04.一世一代の賭け
人生で最も大胆な賭けに出る夜だというのに、扇を握る私の指先は、氷のように冷えている。
この夜会の主催者はまだ年若い伯爵家で、招かれているのも比較的若年層の貴族ばかりだ。
年嵩の重鎮が顔を出すような、格式ばった夜会ではない。
——つまり、イヴァン様は、いらっしゃらない。
あの方の目が届かず、かつマルク様が参加される。
四年かけて積み上げた手札をすべて卓に並べるのは、今夜しかない。
探すまでもなく、ホールの奥、暖炉のそばで友人と談笑するマルク様の姿が視界に入ってきた。
私は軽い足取りで人混みを縫っていき、ごく自然な動きで彼の背後を通り過ぎる。
すれ違いざま、畳んだ紙片をそっとその手に滑り込ませるために。
指先がほんの一瞬、マルク様の手に触れる。
それだけで、心臓が馬鹿みたいに跳ねた。
紙片には、最低限の言葉だけをしたためた。
“庭の東屋にて、お待ちしております。
リディア・アダモフ”
私はそのまま振り返らず、ホールの反対側へと歩いていった。
果たして、彼はきてくれるだろうか。
今夜最初の賭けが、始まった。
◇◇◇
冬の空気は、相変わらず肌を刺すように冷たい。
私は植え込みの奥、人目から外れた場所にぽつりと建つ東屋で一人、震えながらマルク様を待った。
この場所は庭師に銀貨を握らせて教えてもらったが、人の気配が一切ない分、長居するには不向きなほど風が強い。
寒さを意識しないよう夜空に視線を向けると、ふと、四年前のあの夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。
イヴァン様との婚約を形ばかり祝われ、バルコニーから庭を見下ろしていた、あの夜。
あの時も、今夜のような満月だった。
程なくして、芝を踏む足音が近づいてきた。
その音を聞き、私は最初の賭けに勝ったことを確信した。
聞き慣れた——そう、我ながらどうかと思うが、聞き慣れた足音だったからだ。
「……アダモフ伯爵令嬢」
東屋の入り口に立ったマルク様は、白い息を吐きながら、警戒と困惑の入り混じった表情を浮かべている。
当然だ。婚約者のいる伯爵令嬢に、あんな意味深な走り書きで呼び出されたのだから。
しかし、彼はきた。
それどころか、その視線が私の目元をとらえた途端、なぜか安堵のため息をついた。
「良かった……今夜は涙を流しておられないのですね」
「えっ……?」
まさか。
「四年前の、あの夜。あの日から、ずっと気にかかっていたのです。満月を見るたびに、あなたが一人で静かに涙を流しているのではないかと」
マルク様の言葉に、用意していた台詞が頭の中から綺麗に吹き飛んでしまった。
あの日の出来事など、後生大事に抱えているのは私だけで、マルク様はとっくに忘れていると思っていた。
それなのに。
この方は、たった一度言葉を交わしただけの私を、心の隅に留めてくれていたのか。
——知らなかった。
あんなに調べ尽くしたのに、私は、そのことは知らなかった。
「あの夜は、ありがとうございました。……どうか今夜、その恩返しをさせてください」
「恩返し?」
「マルク様。カミラ・メリコフ男爵令嬢とのご婚約は、決して受けないでください」
その一言で、彼の目は驚きに見開かれた。
家格が上の伯爵令嬢が、子爵家嫡男の婚約に口を挟みに来る。
しかも、自分には侯爵という婚約者がいる女が、である。
一体何様だと、自分でも思う。
「……アダモフ伯爵令嬢、申し上げにくいのですが。私の婚約は、私の家のことです。他家の方が立ち入られる事柄では」
「承知しております。ですが、あの方と結ばれたら、マルク様は必ず不幸になります」
「不幸に……?」
マルク様は、怪訝な表情を浮かべている。
なぜそんなことが分かるのか、とでも言いたいのだろう。
私は小さく深呼吸をすると、飛び出しそうになる心臓を押さえながら、ついに用意してきた台詞を口にした。
「私の言葉を信じていただくために、一つお話ししておきますが——私は、この世界が物語として描かれた、別の世界から転生してきた者です」
私の言葉に、マルク様の表情が文字通り凍りついた。
そして、少しだけ間を置いてから、どこか気遣わしげな笑みを私に向けてくる。
「……アダモフ伯爵令嬢。医師をお呼びしましょう」
彼の反応は、想定の範囲内だ。
驚きと、困惑と、そして——ほのかな同情。
「その……ゴーマン侯爵とのご婚約が、負担になっておられるのですか。もしそうなら、私でよければお話を伺いますので……」
優しい。あまりにも優しい。
私は狂人扱いされてもおかしくない発言をしたばかりだというのに、この方は私の心を心配してくださっている。
そしてその優しさに、胸が痛くなった。
こんなに優しい方が、あんな女の毒牙にかかるなど、許されてはならない。
「……マルク様の朝食は、ジャムを薄く塗った白パンと、レモンを浮かべた紅茶。紅茶は必ず、おかわり込みで二杯」
彼の眉が、わずかに動いた。
