01.貴族令嬢の務め
今にして思えば、妹は私の恩人なのかもしれない。
だって彼女がいなければ、私はあんなに大胆な博打を打つことなんて、きっとできなかったから。
——ありがとう、私の身代わりになってくれて。
傍らで夫が本を片手に穏やかな笑みを浮かべ、足元では子供たちがいつものように昔語りをせがんでいる。
なんということもない、穏やかな午後だ。
けれど、五年前のあの冬、あの時の私にこんな日が来ると教えても、きっと鼻で笑われたに違いない。
なにしろ、当時の私に与えられていた未来は、平穏とは、まるで真逆のものだったのだから。
……それではここで、少し昔話をしよう。
あれは私がまだ、諦念のため息ばかりを吐いていた、十八歳の冬のこと。
◇◇◇
「ごきげんよう、リディア」
社交シーズン恒例、月に一度の顔合わせの日。
応接間の椅子を押し潰すように座っているこのお方が、私の婚約者であった。
イヴァン・ゴーマン侯爵、四十七歳。なんと、我が父君より三歳年上である。
家格は伯爵家である我が家より一段上で、財産状況も上々と聞く。
親戚筋から見れば、良縁と呼ばれる類の話らしい。
——ただし、その評価には“容姿を勘定に入れなければ”という但し書きが、小さく小さく添えられているわけであるが。
潔く後退した頭頂部。
それを慎ましく隠そうと、必死に流している横の髪。
呼吸のたびに波打つ腹回り。
——そして、私の肌の上を這いずり回る、湿った視線。
何度対面しても慣れることのない、気力を根こそぎ奪い取られる光景である。
「……そのドレスは、あまり品がいいとは言えませんね。そのように派手な色のドレスは、私の妻たる者にふさわしくありません。以後、気をつけていただきたい」
まだ結婚したわけではないのに、我が物顔で私を値踏みし、小言を重ねてくる。
もしかしたら、私の心を削るのが生き甲斐なのかもしれない。
こうして小言を言う時だけは、肉に埋もれた小さな目が生き生きと輝いているのだから。
「申し訳ございません。以後、気をつけます」
私は唇の端を引き上げて微笑んだ。
この笑顔の作り方は、十四の頃から鏡の前で数えきれないほど練習してきた。
「式まで一ヶ月。心構えをしておくように」
一ヶ月。あと一ヶ月で、私はこのお方の妻になる。
……まったく、反吐が出そうだ。
◇◇◇
なんとかイヴァン様が椅子を壊す前に帰られた後、入れ替わるように応接間の扉が開いた。
「あーら、やっぱり今日もお見えになっていたのねえ、あのお方」
現れたのは、一つ違いの妹のアデリナだ。
玄関先で婚約者を見かけ、わざわざ待ち構えていたらしい。
侍女が新しい茶を運んでくるのを妹はちらりと一瞥し、ため息をついた。
それだけで、侍女の肩がぴくりと跳ねる。
「お姉様、あのお方は本当にご立派な方よねぇ。なにしろ、頭の天辺の謙虚さといったら。神様に一番近い場所を、ご自分から進んで明け渡していらっしゃるんですもの」
あのお方の頭は司祭様のように頭頂部を剃り上げているわけではなく、ただの毛根が死滅しただけのハゲだ。
私は思わず笑いそうになるのを堪えて、もっともらしい顔をして妹を諫めた。
「アデリナ」
「ああ、ごめんあそばせ。悪気はないのよ、ただ羨ましいだけ。あの立派なお腹周りを作るために、一体いくらつぎ込んだのかしら。まったく羨ましいわ、あんな裕福な方の元へ嫁げるだなんて。できることなら、変わって差し上げたいくらい」
「黙りなさい」
「まあまあ、そうお怒りにならないで。お若い頃はきっと素敵な方だったのでしょうね。……お姉様がお生まれになる、二十年ほど前には、ね」
含み笑いを絶やさぬまま、妹は私の紅茶を断りもなく取り上げ、当たり前のように口をつけた。
彼女にとって、姉の所有物という概念は最初から存在しないのだ。
「それにしても、お父様はよくぞあのお方をお姉様にお選びになったわねえ。本当にお姉様にはもったいないお相手よ。……ああ、でもそうね。あのお方は、あのお歳まで誰にも選ばれてこなかったからこそ、ようやく我が家に回ってきたんですもの。これを運命というのかしら」
「アデリナ、いい加減に──」
「お家柄と懐事情さえ良ければ、お顔がどうでも、体が膨張した水死体みたいでも、お年がミイラの一歩手前でも構わない。貴族社会って本当に素晴らしいわ。将来のお手本として、妹の私もうんと勉強させていただくわね」
妹はくすくすと笑う。鈴を転がすような、可愛らしい笑い声だ。ただし、その鈴の表面には、びっしりと棘が生えている。
いっそその棘で妹のことを刺せたら、どんなにすっきりするだろうか。
「ああ、そうそう。一つだけ聞いてもよろしいかしら? お世継ぎを作る時、お姉様はちゃんと正気でいられる? 私ならウォッカを三杯はあおらねば、とても無理ですわ」
「……アデリナ」
