第百四話 マバール家万歳
広間の熱は、まだ婚約の祝福に包まれていた。
灯火は高い壁に揺れ、磨かれた床には人影と光が重なっている。長卓に並んだ料理からは肉と香草の匂いが漂い、酒杯を手にした騎士たちの声が低く混じっていた。さっきまで張り詰めていた礼の空気は少しだけ緩み、名門騎士家の当主たちも、互いに祝いの言葉を交わしている。
アル兄さんとシルリオーラ姉さんは、やはり絵になる二人だった。
さっきまで上座の近くで並んでいた姿が、まだ目に残っている。アル兄さんはいつもの柔らかい笑みを崩さず、シルリオーラ姉さんはお姫さまみたいな雰囲気をまとったまま、挨拶を受けていた。美男美女カップル、というやつだろう。前世なら、周囲が写真を撮りまくる場面だ。
まあ、この世界に写真はないけど。
そのかわり、こういう場面は人の記憶に残る。
俺は少し離れた場所で杯を手にしながら、広間の様子を眺めていた。酒は口をつける程度にしている。今日は飲みすぎる場ではない。婚約のお披露目会ではあるが、エディオン家の当主ザイン殿がいる。父上もいる。名門騎士家の当主たちもいる。俺が気楽に酔っていい夜ではなかった。
後ろにはセバスチャンが控えている。
騎士としての正装をしているせいで、いまだに少し目が慣れない。似合っていないわけではない。むしろ、形だけ見ればちゃんと似合ってはいるんだが、やはり服がセバスチャンに負けている。上品な布と仕立てが、傷だらけの凶悪な顔の圧に押し込まれているように見えた。
「若様」
「なんだ」
「退屈そうですな」
「退屈ではない。大人しくしているだけだ」
「それは珍しい」
「お前は本当に一言余計だな」
小声で返すと、セバスチャンは喉の奥で笑った。
広間の反対側では、エディオン家の筆頭騎士バカルカと護衛騎士たちが、何人かの騎士と短く言葉を交わしていた。大きな男だ。正装していても肩幅と腕の太さは隠れない。だが、立ち方は整っている。セバスチャンと近い種類の強さを感じるが、表に出ているものはずっと整っている。
そのバカルカは、先ほど父上たちと共に会場を出た。
父上、ザイン殿、アル兄さん、シルリオーラ姉さん、老文官、老武官、上層部たち。そして護衛としてバカルカ。会場奥の扉から出ていった一行の背中を見た時、俺は少しだけ引っかかりを覚えた。
何かあったのか。
いや、婚約の細かな詰めでもあるのだろう。
そう思って流した。
流したはずだった。
だが、しばらくして扉の方が静かに動いた時、俺の意識は自然とそちらへ向いた。
出ていった一行が戻ってきた。
最初に父上が入る。
続いてザイン殿。
アル兄さん。
シルリオーラ姉さん。
老文官、老武官、上層部たち。
そしてバカルカ。
広間の空気が、少しだけ変わった。
はっきりと何かが見えたわけではない。誰かが声を上げたわけでもない。だが、先ほどまでの婚約祝いの柔らかい空気とは違うものが、扉の隙間から流れ込んできたように感じた。
父上はいつも通り重い。
ザイン殿も表情を崩していない。
アル兄さんは微笑んでいる。
だが、シルリオーラ姉さんの顔が、少し硬かった。
さっきまで嬉しそうに見えた笑みは消えていない。けれど、その奥に薄く力が入っている。緊張しているのだろうか。婚約発表が終わったばかりだ。疲れたのかもしれない。そう思おうとしたが、胸の奥の引っかかりは消えなかった。
「こりゃ何かありましたな」
セバスチャンが小声で言った。
「なんかって何だよ」
「さて」
「さてじゃない」
俺は小声で返しながら、改めて一行を見る。
まさか。
いきなり婚約破棄とかじゃないよな。
そんな馬鹿な、と思いながらも一瞬だけ不安になった。せっかく美男美女で絵になる二人なのに、裏で何か揉めたとなると、場が大変なことになる。アル兄さんは穏やかに微笑んでいるが、あの人は必要なら表情を崩さないだろう。シルリオーラ姉さんの硬さも、そのせいかもしれない。
だが、父上とザイン殿の間に険悪な空気は見えない。
バカルカも落ち着いている。
なら、違うのか。
広間の騎士たちも、戻ってきた父上たちに気づき始めた。低く続いていた歓談の声が、少しずつ細くなる。杯を置く音がする。名門騎士家の当主たちが姿勢を正し、その息子たちも親の様子を見て動きを止めた。使用人たちは壁際で頭を下げる準備をするように、静かに位置を整える。
広間が静かになっていく。
完全な礼の場ではないはずだった。
それでも、父上が戻っただけで空気が整う。ガルシア・マバールという男は、そこに立つだけで場を支配する。俺はそれを何度も見てきた。今夜も同じだ。いや、今夜はいつもより重いような?
