第50話 カニが富士山の空を飛んだ?
「あー、今日もいい天気!」
7月26日、日曜日。水槽御一行様の夏合宿2日目の朝。
ハコちゃんは、起きるとパジャマのままベランダに出て、緑の空に向かって叫んだ。
「ちょっと、恥ずかしいわよ?」
リビングから母親が苦言を呈すると、元気な反論が帰ってきた。
「だって、誰も見てないじゃん」
確かに深井の家のように、半径10メートル以内に家が6軒もあるのとはワケが違う。
1番近い山荘でも直線距離で20メートル以上離れているし、その間に木々もあって、プライバシーは守られている。
それに青木山荘は南傾斜地の上の方にあるから、他の山荘を見下ろす立場にはあるけれど、見下ろされることはない。
「まっ、お嬢ちゃん、着替えてからにしなさい」
コズエさんにたしなめられると、スゴスゴと着替えに戻った。
「昨日のキタロウさん、また来るかしら?」
水槽の南側のガラス壁に頬を寄せながら、マメコブシガニのマメコちゃんが呟いた。
「まあ、マメコちゃん、気になるの?」
イソスジエビのスジコちゃんが、小さな声で茶化す。
頬を赤くするマメコちゃん。
カニの長老が、後ろで咳をした。
あわてて振り返る二人。
「『真夏の夜の夢』にならんことを、祈っちょる」
「でも、どうやって、お付き合いするつもりですか?」
長老の後ろからカニのタロウが首を出した。
「難問じゃな……」
下を向いたままのマメコちゃんの代わりに、老人が呟いた。
「やあ、お早うございます!」
水槽の一同がびっくりしてベランダの手摺りを見ると、黄色い胸毛がつやつやと輝く小鳥がとまっている。
「今日も、みなさん、お揃いですね?」
マメコちゃんの目が輝く。
長老がカラカラと笑った。
「水槽から出られんのじゃから、いつだって『お揃い』だーね!」
言われたキタロウが、両方の羽根で腕を組んだ。
「そうですか……。
もし、出られるようでしたら、ひとつ、森の中でもご案内しようと思って来たんですけれど。
出れないですか……」
ここで、タロウが一歩前に出た。
「長老、ぼくがガラスの天井を持ち上げます!
長い時間は無理だけど、少しの時間なら、できるでしょう。
その間に、マメコちゃん、抜け出るんです!」
のそげるマメコちゃん。
右のツメで自分の鼻を指さす。
「そうよ。マメコちゃんしか、いるわけないじゃない!
もう、二度と来ないチャンスよ!」
スジコちゃんがマメコちゃんの肩を叩いた。
「だって……。
外で、長い時間、息ができない」
カニは鰓呼吸だから、水から出て1時間ほどして鰓が乾いたら窒息してしまう。
「よし、わしの海綿をやろう」
そう言うと、長老が水槽の隅っこから、海綿の欠片を持って来た。
海綿は磯にある天然のスポンジだから、水を含んだまま持ち歩くことができる。
「鰓が乾いたら、この海綿で濡らせば大丈夫じゃ!」
「さすが長老!
ダテに歳はとってねぇ」
ガラスの上からダボハゼのヨッシーが拍手をした。
「じゃ、やりましょう!」
タロウが自分で自分を励ますと、循環濾過器の揚水パイプを両腕でよじ登った。
濾過器がない方のガラス天井の端を左肩で押し上げると、少しだけ隙間が開いた。
そのタイミングを見て、マメコちゃんを背中に載せたダボハゼのヨッシーが近づく。
マメコちゃんがタロウの背中を踏み台にして、その隙間から体を外に出した。
「やったー!」
水槽の中から湧き上がる歓声。
手摺りからキタロウが飛んできて、海綿を手に持ったマメコちゃんの丸い背中を右足の爪でしっかり抱えた。
着替えを終えたハコちゃんが、立ったまま、目を丸くしてベランダの様子を見入っている。
「マメコさん、痛くない?」
キタロウが顔を近づけて聞くと、首を振った。
「じゃあ、みなさん、行ってきます!」
マメコちゃんを掴んだキビタキが、ホバリングしながら水槽の一同に別れの挨拶をした。
「マメコちゃん、しっかりね!」
涙声で叫ぶスジコちゃんに、笑顔で大きくうなずく女子。
カニを抱えた小鳥が、ゆっくりと翼を羽ばたかせて樹間の緑の中に消えて行った。
キタロウは、湖の上を岸に沿って反時計回りに飛んだ。
少しすると、セブンイレブンの建物の後ろに聳える巨大な富士山が見える。
「深井の海からも見えるけど、こんな大きな富士山を見るのは初めて!」
小鳥がうなずいた。
「よーし、しっかり捕まってて!」
そう言うと、思い切り羽ばたいて空に舞い上がり、山中湖全体を見下ろせる高さまで飛んだ。
遥か北西方向には八ヶ岳連峰の山々が見え、眼下には山中湖。
「尾っぽを振り上げた鯨みたい!」
「クジラ?」
「そう。海にいる、1番大きな生き物。
あたしたちの海から見える江の島も、鯨に見えるの。
江の島が鯨の体で、真ん中の灯台が、鯨が噴き上げた潮みたいに見えるの」
「そうなんだ、、、。
ぼくたち、クジラ繋がりなんだね?
ぼくたちは、『鯨クラブ』の仲間ってことだね?」
「鯨クラブ? 素敵!」
マメコちゃんが小鳥の顔を見上げて叫んだ。
「森の木を頭の上から見るなんて、初めて!
あれっ? とっても大きな白鳥さんがいる?」
笑いだすキタロウ。
「あれはね、『白鳥の湖号』っていう遊覧船なんだよ」
「まあ、あたしも乗ってみたい!」
キビタキが、大きく丸く空中を遊覧した。
「マメコちゃん、しっかり掴まってて!
後ろを振り返えったキビタキが叫んだ。
マメコちゃんが振り返ると、1羽のカケスが二人の後を追っている。
「ジェー」
威嚇の声だ。
「カラスほど大きくないけど、同じカラスの仲間で、カケスっていうんだ。
何でも食べる、森の掃除人のひとりさ。
こいつを振り切るには急降下が1番なんだ。
いくよ!」
翼を折りたたむと、湖面に向かって急降下した。
スカイダイビングのヘッドダイブだ。
両手で目を覆うマメコちゃん。
あわや湖面に激突という直前で、小鳥が舞い上がった。
追いて来れなくなったカケスが諦めてくれたけれど、V字上昇する時にマメコちゃんが海綿を落としてしまった。
「海綿を無くした!
ダメ。息ができない!」
その時、2人を地上から追いかけてきていたネズミ男が、湖畔の波打ち際で海綿を拾い、キタロウに向かって叫んだ。
「あったぞー」
何ごとが起きたかと顔を近付けてくる白鳥の鼻先を尻尾で叩きながら、土に汚れた海綿を湖水で洗う。
キタロウが空から降りて来ると、ネズミ男が海綿でマメコちゃんの鰓を濡らしてくれた。
息を吹き返す少女。
「もう、帰ろう?」
キタロウが言うと、小さくうなずいた。(つづく)




