第百五話 悪い大人たち
広間の熱が、扉の向こうへ去っていく。
マバール家万歳、ガルシア様万歳。その声は会議室へ向かう廊下へ出ても、まだ石壁の奥から響いているような気がした。騎士たちは前のめりに散っていき、使用人たちも祝宴の後始末ではなく、いくさの前の城を動かす顔になっていた。
婚約のお披露目会だったはずだ。
アル兄さんとシルリオーラ姉さんの、美男美女で絵になる婚約発表だったはずだ。
それが気づけば、王国離脱と帝国編入の宣言になり、広間中の騎士が拳を掲げ、いくさの準備を始めよ、などと老武官が吠えていた。俺はその流れに飲まれたまま、父上たちに続いて会議室へ入った。
会議室の空気は、広間とは違っていた。
こちらは熱ではなく、重さがある。壁際の灯火は明るいが、宴の光とは違う。机の上には余計な装飾はなく、座る者の位置だけで話の重さが決まる場所だった。父上が上座へ進み、ザイン殿がその近くに座る。アル兄さんは少し横、シルリオーラ姉さんはここにはいない。さすがにこの会議には入らないらしい。バカルカはザイン殿の後ろへ控え、セバスチャンは俺の後ろに立った。
老文官、老武官、文官、武官たちが席へ着く。
俺も座った。
座ったが、納得したわけではない。
王国離脱。帝国編入。ダル兄さんの不在。アル兄さんの言葉。さっきの広間の騎士たちの拳。いろいろなものが頭の中で動いている。動いてはいるが、最初に出てくる感情はもっと単純だった。
「父上」
「うむ」
「俺は何も聞いていません」
言った瞬間、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
いや、緩んだというより、俺の不満があまりにも分かりやすかったのかもしれない。老文官が目元を細め、老武官が口の端をわずかに動かした。セバスチャンは後ろで笑っている気配がある。笑うな。
父上は俺を見た。
そして、にやりと笑った。
俺は少し驚いた。
ガルシア・マバールは、いつも重い。城の中でも会議室でも、父上がそこにいるだけで空気が変わる。落ち着いた、重厚な、辺境伯家当主そのもののような男だ。もちろん表情がまったく動かないわけではないが、感情を大きく見せる人ではなかった。
だが、今の父上は違う。
重さは変わらない。むしろ重い。だが、その奥が妙に生き生きしている。静かな炎が胸の内で燃えているような顔だった。王国を離脱し、帝国へ編入すると宣言した直後の男が、まるで若返ったように見える。
「そう怒るな。これは秘中の秘だったのだ」
「秘中の秘にしても、俺だけ知らないのはちょっと」
「そうですぞ、ギルバート様」
老文官が静かに口を挟んだ。
「ギルバート様が知らぬ事が大事だったのです」
「俺がか?」
「はい。ギルバート様まで会議などで普段と変われば、気付かれたかもしれませんからな」
文官の一人も頷いた。
「外から見れば、ギルバート様は動きが読みにくいお方です。知らぬまま普段通りにお過ごしいただく方が、余計な警戒を招きません」
「それ、褒めてるか?」
「もちろんでございます」
絶対に半分くらいは違う。
セバスチャンが後ろで喉を鳴らした。俺は振り返らずに視線だけで睨む。気配だけでも分かる。こいつは今、面白がっている。
アル兄さんが柔らかく微笑んだ。
「すまなかったね、ギル」
「アル兄さんも知っていたんですよね」
「僕は城に戻ってから知ったんだよ」
そう言われると、強く言いにくい。
アル兄さんは迷宮管理の拠点から戻ってきた。その帰還直後、父上の会議室へ入り、そこで説明を受けたのだろう。俺が追い出された、あの会議だ。つまりアル兄さんは俺の部屋に来た時には、すでに知っていた。
だから、あんなことを言ったのか。
どんな無茶をしても、僕たちも父上もギルの味方だよ。
だから、ギルもマバール家のことを考えるんだよ。
あの時は、久しぶりに会った兄からの少し重い忠告くらいに受け取っていた。今なら分かる。あれは、もっと大きな話だった。アル兄さんは全部知った上で、俺へ遠回しに釘を刺していたのだ。
むう。
内心では、まだ少し面白くない。
だが、非常事態なのも分かる。王国離脱と帝国編入だ。そこらの迷宮を壊したとか、帝国で山賊もどきをしたとかいう話とは、規模が違う。これを事前に俺へ話せなかった理由も、完全に納得できるかは別として、理解はできた。
「分かりました」
俺がそう言うと、父上は満足げに頷いた。
いや、完全に納得したわけではありませんからね。
そう言いたかったが、今は次を聞く方が大事だ。
「しかし、ダル兄さんは知っているのですか?」
父上の目が、さらにわずかに鋭くなった。
「うむ。ダルメシアンなら、すでに帝都へ向けて旅立っておる」
