第29話 サントリーホールでド演歌?
「ププププププププ、ププププププププ~~~(下のドから上のドへ上がり、高いレから元のドに戻って最後に3拍伸ばす)」〔スケール〔音階〕練習〕
春分の日を含めた3連休の土曜の午後、シャッターが降りた青木家の2階の窓から、いつものテナーサックスの音色が聞こえてきた。
青木家と同じブロックに住む元大学教授の下原さんがゴールデン・レトリバーのレンちゃんとの散歩から帰ってくると、玄関先で草をむしっていた海上防衛隊OBの松崎さんと会う。
松崎さんは、寄る年波からもう仕事はせず、家にいることが多かった。
「レンちゃ~ん!」
松崎さんが膝をついてレンちゃんの首をなでると、にこにこして顔をなめる。
「青木さん、続いてますねぇ?」
下原先生が青木家の2階を見ながらつぶやくと、松崎さんがレンちゃんのマズル〔鼻の脇〕に頬ずりしながら返事をした。
「なんでも、8月17日にサントリーホールに出演することが決まったそうですよ」
「ええっ!」
のけぞる先生。
「出るかもって話は、以前したじゃないですか?〔第23話参照〕
なにしろ鳥村楽器音楽教室の全国の生徒さんが、希望すれば出場できる可能性があるというんで、ものすごい応募があったそうですよ。
実際の演奏会場が小ホールとはいっても、何しろ天下のサントリーホールですからね。
一生に1度、その舞台に立てるかどうか、ってところです。
で、かなりの抽選になったそうです。そしたら、当選しちゃった。
別に、サックスの腕で選ばれたわけじゃない」
「ププププププププ、ププププププププ~~~」〔スケール練習〕
うなずく先生。
「いや、それにしても、大したもんですよ」
「でね、3月28日までに演奏曲を決めて出さないといけないそうです」
「あれっ? 前回『オーバー・ザ・レテンボー』って言ってませんでした?」
立ち上がって窓を見上げる松崎老人。
「なんでも、規定の演奏時間が4分30秒以下なんだそうです。
でね、『オーバー・ザ・レテンボー』の楽譜と伴奏用CDを探したら、サックス用の物の時間がちょうど3分。1人分の枠より大分短い。
それで、もっと長い時間舞台に立っていたいからって、いくつか別の曲も探したそうですよ」
「なるほど」
顎の無精髭をなでながらつぶやく。
「なんでも、アルトサックスの楽譜と伴奏CDは山のように売ってるのに、テナーサックス用は少ないんだそうですよ。極端に少ない。
習っている人もアルトに比べてテナーは少ないからだそうですよ、彼が言うにはね?」
「そんな話がアルト」
先生が、松崎さんちの車庫に視線を向けると、その先にスズキのアルトが停めてある。
「なんでも、『サックスあるある』なんだそうです。
で、とても苦労して、やっと2曲みつけた」
レンちゃんがリード綱を噛んで引っ張るのを、首をなでてなだめる先生。
「で、ほかの曲とは?」
「ずばり。坂本八っちゃんの『見上げてごらん夜空の星を』と美空ひまりさんの『河の流れのように』なんですよ。
それぞれの演奏時間が、3分40秒と4分10秒」
再びのけぞる先生。
「まあ、『見上げてごらん夜空の星を』は名曲ですよ。ぼくも大好きです。
惜しい人を航空機事故で亡くした、、、。
でも、『河の流れのように』は、演歌ですよね?
クラシック専用のサントリーホールで、演歌を演奏してもえーんかの?」
「先生、今日、お体の具合大丈夫ですか?」
「ちょっと頭が痛い」
笑い出す2人。
先生が上を向いて笑うと、右の奥の金歯が見える。
「でね。ご本人も心配して、鳥村楽器店のスタッフに相談したそうですよ。
そしたらね、『皆さん、お好きな曲を自由に演奏してますよ』って言われた。
サックスの先生にも相談したら、『いいんじゃない?』と」
「そうですか、、、。
確かに、シャンソンといえばフランスの演歌なんだろうし、ジャズだってアメリカの演歌だといえばそうかもしれない。
それぞれの国や民族が、独自の文化と音楽を育ててきた。
そう考えると、湿度が多めで気温も欧米に比べれば高めの日本で、演歌のような少し湿った歌が作られてきたのもうなづけないことじゃない」
「なるほど。鋭い見立てですね?」
先生がレンちゃんの頭をなでながら言う。
「人の生き様を綴った歌曲に貴賤の違いがあろうはずはない。
ぼくの先入観が間違ってた。
サントリーホールでド演歌。
いいじゃないですか。
ぼくは応援することにしました!」
「プ~プ~~~~、プププププププ、プ~プ~~」
青木家の2階から『河の流れのように』のサビのフレーズが流れてきた。
見上げる2人。レンちゃんも諦めて腰を下ろしている。
「雨戸のシャッター、サビてますね?」
「さすが、築30年!」
日本晴れの青空を見上げて笑う2人の老人。(終わり)




