第百六話 新たな国境へ
馬の蹄が、乾いた街道を叩いていた。
朝の冷えはまだ土の上に残っている。草の葉先には薄い露が光り、馬が鼻を鳴らすたびに白い息が短く散った。背後にはマバール城がある。だが、もう城壁は見えない。見慣れた石の塊は丘と林の向こうへ沈み、代わりに前方へ広がるのは、まだマバール領内でありながら、これから別の意味を持つことになる道だった。
新たな国境へ向かえ。
父上はそう命じた。
王国を離脱し、帝国へ編入する。言葉だけなら会議室で聞いた。だが、馬上で風を受けながら進んでいると、その意味が少しずつ身体に入ってくる。今まで王国の内側だった場所が、これからは外へ向かう境になる。守る向きも、警戒する相手も変わる。地図の線は紙の上のものだが、そこへ向かう馬の蹄音は妙に現実味があった。
俺たちは総勢おおよそ百名で進んでいた。
直属騎士団だけではない。マバール家の騎士たちも加わっている。セバスチャン、オルド、ジノ、クレイン、トールたちの姿もある。先頭にはセバスチャンと、領内の道に詳しい騎士たちがいた。その少し後ろに俺たちが続く形だ。
本当は俺が先頭で駆けたかった。
せっかく父上から新たな国境へ向かえと命じられたのだ。先頭で風を切って走るくらいしてもいいと思う。絵になるかどうかはともかく、気分はいいはずだ。だが、出発前にセバスチャンが実に嫌な顔で言った。
「道を間違えられては困りますからな」
あいつめ。
俺だってまったく道が分からないわけではない。地図は見ているし、マバール領の主要な道くらい頭に入れている。だが、領内の細い道や、馬を走らせやすい抜け道、荷車が詰まりやすい場所まではさすがに知らない。そういう部分では、領内を何度も動いた騎士たちの方が確実だ。
だから文句を言えない。
言えないのが腹立たしい。
前方のセバスチャンは、こちらの気配を読んだように肩を揺らした。振り返ってはいない。だが、笑っている気がする。後で覚えておけよ、と心の中で呟き、俺は手綱を握り直した。
それにしても。
百名ほどの騎士が馬で進むと、なかなかの迫力がある。
ただし、前世で想像する中世の戦争とはかなり違う。
そもそもこの世界には最初から魔法がある。だから、密集して槍を並べたり、横一列に戦列を作って押し合ったりするような戦いはほとんど発達しなかった。例外はあるのだろうが、基本は散兵戦術だ。密集すれば、攻撃魔法の良い的になる。まとめて焼かれ、吹き飛ばされ、穴を開けられる。そんなものが当たり前に存在する世界で、人間がぎゅうぎゅうに固まって前進するのは自殺に近い。
魔力を持たない平民がまったく無力というわけではない。
弓も槍も、罠も、荷運びも、陣地作りも必要だ。見張りも伝令も、占領地の維持も、平民なしでは回らない。魔力持ちは強い。強いが数が少ない。敵を殲滅することはできても、広い土地を押さえ続けることはできない。結局、土地を管理し、道を守り、砦に詰め、荷を運ぶのは数の力だ。
だから平民兵は必要不可欠だ。
ただ、主戦力はやはり魔力持ちになる。
魔力持ちの多くは五大魔法を習得している。攻撃魔法、防御魔法、肉体強化魔法、治癒魔法、感知魔法。それぞれが使えるだけなら当然だが、得手不得手はかなり出る。攻撃魔法が得意な者。防御魔法が得意な者。感知魔法が得意な者。肉体強化魔法が得意な者。治癒魔法が得意な者。
個々の素質もあるのだろう。
騎士家ごとに、どの魔法が得意かという傾向もある。攻撃魔法に強い家、防御魔法で名を上げた家、感知魔法に優れる家。血統と訓練の積み重ねは無視できない。だが、それだけではない気がしている。
性格もある。
攻撃魔法が得意な騎士は、やはり前に出る癖がある。防御魔法が得意な者は我慢強い。感知魔法に優れた者は、普段から周りをよく見ている。肉体強化魔法が得意な者は、身体を動かすことへの抵抗が薄い。もちろん勝手な印象だし、全員がそうだとは言わない。だが、見ているとなんとなく似てくるものがある。
