第39話 練習時間なんか、関係ないのよ
「シゲルくんの絵って、どうやって描いてるの?」
5月30日の土曜日、午前11時20分。外は初夏の日射しが降り注いでいた。
東京都港区六本木にある国立新美術館、1階展示室の第3室で、林小春が青木繁に質問した。
高さ5メートル、幅12メートルの展示パネルに掲げられた数点の作品の真ん中に、M100号〔横1,620ミリ×縦970ミリ〕のシゲルの抽象画が掲げられている。
第3室は、全部で16室まで続く展示室のうちで、未来芸術家協会の主要メンバー作が圧倒的な大きさと迫力で並ぶ第1室と2室に続く中堅作家用の展示室で、シゲル以外でもそれぞれ150号ほどの平面作品が並んでいた。
作品名は「無意識からの伝言」。そのキャプションの中に「審査員」と付記がある。
作品の画面の1番手前側には、幅が異なり所々トゲがあるような黒い曲線がうねうねと描かれ、曲線が形作る造形の中と外にそれぞれ多様な色が塗られていた。
そして、その画面の奥側には、背景としてさらに細かな形と色があることが、半分透けて見える。
真ん中に位置する造形が、目を細めて見ると人の顔のように見えないこともない。
周囲の観覧者に迷惑がかからないように、小春に体を近づけてから小さな声で説明した。
「コンピューターで作ってるんだ」
顔を画面に近づける小春。
「そうは見えないわね?」
「丸みの部分にジャギー〔階段状のギザギザ〕が出ないように解像度を大きくしてるのと、印刷業者にマットな感じが出るようなインクを使ってもらってるからね」
丸く尖らせた口先から息をもらす小春。
「コンピューターで変換する前のデータとして、格子状の画像を用意するのさ。
例えば、13列掛ける7行のセルをイメージしてごらん。
それぞれのセルを囲む線は、あえて幅が違うように手描きで修正する。
次に、そのセルの中に落とし込む色を決める。
あとは、コンピューターで画像の形を変換するだけなんだ」
シゲルに向き直る小春。
「色は、どうやって決めるの?」
両肩をひょいと上げるシゲル。
「絵具の色ってさ、シアン〔青〕、マゼンダ〔赤〕、イエロー、ブラックの4色の配合で作れるんだ。
だから、その4つの色それぞれの配合割合を、コンピューターを使ってランダム関数で発生させればいい。
例えば、シアン100パーセント、マゼンダ39パーセント、イエロー0パーセント、ブラック26パーセントなら、マリンブルーができる。
そうやって全部のセルの色を決める。
このデータ入力にかかる時間が30分。
次に、形を、これもコンピューターでヒョイッと変換する。
その後、できた画面の中から気に入った部分を切り取るだけ。
作業全部で1時間位かな?」
口を開けたままの小春。
「それだけ?」
笑いながら鼻から息を漏らすシゲル。
「それだけ。
切り取ったデータを業者に送れば、キャンバス印刷、木枠貼りして納品してくれる」
小春がシゲルの左肩を叩いた。
「安直すぎない?」
シゲルが両手で顔を覆い、深々と頭を下げた。
「だから、ぼくは、絵筆を執って生絵を描いている人の作品を見ると、申し訳なくて仕方がない。
『ごめんない!』って、土下座したくなるんだ。
普通は、3か月、長いと半年も、その作品の制作に時間と労力をかけている。
でも、ぼくは、長くても2時間くらい。
本当に、申し訳ない」
また頭を下げた。
うなずく小春。
「でも、冷静に考えると、結果が全てよね?」
シゲルが首を左に傾ける。
「ピアノだってさ、どんだけ練習しましたって、口で言い訳しても何にもならない」
小春は、東都音楽大学のピアノ科の現役学生だ。
「結局、その場、その時の演奏結果でしか評価されない。
練習時間なんか、関係ないのよ」
絵はあらかじめ制作した優良な作品を何枚も倉庫に長期間にわたって保管し、それを取り出せばいつでも展示できるけれど、楽器演奏は、演奏当日に最良のパフォーマンスが発揮できなければ、それまでの全ての努力が泡となってしまう極めてシビアな芸術だ。
生つばを呑むシゲル。(つづく)