三杯では無理。
瓶ごといって、昏倒しないと。
しかし、妹は私の言外の言葉は読み取れず、怒っていると受け取ったらしい。
「冗談、冗談ですわ。でも、無事お世継ぎを授かったら、早いうちから髪の心配をして差し上げてね。遺伝というものは残酷だと、家庭教師のエリアス先生もおっしゃっていたもの」
言うだけ言うと、妹は応接間を軽い足取りで出ていった。
私に一言たりとも反撃の隙を与える気は、最初からなかったらしい。
よし決めた。
どんな手を使っても、あの子も地獄に落としてあげよう。
残された時間は一ヶ月しかないわけだけれども、さて、一体どうするべきか。
◇◇◇
その夜の食卓もまた、この家の光景として少しも珍しくはなかった。
上座の父の左右には、跡取りの長兄と、そのスペアである次兄がいる。
母と私とアデリナは下座に座り、彼らの会話の外側で静かに食事をしていた。
父は今日も息子たちとのやり取りの合間に、思い出したように母へ小言を投げつける。
先日雇い入れた侍女の所作が気に入らない。
調度品の入れ替えが遅い。
親戚筋への贈答品が安物に見えた。
母はそのひとつひとつに反論もせず、「申し訳ございません」と頭を下げる。
ただ静かに、波風を立てないことだけを正解としてきた人らしい所作だった。
兄たちはそんな様子が視界の端に映っているだろうに、気にも留めずに談笑を続けている。
「アデリナ、お前の刺繍は見事な出来だそうじゃないか」
この日は珍しく、父の関心が少しだけ妹にも向けられた。
「ありがとうございます! 私、お父様に差し上げるために頑張っておりますのよ」
妹は花のように笑い、父と兄たちは満足げに頷く。
母は俯いたままで、私はそのつむじを見つめながら、ぼんやりと考えた。
——このまま何も言えぬまま、あの髪の生え際が随分と後退した夫を得て、数年後にはこの母と同じ姿勢で座っているのだろうか。
不機嫌な夫の顔色を窺い、小言に頭を下げ、娘からは「情けないお母様」と憐れまれながら。
思考がそこまで流れた瞬間、私は咄嗟に目の前に置かれた皿へ視線を落とした。
考えるな。考えてはいけない。これは貴族令嬢の務めだ。
親が決めた方と結ばれ、家名を守る。それが女として生まれた私の役目。
幼い頃から言い聞かせられ、自分でも幾度となく繰り返してきた、呪いのような言葉。
◇◇◇
部屋に戻り、鏡台の前に腰を下ろした。
映っていたのは、よく躾けられ、よく微笑み、よく諦めている十八歳の娘だった。
昔の私は、欲しいものを得るためなら無茶なこともした。
例えば、りんごのコンポート欲しさに厨房へ忍び込み、棚から瓶を抱えて逃げ、庭師に見つかって大騒ぎになったこともある。
しかし、父は叱らなかった。
一瞥ののち、「そうか」とだけ呟いて、書斎に戻っていったのだ。
父にとって娘など、叱るまでもない存在なのだと、その時はっきりと思い知った。
この家で父の関心が向けられるのは、息子たちだけ。
娘たちはそのおまけだった。適齢期になれば然るべき家に嫁がせる、それだけの存在。
日々の躾は家庭教師に任せ、余計な期待はせず、余計な関心も向けない。
妹は、この放任の中でも奮闘していた。
刺繍を仕上げるたびに父の元へ駆けていき、ひとかけらの褒め言葉を必死に拾い集めるのだ。
父の目を自分に向けようと、この十数年間ずっと、彼女は息を切らして走り続けている。
一方の私はといえば、早い段階で諦めていた。
何をしても、大した反応はない。ならば気付かれないところで、私は私の欲求に忠実でいよう。
以来、バレない程度の無茶を、時々こっそり打ってきた。
博打と呼ぶには可愛らしい、ささやかな賭けばかりを。
——けれど、それももうおしまいだ。
今の私が握らされている手札は、場に出した瞬間、笑われて終わるような札ばかりだから。
どうしたって私は、一ヶ月後にはあのお方の妻になる。
そしてそのあと十数年をかけて、少しずつ母のようになっていく。
それ以外の選択肢など、存在しない。
今日もまたため息と共に、自分に言い聞かせる。
「……これが、貴族令嬢の務め」
鏡の中の私の目には、相変わらず諦めが映っていた。
……のだが。
ふと視線を落とすと、ほんの少しだけ開いたままになっていた鏡台の引き出しから、私の狂気の塊が顔を覗かせている。
誕生日のたびに父から形式的に贈られる、上等な装丁の手帳。
本来なら、淑女らしい内容の日記でも書くべきなのかもしれないが、あいにく私は、これを淑女らしい用途に使ったことなど、ただの一度もない。
引き出しからそっと取り出し、何気なくページを開いてみた。
“紅茶は必ずお代わり込みで二杯”
“マーマレードは隣国から取り寄せたものに限る”
“部屋の中に、難解な詩集は一冊も置かれていない”
——これは、ある方への愛を綴った、秘密の観察記録である。




