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第44話 父子で初夏の山中湖

「シゲル、絵を置いたら、窓を開けてくれるか?」

 タカシは息子に声をかけると、車に残りの荷物を取りに行った。

 シゲルは、M100号の段ボール箱入りの作品をリビング左の10畳間に持ち込むと、他の作品の手前に立てかける。

 高校1年から制作した10数点の大判作品が壁から並んでいて、10畳間の6分の1ほどを占領していた。

 築50年。南向きの緩斜面に建つ山荘は、とても古いけれど、かび臭さとは無縁の、元気な高齢者然としている。


 7月4日の昼とはいえ、幸い曇天(どんてん)なので、山荘の室内はそれほど温度は上がっていなかった。

 温度、19度。湿度、75%。

 鎌倉の海岸通りが27、28度あったから、それに比べると、大分低い。

 軽井沢や八ヶ岳並みの標高1,000メートルの別荘地なので、常に下界より7度ほど低いのだ。

 気圧は平地より0.1気圧低く、家から持ち込んだポテチの袋が、山荘に着くと関取のお腹のようにパンパンに膨れる。

 でも今日は、湿度がいつもより妙に高かった。

 不審に思ったシゲルが台所のシンクの左脇に置かれた除湿機を見にいくと、赤いランプが点滅して、内蔵タンクが満水になっていた。

 本来は、65%の室内湿度設定で自動的に除湿機が稼働し、本体後ろからホースを経由してシンクに排水される仕組みになっていたのに、停電のせいで設定がリセットされ、内蔵タンクに貯水するようになってしまっていたのだ。

「お父さん、除湿機が満水だったよ」

 外に向かって叫ぶ。

「あー、停電のせいかー」

 外で世帯主が叫び返した。


 シゲルがベランダに出ると、周囲の木々の緑がわずかな風に揺れている。

 外の森の中の湿度は、一年中80%だ。夏も冬も、不思議なほど変わりない。

 都会で皮膚のトラブルに悩む人が、森の中に住むと症状が改善されるという話をよく聞くのは、この高い湿度と、木々から降り注ぐフィトンチッドのせいだと考えていた。

「人間だって、二足歩行する前は森の木の上に住んでいたんだし」

 都会の真冬、暖房の効いた部屋の湿度20%が、人間の体に良いわけがない。

 こうして、森の中にいると、原始的な人間に戻れるような感覚を覚える。

 鹿やリス、野ねずみ、時にイノシシを見るけれど、年に1、2度熊出没注意の看板が管理事務所から出された。

 野鳥の声や姿が常に身近で、夏は蝉の声が四方から降り注ぐ。

 ベランダでお昼を食べていると、小鳥がやってきて手すりに止まり、小首を傾(かし)げてからあわてて帰って行く。

 初夏には草が生(お)い茂り、木々の葉が緑に染まるけれど、秋には枯れ落ちて裸木になり、冬は雪に埋もれる。

 夏は、モンシロチョウの雄が雌を追いかけて飛び回る下を巨大なミミズが灼熱の路面でのたうち回り、モグラが天を仰いで死んでいたりする。

 秋は、1.5メートルもあろう青大将が、陽を浴びながら体を温めているのを見る。

「好きでこんな体してるんじゃねぇ」

 ハリー・ポッターじゃないけれど、彼がそう呟(つぶや)くのが聞こえた。

 初冬、玄関前に胡桃(くるみ)の殻と黒い糞が落ちているときは、会わなかったリスの姿を想像する。

 真冬は、木々の枝先の新芽を氷の塊(かたまり)が包む。

 新芽は、この氷の仕打ちに耐えなければならないけれど、実は、それが、氷点下15度から身を守る厚手の外套の役割をしてくれていることに気づく。

 0度の方が、はるかに「温か」い。

 ベランダの下が鹿の家族の通り道になっていて、雨が当たらないところの土が丸く凹んでいるときは、家族皆でここで休んでいったんだなと思う。

「寒い雨が続くときは、鳥も鹿も、どうしているんだろう?」

 森の中では、生き物の命が豊かで、そして、それが同時に儚(はかな)いものでもあることを、目にし、学ばされる。生も死も、ここでは身近かなのだ。

 三浦半島の海辺の深井町という温暖な気候の家にいるときと、この、真冬に氷点下15度を下回る山中湖にいるときとで、自分が別人になるような感覚、というか、実感が得られるのだった。

 そして、その実感と物思いは、シゲルの作品制作の土壌と誘因になっていた。


「おー、ルンバくんはたくさん拾ってくれてたなー」

 停電のために充電ステーションに戻れずリビングでスタックしていた2台のお掃除ロボットのゴミ回収容器を空にしながら、外で父親が叫んだ。

 ルンバを導入する前は、山荘に着いて最初にすることが掃除機を使っての掃除で、冬は部屋が寒い中でやらなくてはならず、面倒だった。

 2台それぞれの自動運転の曜日と時間を変えて設定してあるので、ほぼ毎日のように、山荘の掃き掃除を済ませられるようになっていた。

 前回離荘からの1か月ほどの期間に、細かなゴミや小さな虫の死骸などを意外なほど拾ってくれていたのだ。


「温泉は、どっちに行く?」

 父親が聞いた。

「やっぱり、『紅(べに)富士の湯』かな?」

 隠れ家的な『石割の湯』も悪くないけれど、雲がなければ富士山が丸見えになる露天風呂の方が、気分爽快になる。

 時間的には、一般客が夕食前の入湯に来るその前に入るのが、洗い場の争奪戦に巻き込まれないためのコツだ。

 2階の食堂も、そのタイミングならまだ混まないし。

 親子で背中を洗いっこできるのは、年に1、2回、一緒にここに来た時だけのことだ。

 思春期を過ぎて父親と隣り同士で体を洗うのは少しためらいがあるけれど、それを説得するだけの気持ちになれるのも、標高1,000メートルの効果かもしれなかった。(つづく)

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