第45話 酸っぱいヨーグルト
ピチュピチュピチュ。
ピィー!
鳥の声でシゲルは目が覚めた。
天井の杉板の模様が深井の家ではないことを教えてくれた。
木枠に縁どられた四角い壁掛け時計に目をやると7時。
南緩斜面に建つ山荘の西側からや、南側からも鳥の声は聞こえた。
呼ぶ声があれば、応える声もある。
「ジーー」というのは、蝉の声か。
最初に1匹が鳴き出すと、続いて近くで別な蝉が鳴く。
少し離れた東側からも鳴く蝉が出てくると、徐々に森の全体から聞こえるようになった。
「うーん、、、」
シゲルは布団の中で大きく伸びをした。
「あと少しで、ご飯、用意できるからなー」
台所から父親が呼びかけた。
シゲルは、父親のタカシと2人で、昨日から山中湖に来ていた。
絵の保管場所になっている山荘に、展覧会終了後のM100号のCGを持ち込んだのだった。
立てかけられ、倒れないようにロープで結ばれた作品群の前に、貸し布団を2組並べて寝た。
布団を畳み、シーツと枕カバーを外してその上に置く。
「おはよう」
台所の父親に声をかけながら後ろを素通りしてトイレに行く。
出ると、向かいの洗面所で顔を洗った。
バミューダパンツとTシャツに着替え、ベランダの掃除に取り掛かかる。
木の床を掃き、手すりの間に作られた小さな蜘蛛の巣を壊した。
「18度、湿度80パーセント」
今日は、7月5日だ。
濃い緑の葉陰から差し込む朝日が今はまだ柔らかいけれど、もう1、2時間もすれば、下界は熱気でうだるようになるのだろう。
標高1,057メートル。
シゲルは、ベランダの右隅に置いてあった木製の4人掛けのテーブルを真ん中に移動すると、2人掛けの木製ベンチをテーブルの手前と右側にL字形に置いた。
「安売りのパンとヨーグルト、野菜サラダにバナナとミルクティー」
1人分が、それぞれ四角いお盆の上に並べられている。
見ればわかるのに、父親が、昨日スーパー・オギナで買った食材の解説をした。
野菜サラダは1袋99円で、袋から出せばそのまま食べられるので、包丁を使う手間がなくて楽。
父親が南を向いて腰を降ろし、息子が東を向いて座る。
「いただきます」
ベランダから見上げると、上空がほとんど木々の緑で覆われ、枝葉の隙間からわずかに青空が覗いていた。
深い緑と焦げ茶色の世界。
かすかな風が樹間から流れてきた。
左からやってきた1羽の小鳥が、そこここの枝に飛び移り、右に去っていく。
「就職は、どんな感じだ?」
紅茶を一口すすると父親が言った。
「いろいろ、あるんだよね」
昨日が消費期限だったメロンパンをかじりながら、息子がつぶやく。
「?」
目だけ右に向ける。
「だって、世界中が荒れていて、何を信じたらいいのか、よくわからない」
ロシアがウクライナに攻め入って4年半。ロシアに資本投下していた日本企業は大きな打撃を受けた。
そうでない企業もサプライチェーンの断絶と混乱の影響を受けて、事業に支障を生じたじゃないか。
イスラエルがイランを攻撃したらアメリカが加勢し、ホルムズ海峡が封鎖されるとガソリン代が値上がりした。
ナフサの入手が困難になるとペンキ屋さんの仕事がなくなり、お菓子の袋がカラー印刷から白黒印刷に変わった。
サナエ・ソーリの元で日経平均株価は数十年来の高値更新をしたけれど、学生の生活が楽になったわけでもないし、在学中に借りた数百万円の奨学金の負債を背負ったまま卒業した先輩もいる。
「ミドリさんだって、大学院の時の借金、あるんだよね?」
父親の口から、姉の借金の額を弟に言うわけにはいかないけれど、借金を背負った者同士の結婚だったことは事実だ。
そもそも、深井の自宅だって、タカシが70歳になるまでローンが続く。
ひとしく、国民の多くは、年収を大きく上回る借金を背負いながら暮らしているのだ。
「お父さんから言うのもなんだけど、国と地方公共団体が背負っている借金だって、国民1人あたり1,000万円を超えている。
昨日生まれたばかりの赤ちゃんから、明日亡くなるかもしれない老人まで、全部含めて、皆で返していかなきゃならない。
主には赤字国債だけど、このまま金利が上がると、その返済がだんだん苦しくなる。
それを気にするエコノミストもいるし、気にしなくてもいいという専門家もいる」
野菜サラダを箸でつまむと、息子がつぶやいた。
「為替の変動を見ていると、企業努力の範囲を越えていると思うんだ。
為替がちょっと動いただけで、それまでの企業努力が吹っとんじゃう。
自分の黒字と赤字を、自分でコントロールできない。
いや、もちろん、苦しむ企業とは別に、それで儲かる企業もあるよ。
でも」
紅茶を一口すする。
「お金がなくてもいいとは言わないけど、お金のために働こうとは思わないんだ」
散歩中なのか、手前の坂を歩いてやって来た3人の親子と目が合い、軽く会釈した。
「東京や横浜までの通勤を考えると南急電鉄の駅の近くの方がいいに決まっているけど、どうせ住むなら海の近くで自然豊かな方がいいと思って、お父さんたちは深井町を選んだ。
豊浦公園から眺めた富士山が、素晴らしかったんだよ。
仕事をすることはとても重要な人生の要素だけど、どこに住むかというのも、それに劣らない重要な選択だと思ったんだ」
深井町は海辺だから、1年中海に親しむことができた。
磯で蟹やダボハゼをつかまえて、玄関の水槽で飼っている。
月に1回は水替えが必要だけれど、ポリタンクを持って磯に行き自分で汲んでくれば、それほど苦にはならなかった。
「仕事って、しょせん、問題解決だと思うんだ。
お金をもらって、社会と人々が抱える問題を解決すること、それが仕事をするってことさ。
別に、解決する対象や中身が何だっていいさ」
そう言って、バナナをかじる父親。
「少し遅いけど、夏休み中に、いろいろ考えてみたいんだ」
シゲルが1匙口に入れたパイナップル・ヨーグルトが、意外に酸っぱかった。