武器や防具も無意味ではない。
魔法があるなら剣も鎧もいらない、というわけにはいかない。攻撃魔法を使いながら防御魔法を張り、肉体強化魔法で走り、さらに感知魔法で周囲を見る。そんなことを高い精度で同時にできる者は、ごく一部だ。
右手でボールを投げながら、左手でドリブルして、その上でサッカーをするようなものだ。
いや、例えが合っているかは分からない。だが感覚としては近い。別々の動きを同時に維持し、それぞれへ意識を割く。できなくはないが、難しい。しかも魔法を併用すれば、魔力の消費も激しい。たいていの騎士は二つくらいを主軸にして、他は補助的に使う。
肉体強化魔法を使えば、武器で防御魔法を貫くことも不可能ではない。防具を着ていれば、防御魔法の消耗を抑えられる場面もある。矢を防御魔法だけで全部受けるより、盾や鎧で受け流せるならその方が長く戦える。魔法は万能ではないし、案外、装備は大切なのだ。
セバスチャンの訓練で走らされた時も、それを嫌というほど分からされた。
魔力に頼りすぎれば、魔力を抑えた瞬間に弱くなる。感知魔法に引っかかる魔力を垂れ流せば、位置が露見する。鎧を着て走れなければ、戦場では死ぬ。あのクソじじいの言うことは腹立たしいが、正しいことも多いのだ。
夕方が近づく頃、俺たちは野営に入った。
まだマバール領内だ。
マバール領は広い。城を出てすぐ新たな国境、というわけではない。街道脇の開けた場所を選び、騎士たちが手早く動き始める。馬を繋ぎ、荷を下ろし、見張りの位置を決める。薪を集める者もいれば、水を確認する者もいる。百名規模でも、鍛えられた騎士たちの動きには無駄が少ない。
夜気が降り始めると、野営地の火がひとつ、またひとつと灯った。
干し肉を炙る匂いと、馬の汗と土の匂いが混ざる。鎧を外した者たちが軽く肩を回し、若い騎士たちはまだ興奮を残した顔で小声を交わしていた。王国離脱の宣言から一日も経っていないのだから当然だろう。むしろ、城下が思ったより落ち着いていたことの方が少し不思議だった。
「いきなり帝国に鞍替えした割に、城下は落ち着いていたな」
火のそばで腰を下ろしながら言うと、セバスチャンが鼻を鳴らした。
「まあ、平民は基本的に土地を移るなんて出来やせんからな」
オルドが頷く。
「領主が変わるならともかく、マバール領はマバール領ですから」
ジノも火に細い枝をくべながら言った。
「農村などはもっと落ち着いているんじゃないでしょうか。土地は動かせませんから」
「新たな税を課される訳でもありませんしね」
トールが言うと、何人かの騎士が小さく笑った。
なるほど。
平民からすれば、国が変わるという言葉は大きいが、明日の畑が消えるわけではない。家が移るわけでも、領主が別人になるわけでもない。マバール家がマバール領を治める。その形が変わらないなら、城下や農村は思ったより気にしないのかもしれない。
「クレイン、お前の姉夫婦はどうだ?」
俺が尋ねると、クレインは少し苦笑した。
「はあ。むしろ喜んでいましたよ。新たな商機が増えると」
「たくましいな」
思わず笑った。
クレインの姉夫婦は商売に絡む家だ。王国から帝国へ移るとなれば、販路も人の流れも変わる。普通なら不安が先に来そうなものだが、それを商機と見るあたり、やはり商人は強い。
「だが、それなら豪商などはどうだ? これまでと販路や取引先が変わるかもしれんぞ」
「しばらくは様子見でしょう。商会は大きくなればなるほど、簡単に移動なんて出来ませんし」
クレインの返答は落ち着いていた。
「店も倉も人もあります。取引先も一つではありません。王都との繋がりが強い商会ほど慌てるでしょうが、だからといってすぐ逃げられるものでもありません」
