第百三話 お披露目会
夜のマバール城は、いつもより明るかった。
廊下の灯火は普段より多く、磨かれた石床には炎の揺れが細く映っている。窓布は厚く下ろされ、外の冷たい闇は閉め出されていたが、それでも城の中にはどこか張り詰めた空気が残っていた。使用人たちは足音を抑えて動き、すれ違う騎士たちも声を低くしている。
婚約のお披露目会。
アル兄さんとシルリオーラ・エディオンの婚約が、マバール家の身内へ正式に示される夜だ。
俺は会場へ向かう廊下を歩きながら、少しだけ肩を回した。
普段の服とは違う。鎧でもない。レティシアにきっちり整えられた貴族としての正装は、軽いはずなのに妙な重さがある。襟元も袖も乱れなく収まっていて、鏡で見た時には悪くないと思った。だが、こうして人前へ向かうとなると、普段の動きやすい服や鎧の方が気が楽だ。
レティシアは出席していない。
言えば出られたかもしれない。ほぼ俺の側室みたいなものだし、俺の専属使用人としてそばに立つ理由も作れなくはない。だが、今夜の相手は国境貴族の大物であるエディオン家だ。会場にはマバール家の上層部や名門騎士家の当主たちも集まる。堅苦しい場で、余計な気疲れをさせる必要はないだろう。
それに、レティシアは俺の部屋やダリアたちの方も見なければならない。
だから今夜は、俺一人。
いや、一人ではないか。
背後にはセバスチャンがいた。
珍しく鎧姿ではない。騎士としての正装だ。普段の傷や補修跡だらけの実戦鎧を見慣れているせいで、最初に見た時は少し違和感があった。だが、似合っていないわけではない。むしろ、服そのものはかなり整っている。
ただ、なんというか。
服を着ているというより、服をねじ伏せているみたいに見える。
布地も仕立ても悪くないのに、中身の圧が勝っている。礼装なのに戦場の匂いが抜けない。本人は平然としているが、これで貴族の宴に放り込まれて自然に立てるのだから、やはりこの男はおかしい。
「何ですかな、若様」
「いや、似合ってると言っていいのか迷っていただけだ」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「都合がいいな」
「若様ほどではございません」
小声で言い合いながら、俺たちは会場へ入った。
広間は立食形式に整えられていた。長卓には軽くつまめる料理と酒が並び、壁際には使用人たちが控えている。席次を厳しく固める場ではないが、誰がどこに立つかには自然と意味が生まれる。上座に近い場所にはマバール家の上層部や名門騎士家の当主が多く、少し離れた位置にはその息子たちや若い騎士たちが集まっていた。
身内の場ではある。
だが、軽い場ではない。
辺境伯家の次男と、国境貴族の名門エディオン家の長女の婚約発表だ。王国貴族への正式なお披露目は結婚式になるのだろうが、今夜ここにいる者たちにとっては、十分に大きな意味を持つ。誰も大声では笑っていない。祝いの場らしい柔らかさはあるが、その下に貴族と騎士の計算が静かに流れている。
ダル兄さんはいない。
国境警備のためだ。
今日くらい戻ってきてもいいのではないかと思わなくもないが、帝国はまだ不安定だ。大丈夫だとは思う。だが、万が一この機を狙って帝国が進軍してきたらまずい。父上、アル兄さん、エディオン家の大物が城に揃っている時に国境が崩れました、など笑えない。
だからダル兄さんが国境に残る。
そう考えると、マバール家らしい祝いの場とも言えるな。
俺は広間を見渡した。
父ガルシア、アル兄さん、ザイン・エディオン、シルリオーラはまだ奥に控えている。おそらく入場の段取りがあるのだろう。老文官や老武官の姿もまだ見えない。だが、エディオン家の筆頭騎士であるバカルカは、すでに会場にいた。
やはり大きい男だ。
正装していても、体の厚みは隠れない。肩幅も腕も太く、立っているだけで周囲に影ができるような存在感がある。ただ、荒っぽくはない。姿勢は整い、視線の置き方にも無駄がない。国境貴族の筆頭騎士という肩書きに見合った重さがある。
セバスチャンと近いものはある。
だが、バカルカの方がずっと上品な騎士に見える。
俺はちらりと後ろを見た。
セバスチャンがニヤついていた。
