05.種明かし
——“……やはり、ダメです。この提案は受け入れられません”
そう告げたマルク様は、どこか苦しげだった。
「あなたには、すでに立派な婚約者がいる。それを反故にして、私のような者の偽りの醜聞に付き合わせるなど……あなたの未来を、私のために潰してしまうことになる。そんなことは、できません」
ああ、まただ。
この期に及んで、この方は、私の心配をしている。
自分が凄惨な最期を迎えると告げられたばかりだというのに、案じているのは、私の行く末のほうなのだ。
——だから、好きになってしまったのだ。四年前の、あの夜から。
そう思ったら、もうダメだった。
私の口は、気がつけば勝手に動き出していた。
「……いやです」
「アダモフ伯爵令嬢……?」
「あなたが、不幸になっていく姿なんて。私、見たくありません」
言ってしまってから、自分の言葉に動揺した。
違う。今のは、計画していた台詞ではない。
四年分、誰にも言えずに腹の底へ沈めてきた、ただの本音だ。
目元が、燃えるように熱い。
扇で隠そうにも、手が震えて、うまく動かなかった。
うつむいた拍子に、滲んだ涙が一粒、ぽろりと落ちる。
私はとっさに、胸元に忍ばせていた一枚の布を取り出して、目元へ押し当てた。
銀の刺繍が施されたハンカチ。
——四年前、この方が私に貸してくださった、あの一枚だ。
返す気など、最初からなかった。
扇の陰から眺めることしか許されなかった私が、唯一手にできた、マルク様とのつながり。
だから四年間、お守りのように肌身離さず持ち歩いていた。
それを目にした瞬間、マルク様が小さく息を呑んだ。
「……それは、私の」
しまった、と思った時には、もう遅い。
慌ててハンカチを隠そうとした私を、マルク様は、泣き出す寸前のような、それでいてどこか嬉しそうな顔で見つめていた。
「どうして、あなたは……」
彼は、噛みしめるように、ゆっくりと続けた。
「満月の夜になると、私は決まって眠れなくなるのです。四年前の、あの夜から。——たった一度しか言葉を交わしていないあなたが、今もどこかで一人きり、泣いてはいないだろうかと。そう思うと、心が落ち着かなくて」
——満月の夜にだけ、窓辺に立ってぼんやりと夜空を眺める。
あの行動に、そんな意味があっただなんて。
息が、うまくできなかった。
頬が熱いし、心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。
何か言わなければと思うのに、唇を開いても、ただ空気が漏れるばかりだった。
そんな私を、マルク様はまっすぐに見つめてくる。
その耳も、首筋も、見たこともないほど赤く染まっていた。
「あなたは、私のすべてをご存知だ。朝食も、癖も、傷痕も……これから先の未来さえも。——なら」
マルク様は、消え入りそうな声で言った。
「私の、この気持ちも。……とうに、ご存知だったのでしょう」
知るわけがない。転生者だなんて、真っ赤な嘘だ。
しかし私は、異常な速さになりそうな呼吸を抑えるのに必死で、何かを言うことなど、とてもできなかった。
マルク様はそんな私の沈黙を、まるで別の意味に受け取ったらしい。
四年分の自分の想いが、とっくの昔に相手へ見抜かれていた——その羞恥で、もはや彼のほうにこそ、余裕などないのかもしれない。
「……すみません。こんな、ずるい言い方をして。あなたが何もかもご存知だと思うと、つい、甘えてしまいました」
彼は耳まで赤くしたまま、深く頭を下げる。
私はというと、相変わらず、言うべき言葉を見つけられずにいた。
しかし、このままではマルク様はカミラと結婚してしまう。
私は震える指先を伸ばして、マルク様の手にそっと触れた。
「……マルク様。一つだけ、訂正させてください」
できる限りまっすぐに、彼を見上げる。私の想いの全てが伝わるように。
「私は、あなたの偽りの醜聞に付き合わされるのではありません。私が、そうしたいのです。——あなたのことを、誰にも渡したくないから」
マルク様の喉が、こくりと上下した。
「それは、あなたも……私と同じ気持ちでいる、ということでしょうか」
マルク様はそう言いながら、おずおずと手を握り返してきた。
その手は私のものと同じくらい冷たく、そして、同じくらい震えていた。
「どうでしょう」
「っ!」
「……もしかしたら、私の気持ちの方が大きいかもしれません」
顔をこわばらせたマルク様にそう告げると、彼は呆気に取られたような顔をしてから、くしゃりと破顔した。
それは、四年間観察してきた中でも、見たことのない表情だ。
あぁ……どうかこれからも、そばで新しい表情を私に見せてくれないだろうか。
「そういうことなら……あなたが、すべてをご存知の上で、それでも私を選んでくださるというのなら。——私は喜んで、あなたの手をとりましょう」
「っマルク様!」
この喜びを言葉にすることなど、到底できない。
物陰から密かに眺めるだけだった恋が、ついに報われたのだ。
私は喜びを口にする代わりに、マルク様に勢いよく抱きついた。
◇◇◇
そうと決まれば、あとは早かった。
私は目星をつけていた医師に相応の額を握らせ、「懐妊の兆候あり」という偽りの診断書を仕立てさせた。
タチの悪い賭け事にハマって首が回らなくなっていた医師は、大喜びで書いてくれた。
そうして、診断書を握りしめて父の書斎へと乗り込んだ。
「お父様。私、子を授かりました。エリシン子爵家の、マルク様との子です」
それまで私の存在になど目もくれず走らせていたペンが、父の手から落ちた。