「帝都?」
思わず声が出た。
ダル兄さんは国境警備で来られないのだと思っていた。万が一、帝国がこの機を狙って進軍してきたらまずいから、国境から動かせないのだと。俺は広間でそう考えていたし、それで納得していた。
だが違った。
ダル兄さんは国境どころか、帝都へ向かっている。
次期マバール家当主であるダル兄さんが。
「すでにアバルディア家には連絡済みです」
文官が書類を前に置いたまま言う。
「新皇帝の戴冠式には間に合うでしょう」
「さすがに新たな帝家にはなれませんでしたが、公爵の地位は用意されましたからな」
「メガレア家が弱体化していた事も幸いでしたな」
上層部たちの言葉が次々に続く。
俺は黙って聞くしかなかった。
今日いきなり発表したのではない。
すでに動いていた。
アバルディア家へ連絡し、帝国新皇帝の戴冠式へダル兄さんを間に合わせる。帝国側の爵位まで話が進んでいる。メガレア家の弱体化も計算に入っている。俺が広間でぽかんとしている間どころか、それよりずっと前から、この話は形になっていた。
父上がにやりと笑うわけだ。
これは、もう決定ではなく実行だ。
「アルディス」
「はい」
父上の声に、アル兄さんが姿勢を正した。
「迷宮の管理は一時部下に預け、城にて待機せよ」
「はっ」
アル兄さんの返答は短かった。
普段の柔らかい兄ではなく、マバール家の次男としての声だった。迷宮管理は重い仕事だ。それを一時部下に預けてまで城へ置くということは、これからアル兄さんも動く可能性があるのだろう。
ザイン殿が口を開いた。
「国境貴族は全てこちらにつく」
その声は重かった。
エディオン家当主としての言葉だ。軽い見込みではない。国境貴族たちの取りまとめは、彼が担ったのだろう。父上が短く頷く。
「取り纏めに感謝する」
「なに。このまま善良王と王都貴族どもにはついていけなかっただけよ。マバール家の決断があればこそであろう」
ザイン殿はそう言って、父上へ頭を下げた。
善良王。
王都貴族ども。
その言い方には、長く溜まったものがにじんでいた。国境貴族にとって、王都は遠い。安全な場所で綺麗事を言う者たちに、国境の現実を任せていられない。ザイン殿の言葉からは、そういう苛立ちが見える気がした。
老文官が指先で机を軽く叩いた。
「王都に報せが届くには、おおよそ十日ですかな」
「さて、それから善良王に軍を集められますかな?」
老武官が低く笑う。
文官が静かに続けた。
「北方諸国もありますからな」
「こうなると、カルデア・トラギスの生存も別の意味が生まれますな」
武官の言葉に、俺は少し眉を上げた。
カルデア・トラギス。
北方諸国の英雄。歴史の中の人物だと思っていた老婆。二百歳近いはずなのに、まだ生きている。王国北方での戦争で、数で劣る北方諸国をまとめ上げ、王国軍を押しとどめ、停戦へ持ち込んだ女当主。
ドレス姿で突撃したとかいう、普通に怖い老婆だ。
「正式に和平を結んだばかりですが?」
文官の一人が言った。
父上は鼻で笑うように、少しだけ口元を動かした。
「あの老婆は焦っておった。自分の命が尽きる前に、せめて正式な和平だけでも結びたかったのだろう」
会議室の空気が少し冷えた。
父上の言葉は、カルデアへの侮りではない。むしろ、相手の本質を見ている言い方だった。二百歳近い貴族。長命とはいえ、いつ死んでもおかしくない。自分が生きている間に何を残すか。そう考える年齢なのだろう。
ザイン殿が目を細める。
「我らが動いた。ならば……」
父上がにやりと笑った。
「和平だけで満足出来るかな?」
老文官が首を振る。
「和平だけでは」
老武官が低く言った。
「一息で破り捨てるかもしれませんな」
「焦っておるからな」
父上の声が楽しそうに聞こえた。
楽しそう。
そう、楽しそうなのだ。
戦や政変を前にして、父上は若返っているように見える。重厚な当主のまま、目の奥だけがやけに生きている。俺が知っている父上はいつも重かったが、今はその重さに熱がある。
ザイン殿も笑った。
「自分の命が尽きる前に攻めたくなるでしょうな」
二人の視線が合う。
悪い大人たちだなぁ。
俺は本気でそう思った。
王国から離脱し、帝国へ編入し、王都が混乱する。それを見た北方諸国の老婆なら、焦って停戦を破るかもしれない。そこまで織り込んで笑っている。
これに比べたら、俺はやはり平和主義者だな。
俺はせいぜい帝国で山賊もどきをして、いくつか屋敷を焼いて、迷宮を一つ壊したくらいだ。規模が違う。大人たちは悪い。とても悪い。
文官が少し身を乗り出した。
「善良王や王都貴族どもは、それを理解しているのでしょうか?」
