第28話 シゲルが帰って来た
「ただいま~」
2026年3月7日の土曜日の午後。玄関から入ってきたのは、青木家の息子、シゲルだ。
「ああ、お帰り!」
台所で食後の食器洗いをしていた世帯主のタカシが、手ぬぐいで両手を拭きながら前掛けのまま小走りでやってきた。
「お昼は?」
「うん、電車に乗る前に駅前のムクドナルドで早やお昼を食べてきた」
シゲルは東京理系大学工学部機械工学科の3年生で、世田谷区太子堂のアパートで一人暮らしをしている。
三軒茶屋駅前のムクドナルドは自分のバイト先だけれど、週末はそこでお昼を食べることが多かった。
「ブランチか?」
図星に頭をかくシゲル。
学年末試験も終わり、研究室の実験がひとまず片付いたとのことで、里帰りしてきたのだった。
三浦半島の深井町から大学キャンパスのある新宿区神楽坂まで通えないこともないけれど、シゲルはあえて一人暮らしを選んだ。
「生活費は、自分のバイトで出します!」
両親の前で両手をつき、畳に頭をこすりつけた。
黙ったまま腕組みをする二人。
「可愛い子には旅をさせろと、昔の人も言ったわよね、、、」
コズエさんがつぶやくと、タカシも諦めた。
「ライオンは自分の子を谷底に突き落とすらしい」
右手で膝を叩きながらコズエさんが笑う。
「東京新宿での学生生活が谷底だとは、とうてい思えないわよね?」
苦笑いするタカシ。
授業料、アパート代、生活費を合計すると月額30万円の見積もりだ。
「お父さんの一般財形や年金財形が、またなくなっちゃうわね?」
シゲルの姉のミドリが青海学院大学の大学院に行っている間に、青木家の貯金はすっからかんになってしまった。
ミドリが無事に博士課程を修了してから、ようやくまたわずかな貯金が貯まりはじめたところだったのに、またもや残高0円か。
「いい。わかった。おれの体は元気だ。
自分の将来を自分で責任持てるなら、そうしろ。
そのかわり、留年したり、就職しなかったりしたら勘当するからな!」
ヤケになったタカシが笑いながら怒鳴った。
生唾を飲み込むシゲル。
せっかく受かった第1希望の東京理系大学だったけれど、授業と試験の厳しさは有名で、必修科目の授業なのに試験で半分落として平気な先生がいるというのを先輩から聞いていたからだ。
でも、その厳しい校風が企業の中では厚い信頼になっていて、「あの大学、あの先生の研究室なら大丈夫」と就職率の良さが際立っていたのも事実だった。
「お母さんは、今、マッサージに行っているから、戻るのは3時すぎだ」
タカシの目尻が下がっている。
息子が大学入学と同時に東京暮らしを始めると、心の中に大きな空洞ができた。
街中や駅で母校・横須賀統合高校の制服を着た高校生を見かけると、胸の中が苦しくなる。
カラオケ店やラジオからサラ・マサシが歌う「案山子」が聞こえてくると、止めどなく涙が流れた。
気丈なコズエさんは何も言わないけれど、タカシは息子の生活のことが気になって仕方がなかった。
シゲルの下宿先は三軒茶屋駅から下北沢駅へと続く「茶沢通り」のひとつ西側の通りにあり、2階建て南向きアパートの2階の部屋で、ワンルームだったけれど3畳のロフトがあった。
「今、ちょうど空いた部屋があるんですよ。見に行きますか?」
タカシがシゲルと一緒に下宿先を探しに駅前の不動産屋に入ったところ、椅子から立ち上がった担当者が陽気に言った。
現地に行けば、2階で日当りはいいし、なにしろ3畳のロフトを寝室にすれば、実質的に2Kだ。即決。
家族みんなで引っ越しを手伝ったのが、もう3年も前のことになる。
終電に乗り遅れた同級生が、ずいぶん泊めてもらいに来たらしい。
コズエさんが帰ってくると、台所でコーヒーを飲んでいたシゲルがぼやいた。
「美術展の準備があってさ」
「近代美術家協会の神奈川支部?」
両肩と首を回しながら聞く。
「うん。4月に横浜の戸塚区民センター・ギャラリーで支部の春展があるんだけど、その出品作の配布用のリストを作ったり、当日貼り付けるキャプションを作ったりしないといけない」
コズエさんが、ティーバッグを入れたカップにポットのお湯を注いだ。
「人手が足りないのね?」
「まあ、人数はいるんだけど、事務的なことができる人というと数人ってところかな」
「昔からお世話になっているから、義理と人情ね?」
シゲルは高校時代は美術部だったけれど、部活の顧問の縁で近代美術家協会のメンバーになり、毎年6月に東京の国立新美術館で開催される「近展」にはM100号(1,620mm×970mm)の大作を出品するまでになっていた。
若くして会友賞をとって会員になり、昨年は奨励賞をもらった期待の新人というところだ。
その作品の在庫置き場が山中湖の山荘で、美術展の搬入・搬出となれば、タカシが運転するスバルレガシィ・ツーリングワゴンの荷台に作品を載せて、自宅と山荘、山荘と美術館の間を往復するのが常となっている。M100号がレガシィの荷台に入る最大サイズなのだ。
「またお父さんに休暇をとってもらわないといけない。やれやれ」
「やれやれは、おれのセリフだろ!」
台所の隣りの茶の間の炬燵から父親が叫ぶと、コズエさんとシゲルが笑った。
水槽のガラス壁に体を寄せた梅干イソギンチャクの銀子ちゃんが、ノートにメモをとりながら久しぶりの家族の会話を聴いていた。(終わり)