「豪商ほど動けんか」
「はい。動くなら、むしろ身軽な小商いの方が早いかと」
分かりやすい。
大きくなればなるほど、足元に根が張る。金があっても、簡単には動けない。領地を持つ貴族にも似ているかもしれない。土地、倉、道、人。そういうものを抱え込むと、逃げることそのものが難しくなる。
「なに、勝てばいいんですよ、勝てば」
セバスチャンが笑った。
「お前は単純でいいな」
「若様には言われたくありませんな」
「俺は繊細だぞ」
「どのあたりが?」
「全部だ」
セバスチャンが笑い、周囲の騎士たちも控えめに笑った。
そういう軽口の後で、俺は地図を思い浮かべる。今の俺たちはまだマバール領内だ。だが、このまま進めば、これまで王国の内側だった中小の国内貴族たちの領地がある。その先にシルビア河。
「シルビア河までは進みたいな」
火の音が少し大きく聞こえた。
シルビア河は、大河とまでは言えない。だが、それなりに大きな河だ。マバール領から中小の国内貴族を呑み込み、シルビア河まで支配すれば、エルディア王国軍が来てもかなり有利に戦える。河を防衛線にできる。渡河地点を押さえれば、敵の動きも絞れる。
今後、通過するたびに小貴族たちへ許可を取ったり、邪魔されたり、背後を気にしたりするのもちょっとな。
騎士の一人が尋ねた。
「降伏する騎士や貴族はどうします?」
「ひとまずは助命だ。貴族は魔力封印を施してからマバール城に向かわせる。後は父上の判断次第だな」
俺が答えると、何人かが頷いた。
土地を取るなら、土地を管理する人間がいる。貴族を全員殺せば簡単なように見えるが、その後が面倒だ。領民を誰が見るのか。税を誰が集めるのか。水路や倉や道の維持を誰が指示するのか。マバール家が全て抱え込むには限界がある。
「おや、皆殺しにしないんですかい?」
セバスチャンが笑って聞いた。
「あのな、騎士や貴族たちを皆殺しにして、誰が土地や領民を管理するんだよ。俺は嫌だぞ。めんどくさい」
一同が苦笑する。
俺は本気だ。
土地が増えれば仕事が増える。仕事が増えれば書類も増える。書類が増えれば、俺の平和な時間が削られる。レティシアやダリアと過ごす時間も減る。そんなものは困る。使える人間は使うべきだ。
セバスチャンがもう一度口を開いた。
「では、抵抗した騎士や貴族は?」
笑っていた。
だが、先ほどとは笑い方が違った。
周囲の空気も少し変わる。まだ俺に慣れていないマバール騎士たちもいる。直属騎士たちはともかく、今回加わった者たちの中には、俺を噂でしか知らない者もいるだろう。ギルバート様は強い。魔力が桁外れに多い。魔法の使い方が巧みだ。そういう断片だけでは、判断を任せる相手としてはまだ遠い。
セバスチャンは、それを分かって聞いている。
俺は火を見た。
小枝の先が赤く崩れ、黒い灰が落ちる。
「もちろん、皆殺しだ」
俺は答えた。
声は自然に低くなった。
「抵抗した者たちを背後に置くつもりはない。一人残らず殺せ」
場が静かになった。
火の爆ぜる音が、妙にはっきり聞こえた。
何人かの騎士が俺を見る。若い騎士の一人は息を止めたようだった。オルドやジノは表情を変えない。クレインは目を細め、トールは周囲の反応を見ている。セバスチャンだけは、満足げに頷いた。
降伏する者は使う。
抵抗する者は殺す。
当たり前だ。
新たな国境へ向かう途中で、背後に敵を残すつもりはない。善良王へ忠誠を誓うのは勝手だが、それを武器にして俺たちの邪魔をするなら殺す。降伏したふりをして後で動く可能性があるなら、魔力封印してマバール城へ送る。父上が判断するだろう。
俺は少しだけ口元を緩めた。
「まあ、善良王に命懸けで忠誠を誓う貴族がいるかは知らんがな」
空気が少し緩んだ。
