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四年分の愛の記録があるので、転生者のフリをして悪女との婚約を破棄させます  作者: Megumi@6/25『元社畜転生令嬢』電子書籍発売


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05.種明かし

 ——“……やはり、ダメです。この提案は受け入れられません”


 そう告げたマルク様は、どこか苦しげだった。


「あなたには、すでに立派な婚約者がいる。それを反故にして、私のような者の偽りの醜聞に付き合わせるなど……あなたの未来を、私のために潰してしまうことになる。そんなことは、できません」


 ああ、まただ。

 この期に及んで、この方は、私の心配をしている。

 自分が凄惨な最期を迎えると告げられたばかりだというのに、案じているのは、私の行く末のほうなのだ。


 ——だから、好きになってしまったのだ。四年前の、あの夜から。


 そう思ったら、もうダメだった。

 私の口は、気がつけば勝手に動き出していた。


「……いやです」

「アダモフ伯爵令嬢……?」

「あなたが、不幸になっていく姿なんて。私、見たくありません」


 言ってしまってから、自分の言葉に動揺した。

 違う。今のは、計画していた台詞ではない。

 四年分、誰にも言えずに腹の底へ沈めてきた、ただの本音だ。


 目元が、燃えるように熱い。

 扇で隠そうにも、手が震えて、うまく動かなかった。

 うつむいた拍子に、滲んだ涙が一粒、ぽろりと落ちる。

 私はとっさに、胸元に忍ばせていた一枚の布を取り出して、目元へ押し当てた。


 銀の刺繍が施されたハンカチ。

 ——四年前、この方が私に貸してくださった、あの一枚だ。


 返す気など、最初からなかった。

 扇の陰から眺めることしか許されなかった私が、唯一手にできた、マルク様とのつながり。

 だから四年間、お守りのように肌身離さず持ち歩いていた。


 それを目にした瞬間、マルク様が小さく息を呑んだ。


「……それは、私の」


 しまった、と思った時には、もう遅い。

 慌ててハンカチを隠そうとした私を、マルク様は、泣き出す寸前のような、それでいてどこか嬉しそうな顔で見つめていた。


「どうして、あなたは……」


 彼は、噛みしめるように、ゆっくりと続けた。


「満月の夜になると、私は決まって眠れなくなるのです。四年前の、あの夜から。——たった一度しか言葉を交わしていないあなたが、今もどこかで一人きり、泣いてはいないだろうかと。そう思うと、心が落ち着かなくて」