老武官が進み出た。
その姿を見て、俺は眉を寄せた。
婚約の追加挨拶なら老文官だろう。老武官が前に出る意味は何だ。祝辞にしては、顔が硬すぎる。
老武官は広間の中央に立ち、胸を張った。
そして、大きな声で告げた。
「マバール家は国境貴族諸家と共に王国を離脱し、帝国へ編入する!」
広間が止まった。
音が消えた。
俺も固まった。
王国を離脱。
帝国へ編入。
言葉は聞こえた。聞こえたのに、意味がすぐには頭へ入ってこない。王国から離れる。帝国へ入る。マバール家が。国境貴族諸家と共に。
え。
それって。
反乱するってことか?
喉の奥が変に乾いた。
俺は周囲を見る。
騎士たちも驚いていた。若い騎士の一人が目を見開き、隣の男を見る。名門騎士家の当主たちも表情を変えている。使用人たちも壁際で息を殺したまま、顔を上げきれずに固まっていた。
俺だけではない。
誰も知らなかったのだ。
少なくとも、この広間にいた騎士たちは。
俺も知らなかった。
父上もアル兄さんも、何も言わなかった。アル兄さんが俺の部屋へ来た時も、そんな話は出ていない。ただ、どんな無茶をしても僕たちも父上もギルの味方だよ、と言った。マバール家のことを考えるんだよ、とも言った。
あれは。
そこまで考えたところで、隣から低い声が漏れた。
「ほう」
セバスチャンだった。
しかも、にやにやしている。
お前は何で嬉しそうなんだ。
いくさ好きなのは知っている。知っているが、さすがにもう少し驚いてもいいだろう。王国離脱だぞ。帝国編入だぞ。反乱と呼ばれてもおかしくない話だぞ。
だが、セバスチャンは楽しそうだった。
まるで、大好物の匂いを嗅いだ犬みたいだ。いや、犬に失礼かもしれない。
俺が呆れかけた時、父上が前へ出た。
それだけで、広間のざわめきが消えた。
重い。
声を出したわけではない。剣を抜いたわけでもない。ただ一歩進んだだけだ。だが、そこにいる全員の視線が父上へ集まった。ガルシア・マバールは、いつもと変わらぬ顔で広間を見渡している。
その顔に迷いはない。
怒りもない。
ただ、決めた者の顔だった。
「不服のある者は前へ出よ」
静かな声だった。
けれど、広間の隅まで届いた。
誰も動かない。
さっきまで驚きに揺れていた騎士たちが、息を呑んだまま立っている。床を踏む足音もない。衣擦れすら小さい。父上の言葉が広間の天井から重く落ちてくるようだった。
俺は、誰かが前に出るのかと思った。
王国離脱。
帝国編入。
言葉にすれば簡単だが、これはただの引っ越しではない。王国から見れば反乱だろう。少なくとも、そう呼ばれても不思議ではない。いくらマバール騎士たちが王国へ直接忠誠を誓っているわけではなく、マバール家を介した間接的な忠誠だとしても、少しは揺れるのが普通だ。
普通なら、迷う。
家族はどうなる。
領地はどうなる。
王都に縁のある者はどうする。
帝国と戦ってきた記憶はどうなる。
そういうものが一瞬くらい胸を刺すはずだ。
だが。
誰も前へ出ない。
数息。
さらに数息。
一人の老いた騎士が、右拳を掲げた。
右拳。
応。
この世界で、それは応える意思を示す仕草だ。
老騎士の顔に迷いはなかった。驚きは残っているかもしれない。だが、拳は真っ直ぐ上がっている。続いて、その隣の騎士が右拳を掲げた。さらに一人。もう一人。波が広がるように、拳が上がっていく。
若い騎士。
老騎士。
名門騎士家の当主。
その息子たち。
誰も前へ出ない。
誰も父上に背を向けない。
驚いていた。
知らなかった。
それでも、迷わない。
俺は息を忘れかけた。
すごいな。
それしか浮かばなかった。
ふと、ザイン殿を見る。
驚いているな。
表情は大きく変わっていない。だが、目の奥が少しだけ細くなっている。長く国境貴族として人を見てきた男でも、この光景には何かを感じているようだった。
まあ、当然か。
マバール家は辺境伯家だ。おそらく騎士の数なら、名門であるエディオン家よりずっと多いはずだ。その騎士たちが、王国離脱を聞かされても、一人残らず拳を掲げている。事前に聞かされていたわけではない。俺も知らなかった。騎士たちの驚きも本物だった。
それなのに。
全員が。
誰一人として前へ出ない。
これがマバール家か。
これが父上か。
これが、貴族なのか。
恐怖で従っているようには見えなかった。父上が怖いのは事実だ。俺だって怖い。だが、掲げられた拳は恐怖ではない。ガルシア・マバールが決めたなら従う。マバール家が進むなら共に進む。その信頼と忠誠が、拳となって立ち上がっていた。
次の瞬間、誰かが叫んだ。