騎士たちが小さく息を吐く。
「そうですね」
「国内貴族たちも、王都貴族には恨みがあるでしょうしね」
「案外、ガルシア様に従いたがるかもしれませんね」
「マバール家とシルビア河に挟まれては逃げ場も無いしな」
声が戻ってくる。
それでいい。
怖がらせるだけでは足りない。軽く見られても困る。俺はお気楽な三男坊でいたいが、背後から刺される三男坊になるつもりはない。必要な時に殺せないと思われれば、余計な血が増える。最初に線を引いておく方がいい。
「よし。では、そろそろ休め。見張りは二交代だ。確認しとけよ」
「はっ」
一同が答えた。
騎士たちはそれぞれ動き始める。馬の様子を見る者、荷を確認する者、見張りの順番を話し合う者。火の周りから人が少しずつ散っていく。野営地の空気が、夜の形へ落ち着いていった。
「セバス」
「はい」
俺はセバスチャンを呼び、火から少し離れた。
皆の声が届きにくいところまで歩く。足元の草が夜露を含み始めていた。空には星が見え、遠くで馬が鼻を鳴らす。セバスチャンは俺の少し後ろを、いつもの調子でついてきた。
俺は足を止めた。
「すまんな。助かった」
セバスチャンは肩をすくめた。
「何のことで?」
「とぼけるな。抵抗した者たちの処遇をわざと聞いただろ」
あれは確認ではない。
場を作ったのだ。
俺が降伏者と抵抗者の扱いをはっきり言うための場。まだ俺に慣れていない騎士たちへ、俺が甘いだけではないと示すための問い。セバスチャンは、わざとあんな聞き方をした。
「まだ、若様に慣れておらん者も多いですからな」
「城から出る時にも言ったんだがなぁ」
「仕方ありやせんよ。繰り返すしか」
「まっ、それもそうだな」
俺は苦笑した。
人は一度言えば分かるわけではない。特に、戦場ではなおさらだ。俺がどう判断するか。どこで笑い、どこで殺すか。それを少しずつ見せるしかない。
セバスチャンは夜の先へ目を向けた。
「しかし、抵抗する貴族はいますかな?」
「いるだろう。いないならいないで助かるが」
「若様の顔は、助かると言っておりませんな」
「そうか?」
「ええ」
セバスチャンは少しだけ笑った。
俺はシルビア河の方向を見た。ここからではもちろん見えない。だが、地図の上では確かにそこにある。シルビア河までマバール領を繋げる。そうすれば今後の移動も、防衛も、ずっと楽になる。
「出来ればシルビア河まではマバール領を繋げたいな」
「そりゃそうですがね」
「今後、通過する際にごちゃごちゃするのはごめんだ」
「それは実に若様らしい理由で」
「大事なことだろ」
俺は笑った。
そして、少しだけ声を低くした。
「邪魔な貴族家にはぜひ抵抗してもらいたいものだ」
セバスチャンがこちらを見た。
いつもなら楽しそうに笑うところだ。こいつなら、若様らしいですな、とか何とか言うと思った。だが、今のセバスチャンは一瞬だけ目を細めた。
少し引いている。
珍しい。
「何だよ」
「いえ」
「お前が引くな」
「若様も、なかなかですな」
「俺は平和主義者だぞ」
「その言葉の意味を、一度じっくり考えた方がよろしいかと」
「失礼な奴だな」
セバスチャンは小さく笑った。
俺も笑った。
夜の風が草を揺らし、遠くの見張りが短く声を交わす。マバール家の騎士たちは眠りに入り、交代の者たちは火のそばで槍を抱えている。まだマバール領内だ。だが、明日にはさらに新たな国境へ近づく。
降る者は助ける。
逆らう者は殺す。
シルビア河までは、できれば繋げる。
父上ならどう言うだろうか。
たぶん、好きにしろ、と言う気がする。いや、潰してかまわん、と既に言われている。ならば問題ない。
俺は夜の先を見ながら、手袋の指を軽く握った。
新たな国境。
そこへ向かう道は、まだ暗い。
だが、進む方向だけはもう決まっていた。




