02.秘密の観察記録
観察記録の対象者——マルク・エリシンは、私と同じ年に生まれた、十八歳の子爵家嫡男だ。
彼がいたからこそ私は発狂せずにいられたし、同時に、狂わされもした。
あれは四年前の冬の、満月の夜のことだった。
イヴァン様との婚約が決まり、アダモフ伯爵家でも祝いの席が設けられたのだが。
父より年嵩のあの御方の隣に立たされた瞬間、私の頭は、白く塗りつぶされてしまった。
なぜなら、イヴァン様の心許ない毛量では隠しきれない頭皮が、シャンデリアの明かりに照らされてテカテカと輝いていたからだ。
何もロマンス小説のような甘い恋ができるとは思ってはいなかった。
——しかし、これはあんまりじゃないだろうか。
気がつくと、私は人気のないバルコニーの手すりにもたれかかり、眼下に広がる庭園の石畳をじっと見下ろしていた。
この手すりを超えてあそこに体を叩きつければ、この絶望から解放されるのではないか。
ふとそんな考えが頭をよぎった、その時。
「あ……失礼、先客がいらっしゃったとは」
背後から響いた、まだ少し幼さの残る声。
驚いて振り返ると、そこにいたのは私と同じくらいの年頃の少年だった。
……確か、エリシン子爵の隣にいた嫡男だが、名前はなんと言っただろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、私の頬に伝う涙に気付いたらしい彼が、大きく息を呑んだ。
我に返った私は、慌てて顔を隠しながら、なんとかその場を取り繕おうと口を開いた。
「お見苦しいところをお見せしました。……目に、ゴミが入ってしまったみたいで」
我ながら、苦しい嘘だと思う。
しかしこの少年は、私の言葉を疑うこともなく信じてしまったらしい。
「ああ、それは大変ですね! もしよろしければ、これをお使いください」
そう言って彼は、銀の刺繍が施されたハンカチを差し出してくれた。
「……ありがとうございます」
私が淑女らしく微笑みながらハンカチを受け取ると、彼はほっとしたような表情になった。
伯爵家に取り入るための打算でもなく、年老いた婚約者をあてがわれた私への嘲笑でもなく。
ただ、純粋に私を心配し、問題がないことを知って安堵してくれたのだ。
感情がそのまま表情に出てしまうのは、貴族としてはいささか問題があるかもしれない。
しかし、その貴族らしからぬ温かさに触れたあの夜から、私は彼のことがもっと知りたくてたまらなくなってしまった。
——そして現在。気が付けば、私は彼よりも彼のことを知っていた。
例えば、起床は毎朝七時。
朝食はジャムを薄く塗った白パンと、レモンを浮かべた紅茶。紅茶は必ずおかわり込みで二杯。
午前中は家庭教師のレッスンが三時限、それを終えると馬場に向かう。
黒鹿毛の愛馬は四歳、名はネロ。迎え入れてから二年、ご本人が毎朝欠かさずブラッシングをなさっている。
甘いものは苦手で、唯一の例外がマーマレード。それも、隣国から取り寄せたものに限る。
就寝前の読書が習慣で、最近のお気に入りは外国語の旅行記と、歴史物の小説。難解な詩集にだけは手を出さない。いや、出せないのだ。眠くなるのが自分でもよく分かっているらしく、枕元の棚にそれは一冊も並んでいない。
右の手首の内側には、幼い頃に落馬した際にできた小さな傷痕が一つ。
十三歳の春、お父上から贈られた銀の懐中時計は、今もお手元で大切に使われている。
苦手なご令嬢からの贈り物を受け取ると、丁寧にお礼を返しながらも、その夜のうちに使用人にこっそり処分させる。
無意識のようだが、困っていたり罪悪感を抱えている時は、いつも決まって右手で軽く襟元を触っている。
そして、満月の夜にだけ、窓辺に立ってぼんやりと夜空を眺める。
どうやってここまで調べ上げたのかと問われれば、答えは簡単だ。
初めて彼の姿をお見かけしてからの四年間で、周囲の人間に対して偶然を装った接触や世間話、果ては買収など、あらゆる手段を講じたからだ。
首都の別宅に出入りする業者。通いの花屋。別宅のある通りにお店を構える、靴職人、仕立屋、カフェの店主。
一度に拾える情報はほんのひと欠片でも、四年も根気よく積み上げれば、立派な宝の山になる。
頭がおかしいということは、誰に言われるまでもなく、きちんと自覚している。
けれど、こうでもしないと、私はこの想いを抱え続けることができなかったのだ。
私には婚約者がいて、マルク様と気軽にご挨拶する機会もない。
しかし、密かに想い続けるには、私の心はあまりにも彼を欲しがりすぎた。
ならば知識で飢えを満たすしかないという、涙ぐましい我慢の結果。