嫌な予感しかしない。
「おい、問題を起こすなよ」
俺は小声で言った。
「若様に言われたくありませんな」
セバスチャンも小声で返す。
「俺は平和主義者だぞ」
「そういうことにしておきましょう」
セバスチャンは喉の奥で小さく笑った。
この男は絶対に何か考えている。バカルカを見ている目が、ただの礼儀正しい観察ではない。強そうな相手を見つけた時の武官寄りの目だ。ここが宴の場でなければ、一度手合わせでもしてみたいと言い出しそうな気配がある。
やめろ。
本当にやめろ。
今日はアル兄さんの婚約お披露目会だ。筆頭騎士同士の腕試し大会ではない。
会場の騎士たちは、武器を持っていない。正装の場だから当然だ。帯剣している者もいないし、鎧もない。だが、魔力封印をしているわけではない。ここにいる多くは魔力持ちだ。武器がなくても、攻撃魔法も防御魔法も肉体強化魔法も使える。
つまり、武器を持っていないから安全、とは言えない。
まあ、今夜ここで暴れる馬鹿はいないだろう。たぶん。
何となくこちらをちらちら見る目を感じるが俺ではなく、セバスチャンを見ているのだろう。
俺は温和で理性的な若様として有名だからな。
俺が暴れそうなんて思われる訳が無い。
使用人が音もなく近づいてきた。
「ギルバート様、そろそろご用意ください」
「うむ」
俺は短く返し、会場入口の正面から少し外れた位置へ移動した。
マバール家の三男として、出迎えの列に加わる位置だ。主役ではない。だが、家族として最初に祝福を述べる役目がある。立つ位置も、膝を着くタイミングも、あらかじめ確認している。
扉の横に立つ使用人と視線が合った。
使用人がほんのわずかに頷く。
広間の空気が沈んだ。
それまで低く流れていた会話が、波が引くように止まっていく。杯を置く音も、衣擦れも、小さくなる。全員が入口へ意識を向けた。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは父上だった。
ガルシア・マバール。
正装していても、その圧は変わらない。歩くだけで広間の重心が決まる。続いてザイン・エディオンが入る。こちらも国境貴族の当主らしく、堂々とした足運びだった。二人が並ぶと、場の空気が一段重くなる。
その後ろに、アル兄さんとシルリオーラが続いた。
アル兄さんは微笑んでいる。いつもの柔らかな笑みだが、今夜は少しだけ整いすぎて見えた。隣のシルリオーラは、昼に見た時と同じように、お姫さまみたいなお姫さまだった。だが、今は馬車から降りる時よりも近い。衣装の細かな刺繍や、髪飾りの控えめな輝きまで見える。
よく似合っている。
アル兄さんの横に立つと、本当に絵になる二人だった。
老文官と老武官も続く。どちらも普段よりずっと儀礼の色が強い。さらに上層部たちが後ろに続いた。
俺は左膝を着いた。
右拳を左掌で包む。
正式な礼の形だ。
俺が膝を着くのに合わせて、広間中の騎士たちが同じように膝を着いた。布の擦れる音と、膝が床へ触れる鈍い音が重なる。壁際の使用人たちは深く頭を下げた。誰も言葉を発しない。灯火の揺れる音まで聞こえそうな静けさの中、父上たちが広間の中央を進む。
父上の足音。
ザイン殿の足音。
アル兄さんとシルリオーラの衣擦れ。
その全部が、普段より大きく感じた。
上座へ着いた父上たちが振り返る。
父上が一同を見渡した。
「戻れ」
静かな声だった。
だが、広間全体に響いた。
俺は立ち上がる。一同も同時に立った。誰も余計な動きをしない。貴族と騎士の儀礼が一つの形になって、広間の空気を締め直す。
老文官が静かに進み出た。
年を重ねた声は大きすぎない。それでも、広間の隅まで届く張りがあった。
「今宵、アルディス様、シルリオーラ様のご婚約がなった事を、ここに発表する」
一拍の間。
それから、広間全体が祝福の声に包まれた。
「おめでとうございます!」
声が重なる。
ただの歓声ではない。騎士たちの声は腹に響き、文官たちの声は揃って整っている。使用人たちも壁際で頭を下げたまま、控えめに祝意を示している。
俺は最初に進み出た。
マバール家の者であり、弟である俺が、まず祝福を述べる。ここで妙に照れたり、軽く流したりする場面ではない。俺はアル兄さんの前で姿勢を正した。
