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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第十話 帰還した牙


 極悪人。


 悪逆非道。


 虐殺者。


 マバール城へ向かう街道を、てくてくと、しかし急ぐでもなく、かといってのろのろしているわけでもない微妙な速度で歩きながら、ギルはそんな言葉を頭の中で並べていた。


 どれがいちばん自分にしっくり来るのか、みたいな、まともに口に出したら父に殴られるかレティシアに泣かれるかどちらかで済めばいい方の、自分でもどうかしているとしか思えない品評会である。


 だが、考えないわけにもいかなかった。


 前世の感覚で考えるなら、この辺りかな、と思う。


 平和な、たぶんだけど、少なくとも普通に暮らしていたはずの村々を焼き払い、村人を殺し、金品を奪う。家畜を奪い、使えそうな物を漁り、ついでに焼け残った家に泊まって、翌朝にはまた別の村へ向かう。


 どう考えても悪党のやることだ。


 紛れもなく、徹頭徹尾、完全にアウトである。


 前世の法律ならまず確実に死刑か、それに近い扱いになるだろうし、何とか条約とかいうものにも多分まとめて違反している。いや、条約の細かい中身なんて知らないけど、少なくとも「村を焼いて財貨を奪いました」は、たいていの文明世界で許される側の行為ではないだろう。たぶん。


 にもかかわらず。


 俺、ほとんど罪悪感とか嫌悪感とか感じてないんだよなぁ。


 そこが、いちばん妙だった。


 もちろん、理由として思い当たるものはある。


 攻撃魔法を使ったからだ。


 実際に自分の手で首を切ったわけではない。刃が肉へ沈む感触を知っているわけでもない。誰かの骨が砕ける音を耳元で聞いたわけでもない。俺はただ、魔力を練って、放っただけだ。そこから先は一瞬で終わる。悲鳴もろくに届かないし、目の前で相手の表情がゆっくり変わるのを見守ることもない。


 その距離感が、たぶん大きい。


 大きいのだろう。


 だが、それにしても、である。


 完全にアウトな行いだ。


 自分で自分のしてきたことを言葉にすると、笑うしかないくらい綺麗に悪でまとまる。それなのに、内面は拍子抜けするほど静かだった。眠れないほど苦しくもない。吐き気がするわけでもない。夢に出るわけでもない。ふとした拍子に焼いた村の景色を思い出すことはあるが、それで足が止まるほどではない。


 変だ。


 かなり変だと思う。


 だが、変だと思っている自分もまた、どこか他人事みたいなのだから救いがない。


 ギルは歩きながら、道の端を行く荷車へちらりと視線を向けた。


 荷車を引いているのは平民の男だ。日焼けした首筋が太く、麻の服は汗で色が変わっている。荷台には麻袋がいくつか積まれていて、その後ろを、同じく平民らしい女が小走りでついてきていた。二人とも、こちらへ気づくと少しだけ道を空け、目を合わせないようにしながら頭を下げる。


 別に、そいつらを見て殺したくなるわけではない。


 右腕が疼くとか、血が騒ぐとか、そういうこともない。


 むしろ「道を譲ってくれてありがと」くらいの感覚だ。


 ああ、じゃあやっぱり俺は狂ったわけではないのか。


 そう思いかけて、いや待てよ、とも思う。


 なら何が違うんだ。


 帝国の村人を焼いた時と、今こうして道を行く平民を見ている時とで、俺の中の何が違う?


 しばらく考えて、最も近い感覚は何だろうと探してみた。


 部屋に出た蚊とか、Gとか、そういうものを殺した時の感覚だろうか。


 前世の俺は潔癖というほどではないが、部屋に蚊が飛んでいれば潰したし、黒くてやたらと生命力の強い虫が出れば、だいぶ本気で殺しにかかっていた。嫌悪はある。だが、殺したあとに罪悪感はほとんどない。むしろ「やれやれ」で終わる。