 ——満月の夜にだけ、窓辺に立ってぼんやりと夜空を眺める。


 あの行動に、そんな意味があっただなんて。

 息が、うまくできなかった。

 頬が熱いし、心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴り響いている。

 何か言わなければと思うのに、唇を開いても、ただ空気が漏れるばかりだった。


 そんな私を、マルク様はまっすぐに見つめてくる。

 その耳も、首筋も、見たこともないほど赤く染まっていた。


「あなたは、私のすべてをご存知だ。朝食も、癖も、傷痕も……これから先の未来さえも。——なら」


 マルク様は、消え入りそうな声で言った。


「私の、この気持ちも。……とうに、ご存知だったのでしょう」


 知るわけがない。転生者だなんて、真っ赤な嘘だ。

 しかし私は、異常な速さになりそうな呼吸を抑えるのに必死で、何かを言うことなど、とてもできなかった。


 マルク様はそんな私の沈黙を、まるで別の意味に受け取ったらしい。

 四年分の自分の想いが、とっくの昔に相手へ見抜かれていた——その羞恥で、もはや彼のほうにこそ、余裕などないのかもしれない。


「……すみません。こんな、ずるい言い方をして。あなたが何もかもご存知だと思うと、つい、甘えてしまいました」


 彼は耳まで赤くしたまま、深く頭を下げる。

 私はというと、相変わらず、言うべき言葉を見つけられずにいた。

 しかし、このままではマルク様はカミラと結婚してしまう。


 私は震える指先を伸ばして、マルク様の手にそっと触れた。


「……マルク様。一つだけ、訂正させてください」


 できる限りまっすぐに、彼を見上げる。私の想いの全てが伝わるように。


「私は、あなたの偽りの醜聞に付き合わされるのではありません。私が、そうしたいのです。——あなたのことを、誰にも渡したくないから」


 マルク様の喉が、こくりと上下した。


「それは、あなたも……私と同じ気持ちでいる、ということでしょうか」


 マルク様はそう言いながら、おずおずと手を握り返してきた。

 その手は私のものと同じくらい冷たく、そして、同じくらい震えていた。


「どうでしょう」

「っ!」

「……もしかしたら、私の気持ちの方が大きいかもしれません」


 顔をこわばらせたマルク様にそう告げると、彼は呆気に取られたような顔をしてから、くしゃりと破顔した。

 それは、四年間観察してきた中でも、見たことのない表情だ。

 あぁ……どうかこれからも、そばで新しい表情を私に見せてくれないだろうか。


「そういうことなら……あなたが、すべてをご存知の上で、それでも私を選んでくださるというのなら。——私は喜んで、あなたの手をとりましょう」

「っマルク様!」


 この喜びを言葉にすることなど、到底できない。

 物陰から密かに眺めるだけだった恋が、ついに報われたのだ。

 私は喜びを口にする代わりに、マルク様に勢いよく抱きついた。


 ◇◇◇


 そうと決まれば、あとは早かった。

 私は目星をつけていた医師に相応の額を握らせ、「懐妊の兆候あり」という偽りの診断書を仕立てさせた。

 タチの悪い賭け事にハマって首が回らなくなっていた医師は、大喜びで書いてくれた。


 そうして、診断書を握りしめて父の書斎へと乗り込んだ。


「お父様。私、子を授かりました。エリシン子爵家の、マルク様との子です」


 それまで私の存在になど目もくれず走らせていたペンが、父の手から落ちた。

 娘の悪戯にも一瞥しかくれなかったあの父が、生まれて初めて、私を正面から見ている。

 しかしその顔は、怒りでみるみる赤黒く染まっていった。


「き、貴様……ゴーマン侯爵との婚約を控えた身で、なんという真似を……!」

「お叱りは、いくらでも。このままでは私だけでなくアダモフ伯爵家まで、醜聞にまみれてしまいますから。——イヴァン様が、よその男の子を孕んだ女を(めと)ってくださるとは思えませんし」


 父は、言葉を失った。

 家名の汚れ。

 それは、父が何よりも恐れるものだ。


 私は、徹底的に磨いてきた淑女の微笑みを、ここぞとばかりに見せつける。


「ゴーマン侯爵家とのご縁は、惜しゅうございますね。……ああ、そういえば」


 私は、たった今思いついた、というふりをして、首をかしげてみせる。


「我が家にはもう一人、年頃の娘がおりましたが——」


 ◇◇◇


 その後の顛末は、思い出すたびに私を最高の気分にさせてくれる。


 妹は、半狂乱になって抵抗していた。

 あれほど「変わって差し上げたい」と繰り返していたのに。いざイヴァン様と婚約するとなった途端、「あんな屠殺寸前の家畜のようなお方、冗談ではないわ!」と泣き喚いたのだ。

