない。だが、小領主の本拠地としては十分だろう。城門は硬く閉ざされ、門の上には人影が見える。街の中は静まり返っていた。煙か音か、あるいは関所から逃げた誰かか。何かしらで異変に気づいたらしい。
「一応、警戒はしてますな」
セバスチャンが言った。
「予定通りだな」
俺は笑った。
ここで寝ぼけたまま門を開けてくれていれば、それはそれで楽だった。だが、閉じているなら閉じているで構わない。城に入っている者をまとめて処理すればいい。領内で散らばってちょこちょこ抵抗されるよりずっといい。
騎士の一人が近づいた。
「魔力は抑えますか?」
「不用だ」
俺は首を振った。
「今回は城攻めだからな。派手にいこう」
口に出すと、腹が決まった。
隠れて近づく段階は終わった。ここからは見せる戦いだ。マバール家が来たと示す戦い。王国から離れたマバール家が、最初にどのように動くのかを周囲へ刻む戦いになる。
ならば、魔力を隠す必要はない。
むしろ隠してはいけない。
セバスチャンが笑う。
「そういえば、若様がマバール家の軍旗の元で戦うのは、これが初めてでしたな」
「そういえばそうだな」
俺は苦笑した。
今までの仕事は、妙に裏側ばかりだった。帝国では赤布を巻いて山賊に扮し、上品な山賊として動いた。亡命貴族を狙い、夜道を駆け、正体をぼかして敵を処理した。マバール家のためではあったが、軍旗を掲げて正面から戦うものではなかった。
今回は違う。
俺はマバール家の三男としてここにいる。
父上の命を受け、セバスチャンたち直属騎士団とマバール騎士たちを連れ、新たな国境へ向かっている。秘密ではない。隠れる必要もない。むしろ見せなければならない。
マバール家が王国の敵になった事を。
俺は城門を見たまま言った。
「魔力持ちは殺せ。だが、平民兵や住民は抵抗の無い限り殺すな」
「お優しいですな」
セバスチャンが笑う。
「いや、どうせなら噂を広めてもらおうと思ってな」
城を落とした後、全員を殺せば静かにはなる。
だが、その静けさは次の城に届かない。生き残った平民兵や住民がいれば、何が起きたかを話す。マバール家が来た。魔力持ちは殺された。だが、抵抗しなかった者は生き残った。そう広まれば、次の領地で門が開くかもしれない。
無駄に殺すより、その方が楽だ。
被害も減る。
仕事も減る。
「悪辣ですなぁ」
セバスチャンは感心したように言った。
「そっちの方が被害は減るだろ。俺は平和主義者だからな」
俺は胸を張った。
「相手にも聞いてみたいもんですな」
「その必要はないな。俺は俺が平和主義者だと知ってるからな」
セバスチャンが笑った。
周囲の騎士たちも、少しだけ表情を緩める。だが、手は止まらない。騎士たちは素早く隊列を整え始めた。馬を詰めすぎず、かといって離れすぎず、城門へ向けて圧を作る。城攻めと言っても、長く囲むつもりはない。突っ込み、門を壊し、魔力持ちを潰す。
マバール家の軍旗が掲げられた。
風を受けて布が鳴る。
その音を聞いた瞬間、背筋が少し伸びた。
山賊の赤布とは違う。
マバール家の旗だ。
俺は前へ出た。
「先頭には俺が立つぞ」
「壊すなら城門だけでお願いしやすよ」
セバスチャンがすぐに釘を刺した。
「それぐらい分かっている」
「カッとして城壁を崩すとか、面白くなって城を焼くとかは無しですぜ」
「大丈夫だ」
少しむくれて答える。
信用がない。
いや、迷宮を壊した実績があるので、あまり強く文句を言えないのがつらい。城壁を崩せば後で面倒だ。城下まで焼けば住民が死ぬ。平民を生かして噂を広めるという方針とも矛盾する。だから今回は、城門だけ。分かっている。
本当に分かっている。
城壁の上の人影が慌ただしく動いている。
こちらの軍旗に気づいたのだろう。弓を構える平民兵らしき姿もある。魔力持ちの反応も少数だが感じる。感知魔法へ引っかかる魔力が、門の上と本城の方に分かれている。数は多くない。小領主の本拠地なら、そんなものか。
俺は手を上げた。
騎士たちの空気が一段変わる。
抑えていた魔力が、まだ身体の内側で待っている。馬もそれを感じているのか、前脚で土を掻いた。朝の光が城壁の上へ薄く差し、閉ざされた門の金具が鈍く光った。
俺は息を吸った。
マバール家の軍旗が視界の端で揺れている。
初めてだ。
俺がこの旗の下で、正面から戦うのは。
「魔力解放! 進め!」
号令と同時に、俺は魔力を解いた。
身体の内側から熱が広がる。肉体強化魔法が四肢を満たし、防御魔法が薄く身体を覆う。背後でも、騎士たちの魔力が一斉に膨らんだ。抑え込まれていた気配が、朝の空気を押し広げる。
城壁の上が騒がしくなる。
叫び声が聞こえた。
だが、もう遅い。
俺は馬の腹を蹴った。
蹄が土を蹴り、風が顔にぶつかる。城門が真正面に迫る。背後から、マバール家の騎士たちが続く音が重なった。
新たな国境へ向かう最初の城攻めが、始まった。