 帝国民を、害虫と感じてるのかな、俺。


 その考えに至って、自分で少し引いた。


 いや、でも、見た目はそんなに変わらなかったと思うんだよな。顔立ちとか雰囲気とか、村人の身なりとか。王国側の辺境の平民と比べて、そこまで大きな差はなかった。言葉も、少し耳を澄ませば通じたし、怒鳴り声の響きだって似たようなものだった。


 じゃあ、何が違う。


 魔力の有無だろうか。


 俺は本能的に、魔力を持たない者を、どこか別種の生物みたいに認識しているのかもしれない。前世の記憶を持っていても、こちらで育った時間もすでにかなり長い。赤子の頃から貴族として育ち、魔力を持つ側として生きてきた。守る側だと教えられ、支配する側だと当たり前のように扱われ、その前提で食って寝て学んできた。


 なら、頭のどこか深いところで、平民を本能的に「自分とは違う」と切り分けていてもおかしくはない。


 おかしくはないが。


 やっぱり、少し怖いな。


 そこまで考えたところで、横から低い声が飛んできた。


「若様」


 セバスチャンだった。


「なんだよ」


「あんまり殺気を撒き散らさんでください」


 何食わぬ顔で言う。


「領民たちが怖がってますぜ」


 ギルは思わず顔をしかめた。


「いや、そんな物騒なもん撒いてないだろ」


 本気でそう思う。


 俺はただ歩きながら考えごとしてただけだ。誰かを睨みつけた覚えもなければ、魔力を露骨に漏らしたつもりもない。


 だが、セバスチャンはやれやれとでも言いたげに首を振った。


「そういったところはまだまだですな」


「何がだよ」


「自分で分かってないところが、ですよ」


 こいつの言い方はいちいち腹が立つ。


 だが、完全に言い返せないのがまた癪だった。


 たぶん、何か漏れているのだろう。


 殺気と呼ぶのが正しいのかは分からない。だが、帝国の村を焼いた記憶をなぞりながら「俺って害虫駆除みたいな気分だったのかな」なんて考えていれば、表情のどこかは確実にまともではなくなる。


 前を歩く平民がさっきより少しだけ急ぎ足になったように見えて、ギルは小さく舌打ちを飲み込んだ。


 別に今ここで誰かを殺そうなんて思っていない。


 思っていないのに、怖がられる。


 ……いや、そういう顔してたんだろうな。


 セバスチャンの指摘は、だいたい腹が立つが、大概の場合それなりに的を射ている。


 そのまま二人は特に急ぐでもなく、普通に旅を続けた。


 街道を歩き、時に人の少ない場所では少し走り、また歩く。宿が取れそうな場所があればそこで夜を越し、取れなければ野営もする。戦の帰りだというのに、見た目はただの旅人とさほど変わらない。もちろん、傷だらけの老騎士と若い貴族の組み合わせは目立たなくはないが、旗も供回りもない以上、よほどの者でなければ気にも留めないだろう。


 そんな旅の果てに、夕刻、ようやくマバール城が見えた。


 見慣れたはずの城壁だ。


 なのに、少しだけ大きく感じる。


 夕日に赤く染まった石の壁が、領都の端から立ち上がるように見えた。塔の上には旗が揺れ、その向こうには、自分が幼い頃から見上げてきた天守めいた高みがある。


 ああ、帰ってきたんだな、とようやく思った。


 城門前の兵がこちらに気づく。


 その反応が、以前と少し違うように感じた。


 いや、気のせいかもしれない。


 だが、目線の上がり方、背筋の伸び方、礼の角度。そのどれもが、前よりほんの少しだけ硬い。単に出征して帰ってきたからだろうか。あるいは、セバスチャンと並んでいるからか。