「兄上、おめでとうございます」
アル兄さんは微笑んだ。
「ありがとう、ギル」
いつもの優しい声だった。
だが、近くで見ると、ほんの少しだけ目元に力が入っているようにも見える。緊張しているのだろうか。まあ、これだけの場で婚約を発表されているのだから、さすがのアル兄さんでも緊張くらいするかもしれない。
次に、俺はシルリオーラへ向き直った。
「姉上、ギルバート・マバールです。よろしくお願いします」
姉上。
口に出すと、少し不思議な響きだった。
これからアル兄さんの妻になる女性だ。正式にはまだ結婚前だが、この場ではそう呼んで問題ない。シルリオーラは柔らかく微笑んだ。その笑みは昼に見た時よりも近く、作法として美しいだけでなく、どこか嬉しそうにも見えた。
「よろしくお願いします」
声も上品だった。
本当にお姫さまみたいだ。
いや、これから姉になるのか。
俺は続いて父上へ向かった。
「父上、おめでとうございます」
「うむ」
父上は短く頷いた。
相変わらず言葉は少ない。だが、この場で余計な言葉はいらないのだろう。父上が頷くだけで、十分に重い。
次にザイン殿へ向き直る。
「ザイン殿、おめでとうございます」
「うむ」
ザイン殿も短く頷いた。
父上と似ているわけではない。だが、国境貴族の当主同士、言葉の少なさに通じるものがある気がした。余計な感情や言葉を表に出さず、必要な礼だけを確実に返す。重い男だ。
俺が下がると、立場順に次々と祝福が続いた。
老文官。
老武官。
上層部たち。
名門騎士家の当主。
その息子たち。
挨拶は長すぎず、だが軽くもない。誰もが相手の立場とこの場の意味を計りながら、言葉を選んでいる。俺は少し離れた位置に戻り、セバスチャンを背後に置いたまま、その流れを眺めた。
儀礼的な挨拶が一通り終わると、広間の空気が少し緩んだ。
使用人たちが静かに動き、酒と料理が行き渡る。声の調子も少し明るくなった。あちこちで祝福の言葉が交わされる。
「めでたいことですな」
「まこと、お似合いのお二人だ」
「マバール家とエディオン家の縁とは、心強い」
そんな声が耳に入る。
俺はアル兄さんとシルリオーラを見た。
お似合いの二人だな。
本当にそう思った。
アル兄さんの柔らかな美形と、シルリオーラの姫君めいた雰囲気はよく合っている。並んで立っているだけで、場が少し華やぐ。俺とレティシアやダリアの空気とは違う。こちらはもっと、貴族の婚約として整った美しさがあった。
少しして、バカルカがこちらへ近づいてきた。
バカルカは一歩手前で足を止め、深すぎず浅すぎない礼をした。
「ギルバート様」
「バカルカ殿か。武勇は聞いている」
俺は落ち着いて返した。
実際、名前と立場は聞いている。エディオン家の筆頭騎士なら、武勇を知られていて当然だ。俺の活動は非公式で機密が多いからな。こちらから余計なことは言う事は出来ない。
バカルカは表情を崩さず、もう一度礼をした。
「お耳汚しを」
礼を守った返答だった。
声は太い。だが、押しつけがましさはない。大きな身体に反して、言葉の置き方は丁寧だ。セバスチャンのようにわざと雑に崩す感じはない。
「今後はよろしくお願いいたします」
「うむ。よろしく頼むぞ」
短い挨拶だった。
だが、それで十分だった。
バカルカは一歩引き、俺の背後にいるセバスチャンへ視線を向けた。ほんの一瞬だ。礼儀を崩すほどではない。ただ、互いに相手を見た。その一瞬で、何か変なものが通った気がした。
おい、やめろ。
本当にやめろ。
俺は後ろへ小さく声を投げた。
「おい」
「何もしておりません」
「今は、だろ」
セバスチャンは答えず、小さく笑った。
バカルカの口元も、わずかに動いた気がした。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。筆頭騎士同士が目で会話するのはいいが、手合わせの約束をする場ではない。
歓談はしばらく続いた。
父上は上座近くに立ち、祝いの言葉を受けていた。ザイン殿も隣で応じている。二人が並ぶとやはり場が重い。近づく者たちは皆、笑顔を保ちながらも背筋を伸ばしている。アル兄さんとシルリオーラの周囲には、若い騎士家の者や文官家の者たちが順に挨拶へ来ていた。