 なぜだろう、とっても不思議。

 以前、あのお方のお腹周りを「羨ましい」と評していたのだから、もっと喜んでもらえると思ったのに。

 お若い頃はさぞ素敵だったのだろうと、目を細めていたのは一体誰だったのか。


 父は妹の抵抗などないものとして、さっさと話を進めてしまった。

 あんなに愛されようと必死だった妹にさえ、ひとかけらの情けもかけないらしい。

 ちなみに膨張した水死体——もといイヴァン様は、私と違って活きがいい妹のことをなぜかお気に召したらしく、妹は早々に侯爵領へと嫁いでいった。

 最後まで、鈴の音のように可憐な声で泣き喚きながら。


 カミラ・メリコフ男爵令嬢のその後については、社交界の噂で耳にした程度で、詳しくは知らない。

 私が横入りする形でマルク様と婚約して間もなく、彼女は、父親の知れぬ子を身ごもったらしい。

 相手はガラの悪い平民だの、いやいや身分の高い妻帯者だのと、噂は好き勝手に尾ひれをつけて飛び交い、やがて彼女は社交界の表舞台から、ひっそりと姿を消した。


 ◇◇◇


 ——そして、今。


「ねえ、お母さま」


 それまでじっと私の話に聞き耽っていた娘が、私を見上げて首をかしげる。

 夫によく似たブルネットの髪に、私譲りの瞳の色。私と夫の、宝物だ。


「お母さまは、てんせいしゃだったの?」


 私は娘の柔らかな髪を撫でながら、優しく微笑みかけた。


「まさか。そんなわけないでしょう?」


 その途端。夫の手から本が滑り落ちてしまった。

 あら、大変。床に落ちたせいで、紙が見事に折れてしまっているわ。

 しかし夫は、可哀想な本には見向きもせず、私の顔を見て目を見開いている。


「リ、リディア……今、なんと……?」

「どうかなさいました?」

「では、あの夜の話は……未来を知っていたというのも、全部……」


 夫の声は、ほとんど掠れていた。

 その顔からは、驚き以外の感情を読み取ることはできない。


 私は予想外の反応に少し戸惑ってしまった。

 まさかあの話を信じ続けていただなんて、思ってもいなかった。


「いや、でも確かにカミラ嬢は予言通り……」

「あのくらい、彼女の裏の顔を知っている人間なら誰だって予想できます」


 久しぶりに夫の口からあの女の名前が出てきて、少し腹立たしい。

 ついそっけない口調になってしまった。


「……私があなたのことを色々と知っていたのは、婚約者がいた私にはそれしかできなかったから。だから、恋しさのあまり——どんなに小さなことでも、あなたについての話は一つ残らず覚えてしまった……」


 あれからさらに増えた観察記録は、子供たちの分も含めると、とっくに十を超えている。

 そのすべてを(つまび)らかにするわけにはいかないが、夫である彼には私の気持ちを知る権利があるだろう。


「愛しています。それこそ、素行の悪い令嬢と結婚されるくらいならと、無謀な賭けに出てしまうほどに」


 夫はわなわなと唇を震わせた後、両手で顔を覆って、深く長い溜め息をついた。

 その耳が、真っ赤に染まっている。


「……そうか、よく考えれば確かにそうだ……」


 顔を覆った両手の隙間から、くぐもった声が漏れてくる。


「あなたは今も昔も変わらず、そういう人だ……ほんの些細なことまでよく覚えていて、驚くほど献身的に子供たちを愛してくれている」


 夫はそこでふっと息を吐くと、顔を上げた。


「その愛は、しっかり……私にも向いていたんですね」


 ——転生も、凄惨な未来も、何もかも出鱈目だったと言われたばかりだというのに。

 この方ときたら、怒るどころか嬉しそうですらある。

 まったく。この方こそ、私にハンカチを差し出してくれたあの時から変わらず、お人好しだ。


「言ったじゃないですか。私の気持ちの方が、大きいかもしれないって」


 五年越しに、あの時の言葉の本当の意味が伝わったのだろう。

 夫は息を呑んだかと思うと、子供の前だというのに、強く抱きしめてきた。

 私からは見えないが、子供たちからは彼の顔は丸見えだ。

 真っ赤な顔をからかわれて、なんとも言えないうめき声をあげている。

 私が思わず笑ってしまうと、釣られるように子供たちが、そして夫——マルク様が笑いだす。


 ——ありがとう、アデリナ。

 あなたが私の身代わりになってくれたおかげで。私は今、とても幸せです。


 同じ空の下で、今日も元気に発狂しているであろう妹へ。

 私は心からの感謝を込めて、そっと祈りを捧げたのだった。


最後までお読みいただきありがとうございました!

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