 ギルは城門をくぐりながら、首を傾げた。


「ん?」


 その反応を、横のセバスチャンが見ていたらしい。


「兵たちにも、若様が童貞を捨てたのが分かるんですよ」


 真顔でとんでもないことを言った。


 ギルは足を止めかけた。


「童貞、童貞、言うなよ」


「なんでです?」


「そもそも俺は童貞じゃないし」


「今はそうですな」


「今は、じゃねぇよ」


 ちょっとズレたやり取りをしながら、二人は城内へ入る。


 兵たちが聞いていないことを祈るばかりである。


 いや、聞いていたとしても、あいつらの中では若様とセバスチャンのよく分からない冗談で処理されるかもしれないが、それでも気分のいい話ではない。


 セバスチャンはそこで、ふと足を止めた。


「さて」


 片手を腰に当てる。


「それじゃ、城のもんたちに報告に行ってきます」


 あまりにも当然のように言う。


 ギルは少し考えてから言った。


「俺もついて行くか?」


 自分も当事者だ。


 村を焼いたのは俺だし、魔法を使ったのも俺だ。父上や上層部へ報告するなら、自分も顔を出すべきかと思った。


 だが、セバスチャンは少しだけ考えてから首を振った。


「若様はレティシア嬢のとこで旅の垢を落としてください」


「……おい」


「若様からの報告は、落ち着いてからで大丈夫でしょう」


 さらっと言う。


 だが、それは理屈としては正しい気もした。


 場所も、焼いた村の数も、正直かなりあやふやなのだ。九つだと思ったら十一だったし、どの村がどの位置にあったかも正確には怪しい。感知した騎士の位置や、村の規模、道筋の記憶はある。だが、報告として役に立つほど整理されているかと言えば微妙だ。


 セバスチャンの方が、その辺りの要点は掴んでいるだろう。


 俺が行っても、多分「たくさん焼きました」と「魔法はまだ余裕ありました」と「牛がまずかったです」くらいしか即座に言えない。最後のは絶対に報告事項ではない。


「……まあ、そうか」


 ギルは頷いた。


「そういったところも、今後ちゃんとしないとな」


 口に出してから、自分でも少し物騒な決意だと思った。


 つまり、次からは焼いた村の数と場所をちゃんと覚えて帰ろう、ということである。何がちゃんとなのか、前世の俺に説明したら真顔で距離を置かれそうだ。


 セバスチャンはそんなギルの呟きを聞いて、少しだけ口元を上げた。


「結構結構」


「褒めてるのか?」


「一応は」


 気に入らないが、今はそれどころではない。


 セバスチャンと別れ、自室へ向かう。


 ちょっとずつ足が速くなる。


 意識して緩めようとしても、無理だ。気づけば歩幅が広がり、歩く速度が上がっている。


 この時間なら、仕事で部屋にはいないかもしれない。


 頭では分かっている。


 レティシアは俺専属のメイドだが、別に俺の世話だけが仕事ってわけじゃない。あくまで俺の世話や指示が最優先というだけで、それ以外にもいろいろとあるはずだ。書類の整理だの、メイド長の手伝いだの、城内の上級使用人としての役目だの、俺が見ていないところで動いていることは多い。


 しかも、俺はここ二週間ほど城を空けていたのだ。


 その間、レティシアは当然、俺の部屋の管理以外にもいろいろとやっていただろう。


 それが分かっていても、足を緩める気にはなれない。


 途中ですれ違ったメイドが、ギルを見るなり端へ寄って頭を下げる。


 その瞬間、ギルは足を止めた。


「おい」


「は、はい、若様」


「レティシアに、すぐに俺の部屋に来るよう伝えろ」


 自分でも少し強い口調だと思った。


「いいか、すぐにだぞ」


 メイドは一瞬だけ目を見開き、それから慌てて頭を下げた。


「かしこまりました」


 そのまま小走りに去っていく。


 それを見送ってから、ギルはまた歩き出す。


 そんなことは無い。


 そんなはずは無いのに。


 何だか、空気になんとなくレティシアの匂いが混じっているように感じた。


 もちろん本当に匂いが漂っているわけではないのだろう。いや、部屋の近くなら少しはあるかもしれないが、それにしたってまだそこまで辿り着いていない。これはもう、完全に頭がレティシアに向いているせいだ。


 いそいそと部屋に向かう。


 とにかくレティシアだ。


 まずはレティシアだ。


 自分の家、というか城だが、とにかくそこへ戻ったことより、レティシアの方がずっと気になる。父上への報告だの、訓練の次段階だの、戦利品だの、そういうものは全部後でいい。