娘の悪戯にも一瞥しかくれなかったあの父が、生まれて初めて、私を正面から見ている。
しかしその顔は、怒りでみるみる赤黒く染まっていった。
「き、貴様……ゴーマン侯爵との婚約を控えた身で、なんという真似を……!」
「お叱りは、いくらでも。このままでは私だけでなくアダモフ伯爵家まで、醜聞にまみれてしまいますから。——イヴァン様が、よその男の子を孕んだ女を娶ってくださるとは思えませんし」
父は、言葉を失った。
家名の汚れ。
それは、父が何よりも恐れるものだ。
私は、徹底的に磨いてきた淑女の微笑みを、ここぞとばかりに見せつける。
「ゴーマン侯爵家とのご縁は、惜しゅうございますね。……ああ、そういえば」
私は、たった今思いついた、というふりをして、首をかしげてみせる。
「我が家にはもう一人、年頃の娘がおりましたが——」
◇◇◇
その後の顛末は、思い出すたびに私を最高の気分にさせてくれる。
妹は、半狂乱になって抵抗していた。
あれほど「変わって差し上げたい」と繰り返していたのに。いざイヴァン様と婚約するとなった途端、「あんな屠殺寸前の家畜のようなお方、冗談ではないわ!」と泣き喚いたのだ。
なぜだろう、とっても不思議。
以前、あのお方のお腹周りを「羨ましい」と評していたのだから、もっと喜んでもらえると思ったのに。
お若い頃はさぞ素敵だったのだろうと、目を細めていたのは一体誰だったのか。
父は妹の抵抗などないものとして、さっさと話を進めてしまった。
あんなに愛されようと必死だった妹にさえ、ひとかけらの情けもかけないらしい。
ちなみに膨張した水死体——もといイヴァン様は、私と違って活きがいい妹のことをなぜかお気に召したらしく、妹は早々に侯爵領へと嫁いでいった。
最後まで、鈴の音のように可憐な声で泣き喚きながら。
カミラ・メリコフ男爵令嬢のその後については、社交界の噂で耳にした程度で、詳しくは知らない。
私が横入りする形でマルク様と婚約して間もなく、彼女は、父親の知れぬ子を身ごもったらしい。
相手はガラの悪い平民だの、いやいや身分の高い妻帯者だのと、噂は好き勝手に尾ひれをつけて飛び交い、やがて彼女は社交界の表舞台から、ひっそりと姿を消した。
◇◇◇
——そして、今。
「ねえ、お母さま」
それまでじっと私の話に聞き耽っていた娘が、私を見上げて首をかしげる。
夫によく似たブルネットの髪に、私譲りの瞳の色。私と夫の、宝物だ。
「お母さまは、てんせいしゃだったの?」
私は娘の柔らかな髪を撫でながら、優しく微笑みかけた。
「まさか。そんなわけないでしょう?」
その途端。夫の手から本が滑り落ちてしまった。
あら、大変。床に落ちたせいで、紙が見事に折れてしまっているわ。
しかし夫は、可哀想な本には見向きもせず、私の顔を見て目を見開いている。
「リ、リディア……今、なんと……?」
「どうかなさいました?」
「では、あの夜の話は……未来を知っていたというのも、全部……」
夫の声は、ほとんど掠れていた。
その顔からは、驚き以外の感情を読み取ることはできない。
私は予想外の反応に少し戸惑ってしまった。
まさかあの話を信じ続けていただなんて、思ってもいなかった。
「いや、でも確かにカミラ嬢は予言通り……」
「あのくらい、彼女の裏の顔を知っている人間なら誰だって予想できます」
久しぶりに夫の口からあの女の名前が出てきて、少し腹立たしい。
ついそっけない口調になってしまった。
「……私があなたのことを色々と知っていたのは、婚約者がいた私にはそれしかできなかったから。だから、恋しさのあまり——どんなに小さなことでも、あなたについての話は一つ残らず覚えてしまった……」
あれからさらに増えた観察記録は、子供たちの分も含めると、とっくに十を超えている。
そのすべてを詳らかにするわけにはいかないが、夫である彼には私の気持ちを知る権利があるだろう。
「愛しています。それこそ、素行の悪い令嬢と結婚されるくらいならと、無謀な賭けに出てしまうほどに」
夫はわなわなと唇を震わせた後、両手で顔を覆って、深く長い溜め息をついた。
その耳が、真っ赤に染まっている。
「……そうか、よく考えれば確かにそうだ……」
顔を覆った両手の隙間から、くぐもった声が漏れてくる。
「あなたは今も昔も変わらず、そういう人だ……ほんの些細なことまでよく覚えていて、驚くほど献身的に子供たちを愛してくれている」
夫はそこでふっと息を吐くと、顔を上げた。
「その愛は、しっかり……私にも向いていたんですね」
——転生も、凄惨な未来も、何もかも出鱈目だったと言われたばかりだというのに。
この方ときたら、怒るどころか嬉しそうですらある。
まったく。この方こそ、私にハンカチを差し出してくれたあの時から変わらず、お人好しだ。
「言ったじゃないですか。私の気持ちの方が、大きいかもしれないって」
五年越しに、あの時の言葉の本当の意味が伝わったのだろう。
夫は息を呑んだかと思うと、子供の前だというのに、強く抱きしめてきた。
私からは見えないが、子供たちからは彼の顔は丸見えだ。
真っ赤な顔をからかわれて、なんとも言えないうめき声をあげている。
私が思わず笑ってしまうと、釣られるように子供たちが、そして夫——マルク様が笑いだす。
——ありがとう、アデリナ。
あなたが私の身代わりになってくれたおかげで。私は今、とても幸せです。
同じ空の下で、今日も元気に発狂しているであろう妹へ。
私は心からの感謝を込めて、そっと祈りを捧げたのだった。
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