03.尾行の果てに
調査を始めて四日目の朝。
私はいつもより簡素なドレスに着替え、こっそり一階の小部屋に忍び込んだ。
今日は本気の尾行に踏み切る日だ。
侍女には先に別の用事を作って外出させておいて、目立たない小さな馬車を一台、裏門の近くに待たせている。後は誰にも見られず、この窓から庭へ抜けるだけ。
一つ深呼吸をして気合を入れてから窓枠に片足をかけた、まさにそのときだった。
「あら、お姉様。今日はそんなところから、庶民のような格好でお出かけ? 次期侯爵夫人が、ずいぶん品のいいことをしているわね」
背後から聞こえてきたのは、うんざりするほど聞き慣れた声。
振り返れば、妹が部屋の入口からこちらを眺めていた。
含みのある笑顔。
面倒臭い相手に見つかってしまった。
「別に、今更でしょう。お父様は気にもとめていらっしゃらないわ」
「あら、そう? お父様が気にされなくても、イヴァン様はどう思うかしらね。侍女も連れずに一人歩きだなんて、淑女のやることではないわ」
いい加減イヴァン様ネタは、擦られすぎて飽きてしまった。
私はこれみよがしにため息をついてから、唇の端だけで微笑んだ。
「……あなた、随分イヴァン様にご執心ね。私と婚約を代われるように、お父様に頼んであげましょうか?」
私の言葉に、妹の顔から一瞬で含み笑いが消えた。
そんなに嫌か。
私は今だけはあの膨張した水死体のような体に感謝をすると、妹に背を向けて歩き出した。
◇◇◇
用意していた馬車に乗り込み、向かう先を御者に告げる。
カミラ・メリコフの別宅がある場所から少し離れた、ごく庶民的な通りだ。
そこに店をかまえる仕立屋は、品揃えはあまり良くないが、店主が情報通だと聞いている。
仕立屋の店主にほんの気持ち程度の心づけを渡すと、彼は快く話してくれた。
いわく、カミラは最近お忍びで、この通りの裏にある古い噴水によく姿を見せているとか。
誰と、何のために。
その答えを探るべく、私は人通りのない裏道を抜けて、噴水へと向かった。
かつてそれなりに立派だったらしい噴水は、今は水が枯れてしまっている。
私は誰もいないことを確認してから、辺りに乱雑に積まれた木箱の中に身を隠した。
しかし、身体中が痛くなるほど長い間潜んでいても、カミラは現れない。
太陽が傾き、いい加減に今日は帰ろうかと思い始めたその時。誰かの話し声が聞こえてきた。あの癇に障る甘い声は——カミラだ!
木箱の隙間から必死に目を凝らしてみると、見覚えのない男性と一緒であることに気づく。
雰囲気からして、身分はあまり高くないようだ。もしかしたら没落貴族かもしれない。
どちらにせよ、カミラのような可憐な令嬢が、わざわざ密会の相手に選ぶような家柄ではなさそうだ。
二人は密着したまま、噴水の縁に腰を下ろした。
幸運なことに、隣接した建物の壁に彼らの声が反響して、耳を澄ますと会話の内容が聞こえてくる。
「本当にこんなことしてていいのか? 俺と結婚する気なんてないくせに」
「そうね。私、近々とってもいい方と婚約する予定なの。純朴で、鈍くって……あなたみたいな男と遊んでも、たぶん気づきもしない、最高の方よ」
カミラは媚びるような眼差しで男性を見つめると、その首にしなやかに腕を回し、口づけをねだるように頬を寄せた。
男性は小さく笑い、彼女の腰を抱き寄せる。
私は木箱の中で、ゆっくりと息を吐いた。
息は浅く、脈は速く、耳元で何かが忙しなく鳴り続けている。
これが怒りなのか、嫌悪なのか。混乱した頭では理解することができなかった。
◇◇◇
その日を皮切りに、私はさらに尾行を重ねた。
カミラを観察すれば観察するほど、彼女の本性が露わになっていく。
人気のない庭園、誰も立ち寄らない路地裏、街外れの古い倉庫。
そういう場所でカミラが密会をしているのは、どれもこれも、社交界の表舞台では決して見かけない類の男性ばかりだった。そう、複数の男性!
それもガラが悪く、まともな暮らしをしていそうにない男たち。
カミラはその一人一人に、同じ笑い方をし、同じ角度で見上げ、同じ甘い言葉を囁いていた。
そして帰り際には、必ず同じ仕草で振り返り、相手の頬にそっと口づけて去っていく。
とんだ色狂いだ。
——あの女と結婚したら、マルク様は必ず不幸になる。
◇◇◇
その日も寝支度を調えると、いつものように自室の鏡台の前に腰を下ろした。
マルク様への愛が詰まった手帳を開いたものの、どうしても書くことのできない一文に、私の手は大袈裟なほどに震えている。
——間もなく、マルク様とあの女が婚約をする。
受け入れがたい現実に、私は思わず整えたばかりの髪をかきむしった。
絶対に許せない。よりにもよって、彼の隣に立つのがあんな女だなんて!
怒りで真っ白になりそうな頭を落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸をしてみる。
一度、状況を整理しなければ。
仮に、私がカミラの行動を告発したとして、上手くいかないことは目に見えている。
密会の約束が書かれた手紙などの物的証拠もない今、彼女の素行を証明する手立てがない。
カミラと親しくなって、部屋に招かれるように仕向ける?
いや、そんな時間はない。
カミラの相手の男たちも信用できない以上、迂闊に接触はできない。
そして何より恐ろしいのが、私が表立ってカミラを糾弾することで、私とマルク様が不貞関係にあるとイヴァン様に誤解されることだ。
あの方は恥をかかされたと思い込んだら、侯爵家の力を使って子爵家であるマルク様の家に圧力をかけかねない。
マルク様にご迷惑をおかけせずに、私が自由に動けるうちにカミラを追い払う方法。
……そんなもの、もしかしたら存在しないのかもしれない。
まさしく八方塞がり。
苛立ちを抱えたままベッドへ倒れこむと、ふと、本棚が視界に入ってきた。
そこに並べられているのは、大量のロマンス小説。マルク様と出会う前までは、現実逃避の手段として、暇さえあれば読み耽っていたものだ。
もし私が彼らのように生きることができたのなら——そう思考が逃避しかけて、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「そんな……いや、でも……もうやるしかないわ」
冷静に考えれば、馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうような計画を思いついてしまった。
正気の人間が選ぶ手段ではない。
失敗すれば、私は一族の恥として修道院に幽閉され、二度と外の世界へと出られなくなるだろう。
けれど、もはやどうでもいい。
どうせ一ヶ月後にはあのお方の妻になるのだ。
修道院に幽閉されるのも、イヴァン様との結婚生活も、行き着く先の不幸さで言ったら、たぶん同じくらいである。
ならば。
私はマルク様のために、なんだってしよう。
——たとえ、世間から狂人だと石を投げられることになったとしても。