 先にレティシアだ。


 自室の扉を開ける。


 中へ入る。


 やはりレティシアはいない。


 だが。


 確かに、レティシアの気配を感じる。


 整えられた寝台。


 片づけられた机。


 水差しの位置。


 窓辺の布のたたみ方。


 毎朝、毎晩、あいつがここを整えてくれていたのだろうと思えば、それだけで部屋の空気そのものがレティシアで満ちているような気がした。


 上級使用人であるレティシアには、城内に私室が与えられているはずだ。


 基本的には、そこで寝泊まりする。


 いや、俺が城にいる時はレティシアはほとんどここで寝泊まりすることになるのだが、それでも形式上の私室は別にある。あいつの服や私物や、女として一人で過ごすための時間と空間はそちらにあるはずだ。


 だったら。


 いっそのこと、その私室は処分して、この部屋に引っ越してもらうか?


 そう思ってから、ギルはすぐに首を傾げた。


 無理か。


 いや、命じれば可能ではある。


 レティシアは従うだろうし、城内の者たちもおそらく表立っては文句を言わない。若様が専属メイドを身近に置くこと自体はおかしいことではないし、すでに関係があることも周囲はかなり知っている。


 だが、無理だよな。


 レティシアにだって私物はある。プライベートな時間も必要だ。俺が見ていないところで息を抜く場所くらい、あっていいはずだ。俺だって、いくらレティシアが好きでも、ずっと見られていたらたぶん息が詰まる。


 ……いや、レティシア相手なら詰まらないかもしれないな。


 そこまで考えて、ギルは自分で自分に少し呆れた。


 うーむ。


 レティシアを完全に独占する方法か。


 その問題を真面目に考え始めると、だんだん別の方向へ思考が滑っていく。


 いや、命じればレティシアはこの部屋で暮らすだろうし、城内の者たちも別に文句は言わないだろう。


 レティシアは魔力持ちの子を産む確率こそ低い騎士の娘だが、確率が低いだけで産めないわけではない。


 数打ちゃ当たる方式でやりまくれば、そのうち魔力持ちの子を産むだろうし、レティシア相手に数打つことにはかなりの自信がある。


 騎士の娘が魔力持ちの子を産む確率は、おおよそ三割程度のはずだ。


 つまり、三人産ませれば、たぶん一人は魔力持ちになる可能性が高い。


 なんなら十人ほど産んでもらってもいい。


 十人、という数字が浮かんでから、自分でも少し笑いそうになる。


 いや、でも、できない話ではないよな。


 前世の感覚で言えば、中世程度の医療水準なら出産は命懸けという印象がある。だが、こと貴族に限っては、そんなことはない。治癒魔法があるからだ。もちろん、妊娠中だと魔力が乱れて上手く使えないらしい、とか、母体の負担はゼロではない、とか、そういう話は聞く。


 だが、それでも平民とは比較にならないほど安全だ。


 俺の子なら、全面的にバックアップしてもらえるはずだし、なんなら俺が治癒魔法を使いまくってもいい。出産時だって、父上や兄たちが動いてくれる可能性も高い。


 つまり、子を成すこと自体には何の問題もない。


 なら問題は、その機会をどれだけ増やすか、だろう。


 そのためには、レティシアを側室にしなくてはならない。


 そして、側室を持つなら、最低でも専用の館が必要だ。


 基本的に、貴族の妻子は離宮みたいな別空間で生活する。別に監禁されているわけではないが、基本的には夫以外の男性との接触を避け、夫との接触を増やすためだ。


 前世の大奥とかハーレムに比べると、規制はだいぶ緩い気がする。それはたぶん魔力の存在が関係しているのだろう。


 浮気でもして、魔力持ち以外の子を産めば、すぐに不審がられる。


 反対に、浮気しても生まれた子が魔力持ちなら、なんとなく許されたりもする。


 いや、許されるというのも変だが、少なくとも「旦那の子ではない」と断定する材料にはならない。


 あれ、この側室は最近旦那さまに相手してもらってないのに妊娠したぞ。


 不思議だなぁ。


 でも産んでみたら魔力持ちだった。


 それなら旦那さまの子だね、めでたしめでたし。


 ……いや、めでたくはないか。


 でも、実際にはそんな感じで流れていくらしい。


 前世でも、夫婦の子どもを全員DNA鑑定とかしたら色々問題が出るだろうし、結局、人間社会の「まあいいか」の部分はどこでもそんなに変わらないのかもしれない。


 いや、変わるか?