「マバール家万歳!」
声が広間に弾けた。
「ガルシア様万歳!」
別の声が続く。
そして、一気に広がった。
「マバール家万歳!」
「ガルシア様万歳!」
騎士たちの声が壁を震わせる。右拳がいくつも掲げられ、灯火の光を受けた袖が揺れる。名門騎士家の当主たちも叫んでいる。若い騎士たちは顔を赤くし、老騎士たちは落ち着いた目のまま拳を上げていた。
使用人たちもだった。
壁際に控えていた使用人たちまで、右拳を掲げている。声は騎士たちほど太くない。だが、同じ言葉を叫んでいる。
「マバール家万歳!」
「ガルシア様万歳!」
広間が揺れる。
婚約を祝っていたはずの場が、別の熱に包まれていく。
俺はその熱の中で、ただ立っていた。
王国離脱。
帝国編入。
反乱。
そんな言葉が頭の中にまだ残っている。残っているのに、目の前の光景の方が強かった。誰も逃げない。誰も迷わない。父上を見て、マバール家を見て、応と拳を掲げる。
老武官が前に出た。
全員が拳を掲げていることを確認するように、広間を見渡す。その顔は、先ほどより少しだけ熱を帯びていた。
「いくさの準備を始めよ!」
「応!」
広間が吠えた。
床が震えたように感じた。
老武官は続ける。
「命があるまで待機せよ!」
「応!」
今度の声も大きかった。
いくさの準備を始めよ。
命があるまで待機せよ。
この二つが同じ熱で受け止められている。今すぐ走り出したい者もいるだろう。だが、命があるまで待機せよと言われれば、それにも同じ力で応じる。戦うために動き、待つためにも動く。マバール騎士たちの顔には、恐れよりも覚悟があった。
若い騎士たちが前のめりに動き始める。
名門騎士家の当主たちは、それぞれ近くの者へ短く指示を出していた。老騎士たちは落ち着いた足取りで広間を出る。使用人たちも、すでに祝いの場の片づけと次の動きへ意識を切り替えているようだった。
さっきまで婚約お披露目会だったのに。
今はもう、いくさの前の城になっている。
何だろう。
どこかで見たことがある。
俺は広間を出ていく騎士たちの背中を眺めた。
目が生き生きしている。口元に笑みを浮かべている者もいる。興奮している若者もいれば、静かに燃えている老人もいる。誰も過去を惜しんで泣いていない。誰も未来を恐れて膝を震わせていない。
なんか全員セバスチャンに見えてきた。
そう思った瞬間、隣から楽しそうな声がした。
「若様」
「なんだ」
「面白くなってきましたな」
セバスチャンは笑っていた。
心底楽しそうに。
俺は苦笑した。
「さすが本家本元のいくさ好きだな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてない」
「では、励ましとして受け取りましょう」
「相変わらず、図々しいな」
そう返しながら、俺はもう一度広間を見渡した。
父上はまだ上座の近くに立っている。拳を上げる騎士たちを見ても、驚いた様子はない。当然だと言わんばかりだった。ガルシア・マバールは、マバール家の騎士たちが逆らうとは最初から考えていなかったのだろう。信じていた、というより、知っていたのだ。
マバール家の騎士たちとは、こういう者たちだと。
ザイン殿は父上の横でその光景を見ていた。シルリオーラ姉さんはアル兄さんのそばに立ち、まだ少し硬い顔のまま、広間を見ている。アル兄さんは微笑んでいた。だが、その目は俺の知っている優しい兄のものだけではなく、マバール家の次男としてこの場を受け止めるものだった。
ああ。
そうか。
アル兄さんは知っていたのだ。
だから、あの夜。
どんな無茶をしても、僕たちも父上もギルの味方だよ。
だから、ギルもマバール家のことを考えるんだよ。
あの言葉は、ただの兄の優しさではなかった。
俺はやっと、その半分くらいを理解した気がした。全部ではない。まだ頭の中は追いついていない。王国を離脱して帝国へ編入するという言葉の大きさも、その先に何が起こるのかも分からない。
ただ、一つだけは分かった。
父上は決めた。
アル兄さんも知っていた。
マバール家は進む。
そしてこの広間にいる者たちは、誰一人としてそれを拒まなかった。
前のめりに広間を出ていく騎士たちの熱を見ながら、俺は杯を持つ手に力を入れた。
婚約お披露目会だったはずの夜。
美男美女の祝いの場だったはずの広間。
そこで、王国の歴史が動いた。
いや、大陸の何かが動き始めたのかもしれない。
俺にはまだ、そこまで分からない。
分からないが。
マバール家万歳。
ガルシア様万歳。
広間に残るその声だけは、しばらく耳から離れなかった。