シルリオーラは嬉しそうに微笑んでいた。
愛想笑いだけではないように見える。少なくとも、俺の目にはそう映った。婚約の場で緊張はしているだろうが、それ以上にこの場を喜んでいるように見える。アル兄さんの隣に立ち、挨拶を受けるたびに丁寧に返している姿は、やはりお姫さまみたいだった。
アル兄さんも微笑んでいる。
だが、時々ほんのわずかに表情が硬く見えた。
さすがのアル兄さんでも緊張しているのかな。
そう思う。
婚約発表の場だ。しかも相手は名門エディオン家の長女。父上やザイン殿、家中の上層部に見守られ、名門騎士家の当主たちもいる。穏やかなアル兄さんでも、まったく緊張しない方がおかしいか。
俺ならたぶん、もっと落ち着かない。
その時、父上が静かに杯を置いた。
近くにいたザイン殿へ、わずかに視線を向ける。ザイン殿が小さく頷いた。老文官、老武官がそれに気づき、上層部たちも自然に集まり始める。大きな動きではない。歓談の流れを壊さないように、少しずつ位置が変わっていく。
だが、俺には見えた。
上層部たちの顔が、少し硬い。
老文官の口元も、老武官の目も、先ほどの祝いの場とは違う。緊張というほど露骨ではないが、酒と料理の場に残る顔ではない。何かを始める前の顔だ。
父上が広間全体へ目を向けた。
「今宵は楽しめ」
静かな声だった。
だが、それだけで周囲の者たちは頭を下げた。楽しめ、と言われても、父上が言うと命令の重さがある。会場の空気は一度引き締まり、それからまた少しずつ緩んだ。
父上とザイン殿が会場奥の扉へ向かう。
老文官、老武官、上層部たちが続く。アル兄さんもシルリオーラを伴ってそちらへ向かった。バカルカは護衛としてザイン殿の後ろへ自然につく。その動きに無駄はない。広間の者たちも、当主同士が席を外すことを不自然とは受け取っていないようだった。
だが、俺は少しだけ首を傾げた。
奥に控えるのではない。
会場から出ていく。
密談でもするのだろうか。
そう思いかけて、すぐに考えを緩めた。婚約発表の場だ。父上とザイン殿、アル兄さんとシルリオーラ、上層部たちが改めて話すことくらいあるだろう。エディオン家との縁談なのだから、細かな詰めも必要なのかもしれない。
それでも、上層部たちの顔の硬さは少し気になった。
アル兄さんは微笑んでいる。
いつものように柔らかい。だが、やはり少しだけ緊張しているように見える。俺がそう感じただけかもしれない。シルリオーラは嬉しそうに微笑んでいる。こちらは、少なくとも俺には素直な喜びに見えた。
うーむ。
さすがのアル兄さんでも緊張してるのかな。
俺はそう考えながら、扉の向こうへ消えていく一行を見送った。
扉が閉まる。
広間にはまた祝福の声と、低い談笑が戻った。
使用人が酒を運び、名門騎士家の若者たちが互いに視線を交わし、文官たちが穏やかな笑みで言葉を重ねる。お披露目会は続いている。父上たちがいなくなっても、場そのものは崩れない。
だが、俺の胸には、ほんの小さな違和感だけが残った。
何かあるのか。
そう思ったが、すぐに首の奥で飲み込んだ。
俺が知らされていないなら、今聞くことではないのだろう。父上が必要だと思えば呼ぶはずだ。アル兄さんも何も言わなかった。なら今は、弟として、マバール家の三男として、この場に立っていればいい。
背後でセバスチャンが小さく息を漏らした。
「若様」
「なんだ」
「顔が退屈そうですぞ」
「余計なお世話だ」
「酒でも飲まれますかな」
「飲みすぎる気はない」
「珍しい」
「今日は大人しくする日だ」
そう言うと、セバスチャンがまた笑った。
「それは重畳」
「本当に問題を起こすなよ」
「何もしておりません」
「今は、だろ」
同じような会話を繰り返しながら、俺は再び広間へ目を向けた。
アル兄さんとシルリオーラの婚約を祝う声が、灯火の揺れる広間に満ちている。めでたい夜だ。きっとそうなのだろう。お似合いの二人で、家同士の縁も強まる。マバール家にとっても悪い話ではないはずだ。
それでも、閉じた扉の向こうに消えた父上たちの硬い顔が、しばらく頭から離れなかった。