つまりこれは、ある意味で、私が立派な淑女であるという証明でもあると思う。
◇◇◇
社交シーズンも佳境に入り、首都では連日のように、どこかの邸宅で夜会が開かれている。
その夜のエイルマー侯爵家の夜会でも、さりげなくイヴァン様から逃げながら、私はいつもと変わらぬことをしていた。
まずは柱の陰の、マルク様のお姿を程よく観察できる位置を陣取る。
そして、扇でそれとなく顔を隠しながら、遠目にマルク様の様子を追いかけるのだ。
友人のご令息お二人に囲まれて談笑している彼は、今夜もやはり美しかった。
柔らかなブルネットの髪、細めた時にわずかに垂れる目元、口の端をほんの少し持ち上げる、あの控えめな微笑。会話の合間に、時折シャンパングラスを傾ける角度の優雅さ。
どれもこれも、いつ何度見ても、私の胸を甘く締め付けてくる。
マルク様のお姿に人知れず恍惚のため息をついていると、ホールの向こう側から、彼に近づいてくる人影があった。
淡いラベンダー色のドレスを纏った、小柄で可憐なご令嬢。カミラ・メリコフ男爵令嬢。
最近、頻繁にマルク様のお近くに現れるようになった方だ。
「ご機嫌よう、カミラ嬢」
「素敵な夜ですわね、マルク様」
カミラ嬢は微笑みながらマルク様を見上げた。
その角度。まつ毛の伏せ方。どれもが完璧だ。
まるで、鏡の前で幾度となく練習を重ねたかのように。
二言三言を交わしたのち、カミラ嬢は名残惜しげな微笑みを残して、マルク様の傍を離れていった。
一見、なんでもないやり取りだ。
しかし、その背中を見送るマルク様の表情を、私は見逃さなかった。
ほんの一瞬、肩が小さく揺れる。
眉が、わずかに寄る。
四年の観察で作り上げたこの目でなければ、きっと誰一人拾えなかったであろう、本当に微かな変化だった。
「マルク、またカミラ嬢に声をかけられていたな」
ご友人の一人が、冗談めかした口調でマルク様の腕を肘で突いた。
「あれだけ熱心に通いつめられれば、そのうち婚約の話の一つでも出てくるんじゃないか? 家柄も悪くないし、顔立ちも可愛らしい。悪くない縁談だと思うが」
マルク様は曖昧に微笑むだけで、すぐには答えなかった。
さりげなく右手で襟元を撫でている。
その様子に、ご友人が片眉を上げた。
「なんだその顔は。気乗りしないのか?」
「……いや、とても素敵な方だと思うんだけどね」
「思うん“だけど”?」
「ああ……何と言ったらいいのか」
困ったように、彼はゆっくりと言葉を探している。
「うまく、言えないんだけどね。あの方の傍にいるときだけ、なぜか少しだけ息が詰まる気がするんだ。何がというわけではないんだが、どうにも気持ちがざわつくというか。理由は、自分でもよく分からないんだけれど」
「ふうん。……まあ、考えすぎだろう」
「だと、いいんだけれど」
……ああ、可哀想なマルク様! 全て私にお任せください。
私は扇の向こうで、そっと心の中だけで答えた。
◇◇◇
その夜、屋敷に戻った私は、いつものように古びた手帳を開いた。
四年かけて書き溜めてきた、マルク様のための観察記録。一体、これでもう何冊目になるだろうか。
一番古い一冊の、最初のページ。その筆跡は、十四の頃のものだ。
今読み返すと、文字がやけに大きく、線が震えている。
当時の私は、彼の名前を書き記すだけでひどく緊張していたのだ。
それが今では随分と手に馴染み、自分の名前よりも滑らかに書くことができる。
それが上達なのか、麻痺なのかは、私自身にもよく分からない。
私は手にしていた手帳を閉じ、最新のものを取り出すと、新しい項目を書き加えた。
『要カミラ・メリコフの身辺調査』
本当は、何もかも忘れて大人しく嫁ぐのが正しいのだと、自分でもよく分かっている。
一ヶ月後、私はイヴァン様のもとへと嫁ぐ。
私の恋は、この複数の観察記録と共に、誰にも知られぬまま墓まで連れていくのだ。
いずれ老いて、夫の小言にもすっかり慣れた頃、時折こっそりこの手帳を開いては、若き日の愚かしくも甘い記憶を懐かしむ。
それが私の人生に残された、ささやかな楽しみ。
……といって簡単に忘れられるくらいなら、こんな狂気の塊を生み出したりはしない。
私は翌日から、早速カミラ・メリコフの調査に乗り出した。
表向きは友人との約束ということにしたが、実際のところはカミラの身辺調査だ。
彼女の表向きの評判は、申し分なかった。
気立てがよく、礼儀正しく、仲の良い令嬢がたくさんおり、男性の前では一歩引いた控えめな態度を崩さない。
社交界に飛び交う噂は、好意的なものばかりだった。
しかし、噂などというものは、往々にして事実とは異なるものだ。
——調査を始めて四日目に、私はそれを強く実感した。