 その辺りを考え始めると妙に泥沼だ。


 そんな風に頭の中でレティシア専用の館の設計図とか、子どもの人数とか、妊娠中の治癒魔法の運用とか、かなりどうかしていることを真面目に考えていた、その時だった。


 淡い魔力反応が近づいてきた。


 感知魔法は使っていない。


 使っていないのに、本能的に分かる。


 城の中では無礼とされる、ほとんど走る寸前の速度で近づいてくる一つの反応。細く、柔らかく、だが今の俺には他の何より明瞭だ。


 体内の熱が、じわりと高まってくる。


 落ち着け。


 落ち着け。


 久しぶりだけど、落ち着け。


 自分に言い聞かせる。


 だが、その声はほとんど意味をなさなかった。


 自室の扉が、かなりの勢いで開かれた。


 メイド長が見たらお説教ものだろうと思うくらいの勢いだ。普段のレティシアなら、絶対にそんな開け方はしない。つまり、それだけ急いで来てくれたということでもある。


 扉を開いたのは、もちろんレティシアだった。


 美しい。


 元々、美しい。


 それは知っている。誰よりも知っている。だが、二週間ほど離れていたせいか、改めて、はっきり分かる。顔立ちの整い方、髪の艶、目の柔らかさ、細い首筋、胸元の豊かさ。全部まとめて、やっぱりレティシアはレティシアだ。


 かなり急いで来てくれたのだろう。


 うっすらと汗をかいている。


 その香りが、扉の向こうから一気に流れ込んできた。普段の清潔な匂いに、走ってきたばかりの熱が混ざっていて、思わずうっとりしてしまう。


「若様!」


 その声が、ギルの胸の奥へ一気に飛び込んできた。


 そのまま一気に飛び込んで来てくれると思った。


 いや、来ると信じていた。


 だが、レティシアは俺の前で、ぴたりと動きを止めた。


「あ、あれ?」


 思わず間抜けな声が出る。


 動きを止めたレティシアは、俺の前で俺の顔をまじまじと見ている。


 何だ。


 どうした。


 そこで、ふと嫌な可能性が浮かんだ。


「あっ……」


 ギルは一歩だけ後ずさりかける。


「すまん。くさかったか?」


 旅の間、ほとんど風呂なんか入れなかったからな。せいぜい水浴びしたぐらいだ。汗もかいたし、煙も浴びたし、村の家畜を捌いた匂いだって多少は残っているかもしれない。


 レティシアは、ぶんぶんと首を振った。


「いえ、そうではありません」


「じゃあ何だよ」


「なんと言えばいいのか……」


 視線が少しだけ揺れる。


 頬が、さっと赤くなる。


「若様が、とても……」


「とても?」


「その……」


 言葉を探すように唇が動く。


「あの、男らしいというか……」


 そこで一度、言葉が切れた。


 そして、レティシアは一歩近づく。


 ギルの耳に顔を寄せ、小さく囁いた。


「雄々しく見えて」


 そこまで言って、さらに声を落とす。


「濡れてしまいました」


 そこで、ギルの記憶は飛んだ。


 誇張ではない。


 本当にそこから先のことは、あまり覚えていない。


 扉が閉まる音がした気もするし、レティシアの腰を抱き寄せた感覚もある。たぶんどこかで鎧を脱ぎ捨てたし、レティシアの髪に顔を埋めた記憶もある。机に置いてあった何かが倒れたような音もした。途中でレティシアが何か言った気もする。多分、若様とか、待ってとか、そういう類の、だけど拒絶ではない声だった気がする。


 だが、本当に、そこから先のことはほとんど覚えていない。


 覚えているのは。


 レティシアが俺の全てを受け入れてくれたことだけだ。

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