武官が口の端を上げる。
「理解していない方が良いな」
「うむ。和平を信じて軍をこちらに向ければ」
老武官が言うと、老文官が静かに続けた。
「背後を襲われましょうな」
「一度背後を襲われれば」
別の武官が指を折るように呟く。
「王都に篭りますかな?」
文官が低く言った。
「カルデア・トラギスが動かない可能性もあります」
「それならそれでかまわん」
老武官は即座に返す。
「我らとのいくさで弱ったところを狙いますか」
老文官の声に、父上が頷いた。
「焦っておるからな。そこまで待てるかな?」
ザイン殿が息を吐くように笑った。
「あの歳ですからな。一年は待てましょう。ですが十年は……」
また父上とザイン殿が視線を合わせる。
この二人、仲が良いのではないか。
いや、仲が良いというより、同じ種類の現実を見ているのだろう。善良王や王都貴族の綺麗事とは違う。国境で領地を守る者たちの、冷たい計算だ。
俺は耐えきれずに口を開いた。
「カルデア・トラギスの生存が、そこまで影響したのですか?」
父上が俺を見る。
その目は少しだけ穏やかだった。問いを歓迎しているようにも見える。
「善良王、王都貴族ども、カルデア・トラギス。二つなら動くのは難しかったな」
短い答えだった。
だが、意味は分かる。
王都が賢ければ、北方諸国の動きに備える。王都貴族が現実を見ていれば、こちらへ軍を集中できない。カルデアがすでに死んでいれば、北方諸国はここまでまとまらないかもしれない。
だが、善良王と王都貴族どもが現実を見ず、カルデア・トラギスがまだ生きている。
二つなら難しい。
三つ揃えば、動ける。
「なるほど」
俺は頷いた。
すると父上がわずかに微笑んだ。
その笑みが、何となく嬉しそうに見えて、少しむず痒い。俺が理解したことを評価しているのかもしれない。父上にそう見られるのは嫌ではなかった。
父上は机の上へ視線を落とし、すぐに俺へ戻した。
「ギルバート」
「はい」
「お主は新たな国境に向かえ」
空気が変わった。
俺個人への命令だ。
「小貴族たちだ。王都の軍が来ねば動かんだろうが、念のためだ」
新たな国境。
王国を離脱し、帝国へ編入する以上、これまでの国境は変わる。マバール家が守ってきた帝国との国境ではなく、今度は王国との境が新たな国境になる。そこにいる小貴族たちが、どう動くか分からない。
俺は父上を見る。
「動いた貴族は?」
「潰してかまわん」
あっさりだった。
本当にあっさり言った。
俺が少し言葉に詰まるくらい、自然に言った。やはり父上は父上だ。王国離脱を宣言した直後に、新たな国境で動いた小貴族は潰せ、と息をするように言う。
この家の三男である俺が言うのも何だが、怖い。
「承知しました」
俺は頭を下げた。
嫌だとは思わない。
むしろ、俺に役目があることに少し安心している。知らされていなかった不満は残るが、必要な時には使われる。父上は俺を信用していないわけではない。予測不能だから黙っていただけで、役に立つと思っているからこそ命じている。
危ないが、信頼されている。
ん?なんだその立場。
セバスチャンが後ろで楽しそうにしている気配がした。
絶対に笑っている。
ザイン殿が立ち上がった。
「では、我らもそろそろ」
父上も立ち上がる。
「うむ。何かあればアルディスを向かわせる」
アル兄さんが静かに頷いた。
ザイン殿はそのアル兄さんへ向き直り、深く頭を下げた。
「娘の事、くれぐれもよろしくお願い致します」
そこだけは、エディオン家当主ではなく父の声に聞こえた。
シルリオーラ姉さんはこの会議室にはいない。だが、さっきの少し硬い笑みを思い出す。王国離脱と帝国編入の発表を控えた中で、婚約者として広間に立っていたのだ。嬉しさだけではなかったのも当然だろう。
アル兄さんは柔らかく微笑んだ。
「お任せください」
その声に迷いはなかった。
迷宮管理の拠点から戻ってきた兄は、婚約者を得て、城に残り、マバール家の大きな決断を支える。俺が知らない間に、兄たちも父上も動いていた。ダル兄さんは帝都へ向かい、アル兄さんは城に立ち、俺は新たな国境へ向かう。
会議室の灯火が、机の上を赤く照らしていた。
広間ではまだ、マバール家万歳の余熱が残っているかもしれない。
だが、ここではもう次の動きが決まっていた。
俺は父上の横顔を見た。
重い。
だが、その眼は生き生きとしている。
ガルシア・マバールは、王国を離れ、帝国へ入ると決めた。それだけでは終わらない。王都も北方諸国も、国境の小貴族も、すべて盤面に乗せている。
悪い大人たちだ。
本当に悪い。
けれど。
俺はその悪い大人たちの側にいる。
それだけは、はっきりしていた。