「右の手首の内側に、幼い頃の落馬でできた小さな傷痕があります」
「……どうして、それを」
「お父上から十三の春に贈られた銀の懐中時計を、今も大切に使われている」
マルク様が、信じられないものを見るような目を私に向けている。
「苦手なご令嬢からの贈り物は、丁寧に礼を返した後、その日のうちに使用人にこっそり処分させる」
「待っ……」
「満月の夜にだけ、窓辺で夜空を眺めていらっしゃる」
——もう一押し。
「お困りの時、ご自身では気づいておられないようですが——右手で、軽く襟元を撫でる癖がある」
その瞬間、襟元に伸びかけていたマルク様の右手が、慌てて引き戻された。
「これらはすべて、転生前に物語の中で読んだ、あなたの習慣です」
◇◇◇
長い沈黙の後、マルク様はようやく口を開いた。
「……あなたは、私のことを、どこまで」
「未来を含めて、すべて」
私は、できる限り神妙な顔を作って続けた。
内心では、心臓が早鐘を打っている。
しかし、ここが計画の山場だ。失敗は絶対に許されない。
「カミラ嬢と結ばれたら、マルク様は、別の男との間にできた子を、ご自分の跡継ぎとして育てることになります。そして、その子の六歳の誕生日に——口にするのも憚られるほど、凄惨な最期を迎えるのです」
彼の体が、わずかに震えた。
私の言葉を、信じ始めている。
彼だって、あの女に思うところがあったのだろう。先日の夜会で、ご友人に違和感を漏らしてしまうくらいには。
「……それは、確かなのですか」
「物語の中で、すでに確定された未来です。私はそれを変えるために、ここへ来ました」
我ながら、荒唐無稽だと思う。
即座に修道院に送られ、幽閉されてもおかしくない大嘘だ。
けれど、もう後戻りはできない。
マルク様は、何かを言いかけては口を閉じるということを幾度か繰り返した末に、地面に視線を落として、ぽつりと呟いた。
「……私の一存で婚約を白紙に戻すことは、できません。あれは、父が決めたことですから」
彼はまた何かを言いかけて、口をつぐむ。
それから、ためらいがちに、私を見つめてきた。
私がその視線から目をそらせずにいると、マルク様の薄い唇が、小さく動いた。
「もしあなたが、私の婚約者であったなら……」
それは私の願望かもしれないが、無意識のうちにこぼしてしまった、マルク様の本音のように聞こえた。
直後、彼の顔が、瞬時に赤く染まる。
そして、慌てて頭を深く下げた。
「申し訳ございません……! あなたにはゴーマン侯爵というお方がおられるのに、私は、一瞬とはいえ、なんという無礼をっ」
無礼?
今、彼は無礼なことを言っただろうか。
……私が、マルク様の婚約者だったら?
それはつまり、マルク様は、私に婚約者になって欲しいと思っているということで。
えっ……もしかして、これって——プロポーズだ!
私の中で、何かが爆発した。
四年間、物陰から眺めてばかりだったあの方が、たった今、自分の意思で、私にプロポーズをしてくれたのだ。
叫ばなかったことを褒めて欲しい。
「マルク様」
私は再び神妙な顔を作った。
内心では、まだ歓喜の余韻が冷めやらない。
それでも、伝えなければならないことがあった。二人の輝かしい未来のために!
「実は、マルク様が救われる方法が、一つだけあります」
「私が、救われる方法……?」
「はい。物語のヒロインも、同じ手段で不本意な婚約を覆していました」
マルク様は、まだ赤みの残った顔で、私を見つめている。
私は深く息を吸ってから、キッパリと告げた。
「私が、マルク様のお子を孕みます」
私の言葉に、彼の顔がますます赤みを増してしまった。
いけない。言葉選びを間違えたようだ。
「は……?」
「正確には、医師にいくらか掴ませて妊娠の診断書を作り、頃合いを見計らって流れてしまったことにします」
私はぐっと身を乗り出すと、必死に力説した。
「いいですか。私が、マルク様のお子を身ごもったと父に申告すれば——家名の汚れを何より恐れるあの父は、私とマルク様を、必ず無理やりにでも結婚させようとします。そうなれば、マルク様はカミラ嬢との婚約を、ひいては凄惨な未来を回避することができる。完璧な計画です」
マルク様は、口を半開きにしたまま、私の説明を聞いていた。
理解が追いついているのかどうか、私には判別がつかない。
「……あの、アダモフ伯爵令嬢、それは、その」
「ご懸念は分かります。ですがご安心ください。ゴーマン侯爵のもとへは、私の妹が代わりに嫁いでくれます。彼の心配は必要ありませんし、物語のヒロインもこの方法で、愛するお方と結ばれたのです。ですから、絶対に上手くいきます」
そうだ。
妹だって、あんなに気にかけていたイヴァン様と結婚できるなら、きっと喜んで身代わりになってくれるはずだ。
なんだ、これでみんな幸せになれるじゃないか。
マルク様は長い長い沈黙の後、覚悟を決めたような顔をして、私にキッパリと告げた。
「……やはり、ダメです。この提案は受け入れられません」




